2019年4月25日木曜日

2019.4.21 牧師室便り


 ~ 天地は滅びるが、神の言葉は永遠に! ~

 “イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。・・・天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ131235
 先週、世界中を揺れ動かしたニュースと言えば「ノートルダム大聖堂」の火災でしょう。フランス・パリを代表、またゴシック建築を代表する建物で、1991年にはユネスコの世界遺産に登録されたほど、多くの美術品と文化財が置かれていて、歴史上の数々の物語と共に歩み、フランス人に愛されてきた建造物でした。
 
 ところが、これほどまで素晴らしい建物が、一瞬の火災で崩れてしまうということを世界中の人々が目の当たりにしてしまいました。高さ約90mの尖塔が倒壊する時には世界中が悲しい悲鳴をあげたことでしょう。もちろん、火災があってすぐに、世界各地から再建のために募金が集まっているそうで、さほど遠くないうちに再建されることになるでしょう。しかし、目に見えるもの、また人が作ったこの世のどんなものも永遠に残るものはありませんし、必ず衰えていくことを知っています。それなのに、人は絶えず目に見えるものに執着し、目に見えるものに特別な意味を加えて守ろうとしています。
 
 それでは、永遠なるものは存在するでしょうか。永遠に変わることなく、永遠の輝きに包まれているもの、それこそ神ご自身であって、神の御言葉は永遠です。私たちは永遠なる神に愛されながら、御言葉に信頼して歩んでいます。主イエスが復活されたように、私たちも復活し神の国で永遠の命を生きることを信じます。シャローム!

2019.4.21 本日の宣教

『 復活の福音を携えて 』  Ⅰコリントの信徒への手紙15114)

主イエス・キリストの復活を讃美いたします!!!

昨日まで弱虫で死ぬことにおびえていた人が、突然死をも恐れない力強い人に変わるということは奇跡であるとしか言えないでしょう。聖書は奇跡と不思議なことで溢れています。その中でも、最も素晴らしい奇跡の物語と言えば「イエス・キリストの復活」です。本日のコリント人への手紙を書いたパウロをはじめ、新約聖書の物語の中で、イエスの復活を経験した人は、突然変わっていくということが描かれています。3年間イエス・キリストを主と師として慕っていた弟子たちが、十字架を前にしてみんな裏切り、逃げまくっていたことを覚えているでしょう。しかし、そのように弱く、恐れに捕らわれていた弟子たちが、ある日、大勢の人の前で大胆に福音を語るようになる。それだけではなく、十字架の死が待ち受けていることを知っていながらも、淡々と殉教への道を進んでいく。弟子たちのこの姿こそ、「復活されたイエス・キリスト」に出会った結果であったと聖書は教えます。弟子たちの身に起きたこのような奇跡は、今現在も同じく繰り返されていることを御存じでしょうか。即ち、信仰の自由が保証されていない国や地域へ、身の危険を承知しながらも宣教に出かける人々の支えこそ「主イエス・キリストの復活」への信仰にあるのです。それほど、イエス・キリストの復活の出来事は大いなる奇跡と変革をもたらす力となることを歴史は証ししているのです。
しかし、人が復活するということを信じるのは簡単ではありません。なぜならば、復活を信じることによって、その人自らの価値観や生き方を変えなければならないからです。決して乗り越えることができない死を恐れながら、生きている間だけでも何とか幸せでいたいという願望から、死は終わりでなく、主イエスと共に復活するという、永遠の命の希望と確信を生きるように変わることはコペルニクス的な変革とも言えるのではないでしょうか。

コリント教会にも死者の復活を信じない者たちが現れていました。彼らは復活や永遠の命に救いを見出すことはしませんでした。よって、キリストの復活も信じなかったわけです。イエス・キリストの復活を信じることと自分自身の復活と永遠の命を信じることとは決して分離できません。だからパウロは、自らの復活の主イエスとの出会いの確信の上に立って、“キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(14節)”と断言しているのです。
 
 イエス・キリストの復活は十字架の死と共に福音の核心です。イエス・キリストの死と復活がなければ、キリスト教は誕生しませんでしたし、キリストの復活がなければ、今の私たちの信仰も虚しいものです。イエス・キリストが復活されたので、私たちにも希望があるのです。これこそ、唯一の希望です。復活された主の力強い約束の言葉に身を任せましょう。そして、この世のどんなものをも恐れず、復活の良い知らせを知らない人々に伝えましょう。ハレルヤ!

