2023年9月27日水曜日

2023.9.24 牧師室便り

 ~ 潜んでいる危険に注意しましょう ~

先週、消防サイレンのうるさい音が町中に響き渡り、人々はどこかに走り回る。近くのどこかで火事が起きていることに気づきながら、私も人々の後ろについていきました。すると、牧師館から直線距離で50mほど離れた家からの黒い煙が空を覆っていて、息苦しい匂いが町中に広がっていました。人々から伝わってくる不安と興奮の異様な雰囲気…。教会のある姉妹から「教会近くで火事があったそうですが、教会は大丈夫ですか」というメッセージをいただくほど、ニュースにも取り上げられていたようでした。その家は女性一人で暮らしていたようで、幸い、けが人もなく、周りに広がることもありませんでした。

 私たちもたまにガスコンロに鍋などを置いてうっかりしてしまい、鍋を焦がしたことで家中が焦げ臭い匂いに包まれた経験がありますよね。その時、一つ間違えば火事に発展してもおかしくなかったでしょう。特に、一人暮らしをしている皆さんはくれぐれも用心してくださいね。

このような危険は生活の様々な領域において潜んでいますし、いつ起こってもおかしくない現実に直面している私たちではないでしょうか。その実例こそ、昔からの地球温暖化を危惧する声に耳を貸さずに放置してしまった結果、現在の自然災害につながっていることとして示されています。そして今、人類は地球沸騰化という悲しい状況を目の当たりにしているのです。

これは信仰生活においても同様でしょう。今は忙しいし、他にも優先すべきことがたくさんあるということで、クリスチャンの命である礼拝や祈り、伝道などの信仰生活が後回しにされ、救いの御言葉から遠ざかってしまう人々の姿を見ます。

神の家族の皆さん、皆さんの周りに潜んでいる危険に用心しつつ、約束された幸いな日々を過ごす神の家族でありますように…。シャローム!


2023.9.24 本日の宣教

 『福音宣教のために 』

                         テモテへの手紙二 4章1~5節

今月は教会学校月間なので、教会学校や御言葉の学びについての思いをお話いたします。当教会では毎週様々な集会で御言葉を学ぶことが出来ます。私は教会学校の成人Bクラスでサブリーダーを勤めさせて頂いており大きな恵みをいただいております。

聖書は読む度に気付かなかったことに心が留まったり、疑問を感じたりします。「聖書教育」の聖書箇所を読んで感じた疑問や思いを毎週火曜日、閔先生にお尋ねしてより深く学ばせて頂いております。その際に受けた恵みをお伝えすることも訓練となっております。又、水曜日の祈祷会で片山兄をはじめ兄妹姉妹の疑問、質問からも「そこは、そういう意味だったのか。」と思い込みと勘違いを修正されることもよくあります。御言葉の学びは父子聖霊の神を知り、愛されていることを実感し力を得ます。

インターネットでは様々な知識や思想が語られるのを見ることがあります。しかしそれが神に至る知恵でなければ虚しいと言わざるをえません。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(コリントⅠ 8:2~3)」「主を怖れることは知恵の始まりである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)」御言葉の学びは喜びの連続です。しかしそれは個人の満足に留まっていてはなりません。詩編の「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。(詩編73:25)」とか福音書にある金持ちとラザロの話(ルカによる福音書16:19~31)などを読んだりすると死んだ兄や社長の息子さんを思います。彼らの取り扱いについては神様にお委ねしますが、彼らと御言葉について話をしていなかったことには後悔があります。「今は話をしないで、話す機会があれば話そう。」そう思っているうちに、そのような機会は訪れませんでした。命は神のもの。別れは突然訪れます。

私の周りには大勢のまだ救いを得ていない方々がいます。手遅れとならない今「折が良くても悪くても」御言葉を伝えなけれなりません。そのためにより深く学び、十分に伝える備えをしていきたいと思います。今は「健全な教えを聞こうとしない時」なのでしょう。真理から耳を背け、作り話のほうにそれているということを見たり聞いたりします。だからこそ礼拝、教会学校や諸集会の学びが必要とされています。諸集会の参加者が増えることが望まれます。富山小泉町教会と信徒の皆様が主の善い器として用いられますように。主の栄光があらわされますように。御名が崇められますように。

