2026年4月27日月曜日

集会案内(変更)

主日礼拝  10時00分~11:20分 (※5月から礼拝開始時間が10時00分に変更されました。)

教会学校 11時20分~12時00分

  (クラス分け:小学科、中高生、新来者・求道者、大人①②)

   ・ 昼食   12時00分~

聖書の学び 10時00分~12時00分

水曜祈祷会① 10時30分~12時00分
       ② 19時30分~21時00分

※ チヂミカフェ(毎月二週目(日)15時00分~17時00分)
※ 小さな泉の村(毎月二週目(土) 9時30分~12時00分(場所:サン・フォルテ2階)

†随時、日曜の夕礼拝、家庭礼拝を行っています。詳しくは、教会におたずねください。
†バプテスマを決心された方、転入会を希望される方、相談を希望される方はご遠慮なく牧師までどうぞ!

2026.4.26 牧師室便り

「 試練を越えて、主と共に歩む 」

先週、主日礼拝の準備を進める中で、神の家族の方々から次々と予期せぬ知らせが届きました。車の故障、急な体調不良、大切な物の紛失、さらには転倒による入院や交通事故。加えて、突風によって教会の窓ガラスが無残に割れるという出来事まで重なりました。

一気に押し寄せたこれらの試練を前に、牧師として胸が締め付けられる思いでした。しかし、これら一つひとつの出来事は決して偶然ではありません。私たちは今、まさに「霊的戦い」の渦中にあります。悪しき者からの揺さぶりであると同時に、私たちの信仰が試される神からのテストでもあるのです。

このような時、私たちは目に見える現象に振り回され、不安や恐れに心を支配されてはいけません。むしろ、今こそ霊的なアンテナを高く掲げ、神の御顔を仰ぎ見る時です。これこそが神の恵み、その大いなる御力を体験できる「恵みの時」であると心に刻みましょう。

本日、私たちは2026年度の定期総会を迎えます。世界情勢は不安定で、いつ終わるともしれない戦争や自然災害の脅威が、私たちの日常を脅かしています。今年度、私たちの歩みにはさらなる困難が待ち受けているかもしれません。しかし、だからこそ神の家族である私たちは、聖霊の力によって心を一つにする必要があります。

互いに執り成し合い、祈り合い、主の恵みを共に求めようではありませんか。小泉町教会を通してなされようとする神の業に期待し、力強く歩み出しましょう。

2026年度、私たちの教会の歩みの上に、主の豊かな恵みと祝福が注がれますようにお祈りいたします。シャローム。



2026.4.26 本日の宣教

 『 力と愛と思慮分別の霊によって 』  

                     テモテへの手紙 二 1章7節

現代社会は、かつてないほどの不確実性からくる不安に包まれています。終わりのない戦争や紛争、頻発する地震などの自然災害、AI(人工知能)の爆発的進化による不安。こうした激動のさなか、キリスト者として、また教会としてどう歩むべきでしょうか。聖書は今、私たちに必要な指針をどう示しているでしょうか。

使徒パウロが若き弟子テモテにこの手紙を書いたとき、彼は投獄され、死の影が間近に迫っていました。教会の指導者であったテモテ自身も、教会内外の困難を前に気弱になっていたことが伺えます。そこでパウロはテモテに対し、神が私たちに与えてくださったのは「おくびょうの霊」ではないと語りかけました。

「おくびょう」とは、単なる性格の問題ではありません。それは、神の支配よりも目に見える脅威や問題を大きく見積もってしまう不信仰の現れです。「戦争がこのまま広がったらどうしよう」「AIによって仕事を奪われたらどうしよう」「病にかかったら?地震が発生したら?」など。

しかし、パウロは断言します。「そのおくびょうさは、神から来たものではない」と。私たちが不安に飲み込まれそうになるとき、それは聖霊によるものではなく、世の霊、あるいは肉から来るものです。キリスト者はまず、この「おくびょうの霊」が自分の内に根付くことを拒絶しなければなりません。

神は、臆病に震える私たちを放置されません。代わりに、三つの明確な性質を持つ聖霊を注いでくださいます。これこそが、今を生きる私たちが備えるべき「武具」です。

まず、聖霊は「力の霊」です。ここでの力とは、困難の中でも福音に立ち続ける霊的な強さを指します。ペンテコステの日、弟子たちが聖霊を受け、恐れから大胆さへと変えられた「あなたがたの上に聖霊が降るとき、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)という、あの力です。

続けて、「愛の霊」です。神が与える力は、必ず愛と結びついています。愛がなければ、力は独善的な暴力になりかねません。聖霊によって注がれる愛は、他者のために自分をささげる愛であり、恐れを締め出す「完全な愛」(第一ヨハネ4:18)です。

