2022年10月25日火曜日

2022.10.23 牧師室便り

 ~ 主の住まいを慕い求む ~

「万軍の主よ、あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。私の魂は主の庭に思い焦がれ、絶え入りそうです。 生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(84:2~3詩編)」

日本バプテスト連盟から出版されている「聖書教育」の10月から11月までの聖書のテキストはエズラ記とネヘミヤ記です。ユダヤ教において、エズラ記とネヘミヤ記はもともと一冊の書物として扱われてきました。とりわけ二冊の主題は、エルサレム神殿再建と城壁再建です。礼拝の民であったイスラエルが神に背き、滅ぼされ捕虜としての生活を余儀なくされてから、イスラエルが滅ぼされた理由が礼拝の民としてのアイデンティティーを失ったことにあることに気づきます。そういうこともあって、ペルシア帝国のキュロス王によるエルサレム帰還の時に、第一の優先順位となったのがエルサレム神殿再建でした。当時の神殿再建と城壁再建の物語がエズラ記とネヘミヤ記に細かく記されていますし、総督や祭司長などのリーダーグループはもちろん、イスラエルの民らも感動と喜びに満ちて神殿再建に加わっていたことを学んでいます。

紆余曲折を経て完成したエルサレム神殿を前にしてのイスラエルの民らの感動と喜びに満ちた涙を思います。まさしく新しい礼拝を献げるイスラエル共同体の感動は何にも代えがたいものであったことでしょう。本当に一つとなって賛美し喜び祝ったに違いありません。ところが、時間の流れと共にイスラエル共同体の礼拝は再び感動を失い、形式的なものに変わってしまいました。そのようなイスラエルの民らの様子にエズラは悔い改めによる礼拝改革を断行することになるのです。

今の私たちはいかがでしょうか。神を信じて信仰生活を始めた時、礼拝、祈り、聖書の学び、ディボーション、献金、奉仕、伝道など、神と教会、兄弟姉妹、隣人のための働きに喜びと熱心さがあったことを覚えています。最初の頃は、礼拝だけでは物足りず、祈祷会や聖書の学びの会、伝道や奉仕などにも励んでいたことでしょう。しかし、時間の流れと共に信仰生活にも、他の生活がそうであるように、気づいたらもう慣れてしまい、いつの間にか心の底から込み上げてくる感動、刺激などを失ってきていた私たちかもしれません。…礼拝こそ、主の住まい、神の民が恵みの主に出会う場です。宗教改革の季節、信仰と心を新たにしていただき、主の住まいを慕い求む神の家族でありますように…。シャローム!


2022.10.23 本日の宣教(交換講壇)

 『幸福は分かち合うもの』

                (使徒言行録2章43~47節)

今月、幼稚園の子どもたちと芋掘り遠足に出かけました。5月に植えたサツマイモの小さな苗は、畑一面に葉を広げるほどに育っており、土を掘り返すと大きなサツマイモが出てきました。子どもたちと一緒に歓声をあげながら、収穫の恵みを与えてくださった神様に感謝しました。芋掘りの後はレジャーシートを広げて、家族ごとにお弁当を食べました。早々と食べ終わると、子どもたちはお友だちのところに行って、持ってきたおやつを分け始めました。おやつをもらった子どもたちが喜んだのはもちろんですが、おやつをあげているときも、子どもたちは何だか幸せそうでした。その姿を見て、幸せは分かち合うものであり、人は誰かに喜ばれることが嬉しいのだ、ということに気づかされました。

