2026年6月30日火曜日

2026.6.28 本日の宣教

 『  神の御心に適う祈りを 』  

                          ヨハネの手紙一 5章14~15節

私たちは日々さまざまな心配を抱えて生きています。心理学者アーニー・J・ゼリンスキーによれば、“人が心配することの多くは、実際には起こらないことや、すでに過ぎ去ったこと、あるいは自分ではどうにもできないことだ”と言われています。

私たちは皆、祈ります。病のときには癒しを、問題に直面すれば解決を、愛する者のためには守りと祝福を祈ります。祈りは信仰者の呼吸であり、神との交わりの大切な時です。しかし、祈り続けていても、願ったとおりにならないことがあります。その時私たちは、「神は私の祈りを聞いておられるのだろうか」「祈っても意味がないのではないか」と心を曇らせてしまうことがあります。

今日の聖書箇所で、使徒ヨハネは「神に対する確信」について語っています。ここで用いられている「確信」という言葉は、ギリシャ語で「パレーシア」といい、「大胆さ」や「包み隠さず堂々と語ること」を意味します。私たちは神の前で恐れたり遠慮したりする必要はありません。神は父として私たちの祈りに耳を傾けてくださるからです。

しかしヨハネは同時に、「神の御心に適うことを願うなら」と教えています。祈りは単に自分の願望を実現するための手段ではありません。祈りとは、自分の心を神の御心へと合わせていく営みです。

主イエスはゲツセマネの園で、「この杯を取りのけてください」と祈られました。しかしその後、「わたしの願い ではなく、御心のままになさってください」と祈られました。ここに祈りの本質があります。祈りとは自分の願いを神に押しつけることではなく、自分の願いを率直に申し上げながらも、最終的には神の御心に身を委ねることなのです。

私たちは何が最善かを十分に知りません。しかし神は私たち以上に私たちを知り、愛し、人生のすべてをご覧になっています。だからこそ、神の御心に信頼して祈る時、私たちは平安を得ることができます。

神の答えは必ずしも私たちの期待どおりではありません。時には「はい」、時には「待ちなさい」、また時には「いいえ」という答えが与えられます。しかし、そのすべては神の愛から出ています。祈りがすぐにかなえられない時でも、神は決して沈黙しておられるのではありません。私たちの見えないところで最善の御業を進めておられます。だから私たちは大胆に祈り、同時に謙遜に祈ることができます。

「主よ、これが私の願いです。しかし、あなたの御心がなりますように。」

私たちの確信は、自分の信仰の強さや祈りの熱心さではなく、祈りを聞いてくださる神の真実にあります。神は私たちの祈りを聞き、最善の時に最善の方法で御心を成してくださいます。この確信をもって、神の御心に適う祈りをささげ続ける者でありたいと思います。

ハレルヤ!


2026.6.28 小さな泉の恵み

 恵み深い父なる神様。

すべてのことに感謝いたします。

文福の活動の日である2026年6月9日(火)、部会終了後、呉羽町から北陸コピー前、諏訪川原を経由してラッコハウス西公文名町へ向かいました。その途中、大泉郵便局付近で、歩道の幅が電動車椅子より狭く、さらに歩道と車道の段差が高かったため、電動車椅子とともに転倒してしまいました。

その際、右ひじと左ひざの右側を擦りむき、出血するけがを負いました。また、左手の人差し指と中指の第二関節にもけがをしました。幸いなことに今は治りかけています。

このような事故は今回で3度目です。私は、これも社会に存在するバリアの一つだと感じています。このけがを通して、社会の危険性を伝え、私自身の口を通して注意を呼びかけ、安全対策を見直す機会となるよう願っています。そして、議員団にも声を届けたいと思います。この出来事を公開し、みんなで安全なまちづくりについて考える機会を与えてくださった神様に感謝いたします。

どうか、すべての人が安心して暮らせる、安全で満たされたまちへと導いてください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 💒🍷🍞⛪

                             M.T.兄


2026.6.21 牧師室便り

   「 父を覚え、父なる神を仰ぐ」

本日は父の日です。私たちに父親を与えてくださった神様を心から賛美いたします。

私が覚えている父は、いつも黙々と仕事に励み、責任感が強く誠実な人でした。農作業をしながら、一人で大きな声で演歌を歌っていた姿も、今では懐かしい思い出です。

特に忘れられない出来事があります。小学2年生の頃、激しい遊びが好きだった私は、友達と壁から飛び降りて遊んでいました。その際、後ろにいた子が私の足をつかんだため、私は逆さまになって落下し、地面にあった電球におでこを強くぶつけて意識を失いました。気がつくと、父が血を流している私を抱きかかえ、必死に病院へ走っていました。その腕の中で感じた安心感は、今も忘れられません。病院ではおでこを7針ほど縫いましたが、あの時、わが子を抱きかかえながら慌てて走っていた父の姿は、今も鮮明に覚えています。

そんな父でしたが、我が家では最後にクリスチャンになりました。母は四十年にわたり、父の救いのために祈り続けました。かつて父は母の信仰生活を妨げることもありましたが、神様はその祈りに応えてくださり、父は七十歳の時にイエス様を受け入れ、共に信仰生活を始めました。しかし、八十歳頃から認知症を患い、最後には子どものように母に寄り添い、頼るようになりました。

父はもともと口数の少ない人で、一人で海を眺めたり、静かに新聞を読んだりして過ごしていました。コロナ禍の中で天に召され、私は最期に立ち会うことはできませんでしたが、父が神様の御胸に抱かれて天の御国へ帰ったことを信じ、感謝しています。

皆さんにも、それぞれお父様との思い出があることでしょう。その父を通して、私たちはこの世に生まれ、生かされています。その恵みに感謝するとともに、何よりも私たちのまことの父であられる神様を心から賛美いたしましょう。シャローム。