最後に、「思慮分別の霊」です。これは「自己コントロール」や「健全な判断力」とも訳されます。つまり、感情に振り回されず、神の視点から物事を冷静に判断する知恵です。常に自分を慎み、なすべきことを見極める力。これが聖霊のバランス感覚です。

私たちは、自分の力で「力」や「愛」や「思慮分別」を作り出すことはできません。これらはすべて、聖霊から「与えられる」ものです。私たちはただ、自分の中に住まう聖霊に心を開き、その導きに委ねるのみです。

「力と愛と思慮分別の霊によって」。この御言葉を胸に刻み、聖霊と共に歩む2026年度の日々が、常に証しで満ち溢れますように。ハレルヤ!


2026.4.26 小さな泉の恵み

 『イエス様の不思議な導き』

閉店した『銀巴里』という銀座にあったシャンソン喫茶の元プロデューサーの夫人で、プロの歌手である秋篠樹里亜さんのスタジオに、亡くなった兄が生前、私たちの実家にあったピアノを贈呈していたことを知りました。その際に兄は、浅利さんという調律師を紹介しました。

浅利さんが初めてこの歌手のスタジオに伺った際に、彼女は夫を亡くされた悲しみを紛らわすために、窓の外に向かって歌いながら祈っていたそうです。その祈っている方向に船橋バプテスト教会があることに気づき、浅利さんは、この方に教会に行って祈ってくださいと伝え、イエス様についてお話したそうです。

その後樹里亜さんは、教会に通うようになり、イエス様を信じてバプテスマを受けたそうです。浅利さんは、バブ連多摩川教会の信徒だったのです。先週、浅利さんを通して樹里亜さんから長いメールが来ました。メールの終わりに以下の言葉が書いてありました。

「不思議なめぐり合わせ。それを知らせてくれた聖霊のお働き。私にピアノを下さった島田さん、ご紹介の調律師さんの浅利さん、浅利さんがお向かいの教会と同じ連盟のメンバーだった事。・・・これが、島田さんと私のピアノとの不思議なお話です。人は亡くなると、生きている間には出来ない不思議な力で、こんなめぐり合わせをしてくれるのかな。」

兄島田実は、クリスチャンではありませんでした。晩年は、枕元に聖書と讃美歌が他の多くの本と一緒に枕元においてありました。イエス様がよみに降り、兄を天に引き上げてくださっていることを祈ります。

                            島田 茂

2026.4.19 牧師室便り

  「 真の王に従え! 」

世界は今、アメリカ、イスラエル、そしてイランの間で続く戦火によって深く傷ついています。原油価格は高騰し、ホルムズ海峡の封鎖危機に世界中が翻弄されています。

開戦から一か月が過ぎ、ようやく停戦協議の兆しが見え始めたものの、「この戦争は何のためだったのか」という問いに対し、私たちは言いようのない虚無感と悲しみに包まれています。失われた尊い命の重さを思うとき、その痛みは計り知れません。

そのような中、アメリカのドナルド・トランプ大統領がSNSに投稿した画像が波紋を広げています。これまでも自らを王やローマ教皇になぞらえてきた彼ですが、今回はついにイエス・キリストの姿に自らを重ね、あたかもメシアであるかのような象徴化を行いました。これは単なるパフォーマンスの域を超え、権力者が自己を神格化しようとする危うさを露呈しています。

歴史を紐解けば、自らを「神の子」と称したローマ皇帝のように、人が神の座に座ろうとするとき、そこには常に数多くの悲劇が生まれてきました。権力者に真に求められるのは、自己の神格化ではなく、人々に仕える謙虚な姿勢です。

復活の主を覚えるこの季節、私たちは今一度「誰を真の王としているのか」を問い直す必要があります。真の王こそ神お一人であることを心に刻み、この困難な時代を歩まねばなりません。

一日も早く戦火が止み、人々に仕える政治が実現するよう、そしてトランプ大統領やネタニヤフ首相をはじめとする指導者たちに悔い改めの心が与えられるよう、切に祈り求めます。「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。(詩編97:1)」 シャローム。



2026.4.19 本日の宣教

 『 イエス救いの名のゆえに 』  

                       使徒言行録4章10~12節

キリストの復活を体験した人を象徴する言葉は、「変化」です。復活の主イエスに出会った人は、例外なく大きな変化を経験します。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者である」(Ⅱコリント5章17節)とあるように、古いものは過ぎ去り、新しい命が始まるのです。たとえ外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされていきます。