南アフリカのズールー語に“Ubuntu(ウブントゥ)”という言葉があります。日本語に翻訳するのは難しい言葉ですが、それは「あなたがいてくれるから、私がいる」という意味の言葉です。ある人類学者は、南アフリカの村へ行った時に、この言葉を知りました。彼は村の近くにある木に子どもたちの好きな食べ物をつるしておいてから、村の子どもたちを呼び集めました。そして、「一番先に木に走りついた人が全部食べられる」というゲームを提案しました。ところが、彼がスタートの合図をしても、誰一人、競い合って走り出す子どもはいません。誰に言われるでもなく、みんなが手をつないで一緒に走り出し、みんなで食べ物を分け合ったのです。彼がその理由を尋ねると、子どもたちは口々にUbuntu!”と叫びました。そして、「他の人が悲しんでいるのに、どうして一人だけで幸せになれるのですか?」、と彼に聞き返しました。

人は一人では幸せになれません。神様の恵みの中で、互いに助け合い、関わりあって生きるのが人間です。神を愛し、隣人を自分のように愛することは、私たちにとって基本的な、かつ欠かすことのできないことでした。けれども、現代社会ではこれまでのような共同体は失われ、孤立していっています。その反面、あらゆるところで競争が強いられ、格差が広げられ、生きづらい世の中になっています。人にとって基本的であり重要なことがおろそかにされてしまっているのではないでしょうか。

使徒言行録には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」、という記事があります。また、イエスが育った村では、数軒の家が中庭を囲んで建てられており、生活用品を共有したり、一緒に食事や子育てをしたりしていました。同じようにはできなくても、皆で分け合うことは人の幸福のために必要なことです。ご自身のすべてを私たちのために差し出してくださったイエス・キリストは、私たちが互いに愛し合い、与えられた恵みを分け合って生きる喜びと幸せを教えてくださいました。「人が独りでいるのは良くない」と言われた神様は、私たちが孤立せず、主イエスと共に、また隣り人と共に生きられるように導き、祝福を与えてくださるのです。                              

                      金沢キリスト教会 杉山 望


2022.10.16 牧師室便り

 ~ 生み出す教会 ~

 今週の20日の木曜日、南砺市礼拝が行われます。長い間、南砺市礼拝を支え導かれた神を賛美します。また、最初のパン工場の時から礼拝の場を提供し、本日まで礼拝を守り続けたS兄の信仰と働きを嬉しく思います。 

小泉町教会は今から62年前「富山伝道所」という名前で伝道を始めました。最初は岐阜教会が母教会となり、岐阜教会の藤田先生が毎週木曜日に富山に来られ、ある二階建ての楽器店の一室を借りて集会を開いたことが出発です。その後、一時的閉鎖という苦しい時もありましたが、10人の牧師と信徒たちの献身のゆえに今日に至っています。

初代教会から始まった、教会としての決して変わることがない究極の働きとは、言うまでもなく福音伝道であると言えましょう。そのために使徒パウロをはじめ、使徒たちは行く先々に教会を建て、各教会を通して神の国の福音を広げることができました。もちろん、最初からきちんと教会組織をし、一つ一つのステップを踏んで立派な教会へと成長したわけではありません。使徒言行録をはじめ、使徒たちの書簡を通して示されている教会はもちろんのこと、聖書に登場しないけれど、それぞれの地域には、聖霊の働きと助けを受けた人々によって、各地域の特色や置かれた状況に応じて様々な形のキリスト教会が生まれ、各教会がそれぞれに合った福音伝道の働きに励んできたことを私たちは知っています。

南砺市には小泉町教会のS兄とI姉が住んでいて、金沢教会の一人の姉妹が加わり、月一度の礼拝を献げています。特別な事情がない限り、コロナパンデミックの間の数回を除くと、休むことなく南砺市礼拝を続けてきました。 もちろんその中心にはS兄の福音伝道への熱意と献身があっての恵みでした。

10年ほど前から南砺市に「伝道所」を建てるというビジョンを共有してきました。しかし、ふり返ると、そのビジョンだけが独り歩きしてきたような気がします。生み出す教会となるためには、南砺市に住んでいる方々にお任せしておくだけで終わるのでなく、教会共同体の具体的な働きかけと励まし合う姿勢が必要となると思います。そのため、今週の南砺市礼拝から神の家族の協力を受け、伝道所へのビジョンを具体化していきたいと願います。願わくは、宗教改革の季節を迎え、生み出す教会としての新しい革袋を備える小泉町教会、また神の家族でありますように…。シャローム!


