2021年9月23日木曜日

2021.9.19 牧師室便り

 

~ 天に積む生活を ~


 この一か月、家のどこからか小さな蛾のようなものが現れていました。どこから出たのかと探し出してみたら、何と、以前知人の方から購入した玄米からでした。その蛾についていろいろと名前を調べたら「ノシメマダラメイガ」という名前で、玄米によく出るそうです。今までお世話になった知人の方であったため、感謝のしるしとして30㎏の玄米を購入したのです。普段10㎏のお米も4人家族ですぐなくなるし、玄米は体にも良いということで買ったわけですが、それが失敗でしたね。普通のお米の中に少しだけ玄米を混ぜてご飯を炊いているので、30㎏からなかなか減らず、時が立つうちに「ノシメマダラメイガ」が入り込んでしまったようです。それが分かった時は大パニックになりましたね。でもそのまま捨てることは作られた方に申し訳ないと思い、インターネットで虫の駆除方法を調べたり、直接防虫剤を入れたりしましたが、すぐ効果は見られず、幼虫一匹ずつを探し出すに至りました。作業が終わった後は別の容器に移し、冷凍庫に入れることで「ノシメマダラメイガ」退治を終えました。

 今回のことから頭に浮かんだ聖書箇所が、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカによる福音書12:33~34)でした。この話はある金持ちが豊作で、作物を納めきれなくなったために古い倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をみなしまい満足するわけですが、しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われる物語の続きで出た言葉です。

 たとえ善い考えで買い取ったものでも、虫に食い荒らされてしまうことになったらいかに悲しいことでしょうか。常に神の民としての知恵を備え、欲張らず、身を軽くし、貧しい人々への施しを通して、富を天に積むことができる神の家族でありますように、また、日々の出来事から敏感に主の御声を聞きながら、神の栄光を現わしましょう。シャローム!


2021.9.19 本日の宣教

  『 揺らぐことのない希望 』(二コリントの信徒への手紙4:16~18)

本日は、敬老祝福礼拝です。神の御手の守りと恵みによって70年以上の人生を歩まれた皆さん、おめでとうございます!新型コロナウイルス・パンデミックという大変な時代であるにもかかわらず、誰よりも生き生きと日々を過ごされ、大切に礼拝を守っている皆さんの姿から大きな慰めと励ましをいただいています。

キリスト者の人生の目標について、聖書は「主イエスに似た者になること、主と同じ姿に変えられること」であると教えます。そのことを神学用語では“聖化”と言いますし、その聖化の最終的な結果となるのが永遠の神の国における完成であり、"栄化"と呼んでいます。

聖書が主イエスと同じ姿に変えられると言っているのは、決して肉体の目に見える姿のことではありません。それが正に、本日の御言葉で記している「内なる人」、イエス・キリストの十字架の贖いによって新しく創造された霊的存在を指しているものです。その「内なる人」によって、私たちは日々イエス様に似た者として変わっていくのです。まさしく、二コリントの信徒への手紙5:17「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」の御言葉は真理なのです。

使徒パウロは、本日の16節で、「わたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。」と宣言しています。ここで「外なる人」とは目に見える私たちの肉体を表します。そして、「衰える」という言葉は、“破壊される、使えなくなる”という意味をもっていて、歳月の経過と共に段々と衰えて、醜くなってしまう肉体、それが「外なる人」なのです。しかも、この衰えは、人間の力ではどうすることもできないことであって、かつ現在進行形であることを私たちは知っています。

ご存知のように、本日の御言葉を書いているパウロ自身、もともと体にいろんな病気をもっていた人でした。さらに、彼が主イエスを信じ伝道者になってからは、さまざまな苦しみを受けていたため、もう彼の肉体はぼろぼろの状態となっていました。ですから、彼は「外なる人」である肉体の弱さ、限界、衰え、やがて死んで滅びていくことを常に感じながら生きていたわけです。

しかし、パウロは本日の御言葉を通して、人間の存在について、何より大切なもう一つの側面を示しています。それが、目に見えないが確かに存在する「内なる人」のことです。「内なる人」とはイエス・キリストの十字架の贖いの業を信じることによって新たに生まれた魂のことを指します。パウロの宣言を聞きましょう。「外なる人は日々衰えていっても、内なる人は日々新たにされ、強くなっていきます!」。…そうです。「内なる人」は、日々、御言葉と聖霊の働きによって新しくなり、成長していく存在であり、この「内なる人」によって私たちは日々、主イエスに似た者として変わっていくのです。

「内なる人」は、私たちの患っている病に襲われることはありません。また、この世の様々な問題課題に振り回されることもありません。「内なる人」は、唯一、神様と親しく交わることにより、日々新たにされて栄光に向かっていくのです。この揺るがない希望を抱きつつ、内なる人を健康にしていく神の家族であるように…。ハレルヤ!

 


2021.9.19 小さな泉の恵み

 今年も敬老の日、敬老礼拝の季節となりました。

 今、私の中で、なんとなく、“お年寄り”というのは、「昭和一桁生まれの方々」みたいに位置づけています。彼らは、すごい。戦争をある程度の年齢で経験しているし、戦争だけでなくても、経験ポケットがぎっしりで。何があっても怖くないオーラをいっぱい出して…私も、いいばあちゃん になりたいです。

 ものごとを判断するときに、自分の経験値に頼ります。そんな経験値ポケットには、失敗したこと、人から教えられたこと、書物の中で知ったこと、そして「み言葉から学んだこと」なんかも、あるような…

 私も年齢とともに、記憶する力が弱くなっていることが悩みですが、ポケットに良いものをたくさん蓄えて老いていく、これからを楽しんで生きたいと思っています。

                                     K.I姉


2021年9月12日日曜日

2021.9.12 小さな泉の恵み

9月、ちょうど今の季節は河原の土手にクズが生い茂り、花もたくさん咲いています。濃い牡丹色のクズの花は、自分の大きな葉に隠れるようにして咲いていることが多く、香りで存在を教えてくれます。里山を歩いていて、とてもよい香りがして何か分からず、辺りをよく探すとクズの花が咲いていたこともありました。透明感のある清々しい香りです。

わたしもクズの花のように、隠れていてもキリストの香りがする者になれたらなと思います。

                               S.M姉

2021.9.12 本日の宣教

 『 絶望の池にて 』 (ヨハネによる福音書5:1~9)

エルサレムの羊の門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。その池には、「たまに天使が降りて来て、池の水を動かす時、最初に入る人の病が癒される」という伝説がありました。そのため、ベトザタの池の周りには、消えていく希望を最後まで握りしめている多くの病人たちが横たわっていました。ここは、他のところでは癒されなかった人々が最後の望みとして選択した場所でした。「ベトザタ」の意味は「憐れみの家」で、まさに多くの病人たちが神の憐れみを受けるために池の周りに集まっていたのです。しかし、「憐れみの家」であるはずのベトザタの池は、神の憐れみどころか、弱肉強食であり、常に一番にならなければ癒されない場所、ただ一番だけに意味があり、二番になることすら許されないところ、人間社会の競争が最も激しく繰り広げられる場所がベトザタであったわけです。

その病人の群れの中に、本日の箇所にあるように、38年も病気で苦しんでいた人も横たわっていました。彼も他の病人たちのようにベトザタの池の伝説を最後の望みとしてチャンスを狙っていたものの、彼を助ける人がいなかったため、たびたびチャンスを逃し、もう希望は絶望に変わっていました。

しかし、そのような絶望の池に、主イエスが訪ねて来られました。しかも、主イエスがベトザタに来られた理由、それはこの38年間病気で苦しんでいた人に会われるためでありました。とりわけヨハネによる福音書では、主イエスと一人の人との出会いが大切に記されています。サマリアの女との出会い、ニコデモとの出会いがそうです。主イエスの目の焦点が常にある一人の人に合わされていることが大切で、本日の箇所でも主イエスはある意図をもって38年も病気で苦しんでいた人に出会うためにわざわざ訪ねられたのです。

主イエスは彼に近づき尋ねられます。「良くなりたいか」。この問いかけは、癒されたいためにベトザタの池に来ている病人にとっては侮辱するような言葉として聞こえたかもしれません。なぜならば、今彼は、癒されるために、絶えず、水が動くことを待っているわけですから。しかし、ここで主イエスには「良くなりたいか」という問いかけを通して、彼自身に自分の状態を認識させ、そこから癒される方へと目を向けさせる意図があったのです。彼が、いつまでも人が作った伝説に目と心を奪われ、ベトザタの池の水ばかりを見ているのでなく、まことの癒し主の方に目を向けて、希望を回復するようにという御心のゆえだったわけです。人が変わるためには、自分に回復されるべき問題が何であるかという正しい認識と、その問題から抜け出そうとする熱望がなければなりません。そうして、その人は神の恵みにあずかることになるのです。

しかし病人は、主イエスの問いかけに対して、一見、的外れなことを言います。「良くなりたいか」という問いに、「良くなりたいです」と答えるべきなのに、彼は、「助ける人がいません。だからだめです。」という、自分が癒されない理由を並べているのです。私たちはどうでしょうか。主イエスが傍らにおられるのに、絶えず、暗かった過去と厳しい現実を並べてしまってはいませんか。主イエスは希望を語り、癒しを約束しているのに、床に横たわったまま、つぶやく私たちではないでしょうか。

そこで語られる主イエスの言葉、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)この短い文章には、3つの命令形の動詞があります。①起き上がれ、②床を担げ、③歩け、と。病人は主イエスの命令に従います。自分を縛り続けていた病と心配、絶望の池から、真の癒しと希望の方へと歩き始めたのです。ハレルヤ!


2021年9月9日木曜日

2021.8.29 小さな泉の恵み

 


~野生のものたちの平安~                        


絶望が私の中で成長する。

自分の人生、わが子たちの人生がどうなるだろうかと恐怖して、

夜中、ほんの小さな物音にも目を覚ます。

私は雄鴨が美しい姿で水の上に休み、

青鷺が餌をついばんでいるところへ行き、

身を横たえる。

深い悲しみを先取りして

人生に重荷を負わせることをしない、

野生のものたちの平安の中に行く。

静かな水辺に行き、

昼間は目の見えない星々が、

自分の光が上空に輝くときを待っているのを思う。

私はいっとき、この世界の恵みの中に休らい、

そして自由になる。


                ウェンデル・ベリー『詩集』より


2021.8.29 本日の宣教

 『 すべては神の恵み 』 (士師記7:1~9)

 私たちキリスト者にいつも迫ってくる父なる神の御言葉があります。それは“恐れるな!”という御声です。天と地を造られた神が私たちと共におられる、御子イエス・キリストを十字架につけて死なせてまで私たちを愛してくださる父なる神が今も生きて働かれ力を賜る!…だから恐れるな!というのです。

今日の御言葉に登場するギデオンはもとも弱虫で、臆病な人でした。しかし、神は彼を士師として選ばれイスラエルの民をミディアン軍から救い出す使命を与えられたのです。そして神は、神の民の戦い方について教えられます。

本文の御言葉によると、イスラエルに攻めてきたミディアン軍の数は何と13万5千人、それに比べてイスラエル軍は、まともに訓練も受けてない3万2千人、ミディアン軍の4分の1にも及びませんでした。ところが、それほど厳しい状況であるのに、納得のいかない驚きの命令が出されます。“あなたの率いる民は多すぎるから、それを少なくしなさい!”という。その結果、1万人しか残らなくなりましたが、神は「民はまだ多すぎる。もっと減らしなさい」と言われます。

兵士の数が多いほど、勝算が大きいと思うのが当然なのに、神はなぜこのように語られるのか。その理由が2節に書かれてあります。「もしこのまま勝利をイスラエルに与えたとしたら、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう。」

つまり、3万2千人、いや1万人でも、何とか頑張れば勝ち目がないわけではないと人々が考え、もしそれで勝った場合には、神の力と助けではなく自分たちの力で勝利したと勘違いしてしまうというのです。主なる神はそれを良くご存知の上でこの命令を下されたのです。

その結果、最後に残った兵士が300人。300人で13万5千人のミディアン軍と戦うとは、まさに自殺行為とさえ見えます。すなわち、勝ち目は全く消えてしまったのです。その時、300人の内に芽生えてくるのが、徹底した神への信頼でありました。ギデオンと300人の兵士たちは、彼らの戦いが主の戦いであることを信じ、神の命令に従うことにあることを決断したわけです。そうです。神の民の戦いの勝利は数の多さによるのでなく、すべてを支配し治めておられる神に拠り頼む信仰と従順にあるのです。聖書はそのことをモーセを通して、ヨシュアを通して、ダビデを通して、ヨシャファテを通して示されました。

