2026年11月8日日曜日

2026.11.8 牧師室便り

 「  赦された罪人として歩む共同体  」

私が小泉町教会に赴任して以来、最も大切にし、力を注いできたことは、「神の家族」という意識を教会の共同体に根付かせることでした。

強い人も弱い人も、才能豊かな人もそうでない人も、健康な人も病を抱える人も、みな神の家族であり、一人ひとりが尊い存在です。そして何より、私たちは皆、神に赦された罪人です。

私たちの信仰の中心には、イエス・キリストの十字架があります。その十字架の前に、私たちはただひざまずくほかありません。そこには私たちの古い自分が共に釘付けにされなければなりません。十字架を見上げるとき、私たちは自分がどれほど大きな罪を赦された者であるか、神の愛と恵みがどれほど尊いものであるかを知らされます。だからこそ、十字架を通して互いを見るならば、自分を誇ったり、人と比較したり、差別したり、無視したり、裁いたりすることがあってはなりません。

教会はキリストの体です。私たちは主イエスの十字架の愛に倣い、互いに愛し合い、赦し合い、足りないところを補い合う群れです。そして、常に「私ではなく、すべては神の恵みです」と告白し、何事にも「イエス様ならどうされるだろうか」と問いながら信仰生活を歩んでまいりましょう。

教会は人間の力によって造られるものではなく、神によって建て上げられるものです。すべては神の恵みであり、聖霊の御業です。私たちは恵みを受けたしもべとして、感謝と喜びをもって自分自身を神に献げるのです。

もう一度確認しましょう。私たちは皆、赦された罪人です。すべては神の恵みです。自分を誇り、自分を表そうとするところに、サタンの落とし穴があります。

神の家族として、共に謙遜になり、互いに愛し、赦し合いながら、キリストの体を建て上げていきましょう。私たちの思いではなく、キリストの御心がこの教会になされますように。シャローム。



2026.11.8 本日の宣教

 『神の国は子どもたちのもの』  

                     マルコによる福音書10章13~16節

今日、私たちは子ども祝福式という恵みの日を迎えました。教会に連なる子どもたち一人ひとりは、父なる神から与えられたかけがえのない宝物です。

人々が主イエスに触れていただこうと子どもたちを連れて来たとき、弟子たちは彼らを叱りました。しかし、主イエスはそれを見て憤られ、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。そして、一人ひとりを抱き上げ、手を置いて祝福されたのです。

ここに、神さまの愛の姿があります。神は、人間の能力や立場によって人を選ばれる方ではありません。小さな者、弱い者、何もできない者をも、そのまま受け入れてくださる方なのです。

私たちは、子どもを大人になるための準備段階にある存在として見てしまいがちです。しかし、子どもは未完成の人間ではなく、今を生きる大切な存在です。また、素朴な問いや驚きを通して、私たち大人が忘れかけている神さまの恵みや、命の喜びを教えてくれる存在でもあります。

主イエスはさらに、「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。子どものようになるとは、幼稚になることではありません。自分の力や正しさを誇るのではなく、神さまの恵みを信頼して受け取ることです。私たち は何かができるから愛されるのではありません。ただ存在していることを神さまは喜ばれ、無条件に愛されているのです。

今日、子どもを祝福するとは、「良い子になりなさい」「立派に成長しなさい」と願うだけではありません。一人ひとりの存在を喜び、神さまの愛の中に迎えることです。「あなたは大切な存在です。どんなときも神さまに愛されています。決して一人ではありません」。この言葉は、子どもたちだけでなく、私たち大人にも向けられています。

教会は、子どもたちの声を喜び、その問いに耳を傾け、失敗しても安心して戻ってこられる場所でありたいと思います。また、傷つき、寂しさを抱える子どもたちを守り、その声に寄り添うことも、私たちの大切な責任です。

子どもたちは、教会の将来のためだけに存在するのではありません。今このとき、神さまの恵みを共に受ける大切な仲間です。私たちも子どもたちと共に祈り、共に喜び、神さまの愛を学びながら歩んでいきたいものです。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」