2026.6.21 本日の宣教

 『 アッパ、父よ 』  

                     ローマの信徒への手紙8章14~16節

本日の御言葉は、クリスチャンの祈りの本質を教えています。私たちはしばしば、「どう祈ればよいのか」「もっと立派な祈りをしなければならないのではないか」と考え、特に苦しみの中では祈れない自分を責めてしまいます。しかしパウロは、「あなたがたは神の子とする霊を受けている。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語ります。

祈りの出発点は、私たちの熱心さや信仰の強さではありません。神が私たちを子どもとしてくださり、父となってくださったことにあります。「アッバ」とは、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ「パパ、父ちゃん」という言葉です。子どもは父親の前で立派な言葉を用いません。ただ信頼して、「父さん」と呼びます。嬉しいときも、悲しいときも、何も言えないときでさえ父のもとへ行き、すべてを吐き出すのです。

祈りも同じです。祈りは宗教的な形式ではなく、父と子の交わりの時です。もし私たちが奴隷なら、祈りは義務や報告になるでしょう。しかし私たちは奴隷ではなく、神の子です。だからこそ疲れたときも、失敗したときも、罪を犯したときでさえ、「父よ」と呼ぶことができます。私たちは良い子だから神の子なのではなく、神の子とされたからこそ祈ることができるのです。

また、私たちはどう祈ればよいかも分からない弱い存在です。しかしローマ8章26節でパウロは、「霊も 弱い私たちを助けてくださる」と語ります。祈りの言葉が出ないときも、聖霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださいます。

また、「アッバ、父よ」と呼ぶ心も、祈り続ける力も、すべて聖霊の働きであると教えます。だから祈りは、頑張って神に近づく努力ではなく、父なる神の恵みの中に身を置き語り合うことなのです。

さらに、「アッバ、父よ」という祈りを最初に教えてくださったのは主イエスご自身でした。主イエスはゲツセマネの園で、十字架を前に深く苦しみながら、「アッバ、父よ、この杯を取りのけてください。」と祈られました。主イエスでさえ苦しみを隠さず、悲しみをそのまま父に申し上げられたのです。

したがって、「アッバ、父よ」とは、苦しみのない人の祈りではありません。涙の中でも、不安の中でも、それでもなお神を「父よ」と呼ぶ祈りです。そして、イエス・キリストが十字架への従順を貫いてくださったゆえに、私たちも神を「父よ」と呼びつつ、主イエスの後に従うことができるのです。

神の家族の皆さん、私たちの祈りは、いつも主イエスの祈りの中にあります。私たちは一人で祈るのではありません。聖霊によって支えられ、神の子として、今日もありのままの姿で「アッバ、父よ」と祈ることができるのです。

ハレルヤ!


2026.6.21 小さな泉の恵み

 ~家庭での信仰生活~

小泉町教会に通うようになって、今年で7年なります。いつか、洗礼を受けたいと思いながら、家族の理解などが充分得られずに今日にいたっています。ただ、お祈りを時々して心を落ち着かせたり、リビングライフを黙想して、み言葉をいただいたりする習慣は身についてきました。聖書を勉強してから、本当に良かったと思えるのは、やはり、神様のご計画に導かれて今があると思えることです。いろいろな困難が次々と起こり、本当に辛いなと思うこともありますが、すべてを益に変えてくださる神様の存在に支えられて生きていると実感しています。7月には3週間ほど富山市民病院に入院していましたが、入院の荷物の中に聖書とリビングライフを入れていき、有り余る時間を無駄にせずにすみました。有り難い事に、入院したことで、体調も少し落ち着きました。もしかすると、聖書を勉強する時間を充分持てたことが心の安定に大きな働きを持ったのかもしれません。退院後は、礼拝に参加できる事も有り難い事と思えるようになったし、小泉町教会の信徒の方々の優しさも貴重なものと思っています。家族を説得するのにまだ時間がかかるかもしれないけど、いつか、クリスチャンとして神様の前に出て行ける日が来ることを切に願っています。      

                            S.N.姉

2026.6.14 牧師室便り

  「 共に喜び、共に泣く社会のために!」

先週からサッカーワールドカップが始まりました。本来なら日本中が大きな盛り上がりを見せるはずですが、どこか冷めた空気を感じます。その背景には、近年オリンピックやWBCなどの国際大会が地上波テレビで放送されなくなり、有料のネット配信サービスでしか視聴できない場合が増えていることにあるでしょう。

かつて日本では、多くの人が同じ試合を見て、一緒に喜び、泣くという、スポーツは単なる娯楽ではなく、人々の心を結び合わせる共通体験でした。しかし今では、お金を払える人だけがその感動を共有できる仕組みになりつつあります。これは「お金がすべて」という資本主義社会の現実を映し出しているように思えます。

もちろん、放送権の取得や大会運営には多くの費用が必要であり、放送事業者にも経済的な事情があるでしょう。しかし、何でも市場原理で決められる社会となれば、それはいかに悲しいことでしょうか。お金がなければ共通の体験に参加できず、さらには電気や水道、ガスといった命に関わるライフラインさえ利用できなくなる現実を見ると、人間の尊厳より利益が優先されているように感じます。

聖書は「神と富(マモン)との両方に仕えることはできない」と教えます。お金そのものが悪いのではありませんが、お金が人間や社会を支配するとき、本来神から与えられた喜びや恵みまでもが失われてしまうでしょう。

神は私たちを孤立した存在としてではなく、互いに愛し合い、喜びや悲しみを分かち合う共同体の中で生きる者として創造されました。だからこそ私たちは、失われつつある共通体験を惜しむだけでなく、教会や家庭、地域社会において、人々が共に支え合う関係を築いていく必要があります。

この世界は今後ますます市場原理によって動いていくかもしれません。しかしクリスチャンは、その中にあっても神の国の価値観に立ち、人間の価値をお金ではなく神の愛に見出したいものです。シャローム。



