2020年9月23日水曜日

2020.9.20 牧師室便り

 ~ 真の預言者が求められる時代 ~

「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)

 9月のリビングライフのテキストはエレミヤ書です。エレミヤは「涙の預言者」「孤独の預言者」と呼ばれている預言者です。彼が活動していた時期は南ユダ王国が滅亡に向かって一直線に進んでいた暗黒とも呼ばれていた時でした。神は、エレミヤという20歳前後の弱々しい若者を召され、神の言葉を伝える預言者とされました。もともとエレミヤは預言者という働きを望んだことも、求めたこともありませんでした。すべては神の選びによるものでした。しかもエレミヤが語るべき預言の内容は、南ユダ王国への神の裁きと滅亡というとても厳しいものでした。ですから、これらの預言のメッセージを告げるという使命は、若者エレミヤにとっては大きな重荷になっていたはずです。

しかし預言者は、「神から預けられた御言葉を人々に伝える人」です。自分勝手に神の言葉を省略したり、追加したりすることはできず、ただ神から預けられたすべてのことを加減なく、あるがままに宣べ伝えなければなりません。実に、当時の多くの偽預言者たちは神からの御言葉でなく、権力者や民が聞きたがる甘い言葉を語り続けていました。その結果、政治や宗教指導者たちをはじめ、民全体がご利益の信仰に陥り、ますます神から遠く離れてしまうことになったのです。真の神の言葉が聞こえなくなった時代、神は一人の若者を預言者として選ばれたのです。

今私たちの置かれている状況を考えるとエレミヤ時代とさほど違わない暗闇の時であると思います。新型コロナウイルスにすべての基盤が崩れ落ち、将来が見えなくなった時代、死への恐怖と不安に包まれている世界です。まさに政治的、経済的、社会的混乱は日に日に増している。このような時代に求められるのが預言者の言葉です。神の国の成就と終末に向けて進んでいく世界に向け、神の言葉を加減なく語る一人の預言者、また、民と共に泣き、共に笑うことができる預言者、神と人との間をつないでくれる一人の預言者を求められるのです。シャローム!

 

2020.9.20 本日の宣教

 『 主の笑いと怒り、そして幸い 』(詩編2:112)

詩編2編の詩人は、世界の愚かな王たちをご覧になりながらあざ笑われる神を描いています。また詩人は目に見える地上の世界がすべてでなく、むしろ神が統治される神の国が存在することを教えてくれます。まさに私たちの生きている世界は弱肉強食の論理が支配する世界、力ある国が世界を支配するような王となる世界、経済力と軍事力の数字が真理の座を占めている世界です。

しかし、聖書が教える世界は、経済力や軍事力のような目に見える基準ではなく、信仰によって見える神の国を基準としているか否かが大切です。この世のどんな勢力も神の統治に挑戦することはできません。なぜならば、天地万物を造られた神が、今も世界を御心に従って治められるからです。しかし、世界の王たちは神の支配を認めず、自分たちのもっている力が世界を支配していると錯覚している現状です。

詩編2編はイスラエルの新しい王が立てられる時に朗読されていた詩でした。経験の浅い新しい王が立てられる度ごとに、周辺の国々は虎視眈々と狙っていました。そのことを詩人は、「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」(212と歌っているのです。そして詩人は、そのような高慢な国々の支配者たちに向かって、「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲る」(4節)と皮肉を歌にしているのです。そして詩人は、真の神自ら、国々の支配者たちに向けて、笑いを憤りと怒りに変え裁かれることを宣言されます。

そうです。世界のどの国も、どの勢力も神の支配と統治に逆らうことはできません。神は御心のままにメシア、真の王を立てられたように、今もなお神の子どもたちと神の教会を立てられ、ご計画を成し遂げられます。たとえ神の計画を妨げようとするどのような勢力に対しても、あざ笑われ、憤りと怒りをもって裁かれることを宣言されるのです。その御言葉を信頼しつつ、私たちはただこの世の王や支配者たちに心を奪われるのでなく、真の支配者であり統治者なる神を見上げ、神の国がいかに素晴らしく建てられていくかを信頼し希望を抱かなければなりません。

神は、神の時に御子イエス・キリストを通して人類を救われ、またサタンと罪を裁かれる計画を立てられました。そして、主なる神は御子との交わりを通して、真の平和と安息から来る幸いを得るようにと勧めておられます。「子に口づけせよ。…いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」(12)・・・そうです。私たちの幸いは、御子イエス・キリストとの交わりにのみあることを覚えましょう。御子に日々口づけするような親密な交わりに生きるキリスト者に主は勝利を与えられ、神の栄光を現されるのです。反対に、地上の国々の支配者たちに目と心を奪われ右往左往してしまっては、平安も幸いも得ることはできません。

日々主を避けどころとし、主に口づけしながら、神の前に謙遜に、また、置かれた場所で誠実を尽くす人を主は喜ばれ、その人を通して神の御国を成し遂げて行かれるのです。シャローム!