この「変化」を最も劇的に示した人物がペトロです。彼はイエスの弟子でありながら、捕らえられた主を前に恐れ、「あんな人は知らない」と三度も否認した臆病な人物でした。しかし、使徒言行録4章では、同じペトロが最高法院の前に立ち、恐れることなくこう宣言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません」。かつての彼からは想像できない姿です。

なぜ彼はこれほどまでに変えられたのでしょうか。第一に、復活という事実です。ペトロは、十字架の絶望の後に復活の主と出会い、「死さえも神の力に打ち勝てない」と確信しました。この事実が彼の人生の土台となり、恐れを乗り越える力となったのです。

第二に、価値観の転換です。彼は「捨てられた石が隅の親石となった」という御言葉を通して、人間の評価ではなく神の評価に生きるようになりました。失敗者と思っていた自分も、神にあっては用いられる存在であると知ったのです。 第三に、「イエスの名」にある唯一の救いの確信です。これは排他的な主張ではなく、確かな救いを見いだした者の喜びの告白です。溺れる者が一本の確かなロープをつかむように、ペトロはこの名にすべてを委ねました。

聖書は今日、私たちに告げています。ペトロを臆病者から勇者へと変えた「イエスの名」の力は、今も全く衰えていないということを。

私たちもまた、この物語の外側にいるのではありません。ペトロを変えた同じ主が、今も生きておられます。  そして同じ御名が、今も私たちに与えられています。弱さを抱えたままであっても、この名のゆえに新しくされ、この名のゆえに立ち上がることができるのです。

「イエス、救いの名のゆえに」。この言葉が、単なる標語ではなく、私たち自身の生き方となるとき、そこに新しい人生が開かれていきます。ペトロのように、過去に縛られるのではなく、恵みによって押し出される歩みが始まるのです。

ペトロを劇的に変えたその同じ愛が、今日、神の家族お一人お一人にも向けられています。この「救いの名」に信頼して、「救いの名のゆえに」新しい一歩を踏み出そうではありませんか。ハレルヤ!


2026.4.19 小さな泉の恵み

 『小泉町教会のあの方へ』

わたしのいる教会では、今新・旧約二つの聖書通読日程が並走しています。新約のほうは、使徒言行録。このまえ15章で、異邦人の信仰についてエルサレム教会が聖霊のもと全員一致で定めた奨励文を、バルナバとパウロがアンティオキア教会に持ち帰り、皆がそれを読んで喜んだ場面です。このとき、小泉町教会で「アンティオキア教会」の話がお好きなある方のことを思い出しました。一方、旧約は今申命記。「聞け、イスラエルよ=シェマ、イスラエル 」が、かたくなな民への神のせつなる呼びかけであることを学び、「シェマ・イスラエル」の呼びかけもその方はお好きだよなぁと、また思い出しました。そしたら、おりしも閔牧師から、その方が緊急入院されたのでお祈りください!というLINEのメッセージが届きました。聖霊がその方を思い出して祈るように、先立って呼びかけてくださったのでしょうか。そんな神の守りがありますからきっと大丈夫。御回復お祈りしています。          

                        S.M.姉

2026.4.12 牧師室便り

 「 変わる時代と変わらない信仰 」

近年、私たちの周りでは「速さ」や「効率」が重視される傾向が強まっています。先日行われた町内会の定期総会でも、その変化を実感しました。以前は年配の方々が会長を務め、総会は1時間以上かかることもあり、各議案について意見交換が行われていました。しかし最近では若い世代が中心となり、議事進行は非常にスムーズで、先日の総会はわずか20分で終了しました。議案は簡潔に提示され、拍手によって次々と承認されていきました。

このような進め方は時間の節約になり、衝突も少なく、効率的であると言えます。その一方で、本来議論されるべき内容が十分に扱われていないのではないかという思いも残りました。この感覚は、現代社会における「アナログ的な丁寧さ」と「デジタル的な迅速さ」の違いを象徴しているように感じます。

同様の変化は教会生活にも見られます。かつては総会や礼拝に十分な時間をかけることが当たり前とされてきましたが、現代ではそれを負担に感じる人も増えています。しかし聖書の時代を見ると、人々は長時間にわたり教えに耳を傾け、神との関係を大切にしていました。そこには効率ではなく、深い求めと交わりがありました。

便利さが増した現代においてこそ、私たちは「時間をかける価値」を見直す必要があるのではないでしょうか。礼拝や祈り、ディボーション、そして信徒同士の交わりは、効率では測れない大切な営みです。教会は単に世の流れに合わせるのではなく、神の導きの中で歩む共同体として、本質を大切にしていくことが求められていると感じます。シャローム。


