2020年5月24日日曜日

2020.5.24 本日の宣教



『 キリストの苦難の欠けたところを満たす 』 (コロサイの信徒への手紙1:2425)


キリスト教は「苦難の問題」について長い間、戦ってきた宗教です。キリスト教信仰において「十字架の苦難と復活の栄光」は中心を占めていると言えましょう。使徒パウロは「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」と告白し、「十字架だけを誇りましょう」と証しているほどでした。

 しかし、人間の苦しみの中には悔しい苦難もあり、理解できない苦難もあります。キリスト教は、主イエスが受けられた苦しみ、十字架の苦しみ、罪のない者に注がれる苦難、納得のいかない苦難の神秘に注目します。

 本日のコロサイ1:24で、パウロは次のように告白します。

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」 

「キリストの苦しみの欠けたところ」と聞くと、まるでキリストの苦しみがなにか物足りないような、主イエスの残してしまった部分を私たちが埋めなければならないような意味に聞こえてしまいます。それでは、イエス・キリストの苦難は本当に物足りなく、不十分なものでしょうか。…いいえ、キリストの十字架の苦難は決して欠けることも、足りないこともありません。私たち人類を救うためのイエス・キリストの苦しみは満ち溢れています。主イエスが十字架の上で最後に叫ばれた「すべて成し遂げた!」という言葉を覚えているでしょう。

「キリストの苦しみの欠けたところ」を理解するためには、まず「キリストの苦しみ」について理解しなければなりません。パウロはⅠコリントの信徒への手紙で次のように語ります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(1:5)   パウロはここでも「キリストの苦しみ」という表現を使っています。しかし、キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるとはどのような意味でしょうか。ここでの「苦しみが満ち溢れる」という言葉には二つの意味があります。まず、「キリストご自身が受けられた苦しみ」が満ち溢れているという意味と、次に「キリストのために私たちが受ける苦しみ」が満ち溢れるという意味なのです。ですから、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、「キリストが成し遂げられなかった苦しみ」ではなく、「キリストのために私たちに残された苦しみ」すなわち、私たちキリスト者が積極的に受けるべき苦しみという意味になるのです。

 私たちの前には新型コロナウイルスとの長い綱引きが残されています。私たちの受けるべき苦しみはまだ終わっていません。しかし、私たちの苦しみのただ中に主イエス・キリストの苦しみが満ち溢れ、私たちを慰め力づけてくださるはずです。願わくは、キリストの苦しみの欠けたところを神の家族お一人お一人の身をもって満たしていきますように…。そのため、常に聖霊との交わりを通してインマヌエル信仰の恵みに満たされましょう。ハレルヤ!

2020.5.24 小さな泉の恵み


新型コロナによって命の危機や生活の危機など、数々の不安や困難に直面している沢山の方々が救われるように祈ります。

Stay home(ステイホーム)が長く続く中で、「今生かされている」という感謝の思いと、信仰の原点に立ち返る時と場を与えられました。長いStay homeにより、会えない友人達や離れている家族、姉達とのSNSを通して「おはよう」「お休み」と挨拶したり、ボケたことを言って爆笑されたり、励まし合ったり、食事の写メを交換したりと、会えない時よりも身近にいるように感じます。
数年来の課題で、なかなか踏み出せずにいたウォーキングを、「私は今から出ま~す」「行ってらっしゃ~い」と友人達の声掛けに力をもらいスタートすることができました。今日も遠く離れた場所から「ほら、いくよ~」と声をかけてくれています。一人じゃないんだという温かい想いが胸に広がって幸せな気持ちになります。コロナ禍の中で、大切なメセージと共に、一人一人に届く豊かな恵みを与えて下さている主に感謝します。       
                      S.Y 姉

2020.5.17 本日の宣教







『 主に喜ばれる礼拝者 』 (詩編24:36)

  一か月半、私たちは社会的距離をとり、人の命を守るために礼拝とすべての諸集会を休み、共に集い、顔と顔を合わせての共同体の礼拝はできませんが、各自がそれぞれの生活の場にあって「生きた礼拝者」としての歩みを続けています。

 先週私は、神が最も大切にされていることが一人の人の命であって、最後の一人までも救うことが神の愛の熱心であって、ビジョンであることを話しました。そこで私たちも「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけながら生きることでイエス様に似た者としての日々を歩むことを確認したわけであります。

 そこで本日は、生きた礼拝者とはどういう人のことを言うのかということを分かち合いたいと思います。とりわけ共同体としての礼拝ができない中で、どのようにして生きた礼拝者となれるのか、神が望まれる生きた礼拝者とはどのような人なのか、について考えてみたいと思うわけであります。

 主イエスはサマリアの女との対話の中で、「サマリアの聖なる山か、エルサレム神殿」と言った礼拝の場所が大切ではなく、「霊と真理をもって生きた礼拝をささげる礼拝者」が求められると教えられました。実際のところ、「生きた礼拝者」を求める神の熱心は旧約聖書から新約聖書まで一貫していることが分かります。しかし、多くのキリスト教会とクリスチャンは、サマリアの女のように、常に何か目に見える礼拝堂、礼拝形式を重んじ、それによって信仰の敬虔さと霊的成熟の基準にしようとする誘惑に立たされているのかもしれません。