2019.4.21 小さな泉の恵み



 ~ 31年間,
全てにおいてイエス様と ~

ともに神様を礼拝し祈ってくださった教会の兄弟姉妹に感謝します。主の守りと皆様の祈りに支えられて,中学生生活を無事に過ごすことができました。

「今すべきこと,“勉強”を最優先にせよ!それこそが本当の礼拝者の姿だ!!」

父母の諭しに従い,水曜祈祷会や路傍伝道などの奉仕活動には余り参加できませんでしたが,日々のQTや祈祷,父母の教訓等により,信仰的にも,学習面においても,充実できた1年間でした。

結果,志望していた富山高校に合格することができました。

‘若き日に創造主を覚え’て,友等にイエス様を証しし,主に栄光を帰す,有意義で楽しい,実のある信仰生活,学生生活を送りたい気持ちでいっぱいです。
                    M.J兄

2019.4.14 牧師室便り



 ~ 光なる主イエスを照らそう ~

  “イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしにう者は暗闇の中をかず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書812)”    
  ある旅人が、田のある町の教会訪ねた時のことです。日曜日の夕礼拝に出席しようと、夕方になって教会の庭に入りました。しかし、その教会は大古く、電設備もありませんでした。いよいよ礼拝の時間が近づくにつれ、教会の信徒たちが、灯を一つずつ持って集まり始めました。あっという間に、教会の中は美しい灯であふれ、説教壇の後ろにかかっている十字架は、その灯の灯りのゆえに、燦爛たる光を放っていました。とても素晴らしい光景に、その旅人は心から感動を受けていました。


 
  そして、人がますます集まるにつれ、互いの顔を確認し、隣の人と笑顔で挨拶を交わすこともできるようになりました。しかし、その夕礼拝には、一人のお年寄りの姉妹が病のに出席できず、彼女の席だけが空くことになり、灯りがともせませんでした。その時、その教会の牧師は、次のように話しました。「席が一つ空くと灯も一つ欠けることになり、教会堂はその分暗くなります。そうなると、その分イエスの御姿や、十字架が暗く見え、互いを確認するにも障害が生じます。」・・・
 
 年受難日礼拝では、神の家族が集い、十字架にロウソクの火を灯します。それは、イエスキリストの十字架の命をいただくと同時に、十字架の灯りに罪を燃やしていただき、十字架の愛の光をえる者としての使命を、新たにしていただくという意味をもっています。ぜひ、共に集い、十字架の灯りの輪をげませんか。シャロム!
 

2019.4.14 本日の宣教

 
『 十字架の前に立つ日々 』 マルコによる福音書15:3341)

 主イエスが十字架にかけられた時、聖書はイエス様が十字架の上で7つの言葉を語られたと記しています。
“父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。”
“婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。”、“見なさい。あなたの母です。”
“あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。”
“渇く。”
“エロイ,エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。”
“父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。”
“すべて成し遂げられた。”
 わたしたちは、この十字架上の主イエスのお姿と、この7つの言葉を通じて、神の偉大なる赦しを見ることができますし、私たちの永遠の希望が約束されているのを知ることができます。そして、主イエスの十字架は、私たち罪人たちを贖うための身代わりであり、決して十字架は、決してあきらめない神の愛の熱情を見せてくれるのです。

 その主イエスの十字架に触れたことで、全く新しく変えられた人がローマの百人隊長でした。「本当に、この人は神の子だった」(39節)・・・今まではイエスという一人の死刑囚、一人の人間としか見ていなかった。しかし、十字架の出来事を通して、このイエスという人は、“本当に!”神の子であった!という大切な変化が生じたわけです。
 
