2019年11月12日火曜日

2019.11.10 牧師室便り

~天国への希望を生きる~

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒へ手紙320

先週の月曜日、N姉の葬儀を執り行い、御親族の方々とともに恵みのうちに時を過ごすことができました。この数か月間、見舞いに行って祈る度に「アーメン」と素直に応答されていた姉妹でしたので、福音への信仰告白こそ確認できませんでしたが、永遠の命と神の国の祝福が注がれることを信じながら葬儀を執り行うことができました。真心から葬儀に集われたご親族お一人お一人の上に真の神への信仰の種が芽生えるように、また真の神の前に立ち帰って来られる方が起こされるようにとN姉と共に切に願い求めたひと時でした。
そしてN姉の葬儀の準備につとめていた先週の主日の夜、G兄からメールがありました。「先生、インドネシアの父親が心臓の血栓で緊急入院しました。お祈りください」という内容でした。G兄のお父さんはインドネシアのバプテスト教会の牧師で、私と同じ年代でもあることを聞いていたので、早速主の癒しと助けを祈りました。ところが、次の日の夜、G兄から再びメールが届きました。「先生、お父さんが亡くなりました」という知らせでした。あまりにも突然の知らせだったので、驚きながらG兄に電話をかけ、悲しみに包まれていたG兄のために祈ってあげました。その時、泣きながらG兄は「大丈夫です。お父さんはイエス様と共に天国にいますから!」と語ってくれたのです。そして、6日(水)12時にG兄のお父様の葬儀がインドネシアの教会で執り行われ、G兄とY姉が小泉町教会の礼拝堂に来て、映像通話を利用して葬儀を共にすることができました。あまりにも突然のことだったので、インドネシアに戻ることはできませんでしたが、映像で共に葬儀に加われたことはG兄に小さな慰めとなったでしょう。
願わくは、G兄にとって小泉町教会が日本における家となり、家族となりますように。また復活と永遠の神の国への信仰を確かめる神の家族お一人お一人でありますように…。シャローム!


2019.11.10 小さな泉の恵み




 前々から年令のせいか筋肉が弱くなってきているのが自分で感じる。 最寄りの駅まで何とか懸命に歩くが、だんだん歩くのが、遅くなり、雨天の時などは大変である。若い息子夫婦に来るまで駅までお願いということもなかなか言いにくい事。
 以前は雨衣を着て自転車で山から降りて、駅まで行ったことも何度もあったが…。今は、身体は思うように動かないのである。
  息子の勤めもあり、四年前から、自動車メーカの作った高齢者用の車椅子にバッテーリの付いているシニア車を購入。しかしこれは、大きな雨や雪積の場合は、機能を果たすことは出来ないのである。でも晴天の日にはこれに乗ってゆっくり散歩する日は、真に最高の時である。ラーラララ気分最高。
  いつも週末の天気の様子は心配である。それが今年は週末の天気の様子は、乱れる日が多い。日曜日の朝早くいつも空を見上げては、少しの小降りや、晴れ間を何とか、見つけて駅まで行きたいと思っております。
  何とか駅にたどり着いた時は、ホーット一息。一週間ぶりに逢う兄弟姉妹の姿を見るのが私の励ましです。
  いつも見る、信友の姿が見えないときは、何となく寂しい感じ…。でも兄弟姉妹は互いに自分たちの生活や身近な家庭、私場などで、主の証しをしているのだと信じております。
                                  A.M姉

2019.11.3 牧師室便り

~健康診断の恵み~

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(ヨハネの手紙三2節) 
 先週は、後回しにしていた健康診断を二年ぶりに受けました。やっぱり胃カメラをのむことは辛いことですね。
 一生涯一度も健康診断を受けない人もいれば、真面目に毎年受ける人もいます。私もできれば、毎年受けたいと思っていながらも、なかなか余裕がなく見過ごしてしまう年もありました。それでも心の底には体の健康をチェックし、神の御業のために備えなければ!という思いを抱いています。
 実は先日、韓国の友人から「済州道の母教会の先輩に突然胃癌が見つかり、治療を受けている」という知らせが届きました。話によると、その先輩は60才になるまで一度も健康診断を受けたことがなかったそうです。そして体調を崩し、初めての病院での検査で胃癌3期という診断が出され、今は治療に専念しているとのことでした。その先輩は人柄もよく、信仰においても模範となる人でした。教会でも長老として柱のような存在でありました。病状が分かった時はかなりショックを受けていたそうです。遠く離れていて直接励ますことはできませんが、主の癒しと助けを祈ります。 
 病気が見つかるかも知れないことを恐れ健康診断を受けない人もいると聞いていますが、神の家族の皆さんは、ぜひ診断を受けてくださいね。私たちの体は私たちのものではありません。神のものですし、聖霊の神殿なのです。つまり、神から授かった体を大切に管理し、神の栄光のために用いなければなりません。それが私たち造られた者の創造者への義務であって、責任なのです。とりわけ、外なる人(肉体)は日々衰えていくことが定まっているわけですから、体調管理に心がけるべきです。私も今回の健康診断とともに、規則的な運動と健康な食生活、時間のバランスなどに最善を尽くそうと思っています。…それに加え、霊的健康診断も忘れてはならないでしょう。神を礼拝し、祈り、讃美し、御言葉の黙想、善い行い、伝道に喜びと感謝をもって励んでいるだろうか。常に聖霊様の前に裸になって点検していただきましょう。願わくは霊肉共に健康である神の家族お一人お一人でありますように…。シャローム!
 