そして、主が300人の兵士を選ばれる基準を忘れてはなりません。その1つ目が、“戦争を恐れる人々を家に帰しなさい”ということであって、2つ目が“水を飲む時の姿勢”でありました。すなわち、その人の普段の生活を見ておられるということです。いつも目を覚ましている人を主は選ばれるということなのです。

もちろん主なる神は、お一人だけでも戦争に勝利されるお方です。しかし、主は、信仰による勝利を神の民に経験させ、すべては主の御手にあると信じ、主だけを信じて戦う主の勇士として、また、他の民らに主の勝利を伝える証人として生きることを望んでおられることを心がけましょう。

新型コロナウイルスという強力な敵を前にした民らに、主なる神は、「戦いは主のもの、すべては神の恵み」であるという証しを求められるでしょう。願わくは、時代を見極めつつ、日々、目を覚まして生活できる神の家族でありますように…。


2021.8.22 牧師室便り

~ ライブ配信から学ぶこと ~                       

COVID19の感染の勢いが止まりません。毎日新しい感染者数を確認するのが恐ろしいほどです。このままいけば、全国的な非常事態宣言が出されることでしょう。

そんな中、8月から主日礼拝にZoomによるライブ配信を最大限に活用しようと計画しつつ進めているところですが、いろいろと試行錯誤の連続です。先々週のライブ配信で明らかにされた課題を解決しながら、その他起こり得ることなども念頭においてテストまで行っていたのですが、また新たな課題が表れ、礼拝が途中で止まってしまう事態にもなりました。ライブ配信で礼拝に集われた方々も、礼拝堂に集われた方々も戸惑われたことでしょう。

小泉町教会に機械に詳しく、ライブ配信の仕組みをよく知っている奉仕者がいればよかったのですが、牧師自身もわずかな知識しかもっていないため、すっきりと問題解決に至っておらず申し訳なく思っています。

また、ライブ配信で礼拝に加わっている方々の受信環境もそれぞれ違うこともあり、これからも試行錯誤は続くと思いますが、必ず良くなっていくはずです。。

何より、礼拝は赦された罪人たちの集いでありますから、互いに赦し合い、励まし合いながら、一つとなってコロナ時代の礼拝を恵みの方へと一緒に作っていきましょうね。

「兄弟たち、互いに重荷を担いなさい。」(ガラテヤ6:2)


2021.8.22 本日の宣教

 『 キリストの証人たち 』          

「平和を実現する人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章9節)

日本の終戦記念日にあたる8月15日、カブールがあっけなく制圧され、アフガニスタンはタリバンに「平和裏」に政権移譲されました。政府軍がアメリカ軍の撤退で戦意を失い、大統領や政府の首脳陣は国を逃れ、アメリカ軍の一方的な侵攻から始まった20年間のアフガニスタンでの戦争が幕を閉じました。この間アフガニスタン政府軍・NATO側兵士・民間人の死者が推定約7万人以上、タリバン・アルカーイダ側が約7万人以上、民間人を含めて14万人以上の人が犠牲になりました。2000年9.11同時多発テロの報復でアフガニスタン侵攻を先導したアメリカ軍の兵士は、死者2,420人、負傷者19,950人とほぼ正確な人数がカウントされています。遠い国の戦争に駆り出され亡くなられた青年を送り出した家族はどのような思いでいるか悲しみが溢れます。

亡くなられた方の中には、ペシャワール会の中村哲さんやスタッフの伊藤和也さんを始め、現地のスタッフの方々もおられます。政権を掌握したタリバンが中村哲さんの思いや行動を引き継いでくれることを祈ります。

住む土地を追われ難民と化したアフガニスタン人は、1千万人とも伝えられています。そのうち6割は、既にアフガニスタンに帰還したものの、タリバンの制圧によってどのような将来が待ち受けているのか心配です。

アメリカは、対テロ戦争という名目でアフガニスタン・イラク戦争に踏み切り、大義なき戦争は、まさにパンドラの箱を開けたと語られ、イスラム国(ISIL)に団結の大義を与えました。民主化運動から始まったはずのシリアでの紛争もイスラム国が介入し、シリアの崩壊を招きました。都市は瓦礫と化し、シリア国内外で約1,160万人もの人々が支援を求めています。

日本のYMCAは、2003年にパキスタンのラホールにアフガン難民の子ども達の学校を開設しました。アフガン難民が居住していたゴミ捨て場となった公園に難民の退去が行われるまで約15年に及び毎年80人の子ども達の教育と給食の支援をラホールYMCAと協働で続けました。私も2009年から同盟総主事として、8年間直接支援に携わってきました。ラホールで出会った子ども達の輝く瞳と笑顔を想い出します。YMCAの学校で教育を受けた子ども達が国に帰還した後、どのような人生を歩んでいるかと想わされます。彼らが神様の導きとお守りの中で、国の再建のために「平和を実現する人」となることを祈ります。

                                 島田 茂


2021.8.15 本日の宣教

 『 今こそ、正義を洪水のように 』  (アモス5:21~24)       

「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」(5:24)

全世界がCOVID19による災難、それと伴い世界各地で立て続けに起きている自然災害に覆われていて、人々は救いと助けを叫び求めています。しかし、世界は主イエスの言われた通り、“不法がはびこり、人の間の愛が冷えている”状況です。今のような災難の時こそ、互いが愛し合い助け合わなければならないのに、自分自身と周りだけを愛し、隣人や苦しむ世界の方に目を向けることは避けてしまう。…どこを見ても暗闇ばかり、光は見えない。正義は破れ、不義が正義の座を占めている現実です。政治、経済、社会、文化、どこを見ても同じです。このような世界において声を上げ、神の国の愛と希望、正義を語るべきキリストの教会とキリスト者は個人の救いのみを求め、社会への無関心と無気力に包まれています。

その時、世界のキリスト教会とキリスト者たちに声をあげている一人の預言者がいます。正義の預言者とされる「アモス」がその人です。「神の正義」を叫び続けた預言者、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」と、不義に染まっていた北イスラエル社会と政治、宗教の権力者たちの前で声を上げるのです。

「アモス」という名前は「重荷を負う者」という意味で、彼は故郷である南ユダを離れ、北イスラエルの聖所や都で預言活動をしました。彼が働いた時代は、北イスラエル王国の最後の繁栄の時代でありました。当時の北イスラエルの支配階層を占めていた人たちは、しばしの繁栄のゆえに、自分たちのお腹を満たすために、力のない者、貧しい者らを苦しめていました。社会正義は見えなくなり、支配者たちの横暴だけが満ちていたのです。宗教においては形式と儀式だけが残り、社会においては倫理の崩壊、腐敗、貧しい者たちへの虐待、快楽と淫行に満ちていた時代でした。

アモスはもともと職業的な専門職の預言者ではありませんでした。彼は牧畜と農業を営む最中に神に召され、突然預言活動を始めた庶民出身の最初の預言者でした。彼は、日々の神との交わりの中で、イスラエルの歴史についても、イスラエル共同体に対しても鋭い洞察力を備えており、神の御声を大胆に伝える人でした。しかも彼は、北イスラエルや南ユダにとどまらず、イスラエルを取り囲むダマスコ、ペリシテ、モアブなどの諸国に対しても正しい認識とメッセージをもっていました。

「正義を洪水のように」、当時の北イスラエルの人々は確かに定期的に神を礼拝し、献げ物をささげ続けていました。さらに律法で求められていた祭りの規定を細かく守っていたのです。しかし、いかに彼らが祭りを大切に行ない、献げ物をささげていても、彼らの生活が不義に満ち、「正義」と「恵みの業」を行っていなかったために、神は彼らの形式的な礼拝を嫌い、公義と正義を洪水のように、尽きることなく流れさせることを命じられているのです。

アモスは神が最も喜ばれる礼拝こそ、神の正しい正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流すことだと教えます。個人の救いにとどまり、救われた民が負っている社会の救いに対する正義と公義という責任に目をつぶっているなら、神はアモスの裁きのメッセージをもって今現在の世界中のキリスト教会とキリスト者たちに迫って来られることでしょう。とりわけ新型コロナウイルスや地球温暖化による自然災害などで苦しむ暗闇の世界に向けて、今こそ、神の国の福音による救いと悔い改めと、救われた民らによる「正義を洪水のように流れさせる時」とを叫んでいく私たちでありますように…。ハレルヤ!


2021.8.15 小さな泉の恵み

 8月15日終戦記念日、日本人にとっては「敗戦」の日。76年を経てこの日のことに想います。以前にもご紹介したように、両親のアルバムには、シンガポールの植物園で1944年に父によって撮影された日本語教室の写真が残されています。生徒である中国人の母と共に映っている若い日本語教師渡辺先生は、土遊野の橋本順子さんのお母様であることが3年前に奇跡的に判明しました。

親しげに並んで映っている様子から、母と渡辺先生は仲が良く、シンガポールで終戦を迎えた後、チャンギの日本人収容所で日本に復員するまでの8か月、共に友情を深め過ごしていた可能性があります。母は、父と終戦の年の3月に結婚していました。橋本さんのお母様もシンガポールに赴任していたお父様と結婚されていました。橋本さんのお父様と私の父は、戦前は両者とも一橋大学(当時東京商科専門部)を出て、三井物産の社員になっています。 

「あの日」、シンガポールで暮らしていた新婚の両親は、どのような思いで敗戦の報を聞いたのでしょうか?どんな時も希望を失わなかった父は、恐らく母と聖書を前にして、共に祈りを合わせていたと思います。

ローマの信徒への手紙8章 28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

                                    S.S兄

2021.8.8 牧師室便り

 ~ 平和の祭典で思うこと ~

本日をもって東京オリンピックが閉会することになります。コロナパンデミックという危機的な状況の中で開かれた大会で、様々な不安を抱えながらも最後まで行うことができましたね。17日間、競い合った世界の選手たちすべてに拍手を送りましょう。

もともとオリンピックは平和の祭典と呼ばれてきました。まさしく全世界のアスリートが一つの場所に集まり、銃や武器をもって争うのでなく、互いのもっている力や技術を正々堂々と競い合うのがオリンピックの素晴らしさではないでしょうか。その通り、古代オリンピックでは、開催地から居住地までの往復において選手や観客の安全を願い、その期間の戦争を休止していたそうです。その精神を受け継ぎ、国際オリンピック委員会(IOC)は、1992年より「オリンピック休戦」を提唱し、選手の安全やスポーツの価値を守るため、これを1994年のリレハンメル大会より導入したのです。

つまり、オリンピックの原点は「平和」にあります。まさしく、スポーツに置き換えることで争いをなくすという理念を、時を通じて継承し、古代と今を、そして未来へとつなぐ大きな架け橋としてのオリンピックなのです。しかし、現在のオリンピックは「平和、オリンピック休戦」という原点に戻っているでしょうか。

むしろ、いつの間にかオリンピックに資本主義の価値観が入り込み、また、最も強力なナショナリズムが表される場になっていることを私たちは目の当たりにしていると言えるのではないでしょうか。歴史の中でスポーツが原因となって戦争に走ってしまったことがあり、今も世界各地でスポーツによる争いと葛藤が拡がっている状況です。

IOCや世界各国が平和を第一にするオリンピック精神に戻り、世界平和に役立てるように…。シャローム!