                                          坂上幸男兄



2023.9.24 小さな泉の恵み

 『福音宣教のために 』         

                 テモテへの手紙二 4章1~5節

今月は教会学校月間なので、教会学校や御言葉の学びについての思いをお話いたします。当教会では毎週様々な集会で御言葉を学ぶことが出来ます。私は教会学校の成人Bクラスでサブリーダーを勤めさせて頂いており大きな恵みをいただいております。

聖書は読む度に気付かなかったことに心が留まったり、疑問を感じたりします。「聖書教育」の聖書箇所を読んで感じた疑問や思いを毎週火曜日、閔先生にお尋ねしてより深く学ばせて頂いております。その際に受けた恵みをお伝えすることも訓練となっております。又、水曜日の祈祷会で片山兄をはじめ兄妹姉妹の疑問、質問からも「そこは、そういう意味だったのか。」と思い込みと勘違いを修正されることもよくあります。御言葉の学びは父子聖霊の神を知り、愛されていることを実感し力を得ます。

インターネットでは様々な知識や思想が語られるのを見ることがあります。しかしそれが神に至る知恵でなければ虚しいと言わざるをえません。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(コリントⅠ 8:2~3)」「主を怖れることは知恵の始まりである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)」御言葉の学びは喜びの連続です。しかしそれは個人の満足に留まっていてはなりません。詩編の「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。(詩編73:25)」とか福音書にある金持ちとラザロの話(ルカによる福音書16:19~31)などを読んだりすると死んだ兄や社長の息子さんを思います。彼らの取り扱いについては神様にお委ねしますが、彼らと御言葉について話をしていなかったことには後悔があります。「今は話をしないで、話す機会があれば話そう。」そう思っているうちに、そのような機会は訪れませんでした。命は神のもの。別れは突然訪れます。

私の周りには大勢のまだ救いを得ていない方々がいます。手遅れとならない今「折が良くても悪くても」御言葉を伝えなけれなりません。そのためにより深く学び、十分に伝える備えをしていきたいと思います。今は「健全な教えを聞こうとしない時」なのでしょう。真理から耳を背け、作り話のほうにそれているということを見たり聞いたりします。だからこそ礼拝、教会学校や諸集会の学びが必要とされています。諸集会の参加者が増えることが望まれます。富山小泉町教会と信徒の皆様が主の善い器として用いられますように。主の栄光があらわされますように。御名が崇められますように。

                                          坂上幸男兄



2023.9.17 牧師室便り

  ~ 目を覚まして! ~

先週、使徒パウロの晩年を描いた映画を見ました。その映画の中には、ローマ帝国時代、キリスト教会が被っていた厳しい迫害の様子、またパウロが捕らわれていた牢屋の状況、そして斬首刑など、重苦しい雰囲気が続いていました。人によっては、映画の残虐さや初代教会の迫害、殉教などの悲惨な映像に対して、目を閉じたくなる方、記憶から忘れてしまいたいと思う方もいるでしょう。

 以前、私の母も主イエスの受難を描いた「パッション」という映画で十字架の残忍さに衝撃を受け、まともに目をあけることもできず、涙のひと時を過ごしていたことを覚えています。

 この世の八百万の神々を信じる日本社会においては、神々を信じて平和に暮らし、良いこと、祝福だけが訪れるという「御利益的」なことを期待し、そのような教えを好み望むでしょう。しかし、キリスト教では(聖書では)、苦難を信仰生活における付き物だと教え、かえって苦難を恵みだと教えます。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピ1:29)…さらに十字架を愛するようにと勧めています。