2022.10.16 本日の宣教

 『御言葉に立ち返る』~ヨシヤの宗教改革~

            (列王記下22:8~13)

1517年10月31日、当時34歳の若き神学教授であったマルティン・ルターは、ヴィッテンベルク城内の教会の扉に、カトリック教会の免罪符販売に反対する95箇条の論題を貼ります。ここから宗教改革が始まるのです。

ルターが掲げた宗教改革の3大原理は「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」でした。この土台の上で宗教改革は揺らぐことなく成し遂げられたのです。

宗教改革の季節を迎え、本日は、旧約聖書の時代においても同じく行われた宗教改革の出来事を分かち合う中で、今の私たちに求められる信仰について確かめたいと思います。

本日の御言葉の登場人物は、8歳という幼い時に南ユダ王国の第16代目の王となり、ヨシャファト王、ヒゼキヤ王と共に主の目に正しい道を歩んだ王として称賛を受けているヨシヤ王です。彼についての聖書の紹介を見ると、「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。(22:2)」とあります。特に、「右にも左にもそれなかった」という称賛は、多くいる王の中でも、ヨシヤ王だけに使われていることが分かります。それほど、ヨシヤの信仰姿勢が、脇見をせず、まっすぐに前に向かって進んだということでしょう。これほど、ヨシヤは神の御心を行うことを第一とした王でした。そしてヨシヤ王が26歳になった時、彼は宗教改革を断行することになりますが、それはエルサレム神殿を修理していた時に見つかった律法の書がきっかけとなって進められることになります。

聖書時代から今現代に至るまでの歴史の中で起きたすべての宗教改革は、聖書を再発見し、御言葉に立ち返ることから始まったことを覚えましょう。

大祭司ヒルキヤがエルサレム神殿を修理する中で律法の書を見つけ、ヨシヤ王に渡します(8節)。ヨシヤ王は律法の書の御言葉を聞いた時、即、衣を裂きます(11節)。なぜならば、彼の心を揺さぶった御言葉の前にそのままにしていることができなかったからです。聖書を見ると、ヨシュア、ダビデ、ヨブ、ヒゼキヤ王など、神の御言葉に罪を示され、心を打たれた者は、御言葉の前で着ていた衣を裂きました。ここで「衣を裂く」というのは、極度の悲しみの表れであり、御言葉の前で自分の罪が明らかにされ、悔い改めの心情を表す行為でした。預言者ヨエルも、「衣を裂くのでなく、お前たちの心を引き裂け。(ヨエル書2:13)」と語ったほど、御言葉に立たされた人は悔い改めへと導かれるのです。その後、ヨシヤ王は御言葉に基づいて、さらに改革に励むことになったのです。

そうです。本当の改革は御言葉に打たれ、人間の限界と罪を認め、ただイエス・キリストにすがることから来を認めなければなりませんし、御言葉の前で私たちの生活そのものが裂かれ、聖霊に燃やしていただかなければなりません。その時、私たちは全く新しい者に変えられますし、私たちの前には新しい道が開かれることになるのです。今こそ、主の御言葉が語られる時、御言葉に打たれ悔い改める時、リバイバルの時です。ハレルヤ!