2021.8.8 本日の宣教

『 あなたが追い求めるべきこと 』(ヘブライ人への手紙12:14~15)

「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)

ヘブライ人への手紙を書いた著者は、終末を生きるキリストの教会と信徒たちに向け、追い求めるべき生き方について勧めています。とりわけ様々な試練と迫害に遭っている時にキリスト者が追い求めるべき姿を示していることが分かります。

まず、「すべての人との平和を」追い求めるように命じています。これは、当時のユダヤ人キリスト教会の教会員同士が互いに平和の関係を作っていくべきであることを指すと同時に、彼らを取り囲む世界のすべての人との平和の関係を結ぶことを強調しているのです。実に主イエスは、「平和を実現する者は神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」と言われました。ちょうど8月は平和を覚える月でありますので、平和こそ、言葉やキャンペーンで終わってはならない、主イエスの十字架の和解とその恵みにあずかった者であれば、主が示してくださった平和を実現するために自分自身を献げなければならないのです。

使徒パウロも、平和を、健全な人間関係の基礎であると見なしました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)…この勧めは、ただ仲良く過ごすために、周りの不義や間違いと妥協していいよ!というふうに受け止めてはなりません。むしろ、十字架の主イエスの平和と和解の姿に学ぶことにより実現しなさい!という意味となるわけでしょう。

また、「聖なる生活」を追い求めるように命じます。「聖なる生活」とは、キリスト者を特徴づける「聖さ」を生きることを意味します。私は、旧約聖書から新約聖書をつなぐ一つの主題が「神による神の民作り」であることを強調してきましたが、まさに「神の民」に求められる優先順位の筆頭に挙げられるのが「聖さ」なのです。神の民は、神の御前では聖くならなければなりません。神が、神の民への聖さを求めておられる有名な聖書箇所として、「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」(レビ記11:44)」があり、また主イエスも、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5:8)」と言われました。使徒パウロもⅠテサロニケ4:3で、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と勧めていることから、キリスト者にとって「聖なる生活を抜きにして」神を見ることはできませんし、神に似た者になることもできないのです。「主を見る」ことと、「神に似た者になる」ことこそ、再臨のキリストを待ち望む終末を生きるキリスト者に求められる姿勢であります。とりわけ「聖なる」と訳されている「ハギアスモン」(ギ)とは、霊的、道徳的汚れから離れ、だんだんと聖くなっていく「聖化」の過程を意味します。「聖化」こそ、平和と共にキリスト者が生涯をかけて成就するために追い求めるべき目標であるのです。

「平和と聖なる生活」とは、コインの両面のような特徴をもっていて、いずれか片方が欠けても、キリスト者の生活はバランスが取れなくなってしまうわけです。終末を生きる者として、今あなたは何を追い求めていますか。


2021.8.8 小さな泉の恵み

 暑い日が続きますが、皆さん、この一週間如何お過ごしでしたか?私は、この一週間は、熱中症になりかけたり、寝不足が続いたりした一週間でした。

今年の夏は、異常気象という言葉では片付けられないくらいの暑さで、北海道では、35℃を超す程、あり得ないくらいです。これは、私たちの欲望などの付けが今となって、環境破壊という形であ合われたのではと感じております。

尚、コロナの影響がまだ続いている中、8月末まで日曜礼拝が、YouTubeやズームなどで行われるとのことで、皆さんとは会えないのが、私にとっては、残念に思います。9月からはどうなるか判りませんが、教会で皆さんとお会いできること楽しみにして、この時を過ごしたいと思います。

父なる神の恵みの御手が皆さんと共にありますようにお祈りしています。

                                Y.H 兄


2021.8.1 牧師室便り

  ~ コロナ時代に忘れてはならないこと ~

日本列島が東京オリンピックの金メダルの嬉しいニュースで熱狂しています。何より、一人一人の選手たちの今までの流した汗と努力を思うと感動の拍手を送るのが当然のことでしょう。また、メダルは取らなくても最善を尽くした選手たちに応援の拍手を送りたいと思います。

さて、たくさんの金メダルの嬉しいニュースに隠されている「コロナ危機に直面している医療関係者の方々、突然感染され暗闇の時を過ごしておられる方々、また職を失い、経済的試練を余儀なくされている方々など」、私たちの見えないところからの苦しい叫びがあることを覚えつつ、執り成すことを心がけたいと願っています。しかし、これら日本の問題を超えて世界に目を向けると、コロナパンデミックによって、ナショナリズム、個人主義、貧富の差、ワクチン利己主義といった資本主義の悪いところがさらに深刻化していることに気づかされます。

先日の国連5機関による発表では、2020年に世界の飢餓が劇的に悪化したそうです。昨年2020年には世界人口の約10分の1、最大で8億1,100万人が栄養不足に陥ったと推定されています。栄養不足の人々の半数以上(4億1,800万人)はアジアに、3分の1以上(2億8,200万人)はアフリカに住んでおり、ラテンアメリカとカリブ海諸国はそれよりも少ない6,000万人ほどであったそうです。その中でも、飢餓が最も急増したのはアフリカで、栄養不足の割合は人口の21%と、他の地域の2倍以上になっている現状です。このような世界的状況を前にして、先週、東京オリンピックの大会関係者向けの弁当4,000食分が廃棄されたという驚きのニュースを聞き、悲しみに包まれていました。

平和を覚えるこの季節、連日の金メダルに沸きつつも、コロナ危機の中、忘れられている人々、極度の飢餓の中で死んでいく人々のために執り成しつつ、救いの手を差し伸べる世界中の神の家族を求めます。シャローム!


2021.8.1 本日の宣教

『 愛を知っている者として 』(Ⅰヨハネの手紙3:16~18)

8月は平和を覚える月です。キリスト教会は平和に関する礼拝や集会を開くことで、平和を実現する存在としての使命を確かめ新たにする時を過ごすわけです。とりわけ本日は8月の1週目で、主の晩餐式を執り行います。私たちが主の晩餐式を執り行う理由は、主イエスが、「これを記念しなさい」と命じられたことに従い、十字架による贖いと恵みを告白し信仰を表すためであります。「記念しなさい」と言われた理由こそ、十字架の恵みを忘れてはならない、そこに救いが示され、神の愛があなた方と共にあること、また十字架の証人として歩みなさい!という意味と目的があるからでしょう。そして、本日の御言葉を通して、十字架の愛を知っている者がどう歩むべきなのかということを教えてくださいます。 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(Ⅰヨハネの手紙3:16)」

著者ヨハネは、イエス・キリストが十字架の上で尊い命を「わたしたちのために」捨ててくださったことを確認しています。すなわち、罪のない聖なる神の独り子が、私たち罪人たちのために十字架の上で命を捨ててくださったことによって、「真の愛」を知るようになったのだと語っているのです。そして、その愛こそ、「アガペー(神の愛)」、受ける資格のない者のために、神の独り子が無条件に命までも捨てられ救いをプレゼントとして与えられる愛、それがアガペーの愛なのです。そのアガペーの極みが十字架によって示されたのです。ですから、私たちは主イエスの十字架を通して真の愛が何であるかを具体的に「知るようになった」と明かしているのです。

そしてヨハネは、私たちが主イエスの十字架の愛を心から信じ受け入れ、愛を知るようになったのであれば、その愛を知ったものに相応しく生きるように呼びかけています。ここで、「知っている」とは、ギリシャ語で「ギノスコ」と言いまして「単なる知識的な知るではなく、経験を通して全人格を通して知る」という意味を持っています。すなわち、「神の愛を知っている」と告白できるのであれば、私たちの日々の生活の中で、イエス・キリストの十字架の愛は生きて体験できるものであることが分かります。

そこで、著者はアガペーの愛を知っているキリスト教会と信徒たちに向けて、「十字架の愛を知っている者であれば、各自がそれぞれの場所で、イエス・キリストに倣って愛を実行すべきである」と教えます。しかも、その実行する愛の形として、「兄弟のために命を捨てるべきだ」という、大変厳しい表現を用いています。ここで「べきです」という言葉は、現在形として使われていて、「兄弟のために命を捨てることの継続性、また積極性を持つべきだ」ということになります。ただし、「命を捨てる」とは、主イエスのように実際に死ななければならないという意味ではありません。著者は、愛を知っている者として、兄弟たちのために「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(18節)と示しています。その中でも、「富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しなければ」神の愛はその人の内にはおられないことを宣言します。

コロナ危機に直面している世界の中で、神の愛を知っているキリスト教会とキリスト者が実践すべきことは何でしょうか。「受けるより与える方が幸いである」という御言葉の幸いを生きる神の家族でありますように…。ハレルヤ!


2021.8.1 小さな泉の恵み

前回のこの欄(6月6日)に担当。もう2か月過ぎたのかなぁ…。

前回の礼拝に行くのに駅までの農道には、田植えが終了した青田道だったのに。今はもう稲は長く伸び、穂を付けようとする時季になっています。もうすぐに実りの秋を迎える準備をしております。稲作をやっていた頃は稲穂のたれるのをみて豊作の楽しみを心の中で味わっていました。

私達の教会も、昨年から今年にかけて、新型コロナのために、ファミリーキャンプ等は中止せざるとなりました。もう8月である。1年の半分はすぎましたが、なんとなく無意味にすごした自分をもっと有意義に充実した生活ができなかったかと今反省しております。前回もこの欄に自分の学のなきことを悔やんで書いたのに、現在の年齢の82歳の生涯を謙虚に振り返っております。高齢になってからではおそいので、兄弟姉妹の皆さん若くて健康な時代に色々の経験と体験して下さい。。

聖書にも、今すべきことを「求めなさい。そうすれば与えられる。」

現在家庭菜園程度の農業を営んでいますが、新しい農業技術が進み農協の婦人学校等に入会して若い方々と勉強しておりますが、年齢のせいか、いつも落ちこぼれ。「イエス様が手伝ってくださっているから大丈夫」だと信じて頑張っております。

                                   A.M 姉

2021.7.25 牧師室便り

   ~ 優先順位は正しいのか ~

「イエスはお答えになった。…『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(マルコ12:29-30)

先週から東京オリンピックが始まりました。喜びと希望の祝祭となるはずのオリンピックがコロナ危機の中で不安と危惧の場に変わってしまいました。一年を延期し、再び延期するのは難しかったため、無理やり開催へと踏み切ったわけですが、オリンピック選手村からも感染者が発生し、世界各地からの選手や関係者による感染がジワリジワリと広がっているような状況です。日本国内においても様々な面で問題が生じ、未だ国民の半分以上の人が中止を叫ぶ中でオリンピックが強行されているわけです。そのためか、今回の東京オリンピックを呪われたオリンピックとまで呼んでいる…。

恐らく金メダルを取る人が一人二人と現れることで、風向きが変わることもあるかもしれません。しかし、それでいいのかということを問わなければなりません。マスコミや人々の間では、国際オリンピック委員会(IOC)がこだわっているところはお金だけであって、日本の政治家たちはもうすぐ行われる総選挙のために、オリンピックによる雰囲気の反転を期待して大多数の国民の反対を押し切っての開催に至ったのだと言われるところです。

このような状況を目の当たりにして私たちキリスト者が選ぶべき優先順位は何でしょうか。何よりもまず、東京オリンピックと日本の国と国民のために執り成すことでしょう。願わくは、IOCも、日本政府、日本国民も、お金と政治的欲望を満たすためではなく、また、愛国心に燃えて盲目的になるのでなく、神の国の民として、隣人を愛し、一人一人の命を守ることを第一にすることです。隣人(すべての人)の命を守ること以上の優先順位はないはずです。その上に立って現実を見ると、神の国を生きる民として進むべき正しい道が見えてくるでしょう。シャローム!


2021.7.25 小さな泉の恵み

 いよいよ新型コロナによって一年延期になった東京オリンピックが始まりました。皆様にとって気になる競技は何でしょう?開催そのものについても、様々な意見が有ろうかとは思います。

開会直前に開会式演出の小林賢太郎氏が解任されました。小林氏がかつてユダヤ人虐殺を題材としたコントを演じた為でした。森喜朗氏、佐々木宏氏、小山田圭吾氏に続き。人の間で許しとはとても難しいことです。これから行われる北京やパリオリンピックは過去に間違いを犯したことの無い人々によって為されるというのでしょうか。今、私たちが頂いた神様からの許しを思います。差別的な人物が反省も無く大きな顔をしていることには快く思いませんが、自らの罪については、許されたいし、忘れて欲しい。「自分の罪は小さく思いたい」お互いではないでしょうか。

私たちの負う罪は決してて小さなものではありません。死をもって償うべきものでした。「罪が支払う報酬は死です。(ローマの信徒への手紙6:23)」しかもその購いが、神の一人子主イエスの十字架の死でした。神ご自身が犠牲を払って下さったのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたにおなじようになさるであろう。(マタイによる福音書18:35)」全ての人々が神の赦しと寛容に与り、恵みを得ますように。始まったスポーツの祭典に神の祝福がありますように。

                                  S.Y 兄

2021.7.18 牧師室便り

 ~ 礼拝堂の十字架塔の補修 ~

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(ルカ21:33)」

教会の十字架塔が長い歳月、風雨にさらされるうちに下の部分がボロボロと落ちてしまうようになっていましたが、いよいよ先週、補修工事を終えることができました。14年前私が赴任した当初も、大雨の後とか、大雪の後には、必ず十字架塔の破片が地面に落ちていたことを何度も見つけてきました。外からも汚れが目立つようになり、その度毎にペンキを塗ったり、トタンでボロボロになっていたところを隠したりするような応急措置を行ったこともありました。しかし、根本的なところを補修しない限り、同じことを繰り返すことになるため、今回はできる限りの予算を当てて補修作業にかかったわけです。業者さんからは“これで20年はもつでしょう。”と言われホッとしているところです。まさに十字架塔は教会の顔の役割を果たしているので、近隣の方々によき証しとなればと願っています。

 振り返ると、今の礼拝堂は1981年に建築され、1996年に十字架塔と多目的室が増築されたので、建物としては築40年という、かなり長い歳月が経ちました。次回の修理が求められる時には再建築のことになるでしょうね。

今月の20日は、小泉町教会の教会組織21周年となる日です。前任者の本多英一郎先生と教会員の皆さんが伝道所から自立した教会としての教会組織へのビジョンを抱き、長い間祈りと献身を尽くし、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の支えの実として、2000年7月20日に献堂式と共に「教会組織感謝礼拝」を献げることができました。そして時は流れ、礼拝堂はだんだんと古くなり、外壁工事や十字架塔補修が必要となったわけです。

この世に常に新しいまま存在するものはありません。神の御言葉以外には。…教会組織21周年を迎えながら、小泉町教会のために献身してくださった歴代の牧師の方々と教会員の方々のことを覚え感謝の拍手を送りましょう。また、常に新しくなる教会、また信仰者となるため、神の御言葉によって新たにされることを心がけましょう。シャローム!