2026.4.12 本日の宣教

 『 復活の主が望まれること 』 

                       ヨハネによる福音書21章15~19節

本日の御言葉は、聖書全体の中でも最も美しく、感動的な場面の一つです。

復活の主が最初にされたことは、弟子たちのもとを訪ねることでした。そして本日の御言葉では、主イエスが愛弟子ペトロを訪ね、彼を回復される場面が描かれています。ペトロが失っていた「召命」の回復と「キリストとの関係」の再確認を通して、再び神の働き人へと招かれる、主イエスの温かい愛の御業が示されています。

主イエスはペトロが主の十字架の死の後、ずっと心に抱えていた傷をご存じでした。それは、イエス・キリストを三度も知らないと言い、しかも呪いながら否認してしまったことです。そのためペトロは、復活された主イエスに出会いながらも、その目をまともに見つめることができなかったことでしょう。

そのことをよく知っておられた主イエスは、彼を回復させたいと願われました。そして三度の問いかけを通して、それを確かめられました。「あなたはわたしを愛しているか」という問いによって、彼の愛の回復へと導かれたのです。

働き人にとって最も大切なことは、主イエスを愛するかどうか、すなわち召命の確認とその回復にあります。現代の多くの牧師や教会の働き人の中にも、かつて主イエスと出会い、与えられた召命を忘れてしまったために、無気力や憂鬱に陥る人々がいます。それは今も同じです。 私自身も、主イエスのために生きるという召命を受けた日から、時に働きに疲れ、無気力になることを経験します。そのようなとき、私のうちにおられる聖霊は、いつも私を主イエスとの最初の交わりの場所、すなわちイエス様の愛に触れた原点へと導いてくださいます。

復活の主は、私たちに特別な能力や働きを求めておられるのではありません。むしろ、主イエスとの関係の確かさ、その愛の回復を何よりも望んでおられるのです。

ペトロは三度「あなたを愛しています」と答えます。彼は自分の失敗と弱さを知っていました。それでもなお、「あなたを愛しています」と答えるしかありませんでした。主イエスはその不完全な告白を受け入れてくださいます。

ここに大きな慰めがあります。主は完全な人を求めておられるのではありません。むしろ、弱さを抱えながらも主を愛そうとする心を求めておられます。教会の働き人として立つとき、私たちはしばしば自分の不十分さに気づきます。しかしそのときこそ、「それでも主を愛していたい」と願う心が、主に用いられるのです。

復活の主が望まれるのは、華やかな成果ではありません。主を愛し、その愛のゆえに人に仕え、そしてどのような道であっても主に従い続けることです。そのような働き人を通して、主は今日もご自身の羊を養い続けておられます。ハレルヤ!


2026.4.12 小さな泉の恵み

 まだ農業に就いて間もない頃、軽トラが田んぼから出られなくなり、先輩にトラックで引き上げて貰っている時、加減がわからずエンジンを吹かすと、「だら(馬鹿)!そんなに吹かしたら出れるもんも出られんなるわ!」と先輩に怒られました。大の大人が大人に怒られてまるで『ドリフ』だよと思っておかしくなりました。「ドリフ」とはザ・ドリフターズという私が子供の頃大人気の音楽バンド、コントグループです。志村けん、加藤茶、仲本工事、高木ブーらが次々とボケるのをいかりや長介が叱るというコントで日本中のお茶の間を沸かせました。今、怒られて気落ちしたり、逆に誰かを叱って言い過ぎたことを後悔している人はいませんか。そんなこと神様から見たらドリフのコントのように笑っておられるかも知れませんね。怒られてばかりの私が言うと叱って下さる方を更に怒らせてしまうかも。ドリフのコントで志村けんが後ろのオバケに気付いていないように演じていると、大声で「志村!うしろ!」と客席から叫ぶのも定番でしたが、もし私が様々な場面でわかってないなと思われた時には「坂上!うしろ!」みたいに教え諭して下さい。

「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。(箴言27:5)」   

                             S.Y.兄

2026.4.5 牧師室便り

 「復活の主にすべてをゆだねて」

新年度を迎え、私の家族について思い巡らしています。 

先週の金曜日、軍生活最後となる休暇を終え、三週間を富山で過ごした息子が韓国へと戻っていきました。部隊で一泊した後、約一年半にわたる軍務をすべて終えることになります。この期間は、彼にとって心身共に鍛えられ、多くの学びと成長が与えられた貴重な時間であったに違いありません。今まさに、彼は一人の青年として、新しい人生の一歩を踏み出そうとしています。 