 愛する神の家族の皆さん、日々主イエスの十字架を前にして生きる人は変わります。十字架の主イエスを見上げる人は、主イエスがどのような方であるのか、その方が、私とどんな関係であるのかを知るようになります。そして、その十字架の前でわたしたちも百人隊長と同じく、信仰を表すことになるのです。そうです。私たちの信仰は、日々、十字架に立たなければなりません。聖書は、信仰のあり方について、また、キリスト者における多様な信仰姿勢を教えてくれますが、まず何より、主イエスの十字架の前に立たなければ、主イエスの十字架の上に信仰を建てなければ、私たちの信仰は空しくなり、崩れてしまうと言うのです。
 
 願わくは、神の家族お一人お一人の日々が主イエスの十字架の前に立ち、十字架を見上げ、十字架の愛の感動に包まれるものでありますように…。嬉しい時も十字架、悲しい時も十字架、寂しい時も十字架、いついかなる時にも十字架の前に立つことを心がけましょう。十字架は愛です。十字架は命です。十字架は道です。十字架だけが誇りです。ハレルヤ!
 

 
 

2019.4.14 小さな泉の恵み

~「約聖書入門」の詩篇と
ダビデ王の功罪をんで~

  詩篇23編は私の好きな個所です。

「主は私の牧者であって私には乏しいことがない。」

私は病院で簡職をしているだけです。掃除の仕事もしていましたが、腰を痛めてからはやめました。また、教会のトイレ掃除も少なくなりました。それでも主は私にみをえて下さり、災いから遠ざけて下さっています。  今はこうして週の日曜日に礼拝に集い、水曜日は祈りに出席し、三日ごとに私にえて下さっています。集まるしみがあります。私は、礼拝に兄弟姉妹が集まり、和やかな雰囲気を味わうことがとてもしみです。
世の中は足の引っ張り合いで、どうかして、けつまずかせようとしてきます。共に助け合うことは少ないです。私は一人暮らしです。教会の話はしてはいけないと、フレンズの約束ごとに書かれてあります。
腰の痛みが少しずつ良くなってきているので、これからは週日曜日にトイレ掃除ができるよう祈ってます。こんな私ですが教会の家族の一人として交わっていきたいのです。よろしくお願いします。水曜日の祈りは良い機です。皆さん、祈りに出席しましょう。







 


 

 

2019.4.7 牧師室便り


~ 何によって生きるか ~

 先週、皇位継承時に政令で定める元号が「令和」に決まったニュースで日本中が騒がれる中、息子と東京にいました。突然決まった日程で、息子が高校に入る前の春休みを利用して、東京の教会巡りをしたいという要望に応えてあげるためでした。教会を中心に、キリスト教に関連するありとあらゆる場所を2日の予定で駆け回りました。カトリック教会、正教会、プロテスタントの諸教派の教会、また、国際キリスト教大学(ICU)、ルーテル学院大学、教文館など・・・。息子と二人で旅をしたのは初めてで、果たして息子の心は満たされたでしょうか。
  教会巡りをする中、各教派の教会が、何を大事にしているのかがよく伝わってきました。とりわけ、歴史が長ければながいほど、伝統や歴史人物が重んじられていることに気づきましたね。とりわけ驚いたのは、訪問した10以上の教会のうち、正教会とバプテスト連盟の1教会を除くすべての教会が、パイプオルガンをもっていて、そのほとんどの教会が、パイプオルガンを礼拝堂の中央に置いていました。圧倒的な存在感のパイプオルガンを目にしながら、何か複雑な思いに包まれましたね。“キリスト教会のあるべきものは何か”という、永遠に変わることのないぶどう酒である福音を入れるべき革袋は、時代に合わせて変えるべきものなのに、なぜか、変わらない革袋を作ることに熱心になっている教会が、そこにあるような気がしたのです。
  4月から、「使徒信条」の学びを始めたいと思います。初代教会から現代に至るまで告白され続け、これからも告白され続けるだろう使徒信条を学びつつ、私たちが抱くべき信仰の内容を、確認したいと思います。バプテスト教会における「教会の約束」を「使徒信条」に変わるものと考える方も少なくないと思いますが、教会の約束は、信仰告白をした人がどう歩むべきなのかについての、信仰実践の指針であることを覚えましょう。大切なのは、行いではなく、“義人は行いではなく、信仰によって生きる!”という信仰告白の上に立ち生きることです。シャローム!

