2023年7月17日月曜日

2023.7.16 牧師室便り

 ~ 4年ぶりのファミリーキャンプを迎え ~

今日から明日までの日程で(24名の参加者)4年ぶりのファミリーキャンプに出かけます。コロナ危機の3年半の間、ほとんどの行事が中止になり、礼拝と祈祷会だけがzoomと並行してもたれましたが、今年からようやく諸行事も行えるようになりました。

もちろん、コロナが5類感染症に移行したとはいえ、まだまだ心理的な面においては不安を覚えている方々も多くいるのが現状だと思います。

しかし、私たちはすべてを治めておられる創造者であり、父なる神の子どもであるので、いつまでも恐れのゆえに身を引いてしまっては、何も起こりませんし、信仰からくる勇気と新しい御業を見出すこともできないでしょう。2000年の歴史においてのキリスト者の素晴らしさは迫害や殉教をも恐れず、神の国の福音を宣べ伝えていったことにあると言えます。

ぜひ、新たな思いをもってファミリーキャンプに集いましょう。参加する方々は素晴らしい大自然を前にしつつ、大いなる神の息吹に触れ、新たにしていただきましょう。そして、参加できない方もファミリーキャンプの祝福のために祈ってくださいね。

とりわけ、今週20日は、富山小泉町キリスト教会の教会組織23周年を迎える日です。1960年から富山の地において伝道活動を始めた小さな群れが、全国の日本バプテスト連盟に連なる諸教会に向け、神の恵みと導きによる自立を表明し宣言した大切な記念日であります。

コロナ危機から、厳しい試練の時を過ごしている小泉町教会の群れが、主イエスの十字架と復活の福音に満たされつつ、ゆだねられた使命を果たすことができるように、そのためにも、互いに励まされ勇気づけられるファミリーキャンプのひと時となりますように…。シャローム!




2023.7.16 本日の宣教

 『 交わりを広げよう 』  

                                                                             ヨハネの手紙一 1章1~4節

私たちは時々、「この教会は家族的な交わりが豊かだ」とか、「この教会は交わりがあまりなく、新来者に対して冷たい」などの言葉を耳にすることがあります。それほど、交わりはその教会を定義する事柄として使われています。しかし、実際に私たちが使っている「交わり」という言葉と、聖書が語る「交わり」には大きな違いがあることも事実です。

本日、ヨハネが伝えようとしている「交わり」は、「コイノニア」の訳で、もともとコイノニアの基本概念は、“物を共有する”とか、“共同、分担する”ということです。そして、本文の中でヨハネが伝えようとしたコイノニアは、“キリスト者個人と神との縦の交わりと、信徒間の横の交わり”の両方を指しています。この二つの交わりこそがキリスト者と教会共同体に喜びをもたらすのです。…「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(1:3~4)」

つまり、教会共同体の交わりは、御父と御子との交わりであり、御父と御子→伝える者→聞く者という三角形の構造を成していることが分かります。信徒の「コイノニア」(交わり)は、主イエスの受肉と十字架、復活という福音を信じる信仰によって救いにあずかり、主イエスとの親密な交わりを持つことによって完成されるのです。他の聖書箇所では、「コイノニア」は「キリストの血と体にあずかること」(一コリント10:16)とか、「キリストの復活と苦しみにあずかること」(フィリピ3:10)とも訳されています。このことから、単なる交わりや親しい関係を超えた強い一致や非常に強いキリストとの結びつきを表していることが分かります。つまり、真のコイノニアこそが「キリストの命にあずかること」であり、キリストの命を共有し、共にキリストの命に生かされつつ、喜びと感動に満ち溢れることなのです。言い換えれば、一般的に「交わり」と言われているような、「一緒にお茶を飲んだり、楽しく交流したりするような時間や雰囲気」を指すことではないということです。

さらにヨハネは、この手紙を書く目的として、その交わりによって「わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるため」だと伝えます(4節)。つまり、ヨハネは自分自身の喜びが相手にとっても喜びとなり、その喜ぶ姿を通じて喜びがさらに広がることを期待していることがうかがえます。ここにこそ、証人としての教会共同体が伝道する中で得る喜びの広がりが見えてくるのです。…主イエスの十字架と復活の福音をいただき救われた者の喜びが、その人一人だけで止まってしまうことは御心ではありません。救われた喜びはさらに周りの人へと広がり、その喜びもますます満ち溢れるようになることを主イエスは望んでおられますし、私たちもそのことのゆえに喜びを大きくしていくことを心がけたいものです。ハレルヤ!