2021.7.18 本日の宣教

『  ダビデの夢を考える  』    (サムエル下7:1~7)

聖書の人物の中で賛美に大変優れていた人は誰でしょうか。そうです。もちろんダビデです。

ダビデは様々な側面から祝福された人でした。彼は素晴らしい音楽家であり、美しい詩を書く詩人でした。また、彼がハープの演奏を始めると悪霊が離れ去るほどの霊的なパワーをもっていた人でもありました。それだけではありません。彼は当時、イスラエルを苦しめていたペリシテを始め、様々な国々との戦いにおいて大いなる勝利を勝ち取った勇士であって将軍でありました。その中でも巨人ゴリアテとの戦いの物語は有名です。また、分裂されていたイスラエルを統一し、国としての基礎をしっかりと置いた王として、国民からは尊敬され愛された人でもありました。

そのようなダビデが人生をかけて抱いていた夢がありました。それでは、ダビデはその夢を果たしたでしょうか。答えは、いいえ!でした。ダビデは王としてこの世における権力、富、すべてを手にしていましたが、それでも彼が抱いていた最高の夢を果たすことはできませんでした。その夢こそ、「神殿建築」でありました。

ダビデ自身、イスラエルの王として立派な宮殿で暮らしているのに、神の臨在を表す神の箱は、臨時に作っておいた天幕の中にあるまま。このままでは申し訳なく、心が苦しくて耐えられなかったわけです。実際ダビデは、一生涯神の家を慕い求めた人でありました。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。(詩編27:4)」

しかし、ダビデの生涯にかけて抱いていた夢は、「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。(7:5)」という神の言葉と共に拒まれてしまいます。その後、ダビデ自身、神殿を建てることは許されなかったが、後に神殿を建てるソロモンのために、神殿を建てるための土地、材料、財宝などを備える姿を見ることができます。

 それでは、ダビデの夢はもう失敗で終わったことになるでしょうか。列王記上8:18の言葉を見ると、ダビデの神殿建築へに対する神の言葉を通して知ることができます。「主は父ダビデにこう仰せになった。『あなたはわたしの名のために家を建てようと心掛けてきた。その心掛けは立派である。』…この言葉は、ダビデの神殿建築についての全く新しい御心が示されることになります。恐らくダビデ自身、神殿建築を神が拒まれたことで、もう自分の夢は失敗に終わったと思ったことでしょう。しかし、神はダビデの真心からの神殿建築への心掛けを良くご存じであって、そのことについて神は「立派であった」と称賛しておられるのです。

そうです。目に見える神殿は建てられなかったですが、神はダビデのうちにある神を愛するゆえの神殿建築の夢とその熱心さ、純粋さを喜んで受け入れてくださったのです。神は、建物としての神殿建築ではなく、ダビデが抱いている神のための信仰とその思いを喜ばれたのです。そうです。神の御前では、私たちの目に見える立派な成果などは重要なことではありません。神が望まれるのは、常に神の御名のために夢を抱き、主を愛し慕い求め礼拝することです。その人の為すことは、失敗のように見えるかもしれないが、神はその人の愛と心掛けを称賛され、その夢を必ず叶えてくださるのです。小泉町教会の歴史の中においても同じく、真心から夢を抱き献身した人々を父なる神は喜ばれ、彼らの夢を叶えてくださったし、これからも叶えてくださるに違いないと信じています。ハレルヤ!


2021.7.18 小さな泉の恵み

 先週はメジャーリーグ野球の大谷翔平さんの歴史的な快挙にアメリカ・日本はおろか、世界中の多くの人々が感動に包まれました。解説者からは、新型コロナ禍の中でストレスを抱えている人々に勇気を与えたと讃えられています。彼の明るく爽やかな笑顔や野球を楽しんでいる仕草や仲間や対戦相手への気遣い、そして、何よりも何気なくゴミを拾う姿が人々の心を明るくしています。

大谷翔平さんは、ゴミを拾うことは運を拾うことだと花巻東高校1年生の時に立てた目標達成表(マンダラートという図)に書いていました。一流の選手になるためには、身体づくりや投手としてのコントロール、スピードなどの技術を上げること以外に「運」も大切だと考えたのです。運を引き付けるためには、あいさつ、ゴミ拾い、部屋そうじ、道具を大切に使う、審判さんへの態度、プラス思考、応援される人間になる、本を読むという8つのことを実践すると書かれています。マンダラートという発想法自体は、1986年に仏教の曼陀羅をヒントにデザイナーの今泉浩晃氏によって考案された人生設計を考える思考方法ですが、大谷さんが考え実践している「運をひきつける」ということは、神様は見ているということだと思います。マタイ25章31~45節「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」今後も大谷翔平さんの活躍を祈りたいと思います。

                                    島田 茂


2021.7.11 牧師室便り

 ~ 合同礼拝か、二部制礼拝か ~

今週もコロナと関連する話です。2週間前までは、何とか東京オリンピックを、観客を入れての大会にしようとする動きが強かったのですが、再び広がってしまったデルタ株の脅威によって、一昨日、東京では4回目の緊急事態宣言が発令されることになり、ほぼ無観客の大会になることが決まりました。しかも、熱海をはじめとする大雨による災害は日本の国民に大きな影を落としているような状況です。・・・オリンピックは無事に開催できるでしょうか。

そんな中、私たちの教会では、コロナ危機の間、一年半続けてきた二部制礼拝を合同礼拝にするかどうかについてアンケートをとりました。とりわけ富山の感染者数も落ち着きを見せ、礼拝における感染防止も整えられてきたため、出来れば、神の家族全員が集う合同礼拝を献げたいという要望を多くの方からいただいてきました。牧師としても、何とかして合同の礼拝へと踏み出したい思いが強いのは当然のことでした。そういうことで、6月の執事会では、教会員全員にアンケートをとって2/3の賛成があれば、合同礼拝へと進みましょう、という合意を得たわけです。その後、早速礼拝出席者全員にアンケートを取った結果、2/3以上の方々からの合同礼拝への賛成をいただきました。

民主主義社会においては、多数決ですべてが決まるわけですから、「はい、これで決まりました」とすればいいのですが、教会共同体では民主主義の原則ではなく、神の御心、神の国の原理が優先するのですから、一人のために、共同体が合わせる時も多々あります。牧師としては、常に御心が成ること、主の最善を見出せることを求め続けてきました。恐らく、今度の執事会で方針が決まるとは思いますが、その前に、牧師として祈りの中で示されたことを分かち合いたいと思います。実は、少数であってもコロナへの不安、ワクチン接種後という提案などが出されていて、そのご意見を無視することはできないと思っています。そのため、牧師とすれば、今までと同じ形の礼拝を二回執り行うのでないにしても、10時からはメインの礼拝として合同礼拝を求める方々全員に集っていただき、少しでも不安を覚えたり、その他の諸事情をもっていたりしている方々のために11時30分から普段より短めの礼拝を献げたらどうかという提案をしたいと思います。神の家族はどう思われますか。常に一人の魂を愛し耳を傾けてくださる主を見つめながら主の最善を期待しましょう。シャローム!


2021.7.11 本日の宣教

『 礼拝者の顔  』(出エジプト34:29~35)

今月のリビングライフも出エジプト記です。とりわけ今月に入ってからの御言葉では、神の人モーセの信仰の素晴らしさが際立っています。その中でも、出エジプト33:11「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」という御言葉に心打たれます。主がモーセに対して、人がその親しい友と語るように、顔と顔を合わせて語られた!という、信仰者であれば誰もがうらやましく思う御言葉であるでしょう。しかし、私はこの箇所から、神の寂しさを感じました。神には、友のように交われる人がモーセ一人しかいなかった!という御心が伝わってきたからです。そういう意味で、モーセをご覧になる神の格別な御心がよく伝わってくる聖書の表現であると思います。

特に、この場面はイスラエル共同体が神との契約を破り、金の子牛の像を作り拝むという赦されない罪を犯した後、神の怒りと裁きを前にして、「自分の名を神の命の書の中から消し去ってください」と命をかけて執り成すリーダーとしてのモーセと、そのモーセの執り成しを受け入れてくださる神の、神の人モーセへの愛と信頼が示されています。この場面では一人のリーダーの存在がいかに大切であるかがうかがえます。リーダー自身の命をもって神と取引するほど、モーセはイスラエル共同体を愛していましたし、神への揺るぎない信頼があったことが分かります。

それから、モーセは「神の栄光を示してほしい」と求めます。この懇願こそ、神との関係の親密さと深さを表してくれます。神の栄光を慕い求める人の姿は、神が最も喜ばれることでしょう。その通り、聖書は神がモーセにご自身の栄光を示されたことを記しています。神はモーセに、御顔だけでなく、創造者なる神の圧倒的なお姿の栄光を現されたのです。そして神は、イスラエルの子らが破棄してしまった契約を更新してくださいました。真に一人のリーダーの献身的な執り成しがもたらした素晴らしい恵みでした。

シナイ山での40日間、神と顔と顔を合わせ交わり、神の栄光に照らされたモーセは、更新された契約と新しく刻まれた二枚の石板を携えてイスラエル共同体のところに帰ってきます。聖書はその時のモーセの顔の肌が「光を放っていた」と記します。モーセが放っていた光は、神の栄光の表れであって、モーセが神と顔と顔を合わせたことによって与えられた栄光でした。40日40夜、神との親しい交わりの時間を過ごしたモーセは、その顔が太陽のように光を放つようになりました。モーセを待っていたイスラエル共同体は、モーセの顔の輝きによって神の臨在を見ることができました。また、神はモーセの顔の輝きを通して、イスラエル共同体にご自身の栄光と赦しの恵みを示されたのです。

モーセの顔の輝きは神の栄光の輝きでした。それは、神との親しく深い交わりによってモーセから自然に照らされるようになったものです。神の家族の皆さんの上に、このモーセが味わった神の栄光の輝きの恵みがあるようにと願います。日々、父なる神の御顔の光を慕い求め、神との深い交わりをもつことによって、私たちも主の輝く光に覆われますように…。とりわけ、神のために働く献身者になくてはならない姿がここにあるのです。

日本バプテスト連盟では、6月最後の主日から7月最初の主日までを「神学校週間」として覚えて、神学校の働きと献身者のための祈りと共に献金をささげる時をもっています。私は願います。献身者たちが、何よりまず、モーセのような神との親しい交わりの中で、神の栄光に照らされる生きた礼拝者の顔をもつようにと。ハレルヤ!


2021.7.4 牧師室便り

 ~ 思いがけないことが生じる中で ~

「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。(一ペトロの手紙4:12)」

地球温暖化がもたらしたとされている異常気象が世界規模で起きています。先週、アメリカでは気温が連日40℃を超え、また、カナダでは50℃に迫る気温でカナダ歴代最高値の更新となりました。さらに、ロシアのシベリアも30℃を超える暑さとなり、まさに世界各地が記録的な暑さに見舞われています。それだけではない。ヨーロッパでは大雨の被害を受ける国も干ばつにさらされる国もあり、オーストラリアでは異常低温に襲われたりしています。日本もまたとりわけオリンピックを控えて、期間中どれほどの暑さになることかと、懸念されている状況です。

コロナにおいても、新しい変異株が次々と現れる中、感染者数もジワリジワリと増えていますし、ワクチン接種が計画通りに進まず、不安な人々のイライラが見えている近頃です。まさに私たちの思いや期待とは程遠い出来事が次々と起きていて、明日はどのようなことが襲ってくるだろうかという心配が先を走っています。

しかし、私たちキリスト者は、このような出来事を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚いたり怪しんだりしてはなりません。なぜならば、これらのことはいつ起きてもおかしくないことであったからです。むしろ、これらの地球温暖化による自然災害や感染症などの出来事は、人間の欲望と罪がもたらした当然の結果であることを心に刻み、悔い改めつつ主の助けを祈ることでしょう。また、終末の時代を生きている者としての心の備えをすることで、これからやってくるであろう様々な出来事にも慌てることはなくなるでしょう。そうです。キリスト者の人生の過ごし方として、どんなことが起きても、神の御許しの中で起きたことであると認め、神の国の福音を伝えることに努めることです。シャローム!