この主イエスの言葉を教会の指針として、すべての子どもたちとそのご家族、そして共に歩む小泉町教会の上に、父なる神の豊かな祝福がありますように。

アーメン。


2026.11.8 小さな泉の恵み

 ~がんばりすぎず、神さまにお任せ!~ 

アモス書2:9-12を読むと、神さまはイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒れ野を40年間歩ませ、その間も守り、必要なものと預言者まで与えてくださいました。

それなのに人々は高ぶった行動をしてしまいます。 私の子育ても、振り返れば28年間の荒れ野の旅だったように思います。(とくに最後の18年!笑) 

思い通りにならず、腹を立て、自分の力で何とかしようと必死でした。 でも、荒れ野を歩いていた最中には見えなかった景色が、今になって見えてきます。そこにも神さまの守りと計画があったのだと感じます。

 自分が何とかしなければとがんばり、過剰に戦わなくてよかったのですね…。 高ぶらず、謙虚に。

自分ではどうにもできないことは神さまにお任せする。 28年間、子どもを育てていたつもりが、わたし自身が神さまに育てられていました。 これからもいただいた恵みを忘れず、深呼吸して、神さまと共に歩んでいきたいです。

                               A.M.姉

2026年11月1日日曜日

2026.11.1 牧師室便り

 「 キリストの神殿を健康に 」

先週、1ヶ月前に受けた健康診断の結果を聞きに病院を訪ねました。バリウム検査が苦手で内視鏡検査ができる病院を探して以来、ずっと同じ病院で健康診断を受けています。幸い今回も異常はなく守られたことを感謝しました。

神の家族の皆さんの中には、「重い病気が見つかるのでは」という不安から受診をためらう方もいるかもしれませんし、病院自体を嫌う方もいるでしょう。しかし、早期発見できれば早く手を打てますし、何もなければ安心して日々の生活に励むことができることは恵みです。

それ以上に大切なことは、キリスト者にとって私たちの体は「聖霊の住まわれる神殿」であり、その体で行う日々のすべての歩みが神への礼拝となるということです。だからこそ、私たちの体を健康に、キリストの神殿にふさわしく保つことが大切なのです。

もちろん年齢とともに衰えは生じますが、自分の現状をしっかり見極め、それに合わせた生活を作っていくことを心がけながら過ごしていきたいものですね。
最近、神の家族の中に体の病や弱さゆえに礼拝に来られない方、また心の弱さや様々な悩みで苦しんでいる方々のことも伺っています。その一人一人の健康のため、神の癒しのため、そして聖霊によって人知を超えた平安で心が満たされるよう祈っています。
いつどこにおいても、主は共におられます。一人一人を一時も忘れることがない、これがイエス様の約束です。昇天される際、イエス様は言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と。その約束を信頼し、私たちは主と共に歩み、毎日聖霊様との交わりの中に生きる恵みを味わいながら過ごすのです。シャローム!

2026.11.1 本日の宣教

 『 誰かが祈っている 』  

                     ヘブライ人への手紙 7章25節

人生には、病や肉体の弱さ、人間関係の葛藤などによって深く傷つき、「神様、助けてください」という言葉さえ出てこない夜があります。祈る気力も失い、ただ沈黙するしかないとき、私たちは神から見放されたのではないか、一人きりなのではないかという孤独に襲われます。しかし、忘れてはならない真実があります。それは、私たちが祈れないときも、主イエス・キリストが私たちのために祈り続けておられるということです。

牧師や教会の兄弟姉妹、愛する家族が祈ってくれることは、大きな慰めです。しかし、それ以上に確かな支えは、神の右におられる主イエスご自身が、私たちのために執り成してくださっていることです。

「執り成し」とは、苦しむ人のそばに立ち、その重荷や弱さを担い、父なる神に執り成すことです。主イエスは私たちの苦しみを遠くから眺めておられるのではありません。私たち同様に、人として地上での生活を歩まれ、疲れ、裏切られ、苦しみ、死の恐れを経験されたのです。ゲツセマネの園では深い苦悩の中で祈られ、弟子ペトロには「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22章32節)と言われました。この愛と祈りは過去のものではなく、今も私たち一人一人のために続いているのです。

また、「この方(主イエス)は常に生きていて、人々のために執り成しておられる」と教えています。 旧約時代の大祭司は死によってその務めを終えました。しかし、死を打ち破って復活された主イエスは、永遠に生きておられる大祭司であり、「常に」執り成しておられるお方です。