 本日の詩人は、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」3節)と尋ねます。そして自らの言葉で応答します。それは、「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。」(4節)だと。ここで詩人は、神が祝福する礼拝者の主な基準として、「心、魂」を挙げています。何か目に見える社会的価値、聖なる信仰形式に基準を置くことを拒みます。詩人は主に喜ばれる人のあるべき基準について迷いがありません。主が見ておられるのは、その人の清い心と魂、そこから出る善い行いであって、決して人間社会で求められるような地位や権力、お金などではないのです。この詩人の信仰姿勢は旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、アモス、ホセア、ミカなどの預言者たちを通して確かにされ、主イエスによって形式的な神殿礼拝は打ち砕かれることになります。その後、主に喜ばれる礼拝者のあるべき姿は使徒たちを通して強調され続けます。…使徒パウロは、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 (ローマ12:1)と旧約と新約聖書で一貫して語られた真の礼拝と生きた礼拝者のあるべき姿をうまくまとめています。
  「新型コロナウイルスとの共存」という時代を歩むことになる私たちです。ぜひ、神の家族お一人お一人が主に喜ばれる礼拝を献げる礼拝者となりますように…。この世に倣うことなく、常に心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる人が生きた礼拝者なのです。小泉町教会はこのような礼拝者を生み出す群れになるべきです。ハレルヤ!

2020.5.17 小さな泉の恵み


B29は見えるけど、コロナは見えないから気をつけないとね。」防空壕世代がつぶやきました。「でも、ご飯も食べることができるし、お風呂も入れるし、電気はあるしね。空襲警報気にしないで、眠ることもできるし。」・・・強い。

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90歳になった私の母は補聴器を使っています。

補聴器を選ぶとき、簡単なものを試してみたら、すべての音を拾ってしまい、やかましく、頭が痛くなり、とても着けていられないそうでした。その時、母は、人間の耳はよく造られており、聞こえなくてもいい音は、聞こえないようになっているんだね。感謝やちゃ。と。(信仰はありません)

先日、引っかかったみ言葉。申命記第412節「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。」

神様は、私たちに見せるもの、聞かせるものを選んでくださっているのかな・・・。
                                        K.I 姉

2020年5月11日月曜日

2020.5.10 本日の宣教


『 イエス様だったらどうされるだろうか』(Ⅰヨハネの手紙4:1621)

 アメリカのトランプ大統領は、先日「今後も死者の増加は避けられない」と言いつつ、経済活動を早期に再開させる必要があるという考えを強調しました。大統領選挙を控えている焦りもあるかと思いますが、一刻も早く経済を正常化させたいという狙いでしょう。やっぱり資本主義の中心国の大統領にありそうな言葉だと思います。しかしいかがでしょうか。それでいいのでしょうか。聖書の上に手を置いて祈ることで大統領の働きを始めるキリスト主義で成り立っている国が、いつの間にか「命よりお金」を優先するという、聖書の御言葉とかけ離れた現実をどう見るべきでしょうか。

 とりわけ新型コロナウイルスが世界のすべてを覆そうとするこの時に、私たちキリスト者が目を向けるべきは神の御言葉であり、御言葉に聞くことを心がけなければなりません。その中でも、世界のキリスト教会とキリスト者一人一人が常に問いかけるべきことが「イエス様だったらどうされるだろうか」(What would Jesus do?)ということであると思うわけです。…私はクリスチャンとしての歩みを始めた時から、特に大切な決断が求められる時には必ずと言うほど、「イエス様だったらどうされるだろうか」という問いの前に立ち続けました。そしてこれは、小泉町教会の神の家族とも何度も確認してきた問いかけでもあるのです。だから、“なぜこの時に新型コロナウイルスが世界に広がっているのか、神は世界のキリスト教会と一人一人のキリスト者に何を求めておられるのだろうか、…”などを問いかけつつ、神の御声を尋ね求める姿勢が求められることを確認したいのです。

 聖書は感染症(疫病)について多く言及しています。その中で感染症は、人間社会の罪悪による堕落による災い、そして汚れた共同体を清めるための道具として記されています。その他に、神の御業を妨げようとする異邦の国々と民らへの裁きとして、また、神の民の高慢と不従順に対する神の裁きとして用いられてきました。最後には、罪ある世界の終末、すなわちキリストの再臨の前に起きるべき出来事として記されているのです。…「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(ルカ24:1011

聖書が語る感染症はただの裁きではありません。むしろ、神がすべての人を救おうとするための徴であって、神の愛の熱心が成就されるために用いられることをぜひ覚えていただきたいと思うのです。本日の御言葉では、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す」と宣言します。さらに「神を愛するということは、兄弟愛を通して現れるのだ」と告げているのです。まことに主イエスは「友のために命を捨てることほど大きい愛はない」と教えられ、御自ら十字架にかかり、命を惜しまず捨ててくださいました。主イエスは常に隣の小さな者、病人、社会的弱者、罪人などに目を向けられ、その人々の友となられたのです。同じく、新型コロナウイルスという感染症を前にしている世界のキリスト教会とキリスト者一人一人が、口だけで神を愛していると言う偽り者にならず、隣の苦しむ兄弟の命を守ることを優先し神の愛を実践できますように…。ますます愛が冷えていく世界の中心に立ち、「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけつつ、十字架の愛を叫び愛の手を差し伸べる世界のキリスト教会とキリスト者一人一人によって神の国は近づくはずです。ハレルヤ!