2026.6.14 本日の宣教

 『 わたしたちは家族です 』  

                     マルコによる福音書3章31〜35節

現代を生きる私たちは、家族や職場、学校、SNSなど多くの人とのつながりの中で生きています。しかしその一方で、「私は本当に受け入れられているのだろうか」「ここが私の居場所なのだろうか」という孤独や渇きを抱えることがあります。

今日の聖書箇所では、主イエスの母と兄弟たちがイエスを呼びに来ます。しかし主は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われ、周りに座っている人々を指して、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と宣言されました。

これは主イエスが肉親を否定したという意味ではありません。主は十字架の上でも母マリアを弟子に託されました。ここで示されているのは、血縁や家柄を超えた新しい共同体、即ち「神の家族」の誕生です。

当時のユダヤ社会では血筋や家系が重視されていました。しかし主イエスの周りにいたのは、社会の中で疎外され、弱さや痛みを抱えた人々でした。彼らに共通していたのは、主イエスのもとに集まり、その言葉に耳を傾けていたことです。主は、そのような人々を神の家族と呼ばれました。

「神の御心を行う」とは、完璧な人間になることではありません。まずイエスを信じ、その言葉を受け入れることです。そして、その言葉に導かれながら歩み続けることでもあります。神の家族とは、立派な人々の集ま りではなく、イエスに従おうとする人々の共同体なのです。

教会とはまさにこの神の家族です。年齢や職業、育った環境や国籍が異なる人々が、「兄弟姉妹」と呼び合うことができるのは、イエス・キリストが私たちを一つに結び合わせてくださったからです。教会は、傷つき疲れた者がいつでも帰ることのできる霊的な家です。

しかし私たちは、教会を「お客様」の立場から眺めてはいないでしょうか。家族とは互いの弱さを受け入れ、喜びも悲しみも分かち合う関係です。主イエスの周りにいた人々は傍観者ではなく、主によって集められた家族でした。私たちもまた、神の家族の一員として互いに愛し、支え合うよう招かれています。

礼拝の後、私たちはそれぞれの日常へ遣わされます。しかし私たちはもう一人ではありません。父なる神がおられ、イエス・キリストがおられ、多くの兄弟姉妹が与えられています。互いに支え合いながら歩むその姿を通して、神の国の愛と希望がこの世界に証しされていくのです。

「わたしたちは家族です」。この主イエスの宣言を心に刻み、今週も神の家族として愛し合い、仕え合う歩みへと遣わされていきましょう。

アーメン。


2026.6.14 小さな泉の恵み

 ~東日本大震災15年を振り返り その2~

甚大な被害のあった宮城県石巻に最初に行ったのは、東日本大震災が発生してから約2週間経った3月25日でした。その数日前にアメリカのある都市のYMCA総主事から私宛に1通のメールが来ていました。そのYMCAの理事の娘さんであるテイラー・アンダーソンさんが石巻市の小学校の英語教師をしていて、連絡が取れなくなっているので搜索に協力して欲しいという内容でした。

私は、その頃仙台や盛岡YMCAの支援活動を視察するために仙台に来ていました。支援活動に奔走していた仙台YMCAの役員の家に泊まらせていただいていた夜に、ちょうどテレビのニュースでテイラーさんが遺体で発見されたという絶望的なニュースが流れました。来日して娘さんを探しておられたご両親と連絡をとり、娘さんが住んでおられた石巻市日和山の崖下にあるアパートの前でお会いしました。亡くなられてはじめて娘さんのアパートの部屋に入り、その生活を見られたご両親の深い悲しみに居合わせた時のことが今でも目に焼きついています。

テイラーさんは、いつも日本とアメリカの友情の懸け橋になりたいと言っていたそうです。ご両親は、テイラーさんの夢を実現するためテイラーファンド(基金)を作り、石巻市とアメリカの子どもたちの交流を支えています。テイラーさんのこころが今も子どもたちに平和の光を灯し続けることを祈ります。

                島田 茂


2026.6.7 牧師室便り

 「 祝福された花園を作ろう 」

毎年この時期になると、教会の花壇に前年に採取したマリーゴールドの種をまき、苗を育てて植え替える作業に励みます。しかし今年は、昨年保管していた種に水が入ってしまい、腐らせてしまいました。そのため新しく種を購入して育てようとしましたが、天候の影響もあって思うように成長せず、やむを得ずホームセンターで苗を購入し、花壇に植えることになりました。

これまで毎年、花壇で咲いた花から種を採り、その種をまいて新たな花を育てるという営みが自然に続いていました。そのため、今年も同じようにできるものと思っていました。しかし思いがけない出来事によって計画は大きく変わり、改めて種を大切に保管することの重要さや、適切な時に種をまき育てることの大切さを教えられています。

また、この出来事を通して教会の歩みについても考えさせられました。私たち小泉町教会をはじめ、多くの教会が成長や伝道の面で難しさを抱えています。

私たちはさまざまな計画や願いを持ちますが、必ずしも思い通りに進むとは限りません。時には失敗し、自分たちの力不足を感じて落胆することもあります。
し かし、今年植えたマリーゴールドもやがて花を咲かせ、新しい種を残してくれることでしょう。その種を大切に保管し、来年また種をまき、苗を育て、花を咲かせる営みは続いていきます。大切なのは、失敗や困難の中でも希望を失わずに歩み続けることです。
そのような時に心に留めたいのが、「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一3:7)という御言葉です。私たちは種をまき、水を注ぐことはできますが、本当の成長を与えてくださるのは神です。御言葉に信頼しながら、花壇の手入れをはじめ、教会の働きにも励みたいと思います。そして主が新たな種と花を与えてくださり、小泉町教会の霊的な花壇にも豊かな花々が咲き誇ることを願いながら歩んでいきたいと思います。
シャローム。

2026.6.7 本日の宣教

 『 聖霊に満たされた教会の姿 』  

                           使徒言行録2章42~47節

理想の教会共同体は、本当に存在しているでしょうか。キリスト教会が誕生してからの2,000年の歴史の中、人々は絶えず、理想的なキリスト教会を探し求め、また作り上げようとしていました。確かに、最初の段階では信仰に燃え、また新しい雰囲気の共同体が始まることで、興奮のうちに進んでいきますが、それも時間の流れや周りの環境の変化などによって、いつの間にか形式的な教会に変貌してしまう姿を、私たちは何度も見てきました。