一方で、娘はこの春から高校三年生になります。富山で生まれ育ち、これまで一度もこの地を離れたことのない彼女にとって、来年進むであろう韓国での大学生活は未知の世界であり、大きな挑戦でもあります。言葉は理解できても、文化や生活環境の違いからくる不安や戸惑いは計り知れないでしょう。しかし、それは同時に、彼女の人生に用意された新しい可能性へと繋がる「希望の扉」でもあります。

私たち夫婦もまた、富山での歩みが十九年目を迎え、この十月にはいよいよ二十年という大きな節目を迎えます。振り返れば、月日の流れの速さに驚くばかりですが、今日まで守り導いてくださった主の恵みを思うとき、ただ感謝の思いがあふれます。 

新年度を迎え、家族一人ひとりが主の臨在の中で歩み続けられるよう願ってやみません。復活の主が常に共にいてくださり、それぞれの歩みを導き、支えてくださることを確信しています。新しく開かれる道とすべての出会いが豊かに祝福され、それぞれの置かれた場所で豊かな実を結ぶことができますように。私たち家族を通して、周囲の方々にも主の平安と恵みが分かち合われていくことを願いつつ、これからの歩みをすべて主に委ねたいと思います。 シャローム。 



2026.4.5 本日の宣教

 『キリストと共に死に、共に生きる 』 

           ルカによる福音書24章5~6節、ローマの信徒への手紙6章5~11節

イースター、おめでとうございます‼ この朝、主の復活を共にお祝いできることを心から感謝します。

2000年前のあの朝、婦人たちは愛する主イエスの十字架の死を受けて深い悲しみの中にいました。彼女たちが手に持っていたのは、死体に塗るための香料です。彼女たちが期待していたのは、愛する主の「なきがら」との再会でした。つまり、彼女たちの視線は「死」という動かしがたい現実、過去という行き止まりに向けられていたのです。その時の御言葉に耳を傾けましょう。

「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。』」

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。  これは単なる居場所の確認ではありません。私たちの信仰の向きを、根本から変えさせる問いかけです。「イエス・キリストは、そこにはおられません。墓の中にはおられません。」・・・主イエスは、十字架の死をもって私たちの罪を背負い、三日目に死の力を打ち破って復活されました。墓は空であり、主は今も生きて、私たちと共に歩んでおられるのです。そして、この「復活」という出来事は、歴史の中で起こった確かな出来事でありますし、単なる歴史上の奇跡で終わるのではありません。

使徒パウロはここで、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿 にもあやかれる」と語ります。これは単なる未来の希望ではありません。キリストの十字架によって、私たちの古い人が死んだならば、同じくキリストの復活によって、私たちも同じく復活の姿に生かされることになるのです。

ですから、イースターは、ただキリストが復活されたという出来事を記念する日ではなく、キリストの復活が「私たち自身の復活」となっていることを喜ぶ日です。「罪に縛られていた古い生き方は終わりを告げ、今や私たちは神に対して生きる者とされた」という福音がここに告げられています。つまり、復活は遠い出来事ではなく、今日の私たちの生き方を変える力なのです。弱さや不安、過去に縛られるのではなく、復活の主とともに新しく歩むことができる、これが福音の確かさです。

復活の主は今も生きておられ、私たちと共におられます。このお方に結ばれている限り、私たちの歩みは決してむなしくありません。どのような状況の中にあっても、新しい命が与えられ、永遠の希望が開かれているのです。

イースターのこの朝、私たちはもう一度確かめたいと思います。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に復活するということを。その復活の命は、今すでに与えられ、とこしえまで、復活の主とともに新たな一歩を踏み出すことになるのです。                  ハレルヤ!


2026.4.5 小さな泉の恵み

 イースターおめでとうございます!!

桜の花が満開を迎え、新しい年度が静かに歩み出しました。

世界では不安な出来事が続き、アメリカとイランの戦争の影は私たちの心にも重くのしかかっています。しかし、そのような暗さのただ中で迎える今年のイースターは、いつも以上に深い意味を持って迫ってきます。

私たちの救い主イエス様は、私たちの罪の贖(あがな)いのために十字架の苦しみを通られ、三日後に復活されました。絶望の底に光が差し込むように、復活の出来事は「どんな闇も光には勝てない」という神の約束を私たちに示しています。桜が冬の寒さに耐えて花開くように、主は私たちの歩みにも新しい命と希望を注いでくださいます。

主が愛して下さる富山小泉町キリスト教会が、2026年度も、復活の主に目を向け、世界が揺れ動く中でも、主の光に照らされて、平和を祈りつつ歩む群れでありますように。主から頂く大きな愛を、互いに分かち合い、互いに執り成し合い、祈る群れでありますように。 