2020.5.10 小さな泉の恵み


愛する教会の皆さんに会えなくなって1ヶ月経ちますが、皆さんお元気ですか?
今日は【母の日】ですね。私は母がクリスチャンになった事がきっかけで教会に行き始め、クリスチャンになりました。
母は名古屋に住んでいますが、先月白内障の手術を受けました。手術を受けた病院は、今年2月末にクラスターを出した病院という事で、私はとても不安を覚え、やめた方がいいのではないかと祈っていました。しかし、そんな事があった病院だからこそコロナ対策が徹底されており、また患者さんも少ないため入院した6人部屋は母1人きりでした。母は、目もよく見えるようになって幸せ~!と喜んでいました。見舞いにも行けない私は怖さを感じていましたが、神様が先に立ってどんどんと進んでおられた感じです。一瞬たりとも母からも私からも離れない主に改めて感謝です。『主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならないー申命記31:8―
母に私から一言・そのよく見えるようになった目で家のホコリを掃除しようね()
                                K.K 姉              

2020.5.3 本日の宣教


人生の基盤が崩れ落ちる時に  (ハバクク3:17~19)

 新型コロナウイルスの世界感染者数は現時点で300万人、死亡者は20万人を超えています。感染症の研究者たちによれば、これから人類の生き方は新型コロナウイルス前と後の世界に分かれると言われています。それほど、全世界に新型コロナウイルスがもたらした結果は想像を超えるものであったことが分かります。

このような世界的な変化は、私たちキリスト教会とクリスチャン一人ひとりの信仰生活のあり方も大きく変えていくことは確かであると思われます。今後の主日礼拝を始め、祈り会と諸集会、また伝道のあり方などが大きな変化を迎えることになるでしょう。

このように先がまったく見えない時こそ私たちキリスト教会とクリスチャン一人ひとりが信仰に新たなチャレンジを心がける時であり、終末を生きる者としての生き方を見出す時であると言えましょう。そのためにクリスチャン一人ひとりが身に着けるべき姿があるとすれば、それは神の御言葉である聖書を日々深く黙想しつつ、神が創造された人間社会と自然世界の変化に目と耳を注ぎ御業を見、御声を聞く訓練をすることです。

 旧約聖書と新約聖書には、共通して神の御業への信頼があります。「神のなさることはすべて時に適って美しい!」という信頼です。その信頼は良いことに限りません。たとえ死の陰の谷を行く時も、愛する人と別れる時も、病にかかり苦しむ時も、予想しなかった事故に遭う時も、…神は「インマヌエルの神として、いつも共におられ変わらず神の民を守り、最善をくださるお方、万事を益に変えてくださるお方である」という確信です。

「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。」(ハバクク3:1719

 これは他の宗教を信じる人々が求めるご利益のを指すわけではありません。大切なのは、主イエスが言われたように、目を覚まして今の時代をよく見極めることでしょう。すべては神の御手による支配の下にあることを告白しつつ、主イエスの御心を求め、最善が成し遂げられることを信じ、揺るがない歩みを続けることです。今のハバククとイスラエルの民は、人間的な目から見れば、これでもかこれでもかと試練と苦難の波が連続して押し続ける状況にあります。やがて、目に見える形として残っているものは何もなくなるでしょう。まさしく崖っぷちに立たされているような現実です。しかし、ハバククは神の支配と最善を信じるがために揺らぐことはなかったのです。

 初代教会の信徒たちを捉え、また励ましていた信仰のあり方は、「マラナタ信仰(終末信仰)」でしょう。彼らはローマ帝国による厳しい迫害と試練の中でも命をかけて礼拝に生きる群れでした。そして彼らは礼拝の最後に「マラナタ、主イエスよ 来てください!」という信仰告白を叫びました。この信仰の叫びはただの現実否定でも、漠然としたパラダイスへの願望でもありません。マラナタ信仰は主イエスの約束への確信であり、神の国への揺るがない信仰です。私たちの人生の基盤が崩れ落ちるように思えるこの時こそ、御言葉の上に立ち、聖霊が教えてくださる主の御心を生きることでしょう。ハレルヤ!

2020.5.3 小さな泉の恵み


皆さん、お元気ですか?私は4月から東京に行くことができず、自宅で仕事をしています。賛育会の在宅勤務日は、朝食前にウォーキング(約2千歩)、朝食後9時に自分の部屋に出勤、9時半賛育会のパソコンのテレビでの朝礼出席、その後、会議、昼食後ウォーキング(約4千歩)、そして、5時半ごろ勤務終了、夕方のウォーキング(約4千歩)、夜食後は毛鉤巻きと毎日結構忙しいです。曜日によっては、富山YMCA福祉会の二つの保育園のお世話をしています。それも電話での打ち合わせです。

昨年から体重が増え、3月末には殆どの私服のズボンが履けなくなったのですが、在宅勤務のお陰でこの1ヶ月で体重は約3キロ落ちました。更に、減量しています。新調したズボンはぶかぶかです。今は大変な時期ですが、普段できないことをチャレンジすることができます。この時を神様から頂いた恵みの時として日々を大切に過ごしたいです。主に感謝です。
                              S.S 兄

2020.4.26 本日の宣教


『 社会的距離、霊的距離』 (詩編編42:2~7a)

  新型コロナウイルスが世界に流行してから、世界の人々が共通して参与している運動がありますね。それが「社会的距離置き運動」です。ソーシャルディスタンスをしっかり確保して生活することで、感染のリスクを抑えることができるという理由からです。      

聖書の中にも重い皮膚病にかかった人が社会から隔離されて暮らしていたことが記されていますし、疫病という感染症を神からの裁きとして受け取りながら、死の危険から身を守るために自然と社会的距離を取って生活していたことが分かります。