2020.9.20 小さな泉の恵み

 

 突然、県知事選挙に関わるようになってしまいました。富山YMCA19994月に赴任して以来、共にベトナムプロジェクトに取り組んできた富山YMCA常議員の川渕映子さんが出馬を決意されました。

 正直に言うと初め川渕さんの出馬を応援して欲しいとある方から相談された時に、川渕さんのご健康や知事になった時の不自由さなどを思い反対しました。一晩、朝まで眠ることのできない夜を過ごし真剣に考えました。明け方までは如何に川渕さんの決意を翻すことができるか。明け方4時頃布団の上で正座して祈りながら考えました。

 YMCAのキャンプで生きる楽しさを知り、保育士として横浜の水上学園という養護学校で3年間働き、ベトナム戦争末期の1994年にYMCA難民支援事業で戦中にベトナムに行った川渕さんの人生を思いました。川渕さんは、決断を変えることはないだろうと応援することを決心しました。この20年間川渕さんは絶えず貧困や災害により困難にある人々に国内だけではなくアジア各地に支援の手を差し伸べてこられました。

 今回も感染症や高齢化、そして、貧困で苦悩している人々の声に応えるために出馬を決心されました。主は「行って、あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ1038)と隣人愛を説きます。誰を選択するかは自由です。1025日まで知恵を出し、多くの人々に声をかけ、特に、若い人々が自ら情報を集め、自分で考え、決断し投票に行くことを訴えていきたいと思います。

                                                      S.S 兄

2020.9.13 牧師室便り

 ~気を落とさず、絶えず祈ろう~

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ181

世界中がコロナ疲れに沈んでいます。日本の国も例外ではなく、周りに目を向けると意欲を失い、疲れ切っている人々の姿が見えます。多くの人が、“コロナブル-(コロナ鬱)”と呼ばれている精神症状を経験していると言われています。周りとの断絶に伴う孤独、自分も知らないうちに無気力に陥り、明日への希望も失ってしまっている現実。

クリスチャンの中にも、持病のため礼拝に集うことさえできない方もいて、以前のような親しい交わりも、手をつないで祈る執り成しも、食卓を共にする楽しさももてなくなってしまいました。そのような中で、賛美したり祈ったりする気にならず、なかなか聖書の方に手が行かず、辛うじてつながっていた人々との関わりを避けたくなっているような現象を経験している方もいるでしょう。神の家族の皆さんはいかがでしょうか。・・・

未曾有のコロナ時代がいつまで続くか予測できない現実を前にして、私たちキリスト者も気を落としてしまいそうな状況が次々とやってきています。しかし、ぜひ覚えておきましょう。父なる神は私たちが気を落としてしまわないように絶えず祈りの道を備えてくださっていること、そして時に適って助け最善をプレゼントとして約束してくださるということを!…むしろ今こそ、私たちの周りのコロナブルーの厳しい状況に追い込まれている人々に助けの手を差し伸べ、  周りの疲れ果ててしまっている人々のために手を合わせ執り成す時であるということを確かめたいものです。シャローム!

2020.9.13 本日の宣教

 『私たちの信仰告白』~裁きの主が来られる②~(マタイによる福音書253146)

私たちは先週、裁きの主が来られるという使徒信条の告白をもって御心を分かち合いました。そして今日は裁きの主が来られるという告白のもう一つの側面を考えてみたいと思います。先週はとりわけ主の再臨を待ち望む者が歩むべき信仰姿勢こそ、「主に喜ばれる者でありたい」ということであることを分かち合いました。そして、本日の箇所ではイエス・キリストご自身から、再臨の時に、裁きの座に立つべき人々が備えるべきことについて教えてくださいます。

主イエスが再び来られる時、栄光の座に着かれて裁判官として、すべての国の民を羊と山羊に分け、羊は右に、山羊は左に置かれ、裁かれると記されています。それでは、裁判官の裁判の基準を見てみましょう。まず、右側に立っている人たちに、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(253536そして、彼らが愛を施した相手が、主イエスであったことを明かします。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(2540

  ここには、裁きの主が来られ、一人一人を裁かれる基準となるのが、「最も小さい者への施し」であることが示されています。とりわけその裁きの基準となっているのが、私たちの極めて一般的な生活であるということに気づきます。私たちへの神の裁きの基準は、特別な状況や命にかかわるような大きくて深刻なことを指しているわけではなく、日常生活における普段の人間関係であるというのです。その中でも、最も小さい者の一人への関わりがポイントとなっています。「飢えている人、渇いている人、旅の途中に宿を探している人、裸の人、病気の人、牢にいる人」など、日常生活の中で出会う人、とりわけ弱さを覚える小さい一人(最も小さい者)に対して、あなたはどのような関わりをもってきたのか?その小さい一人に主イエスの愛による最善を尽くしたのか?ということによって再臨の裁きが決まるという教えなのです。しかも、この箇所で強調されていることは、「すべての人が最も小さい者に出会うように」主イエスが備えておられているということです。すなわち最も小さい者との出会いによって、私たちの信仰が試されるということにもなるのです。

 私たちは「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」という信仰の上に立って過ごしてきました。しかし、本日の主イエスの言葉は心と口の信仰ではなく、行いに重みを置いているように見えます。すなわち、私たちの心と口で告白された信仰は、主イエスへの愛を最も小さい者一人に実践することで完成するという意味にもなるのです。そのような姿勢で小さな一人一人と関わっていくのであれば、私たちのすべての人への人間関係は空しくなくなり、人を蔑んだりすることもなくなるでしょう。常に“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く”という感動ある関わり方が、主に喜ばれる者としての終末を生きるキリスト者のあるべき姿となるでしょう。そうです。私たちが先に救われたのも、私たちから主イエスを見出せた人々のお陰であることを忘れてはなりません。そして、あなたもぜひ周りの小さな一人から主イエスを見出すことができますように、そして勇気を出して最も小さい者の一人に手を差し伸べられますように…。ハレルヤ!