                                 S.Y.姉

2026.3.29 牧師室便り

 「すべてを新しくされる主と共に」

本日、私たちは2025年度最後となる第52回目の主日礼拝を迎えました。この一年、私たちは昨年同様「主の憐れみに生きる教会」という標語を掲げ、歩んできました。「小さな泉の村」や「小さな泉のカフェ」など、試練の中にある隣人に寄り添い、主の憐れみをもって助け合うという御言葉を実践しようと努めた一年でした。

目を外に向ければ、世界では絶えず戦争が繰り返され、その殺戮や経済的困窮、国家の在り方といった現実が、私たちの生活にも大きな影を落としました。 

そんな中、この一年、私たちの礼拝は神に捧げる「最善の礼拝」であったでしょうか。「主に喜ばれる生ける生贄として献げなさい」(ローマ12:1)という御言葉に照らし、自らの姿を省みざるを得ません。

次週のイースター礼拝から、2026年度という新たな52週の礼拝生活が始まります。私たちの礼拝は、決して慣習として「こなすもの」であってはなりません。毎回の礼拝が祝宴であり、喜びと感動、そして聖霊に満たされる体験であってほしいと願います。神の生き生きとした業が表される礼拝を、私たちは心から待ち望んでいます。
主は常に「新しいこと」をなされる方です。すべてを新しくされる主の御手に委ね、変えられていくことを期待しましょう。肩にのしかかる重荷や不安は尽きませんが、「重荷を下ろしなさい」と招かれる主の御声に「アーメン」と答え、主と共に、そして隣人と共に歩む恵み豊かな一年を過ごしてまいりましょう。
シャローム。

2026.3.29 本日の宣教

 『 神による救いの道 』 

                 マルコによる福音書11章1~11節

1)私の思い出。わたしは、1976年、5年務めた会社を辞め、26歳で献身し、牧師になるために大学の神学部に進むことを決意した時、親友のMさんが私に1枚の色紙をプレゼントしてくださった。そこには「主がお入り用なのです」との聖書の言葉とともに、ロバの子の絵が描かれていた。年下の彼は丁寧に励ましの言葉とお祈りの言葉を添えてくださった。

お世辞にも上手とは言えない貧弱な子ロバの絵がなぜか私の心を惹きつけ、今でも忘れられない思い出になっている。

 Mさんは、お母様が癌で早くにお亡くなりになり、お葬式を教会で行ったことがきっかけで教会につながり、青年会で一緒に大いに働いたものです。彼は教師の道に進み、先頃、中学校の校長を惜しまれながら定年退職した。教室には「信仰・希望・愛」の教育指針を掲げ、生徒たちを愛し続けた。

あの色紙は彼自身への励ましだったのではないかと思うことがある。

2)クリスチャンにとっての人生は、自分の思い通りに進むことが幸いなのではなくて、主が備えてくださった道と信じて歩むことが幸いなのです。

恩師の故三好敏夫先生は、次のような思いを綴っておられます。『基督者には個人的な野心、安楽、慰安、この世の出世を自ら進んで放棄しなければならない場合 がある。また、自分の夢を捨て、かいま見た名誉を諦めなければならない場合がある。クリスチャンは事実、自分の意思を犠牲にしなければならない。

クリスチャンは自分の思い通りに生きるのでなく、キリストのみ旨を実行しなければならない。

キリスト教にはいつも何かの十字架がある。キリスト教は十字架の宗教だからである。

クリスチャン生活には、安全第一主義はない。安易、安楽、安定、慰安、個人的な野心の達成を第一に求める人はそれを得ることができたとしても決して幸福ではない。なぜなら、クリスチャンは神と人に仕えるためにこの世につかわされているからである。

他人に仕える道、自分に対する神の目的をはたす道、真の幸福への道、それはささげて生きることである。ただこれだけが、この世でも、来るべき世でも命を得る道である。』と。

3)この主題を踏まえ、マルコ福音書の流れに沿ってエルサレム入城の意味を考察する。まず、弟子ヤコブとヨハネが栄光の座を求めた場面に対し、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために来た」と語り、自らの使命が他者への奉仕と自己犠牲にあることを明らかにする。イエスの生涯は誕生から十字架に至るまで一貫して「仕える」歩みであった。 

4)次に、盲人バルテマイの癒しの出来事が示される。彼は周囲に制止されても叫び続け、「ダビデの子よ、憐れんでください」と願い、ついに癒されてイエスに従った。この姿は、救い主への確信と、諦めずに信じ続ける信仰の典型を表している。