2019.4.7 本日の宣教


『 わたしは信じます 』  (ロマの信徒への手紙10:910
  「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです(ロ10:9)。」
 
 「わたしは信じます」という言葉から始まる使徒信の起源は、キリスト教会の初期の時代にさかのぼります。今日、私たちが告白している使徒信が今の形になったのは、8世紀頃であると言われていますが、23世紀には、すでにその原型となる信仰告白文として古ロマ信と呼ばれるものが存在し、教会で用いられていたと言われています。しかし、さらにさかのぼって使徒たちが活動していた1世紀半ば、すでにバプテスマの際に教会で告白されていたことが言われています。

「わたしは信じます」(クレド)という言葉で始まる使徒信は、個人的信仰告白であると同時に、2千年間の世界の教会の信仰告白であります。“わたしは信じます”という言葉は、ラテン語で“クレド(Credo)”といいます。この言葉は“心、心”と言う言葉と、“げる、固定する、信する”という言葉が一つになって出た言葉です。すなわち、“わたしは信じます”という言葉は、“わたしの心げて、神に固定して信して生きる。”という意味になるのです。 ただし、「信じる」ということは、一人だけの個別の行ではありません。一人一人の信仰者たちと共に信じるという、共同体的な意味ももっているのです。神は、わたしたち一人一人を個別的に呼んでおられますが、その一人一人との人格的な係の中で、共同体へと導かれるのです。その中で生まれた共同体が、教会なのです。  使徒信を含む信仰告白は、史における各教会と、キリスト者の置かれていた疑いのただ中で信仰の動を防ぎ、信仰をめ、主イエスとの係を深めてくれるきをしてくれました。確かな信仰告白は、疑いと不信仰の誘惑れる時、私たちを主イエスに近づかせてくれます。また、信仰の成長の過程における、「避けられない試練」をり越えていける力をえてくれる。ですから、私たちは月一度の主の晩餐の時に告白する「使徒信」は、信仰の先祖たちが、しい迫害と試練にのただ中で、彼らの信仰を支えてくれた信仰告白でありながら、今日の私たちの信仰の成熟と信仰のいを、勝利へと導く信仰告白であり、祈りであるのです。

私たちが今ここで使徒信に口を合わせ、信仰を告白する時、私たちは、初代教会から始まった史の教会と信徒たちと一つとされ、今現在の世界中で、使徒信を告白する教会と、キリスト者が一つに結ばれることをえましょう。願わくは、しばらくの使徒信びを通して、私たちの群れとお一人お一人の信仰が確かにされ、主に喜ばれる教会形成にむことができますように・・・。ハレルヤ!




2019.4.7 小さな泉の恵み


 3月21日()春分の日、名古屋教会で行われた中部地方連合の定期総会へ閔先生、S姉と共に行って来ました。出発は暴風雨の中でしたが、雪も無く主に守られ2時間で到着しました。皆様のお祈りにも感謝します。
 開会礼拝で金沢教会のK兄のメッセージがあり、バプテスマに至る経緯を証されました。K兄は金沢教会で大きな奉仕者のお一人ですが、その背後に神様の導きとご計画があったことを知ることが出来ました。
 総会で2018年度の各部会の活動、決算報告及び2019年度の活動計画と予算案が話し合われました。様々な意見があった中で福井教会への支援、献身者、神学生の減少と協力献金の拡充が課題としてあげられました。すぐに解決するのは難しく感じますが、各教会が自らの問題として受けとめるなら、神は真実な方ですから必ず道を開いて下さいます。閔先生の唇を通していつも語られるように福音伝道にこそ希望があります。連合の全ての教会の上に主の祝福がありますように。主の栄光が永遠にありますように。

