2022年1月4日火曜日

2022.1.2 牧師室便り

 ~ 十字架作り ~

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

 明けましておめでとうございます!!!2022年の神の家族お一人お一人の歩みが生きた礼拝者として、御手の中で守られ祝福されますように…。

 昨年のクリスマスを準備しながら、村上兄に牧師からのプレゼントを考えている中で思いついたのが、十字架を直接作って贈ろうということでした。そこで早速ホームセンターで木材と接着剤、ニスなどを購入し、制作に取り組みました。最初は壁にかけるための大きいサイズの十字架を作ったのですが、残ってしまった木材を用いて小さな十字架も作ってみたところで、知らない内にいろいろな形の十字架を完成することができました。

 そこで、心に浮かんだ思いが、「コロナ時代を生きる神の家族全員に十字架をプレゼントしよう」ということだったのです。一人一人の神の家族の顔を浮かべながら、それぞれが抱えている重荷、祈りの課題などを黙想しながら、壁掛け用の十字架、手で持って祈る時に用いる十字架、また自由に用いる十字架、色がついている十字架、天然の木色の十字架など、皆さんが自由に選べるように作ることができました。

 もちろん、以前から話してきたことですが、形としての十字架に何か特別で、神秘的な力があるわけではありません。形が信仰の対象になることはキリスト教信仰においては偶像崇拝になってしまう恐れもあります。大切なことは、神の家族の2022年の歩みの中で、十字架を見上げ、十字架を手にして祈ることによってイエス・キリストの十字架の愛と恵みが自分のためであったことを実感していただきたいということです。

 とりわけコロナ時代がいつ終わるか分からない今、健康の面、経済的な面、人間関係の面など、神の家族が味わう痛み、苦しみの中で、主イエスの十字架をもっと身近に体験できるようになり、十字架と復活の証人としての使命を果たすことができますように…。シャローム!


2022.1.2 本日の宣教

 『 自分の十字架を背負う② 』(マタイによる福音書16:24~27)

「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」…。この御言葉を、私たちはどのような思いで受け止めるべきでしょうか。ともすれば、私たちは、神からの祝福は受けたいけれども自分を捨ててまで、十字架を背負ってキリストに従うのは難しいし、これは主イエスからの特別な召命を受けた献身者にだけあてはまるのであって、自分のような一般のクリスチャンとは関係のないことだと思っている人も多いのではないでしょうか。

それでは、ここで「自分を捨て」とはどういうことでしょうか。これを一言で言えば、「今までの自己中心であった生活をあきらめて、主イエス中心の生活をしなさい!」ということになります。人は誰でも、心の王座に自分が座っていて自己中心に人生を生きています。しかし、主イエスに従おうと決めた人は、人生の王座から自分を引き摺り下ろして、その王座を主イエスに明け渡すのです。自分が中心であった時は、自分の欲望に従って自分の腹を満たすための生き方しか考えなかったし、それだけしか知りませんでした。しかし、救い主イエスに出会い、主イエスを心の王座にお迎えしてからは主イエスの御心に従って、神の国と神の義を優先するように変わり、神の愛に満たされることで満足することになるのです。・・・そうして、私たちは主イエスの十字架の後に従うことができるのです。

次に主イエスは、「自分の十字架を負い、そしてわたしに従いなさい」と語られます。ここで主は、私とあなたが背負うべき十字架とは、一人ひとりの固有のものであって、それぞれが違うと言われていることを覚えましょう。つまり、すべての人が十字架を背負っていて、自分だけに与えられた固有の十字架があり、周りの人と比較する必要はないのです。しかし、時々私たちは、自分が背負っている十字架をとても重く感じ、あまりにも大きくて背負えないと思ってしまいます。その時私たちは、“神は何で私だけにこんなに苦しい十字架を背負わせたのか”とつぶやくのです。

皆さんはいかがでしょうか。皆さんが背負っている十字架があまりにも痛く苦しいため、神様につぶやいてはいませんか。…しかし皆さん、確かなことは、わたしたちはその十字架に押しつぶされてしまう事はないということです。イエス様は、必ずその十字架を背負うための必要な力をも備えてくださるし、既にその力が与えられていると語っておられるのです。心配することはありません。思い煩う必要もありません。一切を主イエスに委ねて、信頼していくことです。そうする時に私たちはキリストが成してくださる、不思議な御業を体験することになるでしょう。

愛する神の家族の皆さん、皆さんはどんな十字架を背負われているでしょうか。あなたが背負っている十字架のことで辛く苦しい時を過ごしていませんか。求められるのは、 今までの自己中心だった人生の主導権を主イエスに明け渡すことから始めることです。すなわち、主イエスの前であなたが死に、主イエス様の命に満たされて生きることです。願わくは、神の家族の今年の歩みが、隣で歩まれる主イエスに励まされながら、各自に与えられている十字架を背負って、主イエスの時に適った恵みと導きをいただきますように…。ハレルヤ!


2021.12.26 牧師室便り

 ~ 互いに感謝の拍手を!!! ~

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(フィリピ1:3~4)

一年間の52週の主日礼拝が御手の中で祝福され恵まれたことを感謝します。コロナ下という時代を歩む中で神の家族の支えがあって今日の日を迎えることができました。本当にありがとうございました。

コロナパンデミック2年、私たちの生活は大きな変化に追われながら、落ち着かない日々を歩んできましたね。希望の兆しが見えていると思いきや、変異株が繰り返し現れたことで、一年中マスクを外すこともできませんでした。誰よりもかわいそうだったのは、触れ合いの中で様々なことを学びつつ成長していくはずの学生たちだったかなと思います。実際、娘も中学生になったけれど、学校では一度もマスクを外すことなく、同じクラスの子らと顔と顔を合わせて時間の流れるのも忘れて、楽しくしゃべったり騒いだりするという思い出を作るチャンスを、失ってしまったことは寂しいことです。

ふり返ると、否定的なことしか残ってないような気がするかもしれませんが、インマヌエル(神、我らと共におられる)の主が私たちの傍らで共に歩まれ、守り、助けてくださったことを思うと、賛美せざるを得なくなります。また、愛する神の家族の皆さんとの執り成しと愛の交わりに支えられ守られたことは言葉では言い表せない感謝でいっぱいです。2021年の最後の主日礼拝、互いに感謝の拍手を送りましょう!“あなたがいて、わたしもいます。”シャローム!”


2021.12.26 小さな泉の恵み

 ~灰色の断想~

誠実、無欲、色で言えば真っ白な人、  不実、貪欲、色で言えば真っ黒な人、そんな人は現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。 比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分けは一人の人間においても一定ではなく、白と黒の間をゆれ動いている者同志の分別に過ぎません。よく見ればお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。

藤木正三著 「灰色の断想」より

藤木正三先生は、牧師で教育者でもあった方で、何冊もの著書を残しておられます。  イエス様が、私の心の扉をノックされる音に気付かせてくださった恩師です。人とのかかわりの中で、疲れたり落ち込んだりした時、この文章を思い出すと何だかほっとします。真っ白なのは神様だけです。  

                            S.Y.姉