詩編42編は、自分たちの意思とは関係なく、物理的な力によって祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民の嘆きの歌として知られています。祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民、かつてエルサレムの神殿で経験していた礼拝による神との素晴らしい交わりを失ってしまった者たちの姿を心に描いてみましょう。神を礼拝する場所もなく、捕虜としての厳しい生活を余儀なくされ、異国人からは「お前の神はどこにいるのか」と嘲られるような状況に追い込まれている…。彼らは、過去にエルサレム神殿でささげていた礼拝を思い起こしながら涙を流しているのです。…しかし、詩人はこのような苦しい状況のただ中で、自分の魂に向かって呼びかけます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」と6節)…希望が見えない現実に失望し落胆している自分の魂に客観的な視点から呼びかけることで、見失っている神に目を向けさせています。そして、詩人は今にも消えてしまいそうな信仰をかき集め、信仰の火が消えないように自分自身を励まします。その理由こそ、世界の創造者であり、歴史の支配者である神がついには自分自身を助けてくださり、再び礼拝の恵みを回復してくださることを信じるからであり、最後には神の救いと助けを信仰告白としてささげることを決断するのです。新型コロナウイルスのために礼拝に集えない私たちは、この詩人の信仰姿勢と告白からどれほど大きな励ましを受けていることでしょうか。

 そこで本日の詩人は、私たちに「あなたは神に対して鹿のような飢え渇きを覚えていますか」と問いかけています。聖書の多くの箇所で、社会的距離を置くときこそ、神様との霊的距離は近づく時であって、神に近づき祈り求める人を主が喜ばれることを記しています。バビロン帝国で捕虜生活をしていた預言者ダニエルは、当時のバビロンのダレイオス王以外のどんな神や人をも拝むことが発覚すれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという命の危機の時にも毎日3度、神を礼拝し祈りをささげることをあきらめなかったことを知っていますし、その他多くの信仰の先輩たちを通して、共同体の礼拝ができない時こそ、神様との霊的距離が縮まる恵みを教えられます。…「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます。」(詩編1451819の詩人の告白は真実です。

日々、神に近づき親密な交わりを持つことで霊的距離が縮まる人こそ、生きた礼拝者であると言えましょう。社会的距離を置かなければ生きていけない今の時だからこそ、ぜひ神様との霊的距離、また執り成しによる神の家族との霊的距離が近づく恵みを味わえる小泉町教会の神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!

2020.4.26 小さな泉の恵み


 8:24「富山市でも病院の院内感染がおこっていて、いよいよ、という感じ、直美さんのところは大丈夫ですか?」

 18:10「こんばんは。まだ院内感染していないので、フル出勤しています。ただ自宅待機者はチラホラ。緊迫した状況は続いていますね。」

 18:14「ですね。お疲れ様です。健康が守られますように。」

 18:50「ありがとうございます。美保さんも健康が守られますように!️

 18:56「今ね、市電に乗って帰宅中(ひとりで貸し切り状態)で、なんか、身体がホンワリと温かく包まれてる感じがして、聖霊さまかなぁ、いつも臨在をこんなふうに感じられたら心癒されて生きられるなぁと思ってて、そしたら握りしめてたスマホがブルブルして。直美さんからのラインだったよ。祈られてるっていうことが伝わってきたのかな、すごく、合点して、嬉しく、思いました」

 18:56「すごい()こちらも嬉しい」

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幸いなるイースターでした。          
                   S.M 姉

2020.4.19 本日の宣教


『 愛から始まる 』 (ヨハネ福音書21:15~17) 

 先週私たちは以前とは違う形でのイースター礼拝の恵みに与ることができました。顔と顔を合わせ喜び合うことはできませんでしたが、映像を通じて聖霊による一致を体験することができたひと時でした。新型コロナウイルスの恐怖が日に日に増している日本の現状ですが、復活の福音を信じているがために喜び祝えました。

私たちの信じている福音こそ、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の上で命をかけて贖い、死んでくださったことと、死を打ち破り復活なさったことを信じる者は救われ、永遠の命が約束されていることです。そして復活された主イエスは今も生きて共におられることのゆえに私たちは勝利者として歩むことができるのです。

 さて、復活された主イエスについての物語はいろいろとありますが、私の心に最も強い印象を与える場面といえば、ペトロと主イエスとの再会の場面です。聖書が教えるペトロという人の人生は波乱万丈という言葉が当てはまると言えましょう。とりわけ主イエスとの関係において、弟子として呼ばれた時の劇的な場面から、人類歴史において最初で最後に海を歩くという奇跡を体験した人、またペトロの信仰告白とされる場面で分かるように、弟子の中で筆頭というプライドをもっていた人でした。そして“イエス様が行かれるところだったらどこにでもついて行き、もし死ぬ所だとしても付いていく!”と誓うほど、主イエスに対する愛も格別な人でした。

しかし、それほど主イエスから愛され、主イエスを愛していたペトロでしたが、十字架を前にしてイエスを裏切り、3度も“イエスを知らない”と否認してしまう決定的な失敗を経験した人でもありました。・・・

本日の聖書箇所には、取り返しのつかないような失敗と挫折感の中で故郷のガリラヤに戻り漁をしていたペトロを訪ね、愛に基づく新しい使命を授けられる主イエスの姿が描かれています。

「あなたはわたしを愛しているか」、3度に渡る主イエスの質問に、辛うじて答えるペトロの姿があります。かつてのペトロであったなら、「私の愛を疑いますか」と自信満々に言い切っていたはずでした。しかし、失敗者ペトロが口にする精一杯の言葉として、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるしかありませんでした。しかし主イエスはそれで充分でありました。自信満々で高慢にも思えるような愛の告白ではなく、自分の失敗の上に立ち、辛うじて謙遜に語り出す愛の告白を主イエスは望まれたのです。
主イエスは3度裏切ったペトロに、3度の愛の確認を通して全く新しい関係へと招き入れてくださいます。私たちはクリスチャンとして、度々つまずいたり、失敗したりすることを経験します。特に日本社会においてはイエスを裏切るような誘惑の前に立たされてしまいます。そこでペトロのように、主イエスを裏切ってしまったという罪意識によって信仰が弱くなったり自暴自棄になったりする時があります。しかし、ぜひ覚えていただきたい。私たちの主イエスは、私たちが失敗した場所、悲しい涙を流している場所に訪ねて来られ、新しい愛の関係へと招いておられるということを。…そして、「愛から再び始まるのだよ!」と声をかけられ、主イエスへの愛をもって私たちの周りの小さな羊を飼うようにと頼まれるのです。最も小さな者一人にイエスの愛を施すことこそ、復活の主に出会った人に求められる主イエスの切なる願いなのです。皆さん、すべてのことを愛から始めましょう。ハレルヤ! 