今から二千年前、エルサレムの都に、世界で最初に誕生した「キリスト教会」は、私たちが思い描くあらゆる理想をはるかに超えた、信じられないほど熱く、美しい輝きに満ちた共同体でした。聖霊降臨(ペンテコステ)の日に神の息吹を吹き込まれた人々の姿です。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒言行録 2章42、44〜45節)

聖霊に満たされた初代教会の信徒たちが、まず何よりも熱心に励んだ「四つの事柄」があります。それは、教会が教会であるための四本の柱でした。

①「使徒の教え」 ②「相互の交わり(コイノニア)」  ③「パンを裂くこと」 ④「祈ること」 この4つの事柄は、特別なプログラムではありません。極めてシンプルで、地味とも言える営みです。しかし、聖霊に満たされた教会と信徒たちは、この基本的な歩みに「熱心に励んだ」のです。私たちの教会生活もまた、新しいイベントを追い求めること以上に、この原点に立ち帰り続けることが求められているのです。

当時のキリスト教徒は、ユダヤ社会からもローマ帝国からも、いつ迫害されるか分からない危険の中にいました。それにもかかわらず、彼らの内側には、状況に左右されない聖霊の喜びが満ちていて、自然とこれらの姿が現れるようになっていたのです。このような教会の姿は、当然のことながら、外の世界に対して強烈なインパクトを与えることになったのです。

「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(47節後半)

この最初の教会の姿を、単なる「遠い昔の奇跡の物語」としてではなく、現代の私たちの歩みを照らす鏡として深く味わい、現在に適用することは極めて重要です。初代エルサレム教会の短いスケッチは、時代を超えて、今を生きる私たちの教会の立つべき原点を指し示しています。

ハレルヤ!


2026.6.7 小さな泉の恵み

  ~東日本大震災15年を振り返り その1~

東日本大震災が発生して15年になりました。当時、私は日本YMCA同盟の責任者として、世界のYMCAやキリスト教会・団体の協力を得て、この未曾有の災害に直面した被災者に寄り添い、全国のYMCAやYMCAの支援団体であるワイスメンズクラブが一丸となって組織的に活動するために、主の助けを祈り、主に力を得て、働くことを決断しました。

東北地方にある盛岡・仙台YMCAをはじめ、東北大学YMCAなどの会員・スタッフは、沿岸にある被災地域で支援活動を始めました。全国のYMCAはすぐに募金活動を開始し、スタッフやボランティアを現地に派遣しました。

石巻市では東京YMCAが仙台YMCAと協働で災害ボランティアセンターを立ち上げ、スタッフを常駐させて全国・及び世界から来るボランティアを受け入れて支援活動を行いました。 

その後、石巻にはワイズメンズクラブが設立され、現在も活動を続けています。

今、私は東日本大震災15周年を覚え、この地で開催されているワイズメンズクラブ東日本区大会に参加するために石巻に来ています。能登で被災された方々と同様に、今も多くの人々が心に深い傷を受けています。能登や東日本大震災で被災された方々の傷が癒やされることをお祈りします。                              

                             島田 茂


2026.5.31 牧師室便り

  「 愛され、喜ばれ、支えられて歩む 」

“そうだ うれしいんだ 生きる よろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために 生まれて なにをして 生きるのか~”

先週木曜日に行われた「小さな泉のカフェ」は、2か月ぶりの開催ということもあり、能登の皆さんからこれまで以上の喜びと歓迎を受けました。

今回は5月ということで、母の日を覚え、参加された皆さんにカーネーションをお渡ししました。多くのお母様方がその花を楽しみに待っていてくださり、とても嬉しく感じました。近年では、母の日にカーネーションを贈る習慣が少しずつ薄れ、プレゼントやお金に変わってきているそうです。しかし、お母様方の心には、「やはり母の日にはカーネーションをもらいたい」という思いが残っていることを知り、心が温かくなりました。

また今回は、「アンパンマンマーチ」を皆さんで歌いました。先月、地域のお年寄りの合唱団がこの歌を元気に歌っておられる姿に感動し、ぜひカフェでも歌いたいと思ったからです。歌詞を味わいながら歌う皆さんの姿から、生きることの素晴らしさや、目には見えなくても支えてくれる存在があることに励ましを感じました。それはまさに聖霊の働きであり、私たちは神の愛によって日々生かされていることを、共に分かち合う恵みの時となりました。

これからも「小さな泉のカフェ」を通して、柳田地区の皆さんに神の愛が伝えられ、救われる方々が起こされるよう願っています。また、ボランティアとして参加される皆さんの信仰もさらに深められ、神が共に働かれる恵みを体験していけますように。まだ参加されたことのない神の家族の皆さんも、ぜひこの恵みの時を共に味わっていただければ幸いです。           シャローム。