                       S.Y兄

2019年4月1日月曜日

2019.3.31 牧師室便り

~ 最初の確信を最後まで~

 “わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。”(ヘブライ3:14

本日をもって2018年度の53週あった主日礼拝が終わることになります。そして次週からは2019年度の52週ある歩みが始まります。私たちの愛する神は新年度にどのような恵みを備えておられるでしょうか。期待しつつ、信仰の歩みを続けたいと願います。

また、43日は日本バプテスト連盟結成記念日です。1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、日本基督教団から離脱した旧西部組合系の16教会が集い、福岡・西南学院教会で日本バプテスト連盟結成総会が持たれました。結成された連盟は、週報の右上にも記されているように、「全日本にキリストの光を」のスローガンを掲げ、まず県庁所在地に伝道所を開設し、その教会が拠点となって周辺都市に伝道を広げる開拓伝道に取り組むことに力を入れることになりました。その働きの実としてわが教会も誕生したのです。ハレルヤ!

さて、この時こそ、確認すべきことがあります。それは、私たちは神がくださる恵みを期待するだけでなく、神が私たちに期待しておられることを意識して歩むことです。神が期待される御心の一つが、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続け、キリストに連なる者となること」であると思います。すなわち、一人のキリスト者と教会が信仰に入った最初の時に得た“福音の確信と信仰する感動”を心に抱き、喜びに満ち、成長していくこと、そして最初の純粋な信仰を最後まで持ち続けることを常に心がけることにあるのです。ところが、個人であれ、共同体であれ、しばらく時が経ち、様々な試練に見舞われると、燃えていた信仰はマンネリ化し、情熱は消え失せ、救いの感動は冷めてしまうということに問題があるのです。神の家族お一人お一人、わが教会の最初の信仰の確信と感動は今も変わっていませんか、また、日本バプテスト連盟に連なる諸教会が最初の確信とビジョンを最後まで貫くことを神は望んでおられることでしょう。・・・「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4

2019.3.31 本日の宣教


『 主の招きに答えて 』  マルコによる福音書31319)

イエスが12人を選んだ様子を注意深く見てみると、いろいろなことがわかる。イエスは山に登った。旧約以来、山は啓示の場と考えられてきた。さらに、山はイエスが祈る場所でもあった。その大切な場所で、イエスは、「自分が望む人たちを呼び寄せた」。ヨハネ15:16を読むと、イエスの強い意志、希望、確信が伝わってくる。イエスの弟子は、イエスに特別に選ばれた者だ。主役はイエス。弟子たちの資質は何一つ考慮されていない。それらは問題ではないのだ。イエスの願いによって、弟子たちが選ばれた。イエスが、弟子たちを必要としたのだ。
 そのように、私たちもまた、イエスに招かれ、選ばれたものであり、それを可能にしたのは、神の熱心である。教会は神に選ばれ、呼びかけられた者の群である。
 1、イエスは何のために12人を招いたのか?その目的は?12人がイエスと一緒にいるためである。イエスのそばにいること、離れないことこそ、弟子に求められることである。イエスと共にいるとき、弟子たちはイエスに似たものへと変えられていくのである。神はなぜ、働き人を召すのか?神はご自身でなんでもできるのではないか?神は全能ではないのか?その答えは、神は喜びを分かち合いたいのだ。神は喜びを独占しない。共にいる者と分かち合うことが神の喜びなのである。マタイ25:2123で「主人と一緒に喜んでくれ」という主人こそ、イエス様である。
 2、12人が福音を宣教するためにイエスは彼らを招いた。そして、福音を宣教するためにイエスは弟子たちを派遣する。イエスは弟子たちを伝道旅行に送り出した。この時の戒めを考えてみよう。マルコ6:7以下を読もう。ただ神への信頼に生きよ!心配するな、任せて安心の日々を送れ!心配に人生を支配させてはならない。弟子たちは神の守りと導きをこの伝道旅行で経験した。神は、すべてをご存知で、万事が益となるように配慮されることを信じよう。
 3、12人に全権をもたせるためにイエスは弟子たちを招いた。その全権とは、悪霊を追い出す力である。それは人間の解放のこと。私たちは様々な囚われの中に生きている。私たちは神を信じ、神に任せるよりも、経済力や人間関係が私に安心感を与えると思っている。そして、その罠にかかる。預言者たちは、鼻から息の出入りするものに頼るな。兵隊や軍馬の数を数えるなと、いつも警告した。それは、神ではなく、悪霊に支配されている印だからである。イエスは、悪霊の支配のもとにある人々を解放した。イエスはデカポリス地方のガダラに行き、狂人を癒した。そして、ガリラヤに帰った。たった一人の癒しのために湖を渡り、墓場を住まいとする男の人を解放するために、癒しのためにやってきた。弟子たちは悪霊の支配のもとにある人々を悪霊から神のもとへと奪還する権威を与えられた。それは癒しの力であり、奉仕の力と言い換えても良い。端的に言えば、愛の業である。
 結語:イエスの弟子に、祭司、律法学者はいない。対立する水と油の関係の人間がいる。熱心党と徴税人である。イエスは12使徒を創造した。イエスは、すべての責任を引き受ける決意を持って弟子たちを招いた。これが教会だ。