2020.9.6 牧師室便り

 

~健康診断を定期的に~

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(Ⅲヨハネの手紙2節)

 先週月曜日の朝、韓国の家族から連絡が届きました。“母が腹痛で救急車に運ばれた”とのことでした。実は、ここ一か月間ほど、まともな食事もできない状態が続き、急激に痩せているとの話を面倒を見ている兄から聞いていたところでした。救急処置を受けてから精密検査をして分かったことは、母が大腸癌末期で手術はできないし、このまま余命は一年ほどでしょう、との診断でした。あまりにも突然の知らせだったので、慌てながら祈り続けた一週間でした。

 母の年は82歳、波瀾万丈な人生の中でしたが、若い時にイエス様に出会い、信仰を貫き通してきまいた。ここ30年間は、毎日聖書の黙想と筆写を欠かさず、早天の祈りを楽しむ人生でした。また初めて出会う人にも親しく声をかけ伝道をし、周りの人々に気を配っていた性格の持ち主です。早くコロナが収まり、自由に帰国できることを祈りつつ、母との再会の日を待ちたいと思います。ぜひ、神の家族の祈りに覚えてくだされば幸いです。

 ここで一つ、神の家族にお願いしたいことがあります。ぜひ一年一度でいいので、健康診断を受けてくださいね。実は、母は今までまともな健康診断を受けたことがありませんでした。私が帰国した際、何度も健康診断を勧めましたが、病院嫌いだった母でしたので、なかなか進んで健康診断を受けることはしなかったわけです。今回医者からも、“手遅れです。こんなに悪くなるまで気づかなかったのでしょうか”と言われたそうです。本当に親不孝の息子です!

 神の家族の皆さん、とりわけ40歳以上の神の家族はぜひ健康診断を受けましょうね。後で悔やむことのないように、神から授かった体ですから、健康な体を保ちつつ、主の栄光のために励んでまいりましょう。同時に、聖霊による霊的な健康診断を受けることも忘れないように心がけましょうね。シャローム!

 

2020.9.6 本日の宣教

 『私たちの信仰告白』~裁きの主が来られる~ (Ⅱコリント5:810)

 使徒信条は父なる神、御子主イエス・キリスト、聖霊なる神についての信仰告白です。そして本日は、第二項御子主イエス・キリストについての告白の締めくくりとなります。

今まで私たちは、イエス様の受肉、苦難、十字架の死と復活、昇天、そして神の右に座しておられるということまで学びました。そして本日、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」というイエス・キリストの再臨と裁きの告白について分かち合いたいと願います。

まず、「そこから」とはどこを指すのでしょうか。言うまでもなく、「天の御国、全能なる神の右」から!という意味です。主イエスは天と地を造られた神として、もともと天の御国、父なる神の右におられました。そこから、父なる神の御計画に従い、人として地上に来られたのです。「そこから」初めてこの世に来られたのがクリスマス、「受肉」の出来事でした。そして、主イエスが約束された通り、再び「そこから」この地上に来られるのが「再臨」なのです。

それでは、主イエスはなぜ、再びこの地上に来られるのでしょうか。それこそ「裁くため」なのです。使徒信条は、主イエスに裁かれるべき対象は、「生きている者と死んでいる者」だと宣言します。すなわち、この世界のすべての人々、それは今生きている人に限らず、すでに死んで葬られた人々までも裁きの対象となるということです。

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(Ⅱコリント5:10

主イエスが初めてこの世に来られた時には、裁きのためでなく「救いのために」来られたと聖書は教えます。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)・・・しかし、再び来られる再臨の時には、神の正義によって裁かれることが約束されているのです。

主イエスは私たち人類の罪の代価としてご自分が十字架刑という、最も重い刑罰を受けられ、命を捨ててくださいました。すなわち、主イエスの十字架は究極の愛と究極の正義が成就された印となりました。

それでは、私たちはどうすれば主イエスの再臨に備えられるでしょうか。その答えは本日与えられている御言葉にあります。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(10節)  

いつ、どこで、何をしていてもいつも「主に喜ばれる者でありたい」という願いをもって、御言葉に従順に生きる姿こそ、主の再臨を迎える人の姿なのです。いつも私たちの唇から、初代教会の信徒たちのように、「アーメン、マラナ・タ、主イエスよ、来てください」という告白が離れないようにしましょう。ハレルヤ!