2026.5.31 本日の宣教

 『すべての人と平和に暮らしなさい』  

                        ローマの信徒への手紙12章9~21節

現代社会は、危機的な状況に陥っています。こんな状況が続き過ぎて、最近は、感覚が麻痺してしまいっているのではないかと思うほどです。いろいろなところに爆弾が落とされて、そこに住んでいた人々が、戦禍の中、右往左往して逃げまどい、担架で運ばれたり、血を流して叫んでいたり、家族の者たちが泣き叫ぶ姿が映し出されているのに、もう、何も感じない自分がいるのです。平和について、多くの人々が語っていますが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の絵本の最後に「世界の全体が幸せでなければ、個人の幸せはありえない」と彼の言葉を載せてありました。このローマの信徒への手紙の12章9節から21節の部分に、新共同訳は「キリスト教的生活の規範」と見出しをつけています。聖書教育では、4月5月と牧会書簡を扱ってきました。その中に、牧師としての資格、役員や執事たちの資格のようなものが書かれておりました。人柄的なものと一般常識的道徳観のようなものが必要であると書かれていたかと思います。私は、それも大事ですが、そのような内容のことをパウロが述べている個所を考えるとき、この12章の9節から21節に尽きると思います。9節の「愛には偽りがあってはなりません」から始まるこの箇所には、他者に対する関係の作り方が述べられています。まずは、真実にその人に向き合う ことだということです。ここらに書かれている内容は、イエス様が私たちのために差し出された命を受けた者として、どのようにそのいただいたイエス様の愛に応答していくかが述べられています。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。泣く人と共に泣くことは容易ですが、喜ぶ人と共に喜ぶというのはできない、という人がいました。彼は、自分の人生があまりにも過酷過ぎて、他人の喜びごとを素直に喜べないというのです。泣いている人に親身になって泣いた人だけが、その人の喜びごとを一緒に喜ぶことができます。互いに尊敬し合うこともその人とずっと過ごしている間に、尊敬すべき所もそうでない所も見えてまいります。そして、誰もが自分よりも優れたものを持っていることに気づきます。「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」とは、真実です。そして、18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。今日は、特にこの言葉を現実に私たちはどう生きていけばいいのか、9節から21節の内容を通して考えてみたいと思います。

                                         福井キリスト教会 平良憲誠師


2026.5.31 小さな泉の恵み

 僕はGWの福岡への帰省中に、他教会で中高生バンドの子たちと賛美歌を歌ってきました。そこには、バンドチームの他に何人かいたのですが、子ども達は自由で、誰かが演奏をし始めれば他のメンバも演奏に参加したり、賛美には加わらず雑談を続けたりする等、無秩序で、だけど、皆で賛美をするような時間でした。

この中高生バンドの子たちの中にピアノ&サブボーカルの子がいて、(小学校低学年の時には一緒に遊んでいたのですが、)前に一緒に賛美をした時には、演奏に必死なのか恥ずかしがりなのか、あまり歌わない子でした。今回、僕はその子の声に耳を傾けながら賛美したところ、初めは小さかった声も、段々と伸び伸びした声に変わったのです。

先週僕は、「神の作品として生きる」という賛美歌を歌いましたが、その子の姿に、神様によって自分が変えられることへの恐れ、そして、喜びがあったような気がします。私自身は転勤族ですし、子ども達も今後の就職等があるため、ずっと福岡で一緒に過ごせるわけではありませんが、神様によって変えられていく中で、今過ごせる時間を大切にしたいと思います。

                            N.Y.兄

2026.5.24 牧師室便り

  「 憩いのベンチの恵み 」

最近の真夏のような暑さに、今年の夏が怖く感じられるほどです。神の家族の皆さんが、霊肉ともに健やかに過ごされることを願うばかりです。

先日、礼拝に来られた皆さんにお願いしていた通り、教会の前に「憩いのベンチ」を設置しました。少し修理が必要となり手を加えましたが、大切に使われていたベンチを快く献品してくださった姉妹に感謝いたします。厳しい暑さの中、教会の前の道を歩かれる方々が、ほんのひと時でもホッと一息つける場所になればとの願いを込めて、日曜日から外に置いています。

実際にどなたかが座ってくださるだろうかと気にかけていたある日、牧師館から礼拝堂へと移動する途中、ベンチのあたりに赤い帽子が見えました。「おお、どなたか座っておられる」とそっと近くへ行くと、中年の男性が携帯を見ながら休んでおられました。

その方は私に気づき、「すみません、ここに座ってもいいですか?」と尋ねられました。私は「もちろんです。皆さんに休んでいただくためのベンチですから、どうぞ気にせず、ゆっくりお過ごしください」と声をかけ、礼拝堂へ戻りました。実際に「憩いのベンチ」に人が座って休まれる姿を見て、心がとても嬉しくなりました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」・・・。そのように招いてくださるイエス様の御声に、憩いのベンチに座る方々が少しでも触れることができればと願います。そして、ベンチでひと息ついたその足が、やがて礼拝堂へと向かうものとなりますように。聖霊のお働きを期待し      つつ、新しい出会いが与えられるよう祈         っています。

シャローム。






2026.5.24 本日の宣教

 『教会を建てられる聖霊 』  

                   コリントの信徒への手紙一12章4~11節

ペンテコステ、おめでとうございます。

本日、私たちはペンテコステ(聖霊降臨日)の主日を迎えました。クリスマス、イースターと並ぶ、教会の三大祝祭の一つです。しかし私たちがこの日を祝うのは、単に「教会の誕生日」という歴史的出来事を記念するためだけではありません。今もなお私たちの間に生きて働き、教会をキリストの体として建て上げ続けておられる聖霊の御業を覚え、感謝するためです。

2,000年前のペンテコステの日、弟子たちは激しい風の音と炎のような舌に象徴される聖霊の臨在を経験しました。一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、さまざまな国の言葉で語り始めたのです。恐れの中に閉じこもっていた弟子たちは、聖霊によって立ち上がり、世界へ遣わされる者へと変えられました。彼らを変えたのは、自分たちの熱心さや能力ではなく、神から与えられた聖霊の力でした。

聖霊は、その時から2,000年にわたり、絶えず教会を新しくし、福音を宣べ伝える力を与えてこられました。迫害の中でも、困難の中でも、教会が失われることなく歩み続けてきた背後には、常に聖霊の働きがありました。聖霊の働きなしに、教会の宣教も成長もありません。そして聖霊は、今もなお私たちの教会の中で働いておられるのです。

パウロはコリントの教会に向かってこう語ります。…「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。」(Ⅰコリント12:4-5) ここでパウロは、「同じ霊」「同じ主」「同じ神」と語り、父・子・聖霊なる三位一体の神の一致の中に、教会の一致があることを示しています。聖霊は、一人ひとりに異なる賜物を与えながら、それらを通して教会を一つに結び合わせてくださるのです。