                                                                     田口昭典牧師

 

2019.3.31 小さな泉の恵み


~インドネシア便り①~
神の御名を賛美します!日本を離れて1か月超、家族の健康が守られている事に感謝します。少しずつ生活が整えられてきました。何から説明をしていいかわからない程何もかもが違っていて「もうっ!何でよ!」と何度怒りがこみあげてきたことか。(笑)
まな板は丸太、 20本以上ある包丁のほどんどはペティーナイフにも満たないような小さなものばかり、学生時代に一生懸命お金を貯めてプレゼントした洗濯機はどこかが壊れたとかなんとかでほぼ新品のまま放置され使えない、など例をあげるとキリがない程で日常が困難だらけでした。今でも変わりありませんが、器用になったのか諦めたのか日々の生活が守られています。主の祈り「日用の糧を今日も与えたまえ」を痛感する毎日です。何でも揃う日本とは違い与えられたものを大切に使い、必要な量の食事を作り、近所の方に助けられて過ごす日々はすごくシンプルですが恵みですね。  
子供たちはカトリック教会が運営する学校に通い始めました。慣れるまでに時間がかかりそうですが祈りから始まり祈りで終わる学校生活は主の祝福で満ちており素晴らしい経験になるでしょう。子供たちは「早く日本に帰りたいー」言っていますが、こんな生活ができるのはとてもラッキーボーイですよね!自由にすくすくと育ちますように!
                              I.M.姉