2021.7.4 本日の宣教

『  神の子たちの現れるのを求む  』 (ローマの信徒への手紙 8:19~22)

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。…被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8:19~20、22)」

この箇所には、とても興味深い言葉が登場します。それは、「被造物」が「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」と言うのです。ここでの「被造物」とは、神によって創造された自然世界のことを指します。天と地、山と海、石や木々、また、動物や植物、すなわち全ての自然世界が含まれます。そのような自然世界すべてが「神の子たちの現れるのを」「切に待ち望んでいる」ということ、それだけではありません。22節にあるように、「すべての被造物が、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」というのです。…パウロはそのことを「知っている」と断言しているのです。

創造者なる神が世界を造られた時には、罪のない祝福された世界でした。しかし、人間が罪を犯し堕落してしまうことによって、人間だけが呪われたのではなく、自然世界もすべて呪われることになったのです。(創世記3:17~18参照)神が創造された時の自然世界はまさに天国そのものでしたが、人間が罪を犯すことによって、土は呪われ、人間の欲望による破壊によって、環境は汚染され、ゴミ箱のような世界と変わったのです。すべての被造物は、共にうめき、産みの苦しみを味わう中で死んでいくことになりました。

始めに、神が創造された世界をご覧になった時には、「極めて良かった!」と叫ばれるほど、神の栄光と喜びであった自然世界でした。しかし、人間の罪と堕落によって、その存在の意味や目的を失ってしまったまま、うめき、苦しむようになった。「造られたもの」ならば、必ず「造った方」からの意味があり、造った方の目的があるはずです。聖書はそのことを、造り主なる神と、神の代理なる人間との交わりの舞台として、神の栄光を賛美するために自然世界は創造されたと書いています。だからこそ、すべての被造物は、「神の子たちの現れるのを」切に待ち望むわけです。私たちキリスト者が御子イエス・キリストによって生まれ変わり、神の子として現れるようになれば、すべての被造物はその存在の意味を満たされ、創造された目的を全うすることになるでしょう。

創造者なる神は、私たちを神の子として現させるために、神の独り子をこの世に贈り、その独り子によって全く新しい神の子として生まれ変わるようにしてくださいました。その新しく生まれ変わった神の子たちによってすべての被造物も本来の姿を回復することになるのです。そういう意味で、環境運動は救われたキリスト教会と神の子たちに託された使命であると言えましょう。そうです。自然破壊の犯人は人間の欲望であり、罪です。ですから、自然世界を救う唯一の道こそ、神の子たちの現れることにあるのです。神の子たちは、新しく生まれ変わった神の子としての価値観をもち、常に神の御心に適うことを心がけながら歩むことになります。あなたは神の子として相応しく現れていますか。自然世界が神の子たちの現れを待ち望んでいることを心がけながら責任のある歩みを始めましょう。ハレルヤ!


2021.7.4 小さな泉の恵み

 ~自動車学校に通うことになり~

実は突然会社のほうから中型の車を買うので、中型免許を取って来いと言われ、4月から自動車学校に通っています。まさか自分が今さら自動車学校に行く事になるとは思いも寄らなかったのですが、言われるがままに通うことになりました。今まで普通免許を取るときと、オートマ限定解除の2度自動車学校通っているのですが、どちらとも上手くいかずに教官からはズタボロに言われ、全くいい思い出がありませんでした。いざ通ってみると車が大きいところも難しいのですが、何より大変なのは教習車がマニュアル車であることです。何年も前に限定解除をしにいってからオートマ車にしか乗っていなかったため、マニュアル車の運転の仕方をきれいさっぱり忘れてしまったのでまずはそこを思い出すので苦労しました。しかも教官はマニュアル車の運転ができること前提で話しをするのでマニュアルの運転も中型の運転もなかなか上手くいきません。そして案の定、今回も教官からはズタボロに言われ心が折れかかりながらも何とか通っています。

しかし神様は乗り越えられない試練は与えられないというので、あきらめないで頑張っているのですが、もうあまり行きたくないので、早く合格して卒業できるよう祈っています。

                              S.H兄

2021.6.27 牧師室便り

 ~ コロナの変異に備える ~

「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1: 16)」

ウイルスは歴史や時代において絶えず変異を繰り返してきました。新型コロナウイルスも変異を繰り返す中で、今は「デルタ・プラス」まで来ています。今まで、新型コロナウイルスの変異株は「英国株」や「インド株」など、ウイルスが発生したとみられる国の名をもとに呼ばれることが多かったのですが、WHO(世界保健機関)は、注目すべき変異株について、差別や偏見などの懸念から、2021年5月31日にギリシャ語のアルファベット字の順に沿って、新たに現れる変異株を呼ぶことにしています。そこで、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタまできたわけであります。恐らく、イプシロン、ゼータ・・・に続くことになるでしょう。とりわけ今現在、世界で猛威を振るっていて、国々を恐怖に陥れている変異株が、デルタ・プラスです。これは、今までの変異株より、感染力も高くなり、重症化しやすくなっていると言われています。すでに日本でも報告されているそうです。ただし、従来の「デルタ株」は2回のワクチン接種により9割以上の確率で重症化を防ぐことができるそうですから、不安にならず、普段やっている防疫の徹底と、ワクチン接種を受けることでしょう。

私は最近のコロナの変異株のことを黙想しながら、これも結局、人の欲望と罪がもたらしたものであって、罪のもっている特性をそのままでもっていることに気づかされています。人が創造された時には、罪と関係のない存在でしたが、一瞬の油断、すなわちサタンの誘惑に惑わされ、自分も知らないうちに罪を犯してしまったのです。そして、その後、すぐ創造者なる神に癒しと赦しを求めれば良かったのですが、嘘をつき、神に反抗をし、結局エデンの園から追い出されることになってしまいます。その後、人はますます罪の影響に覆われてしまい、殺人、戦争、破壊、偶像崇拝の方に走ることになったのです。まさに、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死と滅びを生むことになった」のです。その罪が変異株を作らないようにするためのワクチンこそ御言葉であり、聖霊の助けの中で聖なる防疫に生きることです。シャローム!


2021.6.27 本日の宣教

 『 誰一人取り残さない 』~SDGsを主に執り成し祈る

                           (イザヤ書64章5節~8節)

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ。」(創世記1章28節)

私たち人類は、神様にこの地上と生物を管理するように創造されました。地球の人口は、現在78憶7500万人となり、2030年には、85億人になると予想されています。科学技術の発達と人々の所有欲や消費欲によって、地球の環境は、開発の名のもとに破壊され、汚染され続けています。石油・石炭の化石燃料等による温室効果ガスが発生し、地球温暖化が深刻さを増しています。北極や南極の氷河が溶けて海面が上昇し、ベネチアの高潮が近年話題となりました。パリは46℃に達する日があり、ホッキョクグマはこのままでは2100年に絶滅するだろうと言われています。人為的な放火のケースもありますが、アマゾン、オーストラリアやカリフォルニアでは相次いで大規模な森林火災が発生しました。

プラスチック問題も深刻です。プラスチックゴミが年間800万トン捨てられているそうです。プラスチックは、5ミリ以下のマイクロプラスチックとなり、魚介類などを通して人間も一日1g位食べてしまっているようです。

貧困問題では、世界では、6人に1人(3億5600万人)の子どもたちが、「極度にまずしい」暮らしをしています。世界が40人学級だとすると4人は明日食べ物がないという人。一方で食べられるのに捨てられている食料ロスがあります。日本では年間600万トン約三分の一の食料が食べられるのに捨てられています。

2015年9月に国連に加盟する193か国と地域の代表が全会一致で人々が暮らし続けるための持続可能な開発目標(SDGs)を決定しました。17の目標と169の達成基準(ターゲット)です。「誰一人取り残さない」(No one will leave behind)という理念で取り組まれています。 私たちキリスト者は、SDGsをどのように考え、取り組むべきなのでしょうか?

「主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、御手の技。 どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに、目を留めてくださるように。(イザヤ64章7~8節)」

                                  島田 茂


2021.6.27 小さな泉の恵み

 ~ Zoomによる恵み ~

遠く離れたところから、zoomを通して懐かしい小泉町教会の兄弟姉妹と共に礼拝・聖書の学びなどに参加させていただける恵みを感謝しています。

新しい土地に移るたびに、御言葉と祈りを大切にする教会を探して集っていましたが、岡山県の故郷に戻った今回は、田舎ゆえに選択肢が限られ、牧師の言葉ではなく神の言葉が語られる教会と出会えないでいました。

閔先生のメッセージを聞いていると、いろいろな疑問が解けていくと、主人が喜んでいます。主人は今、聖書の言葉に興味が惹かれています。それだけに聖書を読みながら、いろいろな疑問も生じているようです。理屈っぽい人ですから、「奴隷状態から解放されたイスラエルの民がどうして奴隷を所有しているのだ?」など、面倒くさい質問をしては、地元の牧師からは煙たがられていました。

オンラインという制約もありますし、今私が置かれているこの場所での使命があるのではないかという思いもありますが、今の私にとっての一番の願いは、主人がイエス様に出会うことことですし、そのことをずっと祈ってきましたから、このような形ではあっても、御言葉と祈りを大切にする小泉町教会と繋がれていることは、神様の導きと信じています。

コロナが収束したら、ぜひ富山まで出かけたいと思っています。その日を楽しみにしています。いつも私たち家族のためにお祈りくださり、ありがとうございます。

                              K.K 姉

2021.6.20 牧師室便り

  ~ 讃美のいけにえをささげよう ~

「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」(ヘブライ13:15)

昨年、宣教60周年を記念して作られた小泉町教会の主題歌「小さな泉を与えられた主」は神の家族に大きな感動と喜びを与えてくれています。実は、コロナ時代に入ってYoutubeなどインタネット配信をするようになってからは著作権問題を避けつつ、週毎に礼拝賛美を選び、決めていくのが牧師にとって悩みの一つでした。この問題は、今後もずっと課題として置かれることになるでしょう。

そのような必要性もあり、また聖霊の導きと満たしを得るためにも、オリジナルの讃美歌を作ることは、これからの共同体にとってとても大切な課題となってきているのです。もちろん、最初から立派な曲が作られることを期待するのは無理でしょう。しかし、試行錯誤を重ね、また祈りの中で聖霊による感動をいただくことができれば、生きて働く讃美歌、みんなを感動のうちに一つにできる讃美歌を作れるようになるでしょう。そうして作られた讃美歌によって献げられる礼拝こそ、主に喜ばれる礼拝になるでしょう。そのことをよく知っていたのがヘブライ人への手紙の著者であったと思います。彼は、神が求められるいけにえこそ、主イエスを通して献げられる賛美のいけにえであると告白します。

特別に音楽の賜物をもっている人だけでなく、子どもでも、大人でも大丈夫です。私たちが数年前から礼拝の中で好んで歌っている「花も」という賛美は、北海道のある教会の子どもたちによって作られた賛美でした。本当に素晴らしいことですね。なるほど、聖霊は子どもたち、弱い人、無知な人を用いて命あふれる讃美歌を作られる。…神の家族の皆さん、いかがでしょうか。できれば、今年中に10曲ほどのオリジナルの讃美にチャレンジしてみませんか。シャローム!


2021.6.20 本日の宣教

 『 口の言葉と心の思いを主に! 』(詩編19:15)

詩人ダビデは、神こそ創造者として自然界を通してご自身を啓示しておられる神、また、人の口の言葉と心の思い、その行いをすべてご存じである真の神に、生きた礼拝者となることを切に願っています。

とりわけ、ダビデは大自然のすべてが神を賛美していると告白し、大自然を通して啓示される御声を聞いています。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(2~5節)」

ダビデは、一日を始めるにあたって、大自然を与え、今日も私たちを生かしてくださる主に、御言葉を与えてくださったことを感謝し、創造者なる神への礼拝を献げることを告白しているのです。実に、それがダビデの力でありました。

神の家族の皆さんは一日の生活でどれほど主を黙想しているでしょうか。私たちは、朝、起きてまず、最初に何をするか、それが、その人の優先順位であると言えるかもしれません。スマホで電話やライン、メールやニュースをチェックするとか、朝食の準備や仕事の準備など各自様々でしょう。

皆さんは最近、朝、起きてすぐに簡単な身の回りのことを整え、外に出て大きく深呼吸をしたことはあるでしょうか。また、雨が降った時には雨に濡れた土と草の匂いを吸い込みながら、朝露にぬれた草花を見たことがあるでしょうか。また、新しく輝き、誇らしく照らす太陽を感じながら天を仰ぎ見たことがあるでしょうか。そして、当たり前のようにしている呼吸のために動く肺や心臓の音を感じたことがあるでしょうか。ダビデは、大自然の中で、また小さな出来事の中から聞こえてくる神の御声を聞いていましたし、そのただ中で、神に感謝と賛美の礼拝を献げていたのです。

ここにダビデの信仰の素晴らしさがあるのです。彼は何か神の御前で目に見える立派な行いをし、偉大な神殿を建てるなどのことで神に認められようとしませんでした。なぜならば、ダビデは神こそ天地万物を造られた唯一の神であり、人の心の隠れているところまですべて見ておられる方、神は霊と真理をもって礼拝する人の礼拝と賛美を喜ばれることを知っていたからです。だからこそ、「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。(15節)」と告白することができたのです。

そうです。詩人ダビデは、自分自身の口の言葉が御旨に適うことを祈っています。これは、ただ口先の言葉だけではなく、外側に表れているすべての行動までもが、御心に適うことを願っているのです。これは主イエスが言われたように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)」の御言葉とつながっていますし、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)」と告白している使徒パウロの言葉とつながっていることが分かります。

私たちの神が、ダビデの時代、またパウロの時代、そして今日の私たちの時代においても、変わらず求められる礼拝者の姿があります。それこそ、「私たちの口の言葉と心の思いが御旨にかない、御前に置かれるいけにえとなりますように…」と願いつつ、主と共に歩む人の姿です。ハレルヤ!