しかしコリント教会では、与えられた賜物が互いに仕えるためではなく、比較や誇りの対象となっていました。そのため教会には分裂や争いが起こっていたのです。そこでパウロは、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と教えます。賜物の違いは優劣ではなく、教会全体を健やかに建て上げるための神の恵みなのです。

私たちにも、神からさまざまな賜物が与えられています。奉仕、時間、能力、経済、祈り、優しさなど、それらはすべて、自分のためだけでなく、隣人に仕え、教会を整え、互いを生かすために与えられたものです。

聖霊は、私たちを単なる「恵みの消費者」にとどめず、「恵みの奉仕者」へと変えてくださいます。自分が目立つためではなく、キリストの体なる教会が堅く建て上げられるために、私たちはそれぞれの賜物を用いていただくのです。

願わくは、最初のペンテコステの日にエルサレムに吹き渡った聖霊の風が、今日も小泉町教会の上に新しく吹き、私たちを一つに結び、愛と希望に満ちた群れとして成長させてくださいますように。ハレルヤ。


2026.5.24 小さな泉の恵み

 わたしはリサイクルショップで、食器をながめたり、綺麗な食器を探すことが好きです。棚に並んでいるのは、昔は誰かの食卓にあったお皿、使われずに手放された中古の器など…。洋食器、和食器、種類もばらばらです。 わたしは、そのなかから、美しく可愛く、こころ惹かれる食器に出会えると、とても嬉しく、宝物のように買って帰ります。 

そこで、聖書の“買い戻し”という言葉を思い出します。 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (コリントの信徒への手紙一 6:20) 

もし、わたし自身が中古の食器なら…傷つき、自分には価値がない…と思います。 

イエスさまは、十字架という大きな代価を払って、こんなわたしを“買い戻して”くださった。もう一度新しいチャンスを与えるために。 古い器が新しい食卓へ迎えられるように、神さまもまた、傷ついたわたしをを拾い上げ、新しい恵みの食卓へ招いてくださる。 わたしは”買い戻された”特別な器です。だから自分の行動で神さまの栄光を現していきます!

                            A.M.姉

2026.5.17 牧師室便り

 「 教会学校を楽しもう 」

5月から、私たちの教会では新しい試みとして、礼拝開始時間を10時に変更いたしました。その目的は、教会学校の輪を教会全体へと広げ、より多くの方々が共に聖書を学び、交わる場とするためです。

コロナ禍以前は礼拝後に教会学校を行っていましたが、感染拡大以降は一時休止を余儀なくされました。状況が落ち着いてからは、礼拝前の時間帯に再開したものの、早い時間の設定は信徒の方々だけでなく、求道者の方々にとっても参加が難しいという課題がありました。そのような中、祈りの中で導かれたのが、再び「礼拝後に教会学校を行う」という形でした。

礼拝時間の変更は、多くの教会にとって勇気の要る決断です。出席者の減少や混乱を招く懸念もあります。しかし感謝なことに、小泉町教会の皆さんは、この変更を温かく受け入れてくださいました。さらに、礼拝後の教会学校にも多くの方が残って参加してくださっています。

先週は、大人クラス15名、求道者クラス4名、中高科2名が集い、共に御言葉を学び、執り成し祈る豊かな時が与えられました。本来の教会学校の姿が少しずつ回復されていることを、心から感謝しています。

これからも、すべての世代が共に集い、聖書を学び、神の家族としての交わりを深める場となるよう願っています。この教会学校を通して、お一人おひとりの信仰が養われ、バプテスマ(洗礼)へと導かれる恵みが豊かに与えられますように。

その第一歩として、まずは朝10時からの

礼拝に共に集いましょう。シャローム。



2026.5.17 本日の宣教

 『 創造と刷新の御霊 』~旧約の御霊~  

                          詩編51編12~14節

旧約聖書には「聖霊」という言葉が登場します。ヘブライ語では「ルアハ」といい、それは「風」や「息」「呼吸」という意味も持っています。

聖書の最初の一ページ(創世記1章)には、この世界がどのように始まったかが記されています。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)

まだ何も形をなしておらず、ただ真っ暗で、水が広がっているだけの世界。そこに、神の霊が「動いていた」とあります。聖霊は、何もないところに形を与え、闇に光をもたらし、創造を成し遂げられる神の息吹です。もし今、あなたが暗闇の中にいるとしても、そこは暗闇のままでは終わりません。そこは、聖霊が新しい命を与え、御心を成し遂げるために「動いておられる」まさしく「創造の場所」へと変わるのです。

創造の時に働かれた聖霊は、同時に私たちの内面を造り替える「刷新」の霊でもあります。詩編51編は、ダビデ王が大きな過ちを犯し、自らの罪の深さに打ちのめされた時に捧げた祈りです。…「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」(詩編51:12-13)

ここでダビデが使っている「創造し」という言葉は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」で使われている ものと同じ動詞です。つまり、ダビデは自分の性格を少し修正してほしいと願っているのではなく、「自分の中に、全く新しいものをゼロから造り出してほしい」と切望しているのです。

さらに、彼は「聖霊を取り上げないでほしい」と嘆願します。この箇所からは、旧約聖書における聖霊の特徴が示されています。すなわち、いかに立派で偉大な信仰者であっても、その人が神の前で罪を犯し続けるならば、聖霊はその人から去ってしまうということです。ダビデはそのことをよく知っていました。実際、聖書には、一度は聖霊が下りながらも、罪を犯して悔い改めなかった人々から、霊が離れてしまった例が記されています。

罪は、私たちの霊的な機能を麻痺させ、神とのつながりを断絶させます。ダビデは王としての地位や名声を失うことよりも、神の霊を失うことを何よりも恐れました。なぜなら、聖霊こそが私たちの魂の「息、呼吸」であり、聖霊なしでは人間は単なる「土の器」に過ぎないことを知っていたからです。

もし今日、あなたの心と人生に変化と刷新を求めるのであれば、聖霊の働きと助けを求めましょう。何もないところから創造を成し遂げ、罪と弱さの中ですべてを新しくされる聖霊にゆだねましょう。日々、聖霊を感じながら、素晴らしい再出発を期待し、祈りましょう。ハレルヤ!