2020.4.19 小さな泉の恵み


我がわかば農園はいよいよ今月下旬に始まる田植えの準備中です。 一緒に働く後期高齢者たちはパワフルでコロナウイルスどこ吹く風といった感じです。 殺菌、芽出しした種籾を60cm×30cmの苗箱に蒔きます。それを今年は一万枚程作ります。規模としてはそれほど大きいわけではないそうですが、機械もやや高齢者でなかなかの重労働です。福音伝道はよく種まきに例えられますが、現在の外出自粛はクリスチャンにとっては、その準備の為に備えられた時なのかもしれません。昨年10月の暗唱聖句「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(Ⅰぺトロ3:15)御言葉を学び、正しく伝える力が持てるように。やがて蒔かれた福音の種が実を結び、収穫の時、礼拝堂に救われた群れが溢れる日を願いつつ。コロナウイルスに生活を脅かされている皆様には心からのお見舞いを申し上げ、主の守りと慰めをお祈り致します。キリストの恵みと平安が皆と共に有りますように。
S.Y 兄

2020.4.12 本日の宣教


『 死んで、生きる 』(ヨハネによる福音書12:2426)

 イースターおめでとうございます!!!

新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)に対し、世界中が恐怖と不安な中でイースター礼拝を迎えました。すでに、全世界で150万以上の人が感染し、10万人以上の人が命を亡くしてしまいました。ウイルスという見えない強力な敵との闘いに対して、ただただ早くこの災難が取り去るようにと祈ることしかできない弱い人間の姿があります。このような状況の中、私たちは復活の福音について考え、キリスト者としての信仰を新たにしなければならないと思います。とりわけ死と復活という主イエス・キリストを通して示された神の一方的な愛のご計画をしっかりと受け入れ生きることこそ、主イエスが求められる御心ではないでしょうか。

本日の御言葉は、「一粒の麦」のたとえです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)…主イエスは、ここで自然の摂理について教えようとしたわけではありません。「一粒の麦」とは、イエスご自身のことを指します。主イエスは、ご自身が十字架の上で死ななければ、新しい命の誕生も、豊かな命の実を結ぶこともできないことをご存知でした。とりわけ弟子たちが人間的欲望にとらわれている自己中心の世界観から、永遠なる神の国と隣人の救いのために命を捨てる自己否定の価値観へと変えられ、豊かな実を結ぶことを夢見ておられたのです。なるほど、主イエスは十字架上の死を通して一粒の麦になられました。十字架の出来事は弟子たちをはじめ主イエスを慕っていた人々に大きな失望と敗北を与えました。しかし、墓に葬られて三日目、死より復活されたことによって、一時期切れてしまったかのように見えた神の愛と命、希望の物語は再び歩み出すことになったのです。

「復活の初穂として主イエスが一粒の麦となられた、主イエスの死と復活によって、私たちを苦しめ恐れを抱かせていた死と滅びは打ち砕かれたのだ!」…復活された主イエスに出会った弟子たちは死ぬことを恐れず、死ぬことによって生きるキリスト信仰の神秘を手にすることができ、その神秘を伝える証人となりました。

新約聖書における「証人」(ギリシャ語:マルトゥス)と言う言葉は、もともと「殉教者」と言う意味から成りました。すなわち、イエス・キリストの証人になるというのは、命をかけて殉教することをも喜び、最後まで自分が体験し信じていることを伝え続ける人という意味なのです。主イエスが十字架の死をもって最後まで神の愛と神の国の福音を証しされたように、弟子たちもイエス・キリストの教え、十字架の苦難と死による贖い、復活による永遠の命と神の国の福音を命ある限り、地の果てにまで伝え続ける証人となりました。彼らを殉教者へと導いた信仰こそ、「主イエスの復活の出来事」でした。そうです。弟子たちは、「死」は決して終わりでない、またキリストが復活されたように自分自身も復活する、という信仰へと変えられたのです。彼らが復活の主に出会わなければ決してあり得なかった姿でした。

今現代を生きる私たちには2000年前の十字架の苦難も、迫害もありません。しかし、私たちも日々いつ死の恐怖に襲われていると言ってもおかしくない時代を生きています。日々、大変な災害と変革の時代を生きています。この時だからこそ、私たちの信仰をイエス・キリストの「十字架と復活」の上に建てなければならないのです。願わくは、お一人お一人が、日々イエス・キリストと共に死んで共に生きる中で、豊かな実を結ぶ復活の証人となりますように…ハレルヤ!