2021.6.20 小さな泉の恵み

 ~プラスチックの脅威(きょうい)~

マイクロプラスチックという言葉を聞いたことがありますか?

プラスチックが粉砕されて小さくなったもののことです。今、そのマイクロプラスチックが海や川、陸を汚し、生きものや人への影響も明らかになってきています.

プラスチックは袋や容器だけでなく、一部の洗剤や化粧品など、いろいろなものに使われ、今も増え続けています。そして、それらのプラスチックは時を経て、マイクロプラスチックになり、汚染物質を運びながら、半永久的に海の底に積もったり海流に乗って世界中に漂ったりしています。

今、海などに50兆個のマイクロプラスチックが存在するそうです。悪い冗談でなく、後30年ほどすると、そこにいる魚たちよりも多くなるといわれています。

話しが変わりますが、今、世界終末時計は残り100秒です。紛争や温暖化などの環境破壊によって、時計の針はどんどん進んでゆくのでしょうか?

神様が創造され、極めてよかったと聖書に記されている美しかった世界は、何も対策しないと、あと数十年で手遅れになる程壊れてしまいます。

全ての被造物の創造主なる神様は、今どのような想いでこの世界を見つめていらっしゃるのでしょう。

生物にとって異物であるプラスチックの便利さに頼りがちな私ですが、未来を担うこどもたちに、より良い環境を渡すためにも、まずは小さなことから始めようと、動き始めたところです。

                             S.Y 姉

2021.6.13 牧師室便り

 ~ 各自の花を咲かせよう ~

「…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ6:27~28)」

教会の花壇には、久しぶりに名札をつけたマリーゴールドの苗が植えられました。まだまだ弱く小さい、いつ折れてもおかしくないような苗かもしれませんが、成長させてくださるのはイエス様ですから信仰をもって見守っていきましょう。

神に創造された人は、誰でもその人固有の美しさと尊さをもっています。数えきれない種類の花は、それぞれの美しさをもっているため、その花の美しさにランキングをつけることができないように、世界中の人々を人種、民族、国家、健康、性別、年齢、貧富の差などで、その尊さと美しさを区分することもできないはずです。何より、一人一人は「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ(詩編8:6)」、神の似姿に象って造られたわけですから、人を差別し、その能力や外側の美しさによって人を判断することは絶対赦されないことと言えましょう。

最近、思いっきり花を咲かせている人々がいます。アメリカのメジャーリーグで活躍している大谷翔平選手のことです。子どもの時からの夢で投手と打者の両方を最高レベルでこなせる二刀流の選手として成長し、やがてはメジャーリーグで輝く姿を見せるというのは大きなことです。また、先日ゴルファーの笹生 優花さんが全米女子オープンを、松山英樹さんが男子のマスターズを制覇するという快挙も見ることができましたね。また、テニスの最高峰に立っている大坂なおみさんのこと、その他、たくさんのアスリートたちが世界を舞台にして花を咲かせる活躍を見せています。

東京オリンピック・パラリンピックが一か月半後に迫ってきています。未だにオリンピックの賛否で騒がれている日本社会です。4年に一度のオリンピックにすべてを合わせて備えてきた世界の選手たちのことを思うと、ぜひ開かれてほしいと思いますが、コロナ危機の中で一人の命でも危機にさらすようなことがあってはならないため、心から最善の結論を見出せることを祈りましょう。世界中の人々が神より与った賜物を生かし、思いっきり花を咲かせますように…。シャローム!


2021.6.13 本日の宣教

 『 生命を守る福音 』(使徒言行録 16:25~34)

本日の聖書箇所は、生と死の問題を具体的に示しながら、死の誘惑を乗り越え、命を生きるためにはどうすればいいのかということについて教えています。とりわけ、あまりにも人の命が軽々しく扱われている現代社会の中で、命の光を照らす者として選ばれて生かされているキリスト者としての使命を確かめる時になりますように…。

本日の聖書箇所には、聖霊の導きの下、ヨーロッパ伝道の幻をいただいたパウロ一行が、ヨーロッパ伝道の最初の町として与えられたフィリピでの伝道旅行の話が記されています。いよいよフィリピの町に着いたパウロ一行は、祈りをささげながら伝道の働きをする中、占いの悪しき霊に捕らわれていたある女奴隷に出会い、彼女をキリストの御名で癒すという奇跡を行ないます。しかし、その女奴隷の占いによってお金を稼いでいた主人により訴えられ、不正の裁判を受けることになります。パウロとシラスは、激しくむち打たれ、両足には足枷をはめられて牢に入れられてしまいます。聖書は、その時の時刻を「真夜中ごろ」であったと教えます。・・・神の導きに従い、献身的に伝道を続けていたパウロの身に起きた理不尽な出来事、しかも彼らが暗く汚い牢に閉じ込められるということは受け入れ難いことだったでしょう。しかし、パウロとシラスは目の前にある状況を嘆いたり、悲しんだりすることはしませんでした。むしろ、彼らは「賛美の歌をうたって祈っていた」と記します。まさしく二人は最悪とも言えるような状況を神の臨在と栄光の場に変えていったのです。そしてその瞬間、「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き、たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまう」という驚くべき奇跡を目の当たりにします。

その時、牢を守っていた看守は、牢の戸が開いているのを見て囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。なぜならば、当時は、囚人が脱獄したら、その牢を監視していた看守が、逃げた囚人が受けるはずだった処罰を代わりに受けなければならなかったからです。恐らくその牢には多くの囚人がいて、その中には死刑囚もいたでしょう。ですから、どうせ苦しみの中で処罰を受け殺されるのであれば、自ら命を絶った方がましだと思ったことでしょう。この看守の姿は、生命を軽んじる現代社会の状況にとても似ています。とりわけ、一年半も続いているコロナ危機の中、様々な理由で自殺に走ろうとする人々の姿も見えてきます。また、ミャンマーでの権力者による虐殺、イスラエルによるパレスチナ自治区への爆撃、また人種差別による無差別殺傷など、命が軽く扱われてしまう世界の現状が重なって見えるのです。 

聖書は人の命ほど尊いものはないと教えます。神は罪のうちに死んでいく私たち一人一人を救うために、独り子イエス・キリストをこの世に送り、十字架の上で死なせるほど、人の命は何にも代えがたい尊いものなのです。しかし、悪しきサタンは人々を死と滅びの方へ引っ張って行こうと企みます。その時、死の力に立ち向かうパウロの姿こそ、今のキリスト者と教会に求められる姿勢ではないでしょうか。パウロは自殺しようとする看守に向かって叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と。・・・そうです。神の人は死に向かう人の命を守るため最善を尽くします。そして、命の福音をその看守に告げます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。(16:31)」…主イエスの福音は人を生かします。死の力を打ち破り、生きる道を示すのです。ハレルヤ!


2021.6.13 小さな泉の恵み

 まず、教会の兄弟姉妹に感謝してます、個人的な事でマーティを飼うことになりましたが、教会に毎週連れて来れてまた、皆さんが嫌な顔を出さずにいつも、マーティを受け入れ可愛いがってくれる事を本当に心から、感謝してます。マーティは、家で片付けもしない、食べて、寝て、遊んでいるだけ、また、私に沢山の仕事を増やしてくれます、本当に何の役にも立たないです、でも、私はマーティが元気でいるだけでも幸せです。

マーティを見て思います。まさに、神様は私が何の役にも立たないけど、神の子どもとして、いつも神の御前にいるだけで、喜んでくださると思っています、また、私だけではなく、神を天のお父さんと信じる一人一人にも、同じであると思っています。

心から感謝しています。世界の全てのものを通して神の心を私たちに見せてくださる神様、愛します。

                         A.S 姉

2021.6.6 牧師室便り

  ~ 主と共に歩む ~

「エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは             三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。(創世記5:22~24」

中学生になった娘が毎朝、20分ほど歩いて通学していて、2ヶ月が経ちました。教会周辺の子どもたちは距離的に近いH中学校に進学するのが一般的でしたが、“少人数の学校がいい!”という娘からの要望があって、少し離れているO中学校に進むことになったのです。娘曰く、“毎日長い距離を歩くから運動にもなるし、健康にもよい気がする。”ということでした。…中学生になってちょうど一か月が経ったある日、娘に尋ねました。“スルギは通学の20分間、何をする?イエス様が傍らで共に歩まれることを感じながら歩いているの?”と。・・・父親の問いかけに最初は少し戸惑いながら、“中学生活が楽しくて、イエス様のことを考えたり、イエス様を身近に感じようとしたりすることはなかった。”という答えが返ってきました。…“スルギ、君はバプテスマを受け神の子とされ、聖霊が宿られる神殿となったことを忘れないでね。だから、学校に行く道端で、また、自分の席に座ってから一日の学校生活をイエス様に委ねる祈りを献げ、何かある度に聖霊様の助けを求めるんだよ。そのようなことが身につくともっと楽しくなるだろう。それがクリスチャンの姿なんだよ!”と声をかけました。その後、娘から“ずっとはできないけど、イエス様にゆだねる祈りをささげ、聖霊を身近に感じようと心がけている”という証しを聞いています。

神の家族の皆さんは一日を過ごす中で、インマヌエル(主われらと共におられる)の神を身近に感じていますか。聖霊との楽しい交わりの時間を確保していますか。…私たちの信じる神は、生きておられ、神の子どもたちと人格的な交わりを求められるお方、愛し尽くされるお方です。「300年も神と共に歩んだ人、死を経験しないで、天に移された」神の人エノクを覚えます。神と共に歩む人の特徴は、たとえ嵐が襲ってきても、地震が起きても、天と地が消え失せても、新型コロナウイルスのような災難に見舞われても動揺しません。主がその手をとらえてくださるからです。シャローム!


2021.6.6 本日の宣教

『  主イエスの宿るところ 』(マタイによる福音書9:9~13)

主イエスは家を持たないお方でした。まず、天の御国を離れ、馬小屋の飼い葉桶で生まれた時から、主イエスには宿られる場所はありませんでした。また、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と願う律法学者に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われた主イエスでした。なるほど、天地万物の創造者であり、すべての者の「主」であるにもかかわらず、御自分のために枕する所も備えられないお方でした。それは、ゴルコタの丘で十字架にかかり、死なれる時まで同じでした。

しかし、主イエスには決まった家はありませんでしたが、御自分が訪ねられる場所を、平安のうちに休まれる場所とされたことを、聖書は教えています。本日の10節の「イエスがその家で食事をしておられたとき」の意味は、「マタイの家の中で」という意味より、「マタイの家を家庭として」という意味となります。すなわち、ファリサイ派の人たちは当時の罪人と、烙印を押されていた徴税人マタイの家に入ることすら避けてしまうほどだったのに、主イエスはあまりにも簡単に、当時のイスラエル社会において禁じられていた、徴税人や罪人と一緒に食事をされ、その場所をご自身の家庭のように造り変えられたのです。

同じように、主イエスはお生まれになった馬小屋の飼い葉桶を宿るところとされ、激しい突風が起こり、大波に呑み込まれそうだった舟をご自身の宿るところとして眠っておられ、ザアカイの家、ラザロの家を、さらに汚れた場所であったゴルゴタの丘を主イエスの宿るところとされたのです。そうです。主イエスはどんな場所であっても、その場所を神の国、神の平和が成就する場所に変えられました。また、主イエスが宿るところは、ご自身だけのための場所でなく、その場所に共にいる人々、主イエスを慕い集まってくる人たちにとっても、人知を超えた平和を味わえる場所、恵みの場所に変えられたのです。主イエスがおられるその場所が平和な場所、神の恵みをいただく場所、希望の場所なのです。汚い馬小屋が、罪人たちの家が、病人たちで溢れていた池の周りが、また、ゴルゴタの丘が、ただ主イエスがその場所におられることで、神の聖なる家、主イエスの宿るところに変えられるのです。

今も同じです。主イエスがおられる場所、神の臨在を感じ、神の御心が成就され、神の義が求められるところは聖なる場所、神の家と呼ばれるようになるでしょう。人間的な目には汚い場所、汚れた場所、罪人、病人、貧しい人、弱い人が集まっているところに、主イエスが共におられ、御手に触れられることですべては聖なる場所に変わり、主イエスが宿るところに変わるのです。

神の家族の皆さん、あなたの家は主イエスが宿られる場所ですか。あなたの体は主イエスの宿られる神殿でしょうか。主イエスが喜んで宿られる神の家族お一人お一人、またご家庭でありますように…。ハレルヤ!   