2026.5.17 小さな泉の恵み

 先日5月3日、帰省中であったため久し振りに小泉町教会の礼拝に出席しました。その日の礼拝後の報告の時間にある姉妹が家庭の問題を告白され、教会の皆さんに祈ってほしいと懇願されておられました。私は、それを見て本来の教会のあるべき姿を見たような気がして安心しました。

実は、私も自分ではどうしようもできない家庭不和の問題を抱えており、単身赴任先の大阪で祈り続けているものの帰省する度に、この問題を直視せざるを得ず、悲しい気持ちと腹立たしい気持ちで大阪に戻ります。冷え切った家庭にいるよりも一人寂しく大阪にいる方が私にとって安住の場所なのです。これが今の情けない私なのです。それでも妻のために祈る事ができる自分に変えられるように祈り続けなればなりません。

                           T.K.兄

2026.5.10 牧師室便り

 「 再び母を偲ぶ 」

母の日を迎えるたびに、数年前に天へ送った母のことを思い出します。そして改めて、感謝の思いがあふれてきます。

母はよく、「あなたが生まれた頃は、家が最も苦しかった時期で、本当にすまなかった」と語っていました。父が営んでいた椎茸工場が倒産し、生活は困窮していたそうです。母は私を背負いながら竹で編んだ籠を担ぎ、何十キロも離れた町まで売りに行っていました。朝早く家を出て、日が暮れてから帰る毎日だったと聞いています。私は背中でよく泣き、病気をしても十分な治療を受けられず、百日咳を患ったこともあったそうです。

そんな過酷な生活を支えたのは、母の信仰でした。私を身ごもった頃から教会に通い始めた母は、商売の道すがら、長い時間を賛美歌を歌いながら歩いたと言います。「信仰がなければ耐えられなかかった」…それが母の本音でした。

振り返ると、母が子どもたちに否定的な言葉を口にすることはほとんどありませんでした。不平や恨みを漏らすこともなく、夜、一人静かに祈っていた母の背中を覚えています。家族のために屋台を出し、あらゆる仕事を厭わず働きながらも、常に最善を尽くし、子供たちが求めるものを与えようと心を砕いてくれました。

私が牧師になってから、疲れたと弱音を吐くと、母は「何が疲れるの。祈りなさい」と厳しく言いました。その言葉に反発したこともありましたが、今思えば、あらゆる苦難を神への希望だけで切り抜けてきた母だからこそ言える、言葉だったのだと痛感します。

この世で母の顔を見ることはもう叶いませんが、母は今も天にあって、私の働きと家族、そして小泉教会のために祈ってくれていると信じています。

シャローム。


2026.5.10 本日の宣教

 『聖霊によって希望を生きる』  

                ローマの信徒への手紙5章2~5節

人は希望があるときは前へ進むことができます。しかし希望を失うと、心は立ち止まり、暗く沈んでしまいます。宗教改革者 マルティン・ルター は、「この世で行われるすべてのことは、希望によって行われる」と語りました。農夫が収穫を信じて種をまき、商人が利益を期待して商売を始めるように、人間の営みは希望によって支えられています。

しかし現実の人生には、病や不安、人間関係の痛み、将来への恐れなど、多くの試練があります。その中で「希望を持ちなさい」と言われても、簡単にはそう思えない時があります。けれども聖書は、クリスチャンこそ希望を生きる者であると教えています。

本日の御言葉で、パウロは希望を単なる楽観ではなく、「神から与えられる確かなもの」として語ります。私たちは信仰によって神の恵みの中に導き入れられ、その恵みの上に立たされています。しかし信仰を持っても苦難はなくなりません。それでもパウロは、「苦難をも誇りとします」と語ります。それは苦難そのものを誇りとするという意味ではなく、苦難の中にも神が働いておられるという確信があるゆえの誇りです。

パウロは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語ります。その通り、人は試練を通して深められます。病を通して日常の尊さを知り、失敗を通して他者への優しさを学び、孤独の中で祈りを覚え ることがあります。私たちの神は苦難を無意味なままでは終わらせないお方です。

そして、この希望の根拠は私たち自身の強さではありません。パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と語ります。聖霊は、あらゆる苦難の中で「あなたは見捨てられていない」と支えてくださるお方です。希望とは、「きっとうまくいく」という漠然とした期待ではなく、「神が共におられる」という確信なのです。 

母の日を迎えるにあたり、母の愛の中にもこの神の愛の姿を見ることができます。子どものために祈り、忍耐し、支え続ける母の姿は、私たちに寄り添う聖霊の働きを思い起こさせます。母から受けた愛は、神の愛を知る大切な導きとなります。

世の希望は状況によって崩れ去ることがあります。しかし、聖霊によって与えられる希望は決して私たちを欺くことも、失望に終わることもありません。たとえ今、試練の中にあったとしても、神は聖霊を通して私たちに愛を注ぎ続けておられます。その愛によって、私たちは再び立ち上がり、希望のうちに歩み続けることができるのです。

ハレルヤ!