2023.7.16 小さな泉の恵み

 7月12日(水)夜は、富山県も線状降水帯に覆われ、これまでに経験したことの無いような雨音と切れ目の無い雷に驚かされました。皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか?私の家の真横を流れている「いたち川」は、深夜に避難判断水位となり、いったん水位が少し下がったのですが、1時半過ぎには氾濫危険水位にまで達し、下流の駅周辺は氾濫するのではないかと心配していました。家の周辺は田んぼで、いたち川は、水位調整が機能しているので、この周辺は大丈夫だと考え寝てしまいました。

「いたち川」は、宮本輝が芥川賞を受賞した作品「蛍川」のモデルとなった川で、我が家は、2006年に犬の散歩に最適な場所と考えこの場所に引っ越しました。引っ越した年は、300m位上流の堰堤で釣りをしたところ、いきなり30㎝を超える尺ヤマメが釣れて感動したのですが、いたち川は、農業用水として管理されているので、この数年は、毎年のように水を止めて川の底をブルドーザーでさらってしまうなど、ヤマメを始め魚はいなくなってしまいました。でも、蛍は、多少飛びます。特に、映画「剱岳 点の記」のロケ地になった国指定重要文化財『浮田家』は、家から500m位下流の方にあるのですが、周辺の蛍が今年も数匹飛んでいました。

富山県でも今回の水害で亡くなられた方がおられますが、九州を始め多くの地域で被災した方々の上に神様の慰めと励ましがありますことをお祈りいたします。

                                 島田 茂


2023年7月12日水曜日

2023.7.9 牧師室便り

 ~ 山の展望台から教会を探す ~

先週の礼拝の後、島田大兄と二人で路傍伝道を行いました。路傍伝道を苦手と思わないように、10分という時間を決めて聖書5冊と教会案内を楽しく配ることができました。5冊と思うと、すぐに配れそうですが、常に目も合わせず冷たく通りすぎる人がほとんどの駅前で、聖書を素直に受け入れてくれる人に逢うことは大きな喜びです。そして幸いなことに予定していた聖書をすべて配り終えることができました。皆さんもぜひ楽しく道を歩く人に聖書を配ってみてはいかがでしょうか。

さて、大兄とは前から約束していた登山のスケジュールがあったので、路傍伝道を終えてすぐ、約1時間で登りと下りができる登山コースの方に向かいました。決まったコースは呉羽山の隣の城山でした。標高145mの山で、最短距離で山の頂上に到達できるコースを選びました。

先日の夕礼拝で“大兄は休みの日には何をしますか。”と尋ねたところ、“登山です。”と言われ、“今度行く時には私も連れて行って!”と頼んでいたので、早速実行に移したわけです。

 145mという低い山ではありましたが、急な坂道もあり、ちょうどいいくらいの汗も流せる初めての登山でしたね。そして城山の展望台から富山市内の美しい景色が目に入ってきました。展望台には一台だけ望遠鏡も設置されていたので、立山をはじめ、目につく建物を中心に富山市の全景を楽しんでいたのです。そしてふと、ここから小泉町教会は見えるかな?と探し始めたところ、本当にびっくり!ケーズ電気富山本店の後ろに小泉町教会の十字架塔が見えたのです。望遠鏡の性能に驚きながら、十字架のメッセージを広める教会の使命を確かめるひと時でした。シャローム!

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。(マタイ5:14)」



2023.7.9 本日の宣教

 『 ヨハネのように 』~欲望から愛へ 

                                                                          マルコによる福音書10章41~45節

使徒ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほど、彼が書いたとされるヨハネによる福音書や3通の手紙の中には、「愛」という言葉が溢れています。しかし、福音書に登場するヨハネについて主イエスは彼と彼の兄弟ヤコブと合わせて「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」という名を付けられました。その呼び名通り、ヨハネはちょっとしたことでカッと怒ってしまうような気の短い気質の持ち主でした。ヨハネの気質が分かる場面として、サマリヤの町で人々が主イエスに耳を傾けようとしなかった時、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼそうと提案したり(ルカ9:51~55)、メシア王国で自分たちを主イエスの両脇に座らせて欲しいと欲張ったり(マルコ 10:35-45)していた場面があります。それほど、ヨハネは雷のようにすぐ燃えてしまうような人であって、常に他人よりは自分自身の欲望を優先する自己中心的な性格の持ち主であったことが分かります。