2021.6.6 小さな泉の恵み

 いつも同じ事ばかり書いていますが、お許しください。

私の毎日の生活は、平凡な農家の老人の毎日です。要するに、特にすぐれた特徴のものではなく、普通の農家の老人に過ぎないと思っております。時折地域の老人会の行事等に参加しておりますが、コロナの流行が終息するまで行事はお休み。

毎日自宅の周囲の除草や農地の草取りに追われております。町の65歳以上のコロナワクチン接種の申し込みも、第一回の申し込みを電話でしましたが、もう満員でダメでした。友人の言うには、電話の申し込みは時間がかかるのでダメとのこと。ほとんどの方はインターネットで、受け付けの時間と同時に操作での予約とのこと。まあ困ったものだ。私は残念なことに、インターネットを扱ったことはないのである。

結局若い人にお願いして、第2回の申し込みに何とか無事予約を確保。困った私です。若い頃にもっと勉強して機械のことなども勉強しておけばよかったと、今は後悔しております。現代の時代についていけなくなりました。

ハイテクな世の中になるとは思いもよらないこの世の中。英語の勉強もしておけば良かったと今後悔しても、「時期をのがして用をなさない。」の教訓を心にもう一度思いました。

神様の言葉として肝に銘じました。

                         A.M 姉

2021.5.30 牧師室便り

  ~ ワクチンが不安な方々へ ~

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。(マラキ3:20)」

新型コロナウイルスのワクチン接種が徐々にではありますが、医療従事者と65歳以上の方々へ進められています。私の周りにもすでにワクチン接種が終わった方もいれば、接種の日が決まっている方々もいます。もちろん、50代の私までにはかなりの時間を要するとは思いますが、実際、近くまで来ているような気がしています。

ところが、中にはワクチンへの不安のため、接種を取り止めになる方や、なかなか決心がつかない方もおられることを知っています。もちろん、早急に作られたワクチンであるため、100%信頼を寄せることはできないでしょう。しかし、ワクチン接種をしないまま、コロナ感染の不安で長い時間苦しむよりはましであること、また、すでに世界中の10億人以上の人が接種を終え普段の生活に戻りつつあること、その他、ワクチン接種を終えた人とワクチン接種を拒否した人との間に出来てしまう葛藤や社会的差別の懸念などを考えると、人知を超えた平安を与えてくださる聖霊の助けを祈りつつ、ぜひワクチン接種を受けていただきたいと思います。

今現在もコロナのゆえに世界中でたくさんの人が死んでいます。「ひとりの命より大切なものはない」と聖書は教えます。自分の命を守るためだけでなく、隣人の命を守るためにもワクチン接種ほど力を発揮することはありません。もちろん、私たちにはすべてを治められる父なる神がおられますが、神はコロナを通して、また、ワクチンを通して語りかけておられることも覚えましょう。…50代の私の順番までには、まだまだ時間がかかると思いますが、なるべく早くワクチンを接種し、神の家族と手と手を合わせたい、病床の神の家族を訪問したい、また、韓国の私の母を抱きしめたいと願っています。神の御翼には癒す力があることを信じ、人知を超えた平安を周りの方々に示しましょう。シャローム!


2021.5.30 本日の宣教

『 聖霊による再創造 』(詩編51:12~14)

聖書は「神の御心に適う人」という言葉を用いて最も偉大なる信仰の人としてダビデ王を挙げます。その反面、聖書はいかに偉大な人であっても、その人の罪と弱さを赤裸々に明かすことで、神の前に完全な人は一人もいないことを教えています。その通り、聖書は、偉大な神の人ダビデが、他人の妻であったバト・シェバに姦淫の罪を犯した後、その夫のウリヤを死に追いやる罪人として紹介します。そのダビデの罪に対して、神は預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を告発されます。預言者ナタンの言葉を聞いたダビデは直ちに神の前に進み出、自分が犯した罪を悔い改め始めることになります。詩編51編は、姦淫と殺人罪を犯してしまったダビデが、神の御前に進み、真心から罪を悔い改め、すべてを新しくされる神の恵みを乞い求める懺悔詩となっています。

人が神に求めるべき最も大いなる恵みこそ、罪を赦していただくことであり、赦されたことを心から信じることでしょう。人は自らの罪を清くすることはできません。罪を赦すことのできる方こそ、聖なる神お一人です。ダビデは自分の罪を一つ一つ告白し、赦しを求めます。また、その罪をぬぐい、生き方を変えていただくことを祈ります。もちろん、人は自分が犯した罪を、自分自身の力で解決しようといろいろと試み悩みますが、すべての罪を赦し清くするのは神にしかできないことを知らなければなりません。そのことをよく知っていたダビデは、本日の御言葉を通して、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(51:12)」とすべてを新たに創造される神の御手にゆだねます。とりわけ13節の言葉でダビデは、罪を犯したことによって訪れるべき最も恐ろしいことを告白します。「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」…ここで、「聖なる霊を取り上げないでください。」とありますが、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに与ったキリスト者にとって、聖霊様が取り去られることはありません。しかし、旧約時代の聖霊は罪のあるところにはおられませんでした。その人がたとえ、偉大なる信仰者のダビデであっても、彼が罪を犯し汚れた生活のままであれば、聖霊は彼から去られるしかありませんでした。実際、聖霊が去られるということを経験した人として、サムソンとサウル王がいます。ダビデ王もそのことをよく知っていたと思われます。「聖霊を取り上げる」ということほど信仰者にとって悲しく恐ろしいことはないのです。

神の家族の皆さん、主イエス・キリストの贖いによって罪赦され、聖霊の神殿とされたことを讃美しましょう。聖霊は主イエスの十字架の血潮のゆえに新しく創造され聖くされた者を離れることはなさいません。しかし、聖霊の神殿とされた者が罪を犯してしまう時、聖霊は深く悲しまれることを覚えましょう。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。(エフェソ4:30)」、また、「“聖霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“聖霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)」にあるように、聖霊は神の子どもたちの罪も、弱さも、様々な心の葛藤もご存じであって、人格的な交わりの中で執り成してくださるお方であるのです。

ペンテコステ(聖霊降臨)の恵みをいただいた私たちは、聖霊の臨在を日々経験しながら、聖霊の再創造の働きに自分自身をゆだね、罪の誘惑と心の葛藤と弱さに打ち勝てる恵みを生きたいものです。ハレルヤ!


2021.5.23 牧師室便り

 ~ 聖霊によって語るために悩む ~

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)」

ペンテコステ、おめでとうございます!!!聖霊が初代教会の上に降られた日から、キリストの教会と一人一人のキリスト者は聖霊の働きによって日々新たにされる恵みと感動に包まれて生きるように変わりました。まさしく、2000年間の教会の歴史こそ、聖霊の歴史であったわけです。初代教会からローマカトリックと東方教会の分裂、その後、中世の暗黒時期を経て、宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生と現在に至るまで、聖霊は時に適って教会の進むべき道を示され、働き人を起こされ、教会に世界を変える力を与えられたのです。そうです。ある教会が生きているか否かを知るためには、その教会が聖霊に満たされ、聖霊に導かれているのかということが判断の基準になるでしょう。とりわけ新型コロナウイルスをはじめ、世界的異常気候による被害、人種と民族、国家の間に絶えず繰り広げられている戦争と殺し合いの終末的兆候に覆われている世界的状況の中であるからこそ、聖霊の働きによらなければキリスト教会とキリスト者に委ねられている使命を果たすことはできないはずです。

そのため、小泉町教会の牧師として、常に聖霊に満たされることを望みつつ、何より御言葉を語るための黙想と研究において聖霊の知恵と助けを乞い求めています。しかし、自分の弱さと愚かさのゆえに聖霊の教えと導きに気づかず、父なる神の御心を正しく伝えていないことはないだろうかと悩むことも多々あります。「御言葉を語る」という働きは牧師としての一生の喜びであり、感動であり、また課題であり、重荷でもあると言えましょう。それほど、牧師個人の人間的能力や努力は聖霊の助けがなければ、何の意味もなくなってしまうのです。牧師になってもう20年。しかし、一度も緊張せずに講壇に立ったことはありませんし、これから主に召される日まで御言葉を語るための緊張感と悩みは続くでしょう。神の家族にぜひお祈りをお願いしたい。「閔牧師が聖霊によって御言葉を語れるように」と。…シャローム!


2021.5.23 本日の宣教

 『 真の平安を得るために 』 (テモテへの手紙二4:1~5)

 ペンテコステおめでとうございます。主は常に私たちと共におられ日々の生活は恵みに満たされています。私は前回、農園を離れ転職すると申し上げましたが、諸事情を考慮し再び農園に戻ることになりました。聖書には農夫が度々登場します。農業は神様からの恵みに満ち、肌で感じられとても快適です。コロナ禍にあって家族や身近な者への伝道が求められています。そこで日頃感じ思うことをお話致します。

 成長する会社や組織には作業の標準化とそれを正しく教える教育係のような者が必要とされます。仕事の内容を全て習得した上で教えられる側の習得度を見極める洞察力が求められます。わかば農園は寄合所帯のようなところでそれぞれのやり方があるので、聞く人によっては混乱することがあります。自由度が高いと言えなくもないのですが、作業の効率化が望まれます。クリスチャンは神様から御言葉を人に伝えるように求められています。世の教育係です。人はひとつの事象に違った反応や解釈を示すことがあります。経験や性質が違うからです。御言葉に我流はありません。読んだり聞いたりした時に厳しく感じることもあります。だからといって受け入れやすいように変えることはできません。御言葉にはそれ自身に力が有り、私たちの知恵は求められていません。更に欠いてはならないことが有ります。それは愛をもって語るということです。マルコによる福音書にイエス様と金持ちの男の話があります。ある人がイエスに駆け寄りひざまずいて「永遠の命を受け継ぐには何が必要ですか?」と尋ねます。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟を知っているはずだ」とお答えになります。すると男は「そうゆうことはみな、子どもの時から守ってきました。」と言います。主イエスは彼を慈しんで言われます。「あなたに欠けているものがひとつある。持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」イエス様は彼の性質を全てご存じで的確に急所を指摘されます。私たちは神ではありませんから、話す相手の全てを理解することは出来ません。しかしイエス様が現して下さったように相手を大切に思い接することが必要です。愛が無ければどんなに正しいことを言っても相手の心に響きません。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛が無ければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントの信徒への手紙一13:1)そして諦めず何度も繰り返し願い求めるなら聞いてくださるといわれます。

 私たちは主イエスによって永遠の命が与えられました。しかし周りには救いを得ていない方々が大勢います。愛する者が滅んで真の平安でしようか?目の前の一人に神様の愛が届くように自らの愛が強められますように。御言葉を正しく理解できる知恵があたえられますように。御心を受け入れる謙虚さが備えられますように。主の栄光がとこしえにありますように。

                                                                      S.Y 兄


2021.5.23 小さな泉の恵み

 「カエルが出会ったキリスト」

ある日。一匹のカエルが教会に忍び込みました。人間があがめるイエス・キリストとは、どれほど偉い神なのか、見てみたかったのです。ところが、カエルが見たのは、裸で木に刺さって血を流し、死にかけている人の絵でした。「こんな弱そうな神がキリストなのか?」

そのとき、カエルは思い出しました。『モズのはやにえ』。あの恐ろしい鳥にさらわれ、木の枝にプスっと刺されて、そのまま放置され苦しみながら死んで干からびてしまう、カエルにとってはもっとも忌まわしい死に方。目の前のキリストの姿がそれと重なりました。

「このキリストは、おれたちだ...!」

人間は、賢くて力も強く、道具や武器を使って世界を支配している。その人間がひれ伏して拝む相手は、カエルのように裸で、苦しみながらただ死んでいく神。おれたちの死を死んでくれるキリスト。カエルは心の底から泣きました。

おれたちカエルは裸。ツノも牙も爪も、鱗も無い。鳥に食われ蛇に呑まれ、車に轢かれて死んでいくおれたち、でも神が、神がおれたちのように死んでくれるのだから、おれたちのいのちも死も、決して無駄ではないのだ。そう思うと、心が震えました。短い命でも、カエルなりの最善を生き抜こうと、外に飛び出していくカエルでした。 