2019.11.3 本日の宣教


『 死んで葬られた主イエス 』 (ローマの信徒への手紙5:68) 

 使徒信条は主イエスが十字架にかかり死んで葬られた事実をはっきりと告白しています。神のひとり子であり、私たちの救いの主であるイエス・キリストが十字架につけられ死んだことを美化しようとしたり、隠そうとしたりせず、明確に宣言しているのです。しかも呪いの木である十字架にかかり、確かに死なれたんだ、と告げているのです。なぜでしょうか。これこそ、キリスト教の福音の核心であるからです。“イエス・キリストが十字架にかけられ死んだ!”…この言葉は2千年近く昔の事でした。しかし、彼の死は、人類の歴史の中で二千年間、多くの人に大きな影響を与え続けてきましたし、今の私たちをも圧倒的な影響力で包んでくれているのです。そして、このことは歴史が続く限り、続いていくに違いありません。 
 主イエスの死、それは一人の人間の死でした。それでは、人間にとって死とは何でしょうか。聖書が語る死は「罪が支払う報酬は死」(ローマ623)という言葉にすべてが示されていると言えます。もともと聖書に見られる死についての最初の言及は、アダムとエバが神との契約を破った時に裁かれた状態を指します。その時、人間は死に、またその後の人類に死がもたらされることになりました。神の形に似せて創造され、創造された者のうち、神と交われる唯一の存在となり、神の栄光を表しながら生きる存在としての人間でしたが、神に背いた罪により、神との関係が絶たれ、神のエデンの園から追放されることとなり、死がもたらされたのです。この時の死を「霊的な死」と言います。もちろん、この時点で呼吸が止まったわけでも、見える形の死が訪れたわけでもなく、体はなお生き続けていました。しかしこの時点で、罪が支払う報酬としての死はすでに始まったのです。すなわち綺麗な生花がその根から切られているのと同じように、見た目は綺麗に生きているように見えても、実際は根から切られた瞬間、すでに死んでいるのと同じです。同じく、霊的に死んだままの人間は生花が徐々に枯れていくように、肉体的にも徐々に衰えていき、やがて死を迎えることになるのです。ですから、アダムの子孫である私たちも死んだ者として生まれ、死の宣告を受けた者として、死に近づく人生を歩むことになるのです。この死の定めから逃れられる人は一人もいません。 
 しかし聖書は死についての新しい観点を示してくれます。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネ黙示録1413)、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
  主イエスは十字架の死によって人間の罪を贖われ、人間に下されるはずであった死を無効にし、死そのものに死亡宣告を下されました。それゆえ、もはや死は主イエスを信じる人にとって恐れの対象でもなく、敵対すべき存在でもありません。十字架につけられ、死に打ち勝った主イエスによって私たちも永遠に生きる者とされたのです。ハレルヤ!「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 」(フィリピ121



2019.11.3 小さな泉の恵み



  史上最大級の台風19号が日本列島の広範囲に甚大な被害をもたらしました。被災された方々に主の哀れみと励ましを祈っています。S兄が携わっている長野県の賛育会豊野事業所の多くの施設も水没し大変な被害にみまわれています。施設の復旧のみならず地域の復興、救援に尽力しているS兄や全ての皆様を主が強め力を与えて下さるように祈っております。

台風や大雨の関連で俄に信じられないニュースがありました。東京消防庁のヘリコプターから救助中の女性が落下して死亡。原因は救助装置のフックをワイヤにかけ忘れたとのこと。この事を聞き、死亡した女性が「救い」を得ておられたのかを思い更に私たちクリスチャンが神様から命綱を周りの方々に薦める使命を与えられているということを改めて感じました。主イエスに繋がる命綱です。


  ゛イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」"(ヨハネによる福音書11:2526) …主の日も私たち個人の終末も神様以外誰にも分かりません。終わりの日が来る前に愛する者たちが「救い」を得ますように。主の栄光が永遠にありますように。
                                   S.Y兄
 