2020.4.12 小さな泉の恵み


現在、世界中で猛威を振るうコロナウィルス。その未知なる脅威は、嫌でも私達に自分や身近な人の死を想起させ、大きな恐怖を与えています。私自身も、刻一刻と深刻さを増す状況に不安を覚えて、1日も早い収束を祈る毎日です。しかしながら一方で、イエス様の十字架の死と甦りを覚える受難週に、死を意識する出来事が起きていることは、(辛いけれど)神様からの鮮やかなメッセージのようにも思えてきます。死に打ち勝ったイエス様が、常に私達と共にいてくださる、その事実が今ほど心強く、また尊く感じたられたことは無かったように思います。  アーメン

「死は勝利にのみ込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

(Ⅰコリント 155455

                                                   A.T 姉

2020.4.5 本日の宣教


『今こそ、泣くとき』 ルカによる福音書ルカ福音書232728)
 受難週礼拝を迎え、主イエスの平和と慰めが神の家族お一人お一人の上に豊かにありますように…
新型コロナウイルスによる未曾有の感染拡大とそこからの被害と恐怖、そして大切な命を守るために主日礼拝を含むすべての諸集会休止という苦渋の決断を下してから献げる最初の主日礼拝であり、2020年度の最初の礼拝となります。このような暗闇の状況のただ中、示されたみ言葉の恵みをいただきましょう。
主イエスが、十字架を背負ってゴルコタの丘に向かって歩く途中でした。主イエスは、泣きながら付いてきていた女性たちに向かって、“エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け!”と語られます。彼女たちは、イスラエル社会で無視され蔑まれてきた人たちでした。しかし主イエスは彼女らをあるがまま愛し、愛の御手で優しく包んでくださいました。いつも憐れみ深いまなざしで接してくださり、生きることの素晴らしさを教えてくださったお方、何の罪も犯したことのなかった主イエスが、最も呪われた罪人の象徴である十字架にかかるなんて信じられないことでしたし、女性たちは泣き崩れてしまいました。もし私たちが、2000年前のエルサレムにいたとしても同じ悲しみに包まれていたに違いありません
しかし、主イエスは、「わたしのために泣くな」と言われる。なぜならば、主イエスの十字架の道は、究極的には復活の勝利の道であって、全人類に救いと勝利をもたらす道であったからです。むしろ私たちは、主の十字架の道に感謝し、主の命をかけた愛に感謝の讃美をささげつつ、主に従うことを心がけるべきです。
 興味深いことに、「泣くな」と言われた主イエスが、続きの言葉では「泣け」と命じられる。「自分と自分の子供たちのために泣け」…。これはやがて訪れるべきローマによるエルサレム滅亡の預言の言葉であり、その日には、泣かずにはいられなくなることを、主イエスは見ておられたのです。その日を恐れつつ、エルサレムと子どもたちを胸に抱き、涙をもって神の憐れみを乞い求めなさいと言われるのです。そうです。主イエスは最後の最後まで、人への思いやりと愛で満ちておられます。公生涯を通じていつも小さな人、弱い人、悲しむ人、病んでいる人の友となられ、彼らの傍らで手を差し伸べ支えてくださいました。そして、その愛の姿は十字架を背負う最後の時まで続きます。・・・愛なる主イエスは今日も、わたしたちに語られます。“今こそあなたとあなたの家族、あなたの国のために泣く時だ!”と。新型コロナウイルスという未曾有の災難に直面し不安と恐怖に怯えている世界と日本社会、感染症にかかって生死の戦いをしている人々、また命をかけて医療現場で働いている医療関係者の方々のために、私たちは泣きながら執り成し祈り、世界の人々に助けの手を差し伸べることを心に新たにしなければならないのです。
 ぜひ、私たちの涙と悲しむ心をいつも見つめておられる方がいることを覚えましょう。その方は私たち以上に悲しまれ、呻きをもって執り成してくださると聖書は約束しています。“この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:1516)”        
 私たちが主イエスの十字架の前で、日本を含む世界の国々の悔い改めと救いのために涙し、神への愛の回復を執り成し祈ることができますように…。主イエスは私たちの涙の祈りを喜ばれるでしょう。ハレルヤ!


2020.3.29 牧師室便り

~キリスト者と感染症~

「わが名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。」(マラキ3:20

新型コロナウィルスが全世界を恐怖に陥れています。まさに「感染症には国境はない」という言葉を認めざるを得ない状況です。数えられない人が感染し、命を落とし、世界経済もマヒしてしまったかのような現状です。世界の国々は自国民を守るために入国制限を打ち出したり、人が多く集まる行事やイベントを中止させたりしています。また、キリスト教会も礼拝を休み、多くの教会がインターネットで礼拝をささげています。各国の首脳たちが言うように、第2次世界大戦以降、いやそれよりもさらに厳しい戦いに挑んでいるような日々です。しかもこの戦いがいつ終わるかもわからないだけに、人々の不安はいや増しているのでしょう。

それでは、キリスト者はこのような時にどうあるべきでしょうか。人類の歴史において全世界的な感染症との闘いは何度も繰り返されてきました。とりわけルマルティンルターが生きていた中世ヨーロッパにおいて黒死病と呼ばれていたペストは何度もヨーロッパを襲いました。人口のほぼ半分の人がペストで死んでいきました。そこでルターは、「死に至る病ペストから逃げることは許されるか」という手紙を書きました。

手紙の中でルターは、「他者へ奉仕する者は誰でも、職業上逃げない責務がある」ことを強調します。「彼らは死の危険を前にしても、しっかりと踏み留まらなければならない」と書きます。また、ルターは病人を世話することを医者だけに任せてはならないと言います。神を愛するということは人を愛するということで現れるからです。すなわち、感染症が広がる時には、自分の能力を尽くして感染症を防がなければならないことを強調し、その中でも検疫と診察のような医療活動と清潔な生活を勧めました。彼は、キリスト者が「ただ信仰」という言葉を語りながら感染症を軽んじることは無知であると考えていたのです。だからと言って、感染症で死んでいく隣人を救うことは一般市民の義務ではないこと、むしろその場から離れることも教えました。…ルターは感染症にかかることを恐れませんでした。なぜならば、キリスト者にとって苦しみと死という言葉が終わりでないことを知っていたからです。…受難節を過ごす私たちキリスト者への主イエスの御声をしっかりと心に受け止めながら、知恵ある者として最善の道を選んで歩みましょう。このような試練の時こそ、キリスト者が執り成し祈る時、恵みの時なのです。シャローム!