その一方で、あるキリスト者との対話の中で、その方から「早く終末が来なければならないのに、平和のメッセージをしたり、地球環境を守るために働きかけたりすることはもうやめてほしい」という声を聞きました。私は驚きながら、「それはどういうことですか?」と質問したところ、その方は、「この世の罪悪による混乱が極限状態に陥ることでイエス様が再臨されるので、世界が平和になったり、自然環境がよくなったりすることは好ましくない!」というものでした。

 最近、アフリカのモロッコやリビアで大地震と大洪水が起こり、たくさんの人が犠牲になりました。そして戦争は終わりそうにない。またこの冬、どのような伝染病が流行るか気になる日々を過ごしている私たちです。このような現実を前にして、漠然とした平和や幸せでもなく、過激な終末論に振り回されることでもない、主イエスが言われたように「目を覚まして聖霊に聞く」ことを心がけて歩みたいものです。

シャローム!



2023.9.17 本日の宣教

 『主を愛する人の歌 』                                                                               

                     詩編116編 1~2

詩編116編は「救いを求める祈り」が応えられた人による感謝の歌です。

まず、詩人は「わたしは主を愛する」という表現で始めます。その愛の理由こそ、「主が詩人の嘆き祈る声を聞き、耳を傾けてくださったから」だと告白します。「愛する」と訳されたアーハヴは、主に神が私たちを、愛をもって選んでくださったことに対して使われる愛の言葉です。実際、旧約聖書の中で、この詩人のように「わたしは(主を)愛する」と直接的な表現を使うということは極めて少ないです。

それでは、詩人が告白する「主を愛する」とはどういうことを指しているでしょうか。ここでは、四つの側面からその意味を考えて見たいと思います。ぜひ、神の家族の皆さんも詩編116編の詩人の主を愛する四つの側面に対して、自分自身が主を愛しているかどうかを確認してみてください。

まず、主を愛することは「主を呼ぶ、主の御名を呼ぶ」ことに現れます。愛する者は、その大切な人の名を常に呼ぶことになります。とりわけ詩人は、主を呼ぶことを「祈り」(4節)と「礼拝」(13、17節)のために用いていることが分かります。

続けて詩人は、主を愛することは、「主の前で安らうこと」であると告白します。その通り、私たちも愛する人と共にいることで安らぎを得ることを経験します。弱り果て、不安の中にある人は、愛する神の御前に近づき、御手の守りを受ける中で愛されている者としての安心感に包まれることになるのです。

さらに主を愛することは、「愛する神に仕える」ことに現れることになるでしょう。詩人は自分自身のことを、神を愛するゆえに喜んで「僕」になることを選ぶと告白します。

最後に、詩人は、神を愛する者であることの表現として、神のために喜んで命を献げます。それは創造者であり、救い主なる神への信頼の証しであります。詩人は「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」と歌います。しかし、主イエスこそ、私たちを愛するゆえに、十字架の上で尊い命を献げられました。十字架の死は愛する者としての愛の極めであり、主イエスが先に愛の道を示されたのです。

本日は敬老祝福式の日です。小泉町キリスト教会の敬老祝福式を迎えるご高齢の皆さんの姿から、詩編116編の詩人の主への愛の現れを見ています。毎週、休まず礼拝に集い、日々の祈りから、また神の御手の中で安らぎを得ている姿、そして人生の終わりを御手に委ねつつ、天の御国への希望に満たされながら奉仕する姿から、皆さんがいかに主イエスを愛しているかが確認できるのです。願わくは、敬老祝福式を迎える皆さんをお祝いしつつ、その信仰に倣い、主への愛がますます膨らんでいく神の家族でありますように。ハレルヤ!