しかし、主イエスはそのようなヨハネに対して、彼に「愛の人」としての幻を抱かれ、愛と忍耐をもって接してくださいました。ヨハネによる福音書では、ヨハネという名前は登場せず、「イエスの愛する弟子」という表現が繰り返し使われていますが、この表現は、ヨハネ自らの主イエスに愛されている者であるという自己認識と誇りを表していると言えましょう。さらにヨハネは、主イエスの十字架と復活を通して示された大いなる神の愛に触れることで、真の愛の人、忍耐の人に変えられていったのです。その証しとなったのが、ヨハネによる福音書であって、三通の手紙です。

イエス・キリストの十字架と復活の愛の福音には力があります。その福音が人を変えるのです。その愛の福音によって変えられたヨハネは、自身の弱点を神の国の福音を伝えるための強みに変えることになります。そして燃える愛をもって隣人を愛し、徹底して仕える愛の人に変えられたのです。

これまでの2000年間、イエス・キリストの愛は多くの人を感動させ、彼らの人生を変えていきました。神でありながら天の御座を捨て、人となってこの地に来られた主イエスは、十字架の死によって罪人たちのための贖いを成し遂げられました。主イエスの真の愛に触れた人々は心打たれ、主を迎え入れて彼らの人生の主とし、主と共に歩むことを決心するようになりました。私もそのうちの一人ですし、おそらくあなたも同じでしょう。また、私たちを通して主イエスに出会う人々もそのように変えられていくでしょう。ハレルヤ!

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネの手紙一3:16)」


2023.7.9 小さな泉の恵み

 私はクリスチャンになって約30年になり、暗唱聖句は若い頃から親しんできた新改訳聖書で覚えています。しかし最近ディボーションを通して、ショッキングな出来事がありましたので共有したいと思います。問題になった暗唱聖句はローマ12章2節の「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」です。この御言葉により私は『自分を変えなければならない』というある意味、強迫観念にかられていました。

でも、これが誤訳であると教えられたのです!

新共同訳では「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」です。『変えていただき』とあるように受動態で、主体は神さまです。ギリシア語も受動態で書かれているとの事。この事実を知り、頑張らねばと思っていた肩の力が抜けた感じがしました。そして、神さまにこれからも変えていただき、霊的に成長させていただきたいと思います。

今回の事を通して、これからも色々な聖書の訳を読み比べていきたいです。

                           K.K.姉

2023年7月3日月曜日

2023.7.2 牧師室便り

  ~ それでも種まきを止めない ~

今年の春からの不安定な天候が続いたため、食物や花の成長が遅く、蒔いた種がまったく芽を出さないという声をよく耳にしています。

 それは小泉町教会においても同様で、毎年楽しみにしていたマリーゴールドが種を蒔いても芽が出ず、ようやく芽が出ても成長が遅いため、例年であれば、葉も茂り、次々と花を咲かせるはずですが、葉も貧弱で、花も辛うじて咲いているような現状です。

 さらに、マリーゴールドはどんな地に植えても間違いなくよく成長し、虫に食われることを心配したこともありませんでした。ところが、何が原因か分かりませんが、ダンゴ虫をはじめとする虫たちにマリーゴールドの芽と葉っぱが食われることが何度もありました。「マリーゴールドは虫に強く、その香りを蚊や虫が嫌う」と言われていたのがウソのようでしたね。

しかし、低気温や虫からの攻撃にも負けず、繰り返しマリーゴールドの種を蒔き続ける自分がいます。4月末、最初に蒔いた種が全く芽を出さなかった後、5月に入ってもう一回、その後5月末にもう一回、そして6月に入ってからと、繰り返し種を蒔き続けました。…そしてようやく気温も高くなり、梅雨の雨の恵みのお陰でしょうか。新しく蒔いた種が芽を出し、以前辛うじて芽を出していたマリーゴールドの葉っぱは茂りはじめ、ポツポツではありますが花も咲き、成長も早くなってきています。