2019.10.27 牧師室便り

500501502、…そして60

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編1032 
 今から2年前の2017年、日本のプロテスタント教会と信徒たちは宗教改革500周年を迎えて様々なイベントで盛り上がっていました。特別出版物、コンサート、展示会、セミナーなど、数えきれないほどのイベントが全国各地で行われていたことを覚えています。しかし、501周年であった昨年、502周年である今年、宗教改革という言葉がだんだんと聞こえなくなってきているような気がしてなりません。恐らく503周年になる来年にはもっと寂しくなるでしょう。 
 命をかけて「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という三大原則を貫き通した宗教改革者たちのことを思うこの季節ですが、彼らを燃やし宗教改革へと一直線に走らせた信仰は時間と共に忘れられるものでしょうか。彼らも現代の私たちのように徐々に冷めていき、信仰の喜びも、感動も失われていたでしょうか。いいえ、決してそうではありませんでした。宗教改革者のほとんどは命の尽きる日まで福音を携え、信仰の戦いを続けたことを歴史が教えています。なぜ、そのような歩みができたでしょうか。もし、彼らの働きの土台が人間の力や頑張りであったならば、途中であきらめてしまったはずです。彼らを動かしてくれた土台、その力こそが、聖霊による使命、聖霊による導きと働きであったからです。それは主イエスにも、使徒パウロにも見られる姿です。そして今の私たちにも求められる姿なのです。 
 私たち小泉町教会は来年の2020年で伝道開始60周年を迎えます。教会の歴史の中で記念すべき年であります。神の家族の皆さんはどのような思いで60周年を迎えようとしていますか。日々の忙しさのゆえにそれを考える暇などないと思われる方はいませんか。60年前、富山の地に福音の種が蒔かれた時の伝道者の熱情と献身への思いに対し、60周年を迎えた私たちの伝道への情熱と献身への思いの一致を見出したいと願いたいものです。 
 宗教改革を記念するこの季節、小泉町教会のお一人お一人が「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」の信仰の原則の上にしっかり立ちつつ、宗教改革の御業を成し遂げた改革者たちに倣い、聖霊の助けと導きをいただき、福音伝道と健康な教会形成に励んでまいりましょう。シャローム!











2019.10.27 本日の宣教


『 バプテスマを考える 』 ローマの信徒への手紙6:114)
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:8)  
 “キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる”という信仰告白は、キリスト教の核心であります。 これは、終末(死後)における復活に限定されず、今、この世における生において、キリストの復活の命に与ることの確かさを示す言葉です。このことを象徴的に表すのが、バプテスマ式なのです。バプテスマとは、ギリシャ語で、「全身を水に浸す、沈める」という意味です。これは、自己中心に生きていた古い自分が、十字架にかけられたキリストと共に死んで葬られ、死に打ち勝ち復活されたキリストと共に新しくされ、新しい命に生きることを証しするキリスト教会における大切な礼典です。ですから、バプテスマとは、厳密に言えばその人の葬儀であって、同時に復活祭となるのです。 
 聖書は、人の誕生には二種類あり、死にも二種類あると教えます。まず、人間の誕生には、母の胎から、赤ん坊として生まれるのが“、第一の誕生”です。しかし、この生命には限りがあります。人はある年齢までは成長していきますが、それ以後は次第に老化し、ついには死に至るのです。そして、“第二の誕生”は、神のお与えになる「永遠の命」への誕生、新しい霊的身分による誕生のことです。すなわち、「永遠の命」と呼ばれる、朽ちない、無限の生命が存在するのです。 
 聖書はまた、死にも二種類あると述べています。“第一の死”は、肉体と魂の分離です。肉体の機能が停止し、魂が離れ去る時、それが第一の死です(創世35:18)。“第二の死”は、生命の根源なる、神の恵みからの完全な断絶を意味します。(ヨハネ黙示録201115)つまり、聖書が教える誕生と死において、二度生まれた者は、二度死ぬことはありません。二度生まれた者は、一度死ぬのです。そして、一度生まれた者は、二度死ぬことになるのです。 
 イエス・キリストの十字架の死によって罪赦されたことを信じ、神の子という新しい身分となった者は、罪の奴隷として生きてきた過去の自分を恥ずかしく思い、新しく生まれたものとして、神の義と神の栄光のために、自分自身を献げる人生を選ぶことになります。これは、誰かによる強制でも、義務でもありません。神の一方的な恵みが、その人の心と魂を感動で満たし、聖霊が神の救いの御業へ 
導くことによって起きる出来事であるからです。 
 今、あなたを動かしている力は何でしょうか。今日もわたしたちは、あれこれと成すべき事、決心すべきことで溢れています。しかし、何よりもまず、キリストと共に死に、キリスト共に生きることを心がけ、すべてのことにおいて、神の子どもとしてふさわしい歩みを選び、神の栄光を表わしながら生きることでしょう。ハレルヤ!