2023.9.17 小さな泉の恵み

 ~沸騰する世界~

 9月も中旬を迎え、さすがに朝晩は涼しくなってきましたが、陽が差せば、まだまだ真夏のようです。 今年の夏の暑さは、世界規模でその異常さと被害をメディアが日々伝えていました。沸騰する暑さは、兄弟姉妹の皆さんも身をもって感じられたことでしょう。日本は今やスコールが度々襲う熱帯地域になってしまったようです。

さて、ここで家の庭の話を少し。42年程前に建てた家と一緒に庭も作って頂き、一年中花が咲く木が多い庭です。木が多いと鳥も来ますし、いろいろな虫達もいます。今年教会のキャンプでファイアーになったモミの木は、その中で一番ノッポで、セミの羽化の場所でもあったようです。

で、今年の異常な暑さの中で起きたできこと。

➀蚊がいない⁉②セミの鳴き声が遅く始まり、早く終わった!③夏の終わりに始まる虫の声が小さい。④南国のような巨大な草が…。⑤深く根を張っている背の高い樹も葉がしおれ、暑さバテ!等々、書ききれない程です。沸騰する夏は虫や鳥、植物に大きな被害与たようです。

毎週の主日礼拝前に行われている教会学校では、今、創世記を学んでいます。

『初めに、神は天地を創造された。地は混とんであって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』(創1:1~2)そして、『それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。』(創1:31)に続きます。天地創造の神が、私たちのために創って下さった『極めて良かった』世界が、今、壊れ始めています。 そこにある主の深い忍耐を思います。   

                           S.Y.姉

2023.9.10 牧師室便り

 ~ さびしい人を訪ねる恵み ~

先週、静岡県に住んでいるある方から電話がありました。その方のお母様が富山のある病院に入院しているが、医者からは召される日が近いという知らせを受けたと。しかし、静岡から出かけることは難しいので、ぜひ母のために訪問してほしい、とのことでした。

その方の話によると、お母様は若い時に静岡のバプテスト教会に通っていたということで、人生の終わりの時だけでもバプテスト教会の牧師に祈ってもらいたいとの依頼を受けたのです。

 早速、先週木曜日に彼のお母様が入院している病院を訪ね、病床での讃美と祈りのひと時をもつことができました。彼女は意識がなく、延命治療を受けており、私が彼女の傍にいることも気づきませんでした。その時、私にできることは、長い間聞くことのできなかった讃美歌を歌い、聖書の言葉を読みあげ、祈りを献げながら聖霊が彼女の霊と魂に触れてくださり、永遠の神の国への希望と命、力を賜りますようにと委ねることしかありませんでした。

 そして次の日には、コロナ危機の間禁じられていたY姉の面会が許されたため、高岡に出かけてきました。許された時間はわずか5分しかありませんでしたが、Y姉の喜ぶお姿を確認しつつ、執り成すことができ感謝でした。また、帰りには、富山医科大学付属病院に入院していたM姉を訪問し、短い時間でしたが、主にある交わりと回復のために祈るひと時を過ごしました。…病床の姉妹方を訪ねながら、心に響く神の御声がありました。「わたしは弱い人、寂しい人と共にいるのだ。互いに愛し合いなさい。重荷を担い合いなさい」と・・・。

 神の家族の皆さんも、弱さの中でさびしくされている方のもとに足を運び、執り成し祈る恵みを味わってみてはいかがでしょうか。シャローム!




2023.9.10 本日の宣教

 『生ける御言葉を授けてください』                                                                                                 ヘブライ人への手紙4章12~13節

神の御言葉は生きています。神ご自身が生きておられるのと同じです。また、神の御言葉には力があります。神の御言葉は、文字で終わるのでなく、人々を感動させ動かす強い力をもっています。まさしく、初めに神が言葉によって宇宙万物を創造されたように、人間の歴史のただ中で神の人を立ち上がらせたり、大いなる変革の力をもたらせたりしてきたのです。そしてその生きて働く御言葉は今もなお同じ力をもって働いていることを覚えましょう。

ヘブライ人への手紙の著者は、神の御言葉の著しい特徴として「両刃の剣よりも鋭い」と教えます。その御言葉の鋭さの結果として「御言葉に触れる人の精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通す」と説明しているのです。すなわち、病院で私たちの体を正確に調べるためにX線やMRIなどで精密に調べ、正確に治療するように、神の御言葉は私たちの精神や霊を、また体の各部分をも正確に理解し癒してくれる。さらにすべての生活の隅々までも刺し通され、新しく造り変えることができるというのです。まことに、御言葉が持つ力こそ、詩編139編の詩人が歌っていたように、創造者なる神が私たちを母の胎内で組み立てられた時の恐ろしい力によって、私たちを驚くべきものに造り上げられたことが、今もなお人知を超えて成就されているのです。残念なことに、このような驚くべき恵みを失っている私たちではないでしょうか。