あきらめず種を蒔き続けることが出来たのは、昨年取っておいた種をたくさんもっていたからでした。もし余分の種をもっていなかったら、花屋さんから新しいマリーゴールドの苗を買うしかなかったでしょう。

神の家族の皆さんも、長い間家族や友人のために福音の種を蒔いてきたことでしょう。しかし、様々な事情のゆえに花を咲かせることが出来なかったかもしれません。それでも、種まきをあきらめることがありませんように…。いつ芽が出て花を咲かせるかは分かりませんが、成長させてくださる神を信じて、もう一度、二度、三度と、種まきにチャレンジし続けましょう。シャローム! 




2023.7.2 本日の宣教

 『イザヤのように』 (イザヤ6章1~8節)

先週から本日までは「神学校週間」であります。日本バプテスト連盟に連なる諸教会が西南大学神学部をはじめ、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校と献身者として学んでいる神学生たちを支えるために、祈りつつ献金をアピールする一週間です。しかし、今現在の神学校は献身者養成という目的に忠実に役割を果たしているだろうか。…また、神学生たちは献身者として相応しい日々を過ごしながら、備えているだろうか。…そのことを黙想し祈っている内に浮かんできた聖書人物がイザヤでした。

イザヤ書6章はイザヤの召命が記されている箇所として有名です。とりわけ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤの応答の言葉に心打たれて、多くの青年たちが献身者の道に入って行ったわけです。

預言者(ヘブライ語でナビ)という言葉は、「神より預かった言葉を語る者」という意味です。すなわち、預言者は自分が思っている言葉を勝手に語ったり、人々が聞きたがる言葉を語ったりする存在ではなく、ただ、彼を召してくださった神からいただいた御言葉のみを民たちに伝える存在なのです。

イザヤはウジヤ王が亡くなり、政治的、宗教的、世界情勢など、不安定な中で神殿に上っていました。とりわけ、当時の南ユダ王国は政治的には神を頼ろうとせず、アッシリア王国を頼ろうとしていましたし、宗教的には民を正しく指導すべき祭司たちは堕落し、偽預言者たちの活動は盛んになり、民らは信仰的、倫理的に腐敗していた時代でした。まさしく風前の灯のような南ユダ王国を目の当たりにして、イザヤは神の助けを求めて神殿にいたのです。恐らくイザヤの執り成しはほぼ毎日続いていたことでしょう。彼の日々の優先順位は、まず神殿での礼拝と、生きておられる神との霊的な交わりであったことが分かります。

そこで神は、御前に来て礼拝し祈り求めるイザヤの汚れていた唇を清められ、神の御言葉を告げる預言者として招いておられます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。(8節)」という神の一人の預言者を求める問いかけに対し、イザヤは手をあげて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という応答します。しかし、その後イザヤに与えられた神のメッセージは平和と祝福を告げるのでなく、南ユダ王国への裁きと滅亡のメッセージでありました。その時感じたであろうイザヤの戸惑いを覚えます。それでも、彼は神から命じられた御言葉を語る預言者の働きを忠実に果たすことになります。 

近頃の世界情勢、度重なる自然災害、倫理の崩壊などを目の当たりにしながら、私たちに求められる姿こそ、イザヤのような“霊性深い預言者の姿”ではないでしょうか。そのためには、日々主の御前にひざまずくこと、主の御声に耳を傾けることでしょう。特に、献身者として神学校へ進もうとする者、また献身者たちを教える神学校の先生方が身につけるべき姿ではないでしょうか。ハレルヤ!


2023.7.2 小さな泉の恵み

 ~「おとな聖書」の本を読んで~

私は1日3回食事をします。食べることによって私は生活しています。そのために仕事をして毎日くらしています。神様は私に日々のかてを与えてくださっています。本にはごはんを与えてくれる親がいるのに、「僕のごはんは僕が自分で用意すると、ジタバタしている。イヤイヤ期の子供のようなものです。」とあります。

神様との健全な関係を築けていれば、生活の必要はすべて与えられます。信仰を持つというのは一言で言い換えるならば、「人生の優先順位を変える」ということです。「神の国とその義を第一優先にして生きることが「信仰を持つ」ということです。

マタイの福音書6:33

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてそれに加えて与えられます。

                           M.T.姉