2019.3.24. 牧師室便り

~さらば、イチロー~

  私が日本で留学生活を始めた頃、日本のプロ野球にセンセーションを巻き起こしていた一人の選手がイチローでした。野球選手としては細身の体、そして踊るような独特なストレッチングと打撃フォーム、どんな姿勢でも安打を打つ打撃技術など、天才的なその姿に日本中が魅了されていたことを覚えています。そして大ーリーグ挑戦と次々と打ち立てていく記録。渡米1年目から首位打者に輝き、ア・リーグの最優秀選手と最優秀新人に選ばれ、2年目には262安打を打ち、大リーグのシーズン最多記録を84年ぶりに更新する。また、100ぶりに記録を破った10年連続の200安打。そして、大リーグだけでの3000安打達成、10年連続のオールスター、ゴールデングラブ賞獲得、日米合わせて28年間で4357安打を積み上げた。恐らく彼のような選手はしばらく、いや永遠に出てこないかもしれない・・・。称賛しすぎでしょうか。
 そして、イチロー選手は、先週の日本での大リーグ開幕戦を終えて引退宣言をしました。もともと50歳まで現役でいたいとしきりに言っていましたが、もう限界に達していたことを感じたことでしょう。私は彼の人格や生活の面については知りません。ただ、彼のプロ野球選手としての28年間、天才という一言で説明し切れない彼の流した汗と努力、忍耐、プロ精神など・・・、いくら称賛されても足りないほどのプロ野球選手としての歩みであったと思います。そして今後について聞かれると、「明日もトレーニングする」と答える彼の言葉がとても印象的でしたね。
 「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(Ⅱテモテ4:7-8使徒パウロの言葉です。一人のキリスト者として、また伝道者として決められた道を走り通したパウロの姿から大きな励ましとチャレンジを受けます。パウロの言葉と共に、一人の偉大なプロ野球選手の引退を目の当たりにしながら、福音伝道者としての思いを新たにする自分でした。シャローム!

2019.3.24 本日の宣教


『 祈り 』  サムエル記上121925)
 
今日私が示された聖書の箇所はサムエル記です。サムエルは、約3千年前、つまり紀元前11世紀頃にイスラエル民族を導いた預言者です。最初の王様であるサウル王をたてた指導者です。有名な王様でイスラエルを強固な国としたダビデは、サウル王の次にたった二番目の王様ということになります。
 サムエルの母親は、ハンナという名前の女性で、エルカナという人の奥さんです。エルカナにはベニナというもう一人の奥さんがいて、彼女には子どもが授かるのですが、ハンナには子どもができませんでした。ベニナは、憎しみの中で子どものできないハンナを見下し悩ませていました。毎年エルカナは家族を伴い、神殿で神様に礼拝していたのですが、子どもができないことでベニナから苦しみを受けていたハンナは、深く悲しみ、激しく泣きながら主に祈りました。そして、誓いを立てて言いました。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
 神様はハンナの涙ながらの祈りを聴かれ、男の子をハンナに授けます。ハンナは神様に誓願したことを実行します。誓願してささげられた人のことを「ナジル人」といいます。「ナジル人」については、旧約聖書には度々登場するのですが、民数記の6章にナジル人の在り方が書かれてあります。「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち・・・ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。」
 サムエルは、乳離れしてから母のもとを去り、神殿で祭司であったエリに仕え、熱心に神様に祈る正しい人として育ちました。時が経てイスラエルの人々が神様から心が離れ、他の民族に攻められた時に、人々は唯一の神に頼るのではなく、民族を束ねる王様を求めます。その際にサムエルが言った力強い言葉「20恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。21むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。」この聖句に心が打たれます。私は日々何に頼っているのだろうか?自問する日々です。
                                        S.S.兄

2019.3.24 小さな泉の恵み






~卒業生を見送りながら~
 
冬も終わり今年も卒業シーズンがやってきました。私が働いているYMCAではキャンプなどに多くの大学生がボランティアで関わってくれていて、4年生はこれで卒業するため、先日卒業する大学生の皆のために会を開きました。卒業生たちは一人一人目に涙を浮かべながら4年間の思いを語ってくれました。この4年間で卒業生の皆は精力的に活動してくれてYMCAに貢献してくれました。僕個人としても、ともにキャンプに行ったり時には一緒にご飯を食べに行ったりと多くの思い出をくれた卒業生の皆と出会えたことに感謝しながら見送りました。卒業して社会に出てから多くの試練にあうと思うのですが、神様は乗り越えられない試練は与えられないというので試練を乗り越えながら成長してほしいなと思います。そして、新たな出会いに恵まれて沢山もつながりができるように祈っています。
  この時期は小泉町教会でもSさんやIさんご一家など旅立つ人たちを見送ってきました。 いつでも別れは辛いものですが、新しい土地でも多くの出会いに恵まれる事とともにその地で恵みの源となれるように祈っています。
                                              S.H.兄