2022.10.16 小さな泉の恵み

 【はじめに】ドイツ・サマヨエル人の第2の手紙「赤ちゃんポスト」

 皆さん、「赤ちゃんポスト」って知っていますか?レイプなどで女性が妊娠をしてしまい、自宅やトイレで赤ちゃんを自分一人で産み、放置してしまう事件があります。つい先月も公衆トイレで赤ちゃんが放置されていたというような悲しい事件がありました。

 「赤ちゃんポスト」は、そのような赤ちゃんの命を救いたいという願いのもとで、2000年にドイツのハンブルグでベビークラッペというドイツ語の名前で始まりました。望まれない妊娠をした女性が赤ちゃんを誰にも知られずに匿名で託すことができる仕組みです。同年には、リューベックで二番目の赤ちゃんポストがクリスチャンの個人宅で始まりました。それ以降急激に増加し、ドイツ全体で約100ヶ所に赤ちゃんポストができました。

 日本では、熊本の慈恵病院が2007年に「こうのとりのゆりかご」という名前で赤ちゃんポストを始めました。15年間で161人の赤ちゃんがここに託されています。しかし、日本ではそれ以来他には赤ちゃんポストができていません。私がドイツに行った理由の一つは、ドイツで始まった赤ちゃんポストを訪問し、実態を調べるということでした。

そして、今日は神戸と熊本に日本の赤ちゃんポストについて学びに行きます。 つづく         

                                島田 茂


2022年10月11日火曜日

2022.10.9 本日の宣教

 『 主が望まれる教会⑥(フィラデルフィア教会①) 』      

 ~開かれた門を持つ教会~                ヨハネの黙示録3:7~13                                                    
 本日はヨハネの黙示録の7つの教会のうち6番目の教会であるフィラデルフィア教会への主イエスのメッセージを分かち合いたいと願います。
 「フィラデルフィア」という町の名前は、フィロス(愛)とアデルフォス(兄弟)という二つの言葉が合され「兄弟の愛」と呼ばれるようになりました。実は、その名前が付けられたのも、ペルガモン王国時代にこの地域を実際に統治していた兄弟のエウメネス2世とアッタロス2世による兄弟愛の物語が語り継がれ、町の名前になったのです。フィラデルフィアの町は他の町より歴史が浅かったのですが、小アジアの海岸と内陸をつなぐ貿易上のとても重要な都市でありました。また偶像が多く崇拝され「小さなアテネ」と呼ばれるほどでした。ちなみに地震も頻繁に起こる町でもありました。
 フィラデルフィア教会は黙示録の7つの教会の中で最も模範的な教会とされ、スミルナ教会と同様に、主イエスからの叱責の言葉は見られず、褒め言葉と励ましの言葉だけが語られています。
 まず、主イエスはご自身について、「聖なる方、真実な方、そしてダビデのカギを持っておられる方」として紹介しておられます。その中でも「ダビデの鍵を持つ方」という紹介が目に留まります。この表現はイザヤ22:22の引用だと思われます。すなわち、ダビデの子孫であるイエスがダビデの鍵をもっておられ、主イエスを通らなければ神の国に入ることができないことを表わし、鍵をもっているという意味は、その方こそ「主権者、支配者」であることを指します。その通り、救いの鍵をもっておられる主イエスが私たちの人生の中で置かれているすべての門の鍵となってくださるのです。しかも、「この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。(7節)」となります。…
しかし主イエスは、フィラデルフィア教会の信徒たちへの称賛の言葉を通して、鍵をもっておられる主イエスが、開かれた門を「あなたの前」、つまりフィラデルフィア教会の信徒たちの前におかれたと語られます。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。(8節)」…開かれた門をおかれた理由こそ、彼らが「力は弱かったが、神の御言葉を守り、その名を裏切ることはなかった」からでした。
 主イエスは、「弱く小さな力しかもっていなくても、命をかけて真実な主の言葉を守り抜き、どのような状況においても主イエスを知らないと裏切ることがなかった」フィラデルフィア教会の信徒たちを喜ばれ、救いの門を常に開いてくださっています。今も同じくフィラデルフィア教会のように「弱い力しかもっていなくても、福音の御言葉を命がけで守り、主イエスの御名を誇り証しする教会とキリスト者」を喜ばれ、彼らの前に開かれた門と鍵をくださることを約束されます。これはいかに素晴らしいことでしょうか。主イエスは力強い者、立派な礼拝堂、誇れるようなプログラムや外見を求めておられません。むしろ、弱さをもっていながらも主を喜び、御言葉を愛し信仰を貫く人を祝福されるのです。ハレルヤ!
                                   (つづく)