今の私たちに求められることこそ、毎日御言葉の前にあるがままに立つことであって、御言葉による治療と創造の力に身をゆだねることでしょう。
その通り、生ける御言葉は、御言葉に触れるあなたの心と魂、また体の傷や痛み、弱さを癒し新しくしてくださるはずです。罪人は罪人であることを悟るようになり、傷んだ心と体は神の御言葉の癒しを体験することになるのです。
 更に著者は、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されていると言います。「さらけ出される」とは、“首をつかむ”という意味で、レスリングなどで、相手に首をつかまれた劣勢の状態を指します。ですから、私たちは毎日心を開いて御言葉の前に立ち、裸となり、すべてをさらけ出される神の御前に進み出るとき、真の癒しと回復をいただくことになるのです。
願わくは、神の家族の皆さんが、日々御言葉を愛し、御言葉に親しむ中で、語りかけられる神の御声に従順に従うことを決断し歩み出しますように…。そのために、“主よ、生ける御言葉を授けてください。その御言葉によって私の体と心、魂を新たに造り変えてください”と祈り求めるお一人おひとりでありますように祈ります。ハレルヤ!

2023.9.10 小さな泉の恵み

 どうも早くも泉の恵みの原稿を書く当番がまわってきました。この欄の文章を考えていると 高齢の私には認知の予防にと考える能力を養っているようにと思われます。文章を書くことは大変なこと、自分の能力の弱さを痛いほど感じます。

さて今年の夏は雨の少ない暑い日が続きましたが、村の人たちのあいさつは「暑いですネ」ばかりでした。もう九月ですネ!!稲の穂も実って私の村も秋の農作業の準備にいそがしく動いています。近いうちに美味しい新米を食べられるのが楽しみです。

この新米は農家の方々の汗の結晶だと思い、毎年、感謝していただいております。

毎日々食べても飽きのこない米こそ神様が私たちに与えてくださった最高の食べ物だと思っております。今年も忙しい時が終わると、農家の主婦達には、毎年恒例の楽しい旅行が待っています。

わたしも何回か参加していますが、みんなこの旅行が待ち遠しいとのこと。

農家の主婦が三人寄れば今年の旅行は、どこに決まるか?!暑さのあいさつに加えてそんな話題で持ちきりになります。

                         A.M.姉

2023年9月6日水曜日

2023.9.3 牧師室便り

 ~ 証しすることの恵み ~

9月は教会学校月間です。礼拝に集われる方々が御言葉を分かち合う中で、参加する神の家族との交わりと各自の信仰を深めていただく恵みの時です。ぜひ、御言葉が持っている力とその豊かさを多くの方々と共に味わっていただき、生活の中で実を結ぶことが出来ますように…。

 そこで、神の家族に一つの提案ですが、礼拝に集われている方々の信仰告白を新たに作成し、それをもとにして証しの時を広げていきたいと思います。先日、事務室のキャビネットを整理する中で、教会員の方々がバプテスマを受けた時や転入会の際の証しを集めたファイルを見つけました。お一人お一人の証しを読みながら、これを書いた時の信仰告白と今現在の信仰告白はどのように変わっているのだろうか、どのような証しが新たに加えられたのだろうか、など、皆さんの証しを分かち合う時があれば素晴らしいと思われたのです。

 キリスト者は証しを持つことを前提とします。なぜならば主イエスの十字架と復活の福音との出会い、そして聖霊との交わりの中で体験してきた様々な恵みの業の証しがあって、キリスト者と呼ばれるからです。

 もちろん、日本社会においてキリスト者として生きることの疲れや大変さ故に、証しすることを忘れたり、他人事のように思ったりしてきた私たちかもしれません。しかし、主イエスは私たちに「わたしの証人になりなさい!」と言われていますし、今もなお期待しておられます。

 証しには「立派な証し」「物足りない証し」の区別はありません。皆さんの持っている証しが「短くても、長くても」その中に主イエス様への愛と福音についての確信、隣人の救いへの望みと熱意があれば、それは素晴らしい証しとなるのです。…ぜひ、あなたの証しを聞かせてください。大いに聞きたいです。シャローム!