                          S.M 姉

2021.5.16 牧師室便り

 ~ コロナがもたらした恵み ~

「わたしは、…貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:11~13)」

試練はキリスト者にとってつきものです。しかし、キリスト者の中でも、多くの人はご利益を求めますし、試練がやってくるのを喜ぶ人はあまりいないでしょう。でも聖書が教える試練は災いというより、神の民を訓練し、神の栄光を表す時によく用いられていたことを教えてくれます。目を覚ましているキリスト者は試練が訪れる時、神からの訓練の時、恵みの時だと思い、自らを奮い立たせ、“いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する”究極のキリスト者の生き方を貫こうとするでしょう。使徒パウロは、貧しく暮らすすべも、空腹であっても、物が不足しても、いついかなる場合にも対処する秘訣を得ていると宣言します。パウロに訪れた試練は、パウロをさらに強くし、神の栄光と力へと導く役割を果たしてくれました。それでは、新型コロナウイルスといった災難を前にしている私たちへの神の御計画はどこにあるでしょうか。

コロナ時代が始まってから、小泉町教会はYoutubeやFacebookをなど のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を用いて礼拝の映像を全世界に配信しています。今までは試行錯誤を重ねながら主日礼拝の映像を編集したものだけを配信してきましたが、コロナ時代が長引くことや、各地に散らばっている神の家族の要望もあって、新たな試みとして、今までどおりのYoutube配信と並行して、Zoomを利用して主日礼拝と諸集会のライブ配信を始めることを決めました。毎月、支出は発生しますが、各地に散らばっている神の家族が、ライブで礼拝の恵みに与り、聖書の学びや祈祷会に集えることによって、神の家族の群れの一員であるという喜びと感動を味わうことができれば、それ以上の幸いはないでしょう。父なる神が万事を益に変え、救われる民を起こしてくださいますように…。これこそ、コロナがもたらしてくれた恵みではないでしょうか。シャローム!


2021.5.16 本日の宣教

 『 毎日、その日の恵みを降らせる神 』 (出エジプト16:1~5)

イスラエル民族にとって、エジプトを出た後の荒野での40年間は人間的な目から見ると、試練の時ではありましたが、信仰の目から見ると、カナンの地に相応しい聖なる神の民を作るための神による訓練の時であったと言えます。荒野の試練は“神がどのようなお方なのか”を知るための時であって、インマヌエルの神の臨在を、身をもって体験できる恵みの時であったのです。とりわけ、長い間、奴隷の習慣が身についていたイスラエルの民を変えるために荒野は最高の場所であったわけです。

聖書は、エジプトを出たイスラエルの民が早速、水のないことと食べ物がないことで不平を述べ立てたことを記します。もともと彼らが神に叫んでいたことは、エジプトでの奴隷の身からの解放であったはずです。神が彼らの叫びに答え、御業によって彼らを奴隷の身から解放してやりますと、解放の喜びと感謝は一瞬のうちに消え失せてしまい、“水がない!食べ物がない!”と不平を述べ立て、さらに“エジプトの方がましだった”という嘘まで作り上げてしまう姿を目の当たりにします。まさしく、目に見える状況に左右されてしまうイスラエルの民の姿であり、私たちの姿です。

そこで神は、エリムの水を、また毎日の糧として朝には「マナ」を、夕方には「うずら」を与えてくださいます。とりわけ「マナ」には、神の民を試みるための特別な掟が定められていたことを教えられます。まず、毎日、「朝毎に自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルを集める」ということでした。すなわち、神は毎日、神の民に一日分の糧を恵みとして備えてくださるということでした。欲張って二日分を集めたとしても、残りの分は虫がついて臭くなってしまったことを聖書は証言しています。続けて、「それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るべきだ」と教えます。ここにこそ、神の国の法則が示されていると言えます。マナ(神の恵みの糧)は多く集めた者も少なく集めた者も足りないことがないように、それぞれの必要に応じて、かつ、みんなが均等に分け合うために与えられたものでした。神の御前では、すべての人が平等であり、差別があってはならないことを教えているのです。イスラエル共同体の中には体が弱く、マナを集めることができない人もいたでしょう。また、子どもも、異国人もいたはずです。そこで神は、毎日、すべての人がそれぞれ必要に応じて分け合うべき糧としてマナを与えてくださったのです。真に神は、すべての者の神であることを心に刻みましょう。特に、資本主義において、弱肉強食という欲望の論理が優先され、日に日に貧富の差が広がる世界にありながらも、荒野のマナを通して示された神の国の生き方を広める神の家族であるように…。最後に、「マナ」は安息日のために備えられた糧であると教えます。もともとマナは、日が高くなると溶けてしまう特徴をもっています。しかし、安息日のために集めた二日分に限っては、臭くならず、虫もつきませんでした。これには、マナの安息日の掟を通して、神を礼拝することの大切さを教え、創造の神が与えられた安息を、すべての人が味わう恵みとして示しているのです。人はパンによって生きるのでなく、神の口から出る言葉によって生きるのです。

新型コロナウイルスという荒野の時を過ごしている私たちです。そして、神は荒野での毎日、マナの恵みを教えられたように、コロナ危機の日々、すべての人に毎日の恵みの糧を備えてくださいます。ぜひ、欲望が勝る世の価値観ではなく、すべての人がそれぞれ必要に応じて分かち合う神の国の価値観を選ぶ神の家族あるように…。ハレルヤ!


2021.5.16 小さな泉の恵み

 先日テレビで名古屋入管の収容所施設で3月6日に亡くなったスリランカ人ウィシュマ・サンダマリさんのことで悲しみと人権を無視した日本の法務省に対する怒りで心を痛めています。ウィシュマさんは、日本での英語教師を夢見て留学し、学校に通えなくなり在留資格を失い、8月に収容されました。ウィシュマさんは同居していたスリランカ人の男性から暴力(DV)を受けていてスリランカに帰ることもできず、長期にわたる収容所生活で衰弱し亡くなりました。病院で点滴を受けることを訴えていたにも関わらず、入管収容所の職員の方々は衰弱していく人を見ていて何かできなかったのかとも思わされます。

そもそも閔丙俊先生のお母様の日本滞在の申請の時もそうですが、日本の入管制度を始め外国人受入制度自体が極めて排他的で、昨年度の難民認定率は、この数年では0.1%~1.2%に過ぎません。日本では、技能実習生を始め166万人もの外国人労働者を必要としているのに、難民認定率が欧米の100分の1程度です。毎年の様に収容所では病気や自殺などで亡くなる方がある中で、SDGs「誰一人取り残さない」ということが実現できるように自分のできることを祈り求めます。

                             S.S 兄

2021.5.9 牧師室便り

  ~ ひび割れを補修する人 ~

「人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。(イザヤ58:12)」

先週は礼拝堂と牧師館の外壁でひび割れが見えるところを補修しました。もちろん素人であったため、本格的な補修作業はできませんでしたが、自分でできることを行いました。これからも余裕がある時間を補修作業に用いることにしました。小泉町教会の礼拝堂が立っているところは、もともと沼地を埋め立てた地であると言われています。そのため、地盤が少し弱いかもしれませんね。今の礼拝堂が立てられてちょうど40年が経っています。築40年というと、地面や建物にいろいろとひび割れができたり、変形が生じたりすることがあってもおかしくは思わないでしょう。大切なことは、私たちでできるだけ礼拝堂を綺麗に管理しながら使っていくことだと思います。もちろん、突然の自然災害や建物の限界が来れば、建てなおすことにもなるでしょう。

同じく、キリスト者には、ひび割れが生じ、崩れかけている家庭と社会、国家、世界の正義と平和を立てなおす使命があることを覚えましょう。政治、教育、文化、人権など、各自が属している国と社会のために執り成しつつ、聖書に基づき、聖霊の力をいただいて変えていくことです。毎日、洪水のように流れるニュースに耳を傾けながら、心に示される課題をもって神の御前にひれ伏し祈ることです。

神の家族の家庭内にひび割れが起きているところはありませんか。また、私たち神の家族の群れの中にはひびが入っていませんか。願わくは、神の家族お一人お一人が行く先々で、廃墟を築き直し、礎を据え直し、城壁の破れを直し、道を直す者、互いに力を合わせ神の国を建て上げる群れとなりますように…。シャローム!


2021.5.9 本日の宣教

 『二人のお母さんに学ぶ 』 出エジプト2110)          

母の日礼拝、おめでとうございます!!!

イスラエルの歴史の中で、二度と現れなかった預言者として、また、神と顔と顔を合わせて語り合い、まるで友のように親しく交わっていた人。また、偉大なるイスラエルの指導者としてイスラエルの民を約束の地へと導いた一人の人がいました。その人の名前は「モーセ」。

本日与えられている御言葉には、エジプトのファラオ王によるイスラエルの新生児の男の子をすべて殺せ!という命令が下されている危機的状況の中でのモーセの誕生、そしてファラオの命令に逆らうことで命の危機にさらされながらも必死でモーセを救うために働いた女性たち、そのすべてを計画され導かれる神の姿が描かれています。とりわけ、神は御業を成し遂げられる時、必ず選ばれた人を通してなされるということを確かめることができ、また、興味深いことは、モーセを除いてのすべての登場人物が女性であって、その中でも二人のお母さんの活躍が際立っています。

まず、モーセの産みの母の信仰と献身の姿に心打たれます。本文では、彼女について、「レビの家にめとられたレビ人の娘」という紹介をしますが、後に分かる母親の名前は、ヨケベド(出6:20)であることが分かります。「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。2節)」・・・ ここで、「かわいい」という言葉は、ヘブライ語で「トーブ」と言います。この言葉は、創世記1章で、神が天地創造される時に使われた「良し」という言葉と同じ言葉です。すなわち、モーセの母ヨケべドは、生まれてきた赤ちゃんの姿を見て、神が天地創造をされた時、とりわけ人を創造された時、「極めて良かった」という喜びと感動に包まれていたことが分かります。それだけではありません。彼女は、その赤ちゃんを宝物のように大切に隠しながらその命を守ろうとしていました。3ヶ月という間、最後の最後までできる限り生まれてきた赤ちゃんを守り抜いたのです。それだけではない。パピルスの籠を用意して、しっかりと防水をしてから、ナイル河畔の葦の茂みの間に置くという、母親としてやるべきことをしっかりやってから神の助けと御業を期待する産みの母ヨケべドの信仰が描かれています。

続けて、神はその信仰の答えとして一人の人を備えてくださいます。その備えられた一人の人こそ、モーセの育ての母であったファラオの王女でした。イスラエルの生まれてくる男の子を全部殺せ!と命じていた父親のファラオとは違って、王女は「泣いている赤ちゃんを見てふびんに、可哀想に思う心」の持ち主でした。もちろん彼女も、父親のファラオ王が出していた児童殺害の命令を知っていたはずでした。ですから、彼女の前で泣いている赤ちゃんは「死ぬべき存在」であることも分かっていました。しかし、彼女は赤ちゃんの姿を見てかわいそうに思い、その赤ちゃんを救おうと決心したわけです。ここに神が用いられる人に求められる最も大切な品性として「人を憐む」ということが強調されています。神はいつの時代にも「一人の命への深い憐みをもって関わる人」を用いられ、その人を通して御業を成し遂げていかれることを覚えましょう。

愛が冷え、子どもたちが無残にも殺されている現代社会です。神は星と輝く二人のお母さんとの共同作業を通して「神の人モーセ」の物語を完成させられたように、小泉町教会のお母さん方を用いてくださいますように…。

2021.5.9 小さな泉の恵み

今年の3月末日をもって、長年働かせてもらっていた職場を定年退職いたしました。

できれば来なければいいとも、指折り待っていたとも言える、331日に、劇的なヒロイン劇を想定していた乙女な私でしたが、現実は、母の入院という大渦巻のすぐ近くで、心も体も引っ掻き回され、ただバタバタと その時を過ごしました。

それが良かったのか、不幸だったのか、わかりませんが、人生のギアチェンジを不得意とする私には、ちょうどよかったのかもしれません。

4月からは、時短勤務という勤務形態をとり、空いた時間には教会の行事に参加し、母から声がかかったら、“ラジャー!”と走る…という生活になりました。愚痴れば、きりがありません。いろんな試みに、正直なところ凹み切っている今日この頃ですが、閔先生や教会の兄弟姉妹と話す時間も与えられ、91歳の母は、元気を取り戻し(。・・)_、私も、気持ちを上向きに切り替える段階にきているようです。

いつも、最善をそなえていてくださる主に感謝します。みなさん、励ましてくださり、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。

                          K.I 姉