2022.10.9 小さな泉の恵み

 「究極の勝利」

ぼくたちは、死なずに生きるために、自分ができることはなんでもする。

だが神は、ぼくたちが生きるためには死ななければならないと言われる。

地に蒔かれた種が生長するには、一度、死ななければならない。ぼくたちには究極の悲劇にしか見えないものを、神は究極の勝利として見ておられるのだ。

 クリスチャンが死ぬとき、それは絶望のときではなく、信じゆだねるときである。

 種が埋められ、核を取り巻く物質が腐敗するのとまったく同じように、ぼくたちの肉体も埋められ、腐敗するだろう。

 けれども、埋められた種が新しい身体として開花することだろう。(中略)

 地に埋められた種は、天で花を咲かせる。あなたの魂と身体はふたたびひとつになり、あなたはイエスのようになる。


                         マックス・ルケード著

                         「みことばの宝石」から


2022年10月5日水曜日

2022.10.2 牧師室便り

 ~ 牧師が苦しい時 ~

  先週の楽しい聖書の学びが終わったところで、S兄が突然救急に運ばれたとの知らせが届きました。S姉はご主人が救急で運ばれたことを聞くや否や病院に駆けつけられました。その後、S姉からの報告があり、S兄が危篤状態であるとのメールをいただきました。その後、医者の方から「今晩を越せないかもしれない!」との言葉を聞いてから、S姉から牧師の祈りを求める電話がありました。すぐ駆けつけて病室の方に上がろうとしたところで、看護師の方から“いや、今は家族や親族も面会ができない場合があるし、牧師も他人なので病室に入ることはできない!”と断られてしまいました。そこでS姉の切なる要望もあり、看護師の方は誰も入っていない小さな部屋を用意してくださって、短い時間でしたが、S兄の癒しとご家族の上に主の助けと慰めを祈ってから帰ってきました。牧師の働きの中で優先すべきことが、病床の方への牧会です。しかも生と死の瀬戸際に立たされている方であればなおさらのことです。

 主イエスも公生涯において、病床にいる人々を訪ね祈られ癒してくださいましたし、それを重んじておられたことを知っています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12,13)」…主イエスはいつも病人、弱者、罪人、飢え乾いている人を訪ねられ、彼らを癒し、慰め、励まし、強めてくださいました。キリスト者、その中でも牧師は主イエスに倣い、その足跡に従って歩む人でなければなりません。だから常に恐れ慄きつつ、主の御声に従おうと備えているわけです。その中でも、突然倒れられたり、事故に遭われたりされた方のもとに駆けつけ、その方と手を合わせ主の癒しと助けを祈り求める時が牧師にとって大切な時であり、それができない時が牧師にとって苦しい時なのです。

  コロナという厳しい壁を前にして病院や医療関係者の皆さんのご苦労に感謝しつつも、一日も早く対面の面会が回復され、病の中にある方々と手を合わせ、またその体の上に手を置いて祈ることができますように、また、今も病床で厳しい時を過ごしているS兄とご家族、またY姉、弱さを覚えている方々の上に主が伴ってくださることを祈りましょう。主は弱さの中で働かれ、十字架の愛をもって神の子どもたちを強くしてくださるお方です。シャローム!