2023.9.3 本日の宣教

 『 あなたも私のように 』                                                                                                      使徒言行録 26章 28~29節

使徒パウロはイエス・キリストに捕らわれた人生を歩んだ人でした。本文の背景は、ユダヤ人に訴えられてカイサリアの監獄に2年間も囚人として捕らわれていたパウロが、当時のローマ総督のフェストゥスとユダヤ人の王であったアグリッパ王に、彼自身の過去熱心なユダヤ教徒であったことを、そこから復活のイエスとに出会いによりキリスト者に変わった経緯、そして異邦人の使徒となった現在についての詳細な証しをしていることが分かります。

2年間もカイサリアの監獄に捕らわれていたことのゆえに信仰が弱くなったり、将来について失望したりするような気配はなく、かえってキリスト者としての熱意はさらに燃えていて、福音についての確信と証しとがさらに深められているパウロの姿がうかがえます。さらに当時のユダヤ社会において、最も権力をもっていて高い位置についていたローマ総督とユダヤの王を前にしても小さくなったり躊躇したりするような様子は全く見えないパウロの姿が印象的です。

いよいよパウロが話を終えると、フェストゥス総督はパウロに向かって「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と大声で叫び、またアグリッパ王も、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」という反応を見せます。彼らがそのような反応をするほど、パウロが語った言葉は伝道を目的とした内容であって、その時を伝道のチャンスとして受け止めていたことが分かります。まさしく福音はユダヤ人にとってはつまずきであり、異邦人には愚かなものであったのです(一コリント1:23)。

しかしパウロは、二人の反応に対して驚くべき言葉をもって彼の弁明を終えます。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」…鎖につながれている囚人の身、外見からするとただみすぼらしい姿のパウロでしたが、自分の話を聞くすべての人が、自分のようになってほしいことを訴えている。このパウロの訴えは、時代と歴史を超えてすべての救われたキリスト者が抱くべき姿勢ではないでしょうか。もちろん私たちにも当てはまる証しでもあります。「私のようになってほしい」という言葉は、パウロが度々語った言葉であります。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。(一コリント4:16)」…このような表現は、彼が傲慢だったからでしょうか。もちろん違います。パウロが私のようになってほしいという内容こそ、イエス・キリストによって救われた者として得た恵み、すべてを塵芥のようにするほどに素晴らしい主イエスの愛と祝福、赦された罪人として味わっている永遠の命と神の国への希望を彼の言葉を聞いているすべての人も同じく得てほしい!味わってほしい!生きてほしい!という願望の表れだったわけです。神の家族の皆さんはいかがでしょうか。周りの人々に「あなたも私のようになってほしい」と語ることができるように、日々、キリスト者としての恵みと祝福を、喜びと感動を満たしていきたいものです。

ハレルヤ!



2023.9.3 小さな泉の恵み

 ~わたしはクリスチャン!~

  わたしはクリスチャンになって生活がシンプルになりました。毎日イエス様と僕と一緒にお祈りしながら生活を営んでいます。

 また、物事を考える時にスパスパと決断できるようになりました。たとえば、昔は買い物をする時に牛乳や卵などをたくさん買いすぎたり、逆に少ししか買えず足りなくなったりしていましたが、今はそれの内訳が頭の中で分かるようになってきました。

 何より、自己中心的だった自分でしたが、今はイエス様にお祈りしながら、他人にサービスできるようなことも考えられる人間になったのかなと思います。

 最後に、週一度の主日礼拝での神の家族の皆様と交わりできることが一番感謝です。

                               M.T.兄