5)さらに、十字架の場面に登場するガリラヤの女性たちの存在から、エルサレム入城が突然の出来事ではなく、日常の交わりや小さな奉仕の積み重ねの延長にあったことが示される。イエスは親しい人々と共に歩み、その支えの中でエルサレムへ向かった。

6)ベタニヤ村は、イエスが安らぎを得た場所であり、病人や貧しい人々など社会から疎外された人々の集う場でもあった。そこから権力の中心であるエルサレムへ向かう対比は、神の働きが弱い者、小さき者の中から始まることを象徴している。

7)イエスがロバの子に乗って入城したことは、旧約の預言の成就であると同時に、力や権力の否定を意味する。馬が軍事的勝利を象徴するのに対し、ロバは弱さと無力を象徴する存在である。イエスはあえてそのロバを選び、力によらない平和の道を示した。

当時のエルサレムは宗教的・政治的権力が集中し、ローマ帝国の支配下で人々が抑圧されていた場所であった。一方、ベタニヤのような周縁の地には追いやられた人々が生きていた。この対比は、現代においてもなお、力による支配と弱者の苦しみという問題が続いていることを示唆している。

8)人々はイエスを迎える際、「ホサナ」と叫び、衣や枝を道に敷いた。これは本来「救ってください」という祈りであったが、当時は歓呼の声として用いられていた。また衣を敷く行為は王への忠誠を示すものであり、人々はイエスを王として迎えたが、その姿はロバに乗るという点で極めて質素であり、むしろ滑稽ですらあった。

9)過越祭の時期、エルサレムには多くの人々が集まり、犠牲の羊の血がキデロンの谷を流れるほどであった。その中でイエスは自らの死を覚悟しつつ入城した。この出来事は、アブラハムがイサクを献げようとしたモリヤの山の物語とも重ねられ、神ご自身が御子イエスをささげるという救いの計画が示されていると解釈される。モリヤの山はエルサレムと考えられている。

10)結論として、救いは人間の努力や功績によるのではなく、神が備えてくださるものである。人に求められるのは、主が示されるその道を信頼して従うことであり、バルテマイのように信じ、諦めず、委ねて歩むことである。キリスト者の生き方とは、自らをささげ、神と人に仕える歩みであり、そこにこそ真の命と幸福があるといえる。受難週の日々自らを顧み、その歩みを整えたいと思う。

                              島田 茂


2026.3.29 小さな泉の恵み

 ~ 和解の務め~

軍生活を振り返って、浮かんでくる言葉の一つは「和解」です。何か相容れないもの同士の一致和解は、幼い頃から私にとってとても美しく理想的なことでした。

日韓関係、政治的な対立、キリスト教会内の分裂など、色々な和解に惹かれ、悩み、夢見てきました。人間関係においても、争いが生まれる場合を嫌悪し、そのような状況を避け、むしろ仲介する立場を好んでいました。 

軍隊では避けることは不可能でした。週末もなく働くことも、最前線の過酷な仕事も、憎い同僚との共同生活も避けられません。ぶつかり傷つき合うことが唯一できることでした。そうした中で、初めて真の恨みを体験したような気がします。ダビデの呪いの詩が現実となった初めての経験でした。ただ祈り、自然にその中で生きることが、できる最善のことでした。

 「和解の務め」(Ⅱコリント5:18-19)があるクリスチャンとして、依り頼み、見習うべきはキリストの十字架、彼によって成し遂げられた義。自らを与える愛が必要です。そのことに気づく時、主は実際働かれます。全て書き尽くすことはできませんが、学んだ沢山のことを憶えて、これからの「和解の務め」の道を主と共に歩んでいきたいです。

                               M.J.兄

2026.3.22 牧師室便り

 「能登の地に輝く希望の光」

来る3月26日に開催される能登被災地支援活動「小さな泉のカフェ」に、能登町で長年宣教を続けて来られたカナダ人のドン・・ニッカーソン宣教師ご夫妻(能都聖書教会)が参加されます。能登町において唯一のキリスト教会である同教会は、厳しい宣教環境の中にありながら、現在もご夫妻と信徒2名で忠実に礼拝を守り続けておられます。

インターネットの情報だけでは地震後の活動状況が気がかりでしたが、先日のN兄による訪問により、現在も着実に伝道を続けておられることが分かり、大きな喜びに包まれました。先週、私が電話で「小さな泉のカフェ」へご招待した際にも、快く参加のお返事をいただきました。

当初、私たちは富山からの距離や継続の難しさを考慮し、現地の教会へ働きを引き継ぐことで一つの区切りとすることも検討していました。しかし、現実的には厳しい状況です。そのような中で与えられた今回の出会いは、まさに神様のご計画であると信じます。