2022.10.2 本日の宣教

『 あなたが抱いている希望は? 』(Ⅰペトロの手紙1:3~4、3:15~16)

Ⅰペトロの手紙が書かれた当時は、キリスト教への迫害が大変厳しい時でした。そのため、初代教会の信徒たちは、周辺の地域に散らされて過ごすしかありませんでした。ペトロはその中で、小アジア地域を中心に散らされている信徒たちを励ますために手紙を書いたのです。

この手紙で、ペトロが定義している「キリスト者」とは、神に選ばれた者であり、真の故郷を離れてこの世に「散らされて、一時的に仮住まいをしている旅人」として描いています。さらにペトロは、彼らは確かな天の故郷への希望をもって生きているものであり、その希望こそ、「生き生きとした希望(1:3)」であると教えます。手紙の中で、ペトロは「生き生きとした」という言葉と「希望」という言葉を好んで使っていることが分かります。しかもその希望について、「朽ちず、けがれず、しぼまない(1:4)」特徴をもっていると、その約束のゆえに今現在の試練と迫害に勝利することができると教えています。その将来の約束があるからこそキリスト者は、今喜びの賛美の声を上げることができますし、尋ねてくる人々に応答することができるのです。

迫害と苦難にさらされながらも信仰を貫いていたキリスト者たちの姿を不思議に思っていた人々は彼らに尋ねてきました。「なぜあなたたちは、これほどまで迫害を受け試練にさらされながらも信仰を諦めないのか。何か特別な理由や希望があるのか」と。…ペトロは、そのように尋ねてくる人々に対してどう答えるべきかについて教えます。

「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(3:15)」…ペトロは、自分のうちにある希望について説明を要求する人には、「誰にでも、いつでも」弁明できる備えをしておく必要があると教えます。まさに、暗闇の世界に生きる未信者の人々は、厳しい試練や迫害のただ中に置かれながらも「生き生きとした希望」に満たされて生きているキリスト者の姿を見て不思議に思い、その信仰について、生き方について、またその希望について尋ねることになっていたわけです。キリスト者はその時のために、いつでも弁明できるようにしておかなければならない。そして弁明する時には、傲慢にならず、常に穏やかに、敬意をもって、正しい良心の上で弁明するようにと示されています。ここで言う「弁明する」とは、受動的な弁明や弁護ではなく、積極的に確信している福音について明らかに告げること意味します。しかも、弁明の時の姿勢として、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」と、神と人の前でふさわしい姿で弁明すべきであるのです。

統一協会やカルト宗教で騒がれている近頃の日本社会において、私たちが正しい福音を伝えるチャンスはそうそうあるとは思えません。だからこそ、「光の子」として、常に心の中でキリストを主とあがめつつ、愛に基づく善い行いを、そして生き生きとした希望を抱いている者として人々の前に現れるべきです。その姿に引かれ、心動かされた人々に、折が良くても悪くても大胆に福音を宣べ伝える小泉町教会の神の家族でありますように…。ハレルヤ!


2022.10.2 小さな泉の恵み

 「流域治水」という単語をご存じでしょうか。これは近年の水害の激甚化・頻発化を受け、これまで行ってきた堤防の整備やダムの建設といった対策だけでは洪水を防ぎきれないとして上流から下流のすべての関係者が一体となって行う水害対策です。具体的には、洪水時に上流の田んぼに水を通常時より多く貯める「田んぼダム」や、大雨の前にダムや堰、ため池などの水位を事前に下げて貯めることのできる容量を増やす「事前放流」などがあります。しかしながら、これらの対策には簡単に見えて大きな課題が立ちはだかっています。

標高が高い上流で降った雨は速やかに下流に流れていくので上流では洪水は発生しません。つまり上流の人々や団体が「田んぼダム」や「事前放流」をやっても何の得にもならないのです。かえって「事前放流」をしたのに雨が想定より降らず、十分な利水用の水が確保できない、などの懸念事項が多く、非協力的な方がまだまだ多いのが現状です。河川事務所で働いている私も自治体や防災関係の方と話す際にこの課題に直面し悩むことが多いです。

イエス様が「汝の隣人を愛せ」と言われるように、流域に暮らす人々皆が助け合って治水に取り組むことで「流域治水」は効果を発揮します。流域全域の人が喜んで治水に協力してくれるような環境づくり、政策作りに将来的に取り組んで参りたいと考えています。

                               K.M.兄