2020.3.29 本日の宣教

『 たとえ死の陰の谷を歩むとも 』 (詩編編23:16)

今年になって父親の本棚にあった鄭念(チェン・ニエン)という中国の女性が書いた『上海の長い夜』(Life and Death in Shanghai)という本を読みました。

 この本は、中国の文化大革命の時代に国民党政府の外交官未亡人であった作者が、迫害や拘置所での独房生活を通して、寒さと飢え、病苦と拷問に耐え、人間の尊厳を失わず生き延びた奇跡的な回想記です。チェン・ニエンは、夫を1957年に癌で亡くし、女優を目指す梅平(メイピン)という美しく優しい娘と二人で、洗練された居心地の良い家で暮らしていました。

66年代に毛沢東に扇動されて始まった文化大革命は、当時実権を握っていた党幹部、学者、旧地主の子孫などを「反革命分子」とみなし、紅衛兵と呼ばれた熱狂した学生・高校生による組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で10年間に及び横行しました。チェン・ニエンも資本家の手先として攻撃の対象となり、突然上海の家と財産を若い紅衛兵に暴力的に略奪・破壊され、669月に逮捕され拘置所の独房に収容されてしまいました。

娘と別れ離れになったチェン・ニエンは、劣悪な環境の独房で、繰り返される看守による暴力、罪の告白を強要する拷問、そして、何よりも孤独と病苦に耐え、19733月まで6年半の監獄生活を生き延びました。

 独房では、埃まみれのセメントの部屋をトイレットペーパーで清潔に保ち、劣悪な環境の中でも人としての尊厳を維持する工夫が描写されています。絶望的で孤独な日々の中で、窓から入ってきた小さな蜘蛛に目を凝らし、蜘蛛が正確に巣をつくる不思議さに、生命の奇跡、創造主である神様に感謝する描写は、読む人の心を打ちます。

 クリスチャンであったチェン・ニエンは、暴力的な迫害の最中に、詩編234節「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」を心の中で何度も暗唱し、耐え続けました。チェン・ニエンという一人のクリスチャンを通して、聖書を読めない環境の中でも、信仰が苦難を乗り越える力となることに改めて感動しました。

 今、世界中を新型コロナウイルスの嵐が吹き荒れています。多くの人々が命を失い、感染する恐れと、経済的にも将来の不安で押しつぶされそうな我々です。どんな困難な中でも信仰を失わず、試練を希望に代えてくださる神様に祈りつつ歩みたいと思います。
                                            島田 茂

2020.3.29 小さな泉の恵み




先日二週間ぶりに礼拝に出席。久しぶりに自宅から駅までの道路、しばらく見なかったが、道路脇の木々は春のいぶきが感じられ、それとしばらくぶりに電車の車窓から見る光景も何かなつかしい感じがしました。
先週この欄に瀬戸姉が書かれた日本中、いや世界中のこの新型肺炎の記事を読ませていただきました。
本当にわが地区でも老人会や公民館の行事等は、全て中止。外出を控えるようにとの町当局よりの伝達。
私は雨天の日は部屋で読書、晴天は農作業や除草。
私の住むこと村一帯は、かつて縄文遺跡として文化庁の指定を受けている地域。
75年前に、村の人々がここに来て開拓した時には、沢山の縄文の遺物が出土したのです。私がこの地に住んだ時は、某大学の考古学専攻の学生達が、遺物の発掘に来て研究しているのを見ました。私は農作業をしていると、時々、土器等の破片等を見つける時もあります。縄文の人々は、ここに生活していたのだ。人々はどんな生活をしていたのだろうか。その頃にはコロナウイルスのような病気もなく、自給自足の集団生活だったと想像。彼らは彼らだけの協力し合いの生活。医者も居無く、病気も無く、娯楽も無く、今一度縄文時代に帰ってみたらと想像しました。その頃は神様は無く、日々に昇る太陽をみては彼等は拝んでいたと言うこと。それでも彼等は幸せであったらしいこと。
現在はどうだろうか、文化や日々の生活が発達過ぎて、不自由の無い生活しているのに、不足ばかり言う私達です。縄文の方々の生活を思い、今の生活に感謝して過ごしたいと思います。外出のできない毎日、私はこのように、思っております。早く新型肺炎の終息を願っております。自宅にいてこのように考えました。
A.M姉

2020.3.22 牧師室便り

 ~ 愛する北陸三教会共同体へ ~

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編1331

本日は、敬愛する田口先生をお迎えしての今年度最後の交換講壇であると同時に、田口先生の金沢教会の主任牧師としての最後の交換講壇でもあります。今まで24年間、金沢教会に遣わされ、北陸三教会の交わりと伝道の働きをリードしてくださいました。先生のリーダーシップがあったからこそ、北陸三教会の現在の祝福も訪れたと言えましょう。4月からは杉山望先生ご夫妻が北海道から赴任されるため、田口先生は牧会の現場から一線を引くことになりますが、神は先生の賜物を有効に用いられることでしょう。

また、来週29日は、小泉町教会による福井教会への宣教支援も終わりを迎えます。4月から福岡から平良憲誠先生ご夫妻が赴任されるからです。ここ数年間、無牧教会の現状を、土肥兄を含む数人の教会員が大切に守ってきたことを私たちは知っています。そのため、3年前からわが教会は金沢教会と協力して2ヶ月に一度ではありましたが、微力ながら支えることができ、福井教会の復興のために執り成し続けてきました。そしていよいよ協力伝道が実を結び、平良憲誠先生ご夫妻という素晴らしい働き人が与えられたのです。ハレルヤ!