この交わりを通じて、先生ご夫妻が柳田地区の方々と深い信頼関係を築かれ、そこから自然な形で教会へと導かれる方々が起こされるなら、これほど素晴らしい恵みはありません。いつも話してきたことですが、「人との出会いは神の領域」です。その通り、この出会いを通して主の御業が成し遂げられ、豊かな実を結ぶことを期待したいと願います。

また、今回の交流が小泉町教会にも祝福をもたらし、新年度に向け新たなビジョンへの一歩となることを願ってやみません。福音伝道は、私たちの教会が立っている地だけでなく、主イエスが示されるところであれば、地の果てにまで出かける備えが必要です。そのために、祈りとともに聖霊の導きと満たしを待ち望みたいと願います。シャローム。



2026.3.22 本日の宣教

 『香油が注がれるところ』

                マタイによる福音書26章6~13節

受難節とは、主の十字架の愛を見つめる季節です。そして十字架の愛とは、人の計算を超えた愛です。父なる神が独り子を死なせ、罪人たちの身代わりとされた出来事です。さらに御子イエスは人々に裏切られ、見捨てられ、十字架にかけられました。しかしそれでもなお、人々を愛することをやめませんでした。十字架の愛は、損得では測れない愛です。

主イエスはベタニアで、重い皮膚病を患っていたシモンの家におられました。食卓を囲む穏やかなひとときの中に、一人の女性が近づいてきます。彼女は非常に高価な香油の入った壺を持っていました。そして、その壺を開き、主イエスの頭に香油を注いだのです。

突然の出来事に、その場にいた人々は驚きました。とりわけ弟子たちは強く反応します。「なぜこんな無駄なことをするのか。この香油は高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。

この女性が注いだ香油は、とても高価なものでした。当時の人々にとって、それは簡単に手放せるものではありません。おそらく彼女にとって最も尊いものだったのでしょう。それを彼女は惜しむことなく主に注ぎました。彼女は計算していません。合理性を考えてもいません。ただ、主イエスへの愛から行ったことでした。

この女性の行為は、主イエスの愛に応える愛そのものでした。彼女は自分の大切なものを惜しまずに注ぎ ました。人の目には無駄に見えていたでしょう。しかし、主はそれを「良いこと(=美しい、立派な)」と受け止められました。

私たちの信仰の歩みの中にも、同じ問いが与えられています。私たちは主に何を献げているでしょうか。 時間でしょうか。祈りでしょうか。奉仕でしょうか。お金でしょうか。それとも、自分の心そのものでしょうか。

現代の社会では、あらゆることが効率や価値によって判断されがちです。「それは役に立つのか」「意味があるのか」と問われます。しかし信仰の世界には、別の価値があります。それは、主を愛するゆえに献げるという価値です。

彼女の行為に対して、主イエスは驚くべき言葉を語られました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。

ベタニアの家に広がった香油の香りは、その場にいた人々の心に残りました。そしてその出来事は福音書の中に記され、今も私たちに語りかけています。

受難節のこの時、私たちの心もまた開かれ、主への愛の香りが証しとなって、周りへと流れていきますように。主の十字架を見つめながら、私たちの人生そのものが神に献げられる香りとなることを祈りたいと思います。ハレルヤ。


2026.3.22 小さな泉の恵み

女優の藤山直美さんが以前仰っていました。「『うちの父』と言うより『うちのおとうちゃん』の方が愛情を感じる。『うちの父』と聞くとこの人はお父さんのことを愛していないの?って思っちゃう。」わたしも子供の頃、父親を「おとうちゃん!」と呼んでいたのでよくわかります。

イエス様が父なる神様をアッバと呼ぶのは「おとうちゃん」です。私が神様を「おとうちゃん」と呼ぶのは不遜な感じですが、気持ちはそれです。天のおとうちゃんはいつも私を離れず守ってくださる。天のおとうちゃんの恵みと導きはいつも最善。聖書は霊感を受けて書かれた誤りなき神の言葉です。御言葉を完全に行うのは困難です。それでも一歩でも近づけるように努力する事を天のおとうちゃんは望んで下さいます。

「人は不完全だから御言葉なんて出来なくてもしかたがない。」なんて言ったら憐れみ深い天のおとうちゃんは悲しまれます。出来なくても、下手くそでも従おうという心を見て喜んで下さると思います。いつも力を与え、逃れる道をも備えて下さいます。(第一コリント10:13)主の道はいばらの道。(第一ぺトロ4:12)辛いことばかりかも。それでも私たちは「ボク(わたし)、辛くても頑張る。」でありたいですね。

                            S.Y.兄