私たちが健康なときも、病床で不安と闘うときも、年齢を重ねて以前のように奉仕できなくなったときも、主の愛は変わりません。信仰が揺らぐときにも、主は私たちを見捨てることなく支えてくださいます。

さらに主イエスは、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる」と記されています。これは将来の救いだけでなく、人生の最後まで、あらゆる困難の中で私たちを支え、救いへと導いてくださることを示しています。苦しみがすぐに取り除かれるとは限りません。しかし、どのような状況にあっても、主の愛から見捨てられることはないのです。

ローマの信徒への手紙8章も、苦難や危険、死も、現在のことも将来のことも、私たちを十字架と復活のキリストの愛から引き離すことはできないと宣言しています。その理由は主イエスが神の右におられ、私たちのために執り成してくださるからです。

「誰かが祈っている」…祈れない夜にも、あなたは一人ではありません。言葉にならない涙も、深い沈黙も、主はご存じです。私たちの真の希望は、自分の強さではなく、今も生きて執り成してくださる主の変わらない愛にあるのです。アーメン


2026.11.1 小さな泉の恵み

 ~福井教会‐誰でも食堂訪問~

10月23日に中部地方連合壮年会の協働プロジェクトの一環で、毎月第4金曜日に開催されている『だれでも食堂~夕焼けこやけ』にあわせて福井教会を訪問しました。私は、去る1月に欠員であった書記に任命されました。壮年会役員は4人なのですが、今回は、会長長谷幸男氏(各務原教会)と副会長鎌井泰氏(名古屋教会)、そして私の3人が参加しました。天文学に詳しい鎌井さんは、食事の後参加者に映像を交えて月について分かりやすく講義し、持参された天体望遠鏡を外に設置し、こどもたちは実際に月を観察することができました。

福井教会の『夕焼けこやけ』は、「だれでもいいよ、遊びにおいで」のキャッチフレーズで、子どもから高齢者まで気軽に参加でき、地域の方々の楽しく、「助けて」と言える居場所になっています。大半のボランティアは教会員ではなく、案内、調理、受付などの活動を担っています。教会が地域にとって開かれた、大切な場になっていることがうかがえます。設計上も一般の教会堂と異なり、コーナーにカウンターがあるオープンな厨房があることも福井教会の伝道コンセプトが良くわかる構造となっています。

ボランティアや参加されている方々が礼拝に出席され、イエス・キリストに見いだされ、救われる方が増えていくことを祈ります。

                                 島田 茂


2026年10月25日日曜日

2026.10.25 牧師室便り

 「 新たな奉仕への提案 」 

教会は「エクレシア」、すなわち「神に呼び出された群れ」という意味です。教会は、特別な目的を持った大人だけの集団ではありません。生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまで、さまざまな世代の人々が共に歩む群れです。聖書はそれを「神の家族」と表現しています。家族の根本に愛が流れているように、教会もまた、互いに愛し合う共同体なのです。

また、聖書は教会を「キリストの体」とも表現します。頭であるキリストにつながり、キリストに従い導かれながら、体の各部分である一人ひとりが、それぞれに委ねられた役割を果たすことによって、教会は健康で生き生きとした体となります。一部のリーダーシップや限られた人たちだけに奉仕が集中するのではなく、小さな働きも含め、すべての部分が必要なのです。

これからの小泉教会がさらに成長し、神の国のために生き生きと働く共同体となるためには、牧師や執事だけでなく、教会員一人ひとり、そして共に礼拝に集う一人ひとりが、神から与えられた賜物を発揮することが大切です。

宗教改革記念礼拝をささげる今日、牧師として皆さんに提案があります。それは、神から与えられた自らの賜物を覚え、聖霊の導きのもとで喜んで用いていただくことです。

そのために「奉仕分担表」をお配りします。どうぞ各自の賜物に応じた項目にお名前をご記入ください。お寄せいただいた内容を調整し、互いの働きを認め、協力し支え合いながら、共に教会を建て上げていきたいのです。これこそが、まことの改革のゴールではないでしょうか。

一人ひとりが与えられた役割を、責任をもって担い合い、キリストの体であるこの教会を、より健康で素晴らしい共同体として共に築いていきましょう。

シャローム。