『 神による救いの道 』
マルコによる福音書11章1~11節
1)私の思い出。わたしは、1976年、5年務めた会社を辞め、26歳で献身し、牧師になるために大学の神学部に進むことを決意した時、親友のMさんが私に1枚の色紙をプレゼントしてくださった。そこには「主がお入り用なのです」との聖書の言葉とともに、ロバの子の絵が描かれていた。年下の彼は丁寧に励ましの言葉とお祈りの言葉を添えてくださった。
お世辞にも上手とは言えない貧弱な子ロバの絵がなぜか私の心を惹きつけ、今でも忘れられない思い出になっている。
Mさんは、お母様が癌で早くにお亡くなりになり、お葬式を教会で行ったことがきっかけで教会につながり、青年会で一緒に大いに働いたものです。彼は教師の道に進み、先頃、中学校の校長を惜しまれながら定年退職した。教室には「信仰・希望・愛」の教育指針を掲げ、生徒たちを愛し続けた。
あの色紙は彼自身への励ましだったのではないかと思うことがある。
2)クリスチャンにとっての人生は、自分の思い通りに進むことが幸いなのではなくて、主が備えてくださった道と信じて歩むことが幸いなのです。
恩師の故三好敏夫先生は、次のような思いを綴っておられます。『基督者には個人的な野心、安楽、慰安、この世の出世を自ら進んで放棄しなければならない場合 がある。また、自分の夢を捨て、かいま見た名誉を諦めなければならない場合がある。クリスチャンは事実、自分の意思を犠牲にしなければならない。
クリスチャンは自分の思い通りに生きるのでなく、キリストのみ旨を実行しなければならない。
キリスト教にはいつも何かの十字架がある。キリスト教は十字架の宗教だからである。
クリスチャン生活には、安全第一主義はない。安易、安楽、安定、慰安、個人的な野心の達成を第一に求める人はそれを得ることができたとしても決して幸福ではない。なぜなら、クリスチャンは神と人に仕えるためにこの世につかわされているからである。
他人に仕える道、自分に対する神の目的をはたす道、真の幸福への道、それはささげて生きることである。ただこれだけが、この世でも、来るべき世でも命を得る道である。』と。
3)この主題を踏まえ、マルコ福音書の流れに沿ってエルサレム入城の意味を考察する。まず、弟子ヤコブとヨハネが栄光の座を求めた場面に対し、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために来た」と語り、自らの使命が他者への奉仕と自己犠牲にあることを明らかにする。イエスの生涯は誕生から十字架に至るまで一貫して「仕える」歩みであった。
4)次に、盲人バルテマイの癒しの出来事が示される。彼は周囲に制止されても叫び続け、「ダビデの子よ、憐れんでください」と願い、ついに癒されてイエスに従った。この姿は、救い主への確信と、諦めずに信じ続ける信仰の典型を表している。
5)さらに、十字架の場面に登場するガリラヤの女性たちの存在から、エルサレム入城が突然の出来事ではなく、日常の交わりや小さな奉仕の積み重ねの延長にあったことが示される。イエスは親しい人々と共に歩み、その支えの中でエルサレムへ向かった。
6)ベタニヤ村は、イエスが安らぎを得た場所であり、病人や貧しい人々など社会から疎外された人々の集う場でもあった。そこから権力の中心であるエルサレムへ向かう対比は、神の働きが弱い者、小さき者の中から始まることを象徴している。
7)イエスがロバの子に乗って入城したことは、旧約の預言の成就であると同時に、力や権力の否定を意味する。馬が軍事的勝利を象徴するのに対し、ロバは弱さと無力を象徴する存在である。イエスはあえてそのロバを選び、力によらない平和の道を示した。
当時のエルサレムは宗教的・政治的権力が集中し、ローマ帝国の支配下で人々が抑圧されていた場所であった。一方、ベタニヤのような周縁の地には追いやられた人々が生きていた。この対比は、現代においてもなお、力による支配と弱者の苦しみという問題が続いていることを示唆している。
8)人々はイエスを迎える際、「ホサナ」と叫び、衣や枝を道に敷いた。これは本来「救ってください」という祈りであったが、当時は歓呼の声として用いられていた。また衣を敷く行為は王への忠誠を示すものであり、人々はイエスを王として迎えたが、その姿はロバに乗るという点で極めて質素であり、むしろ滑稽ですらあった。
9)過越祭の時期、エルサレムには多くの人々が集まり、犠牲の羊の血がキデロンの谷を流れるほどであった。その中でイエスは自らの死を覚悟しつつ入城した。この出来事は、アブラハムがイサクを献げようとしたモリヤの山の物語とも重ねられ、神ご自身が御子イエスをささげるという救いの計画が示されていると解釈される。モリヤの山はエルサレムと考えられている。
10)結論として、救いは人間の努力や功績によるのではなく、神が備えてくださるものである。人に求められるのは、主が示されるその道を信頼して従うことであり、バルテマイのように信じ、諦めず、委ねて歩むことである。キリスト者の生き方とは、自らをささげ、神と人に仕える歩みであり、そこにこそ真の命と幸福があるといえる。受難週の日々自らを顧み、その歩みを整えたいと思う。
島田 茂