2026.5.10 小さな泉の恵み

 今年も5月中旬にさしかかっています。「早いなぁ」

毎日、気ぜわしく過ごしています。「忙しいなぁ」

時間が早く過ぎているわけでも、例年に加えて多くのスケジュールを抱えているわけでもなく・・・はい。私が歳をとって、いろんな能力が低下しているのです。

先日、96歳になった母が、つまずいて転んだとき、「身体能力が落ちているのだから、昨日できたことが出来ると過信できないんだよ・・・」と、キツく言ってしまいましたが、それ、そのまま私にも言ってやりたい って感じです。

“自分を知る”ことは大切ですね。教会の奉仕の中でも、ありえないレベルの自分のミスを見つけた時、なんとも情けなくなっています。

教会の大先輩、荒木姉が最も愛しておられる“ルツ記”が この5月に与えられました。神さまを覚えつつ美しく歳を重ねていらっしゃる先輩方に倣い、よい歳を重ねていきたいものです。

母の日に、合わなくて、センスないな~と、感じつつ・・・

                           K.I.姉

2026.5.3 牧師室便り

「憩いのベンチを皆さんに」

礼拝堂の玄関前の壁には、「疲れている者、重荷を負っている者は、だれでも私のところに来なさい。休ませてあげよう」という有名な聖書の御言葉が記されています。この言葉に引かれて教会を訪れ、「本当にここで休めますか」と尋ねられる方もおられます。そこで私は「どうぞ中でお休みください」とお迎えするのですが、実際には礼拝堂の扉を開けることにためらいを感じる方も少なくありません。

そこで、礼拝堂前の掲示板の裏にある空間に、どなたでも気軽に腰掛けられるベンチを置きたいという思いが浮かんできました。通りがかりの方や、歩き疲れた方、足の不自由な方が、ひとときでも安心して休める場所となればと願っています。

現在、長さ150センチほどの長椅子やベンチを探しています。もし、ご家庭や身近な場所で譲っていただけるような椅子がありましたら、ぜひ教会までお知らせくだされば幸いです。
このベンチを「憩いのベンチ」と名付け、そこに座る方が少しでも力を取り戻し、再び歩み出す助けとなることを願っています。そして、このベンチで一息ついた方が、やがて礼拝堂の中へと一歩進み、神様の深い安息に触れるきっかけとなれば、これほど嬉しいことはありません。小さな試みではありますが、この場所を通じて、地域の方々に神様の慰めと平安をお届けできればと祈っています。シャローム。

2026.5.3 本日の宣教

 『あなたはわたしの愛する子』  

                       マルコによる福音書1章9~11節

先日、日本中を震撼させた小学5年生の男の子が犠牲となった事件は、現代社会の歪みを痛烈に突きつけました。本来、無条件に愛され、守られるべき子どもたちが、周囲の目を気にし、自分の尊さに気づけぬまま必死に生きるしかない……。そのような闇が深い現実が、今私たちの目の前に広がっています。

この悲劇は他人事ではありません。現代を生きる私たちもまた、「何者かであらねばならない」という無言の圧力の中にいます。成績、仕事の成果、良き親、良い子になることなど、目に見える「結果」だけで自分や他人の価値を量り、それが揺らぐとき、自分の居場所さえも見失いそうになるからです。そのような暗闇の中に、今日、マルコによる御言葉が一筋の光として差し込みます。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

主イエスがバプテスマを受け、水から上がられたとき、天から響いた声。ここで最も注目すべきは、そのタイミングです。この時のイエスは、まだ奇跡も説教も、何一つの「成果」も上げておられません。ただ、公の歩みを始めようとしたその瞬間に、神からの愛の宣言を受けたのです。

これは、神の愛が「条件付きのもの」ではないことを示しています。世の中の愛はしばしば「~ができるから愛する」という条件が付きまといますが、父なる神の愛は「あなたがあなたであるから」という、存在そのものへの宣言です。私たちは何かを成し遂げたから尊いのではなく、神によって造られ、今そこに存在しているという一点において、神の「最高傑作」であり、「愛する子」なのです。 聖書は、天が「裂けて」聖霊が降ったと描写しています。これは、神と人間を隔てていた壁が、神の側から一方的に打ち破られたことを意味します。私たちの罪や過ちによって天が閉ざされているように感じる時も、神は愛と平和の象徴である聖霊を、鳩のように優しく降らせてくださるのです。

さらに、罪のない主イエスがあえて罪人の列に並び、バプテスマを受けられたことは、私たちの痛みや苦しみのただ中に共に立つという「インマヌエル(共におられる神)」の決意表明でした。この歩みはやがて、命を捨ててまで私たちを救おうとする、究極の愛の告白である「十字架」へと向かっていきます。

愛する神の家族の皆さん、「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、特別な功績を立てた人のためのものではありません。今日、疲れ果て、自分を愛せなくなっている「あなた」への言葉です。

神様の愛を信じるとは、世間の評価という秤を捨て、神様がくださった本来の「尊さ」を奪還することです。たとえ明日、また心が折れそうになっても、一度裂かれた天が閉じられることはありません。神様は、あなたが不器用な姿のまま立ち返るのを、両手を広げて待っておられます。あなたは、あなたのままで良い。神様にとって、あなたは宇宙の何にも代えがたい大切な宝物なのですから。

ハレルヤ!


2026.5.3 小さな泉の恵み

 FEBCは1945年に開始されたキリスト教放送局です。学生時代に福岡の下宿でラジカセの周波数を合わせながらラジオ局を探していた時、「こちらは日本FEBCです。周波数1566kHz、大韓民国チェル送信所(私の耳にはそう聞こえましたが、実はチェジュ送信所、済州島)より日本語放送をお送りします」という声が、雑音の中から聞こえてきました。毎日21:30〜22:45に流れてくるFEBC放送。ちょうど東福岡教会に行き始めていて、キリスト教の何たるかをあまり知らなかった私にとって、FEBCは同伴者となってくれました。特にパーソナリティ吉崎恵子さんの番組「恵子の郵便ポスト」は、穏やかで優しいお声とその温かなメッセージで私を真に癒してくださいました。その出会いから41年という年月がたち、近頃ネット放送(いつでも聴けます)で再びFEBC放送を聴くようになりました。なんと、恵子さんは80代となられ、今も「恵子の郵便ポスト」でお声が聴けます。嬉しくてなりません。どうか、いつまでも健やかで、パーソナリティをつとめてくださいますように。日々疲れ果てて帰宅しますが、スマホでFEBC放送をつけて恵子さんの声を聴くと癒される私です。  

                             S.M.姉