新型コロナウィルスで騒ぐ中で始まる2020年度の北陸三教会の歩みですが、主イエス・キリストを頭とした共同体としての豊かな愛の交わりと御業を期待しつつ執り成し続けたいものです。田口先生、今までの尊いお働きを心から感謝いたします。また、杉山先生ご夫妻、平良憲誠先生ご夫妻の働きの上に豊かな祝福が注がれるように祈ります。シャローム!

2020.3.22 本日の宣教


喜びの信仰  (ローマの信徒への手紙15章13節)

私たちがいただいている信仰は「喜びの信仰」です。「喜び」はいらない、という人はいないでしょう。みな喜びに満たされた幸な人生を送りたいと思っています。にもかかわらず、それを得られず、他者を批判し、世の中が悪いと言い、こんなはずではなかった、という人が周囲にあふれています。イエスさまの語られた言葉が次々に思い出されます。

.まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、あなた方が欲しいと願っているものは、おまけとして与えられます。

.必要なことは多くはない。いや一つだけだ。 .恐れることはない。ただ信じなさい。

.「できれば」というのか。信じる者にはなんでもできる

イエス様はいつも、今生きている私、あなたの信仰に命の息を吹きこもうとされます。イエス様は、からし種一粒の信仰を問題にされました。信仰は今、ここで生きる力になるものです。私たちは、信仰で毎日を生きるのです。この世にあって、しかし、あたかも神の国を生きるように生きるのです。信仰によって、神の国に生きるのです。

信仰は、神のご計画が必ず実現すること、神の勝利を硬く信じることでもあります。しかし、過去と未来に私たちは悩まされ続けています。ああしなければよかった。あのようにすべきではなかった。あのようにしなければならなかったのだ。ああすべきだった。悔いと後悔と責めと非難、批判がつきまといます。

また、どうなるだろうかこの先。もし、事態が悪くなったらどうしよう。このようにして、過去と未来が今を責め立てます。そうすると、後悔と罪責感とそして、もしという不安と恐れが私たちを襲います。その結果、私たちは今を失うのです。

どのようにしてこのようなジレンマから抜け出せるのでしょうか?

それは、愛の神に目を向け、心を開くことによってです。具体的には、神に聞くことです。イエスはいいました。私を見たものは神を見たのだ。私に聞いているとき、神にきいているのだ、と。私たちの信ずべき神は、私の今を支配する方です。過去の重荷と未来の思い煩いを取り除くために、イエスはこられたのです。

今・ここを生きるために不可欠なものは、祈りです。祈るときに、私たちは神の前に出るからです。祈るとき、私たちは一人ではなく、神とともにある事を信じるのです。神が私たちに仕えてくださったのです。神は無力な方ではなく、また、神は暴君でもありません。私たちの幸いのために、何でもしたいと願っておられる方だからです。

イエスは「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は求める者に良いものをくださるにちがいない。」

祈る事は、愛の語りかけを聞く事です。耳を傾ける事です。聞き従うということです。これは信仰の本質です。英語では、obedienceといいます。それは、もともと、ラテン語の「注意深く聞く」ということばから生まれたのです。注意深く聞かなければ、神の愛の語りかけは聞こえないのです。祈らないという事は、神に聞かないという事です。神の愛の声を聞かなければ、私たちは過去に埋没し、未来の心配によって振り回され、エネルギーを吸いとられてしまうのです。

だから、どんな時でも神を信じ、神の愛が豊かに注がれていることを信じ、愛され、守られている私を思い描きましょう。誰もこの神の愛を私から奪うものはいないのです。私は愛されている。神はインマヌエル。私はただ信じる!         
                                      金沢キリスト教会牧師 田口昭典

2020.3.22 小さな泉の恵み





目に見えない小さな新型コロナウイルスがあっという間に、世界中を席巻し、WHOはパンデミック宣言をしました。国と国は閉じられ、人々は見えないウイルスという敵に、多かれ少なかれ不安や不自由を抱きながら生きているこの数か月です。
マスクや消毒液が市場から姿を消してだいぶたちますが、次はトイレットペーパーが、たった一人のデマによって、皆が買いに走り、一夜にして消えるという出来事にびっくりしました。もっと驚いたのは、その後、十分に在庫があるとテレビやネットが伝えても、相変わらず棚は空のままです。情報はたくさんあるのに、どれを信じればよいかわからず、とにかく買っておこう!というパニック時の心理でしょうか。情報があふれる時代の皮肉のようです。
物不足やウイルスのこと、受診や検査のことなども色々な情報が溢れ、県によっても対応が様々で、不安が残ります。
ウイルス戦争と一部で言われているように、戦争もこのようにして情報が多くても真実がわからないまま、始まるのかもしれないと背筋が寒くなりました。感染者が増え続ける新型肺炎は、まだまだ終息の出口は見えないままです。主は、今のこの世界をどのような目で、ご覧になっておられるのでしょうか。
ご愛の主の御心を思いつつ、毎日コロナのことを祈らない日はありません。世界祈祷日集会は中止になりましたが、今こそ、それぞれの場所で心を一つにして、時を合わせて執り成し祈りたいです。
                            S.Y 姉