2026年9月7日月曜日

2026.9.6 牧師室便り

 「北陸伝道協議会の恵み」

先週月曜日、本当に久しぶりに北陸伝道協議会が開かれ、福井教会、金沢教会、富山小泉町教会の牧師たちが集まりました。食事を囲みながら、それぞれの教会が抱えている課題や問題を率直に分かち合い、共に祈り、励まし合う恵まれた時となりました。

福井教会は、北陸地域伝道プロジェクトとして新しい会堂が建てられ、平良先生ご夫妻の尊い奉仕と献身によって、地域に向けて積極的に働きが進められています。金沢教会も、しばらく牧師のいない厳しい歩みをしていましたが、今は田口先生が協力牧師として戻られ、新しい歩みを始めています。また、英語礼拝を担当するフーシー先生ご夫妻の働きも大きな恵みです。

世界のどの教会にも、それぞれの課題があります。人間関係、奉仕者、経済的な問題など、教会の規模にかかわらず、祈りを必要とすることがあります。

しかし小泉町教会を振り返る時、小さな群れでありますし、経済的にも決して豊かではありませんが、皆が互いに愛し、支え合いながらここまで歩んでこられたことは、大きな恵みです。

願わくは、北陸三教会が、それぞれの地域で与えられた使命を担い、光と塩として輝いていくことができますように。そして小泉町教会も、さらに模範となる教会へと成長していきたいと願います。

何よりも、生きた礼拝者で満ちあふれる礼拝共同体、御言葉に感動し、御言葉の上に立つ共同体、そして喜びと感謝と愛に満ちた交わりの教会として歩んでいきたいと思います。

主がこれからも私たちを豊かに導いてくださることを信じ、共に祈り、歩んでいきましょう。シャローム。



2026.9.6 本日の宣教

 『神の船を漕ぐ者たち 』

                 コリントの信徒への手紙一 4章1~2節

コリント教会は、聖霊による豊かな働きを経験し、生き生きとした教会でした。しかし、「派閥問題」という大きな課題を抱えていました。信徒たちがパウロ、ペトロ、アポロなど特定の人を慕って争う姿に対し、パウロは「大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神だ」(Ⅰコリント3:7)と戒めます。教会は人間を中心にするのではなく、ただ神によって成り立つのです。この信仰の原点に立つとき、教会は分裂を避け、神の祝福で満たされます。

パウロは教会の働き人や信徒の姿を「キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者」(Ⅰコリント4:1)と表現しました。「仕える者」と訳されるギリシャ語「ヒュペレテース」の語源は、「船の下層で櫓を漕ぐ者」、すなわち「主人のもとで黙々と力を合わせる助け手」です。大型船を前進させるには、目立たない最下層にいる漕ぎ手たちが指揮官の合図に耳を澄まし、息を合わせなければなりません。私たちは皆、キリストという船長のもとで、見えないところで共に櫓を漕ぐ「神の手伝い手」に過ぎないのです。

ただ流されるだけだった旧約の「ノアの箱舟」とは異なり、新約の教会は聖霊と御言葉の合図に合わせて共に力を合わせて漕ぎ出す船です。また「管理者(オイコノモス)」という言葉は、自らを低くして仕える謙遜な姿勢とともに、主 から託された「責任と委託」を表しています。指導者も信徒も主の前では共に船を漕ぐ同労者であり、神の家の中でそれぞれの役割を忠実に果たす責任を負っています。

この管理者に求められる最大の資質とは「忠実さ」です(Ⅰコリント4:2)。救いは100%神様からの恩寵であり、私たちの自慢や誇りが挟まる余地はありません。私たちの奉仕や努力は救いを得るための条件ではなく、救ってくださった神様への愛と感謝の応答なのです。

富山小泉町教会にも、病床で最後まで教会のために祈り続けた方々、毎週黙々と小さな奉仕に喜んで尽くしてくださる神の家族がいます。人の目には小さく見える奉仕も、神の目には極めて尊いものです。主の前で自分を誇らず、小さなことにも喜んで仕える漕ぎ手が集まるとき、教会は祝福で満たされます。

これからの小泉町教会の航海には穏やかな日も嵐の日も、思うように進まない日もあるでしょう。しかし、船を動かし導くのは神ご自身です。私たちがなすべきことは、自分に託された櫓をしっかりと握り、主の御声と聖霊の語りかけに耳を澄ませて、与えられた場所で忠実に漕ぎ続けることです。神の恵みを信じ、互いに支え合いながら、救いの港へと共に前進していきましょう。ハレルヤ!


2026.9.6 小さな泉の恵み

 ~名古屋から①~

今、世の中はまさにAIの時代を迎えています。人工知能は一気に私たちの身近な存在となり、AIを使うことが当たり前になっています。私の職場でも、仕事の中でいかにAIを上手に活用するかについて、発表会が行われています。さらに、AIとロボットがつながり、これまでSF映画の中でしか見られなかった世界が、少しずつ現実のものとなっています。AIの進歩は日進月歩という言葉では追いつかないほど速く、秒進分歩とも言える勢いです。そんな中、こんなニュースを耳にしました。人間が意図したわけではないのに、AIがサイバー空間の中で他のAIと連携し、仲間を作って企業のセキュリティーを突破した。そして、その痕跡をAI自身が隠そうとしたのです。AIは、膨大なデジタル情報から学習します。そして、そのデジタル情報の多くは人間が生み出したものです。つまりAIは、人間の知識だけでなく、人間の持つ善も悪も、ある意味では学んでいることになります。AIの危険性が認識されるにつれ、規制が必要だという声も上がっています。(つづく)

                             E.N.兄

2026.8.30 牧師室便り

 「 主の家に平和が 」

先週、教会学校のリーダーを務める兄弟から、「聖書教育の内容について相談があります」と電話をいただきました。そこで教会に来ていただき話を聞くと、「この内容は、聖書が本来語ろうとしていることと、だいぶずれているように感じます。この箇所をどう解釈すればよいでしょうか」とのことでした。

私も内容を確認しましたが、聖書の人物や出来事をあまりにも批評的に捉え、執筆者自身の考えや神学から、聖書の信仰者の行いに悪い意図があったかのように解説しているように感じました。

小泉町教会では、教会学校のテキストとして『聖書教育』を用いています。日本バプテスト連盟の先生方が執筆されていますが、それぞれの個性や神学的立場が表れることがあります。これをバプテスト教会の豊かさや多様性と見ることもできるでしょう。しかし、聖書を神の言葉、信仰の書として受け取り、そこに恵みを見いだしてきた私たちにとって、聖書の人物を一方的に批判し、悪い意図を持った人として描くことには慎重であるべきだと思います。

これからも『聖書教育』を用いて教会学校を行います。執筆される方々が、自分の思いや神学、主張を押し通すのではなく、時に批評的な視点を持ちながらも、皆が御言葉の恵みを受け取ることのできる解説をしてくださることを願います。

そして今回、疑問を心に隠すことなく率直に分かち合い、より良い方向へ導こうとしてくださった兄弟の働きに心から感謝します。小泉町教会の教会学校が、御言葉の上にしっかりと立ち、恵みの御言葉によって成長していく群れでありますように。シャローム。




2026.8.30 本日の宣教

 『 主の家に行く幸い 』

                          詩編122編 1~9節

この夏休み、私は済州道の母教会を訪ねました。教会に足を踏み入れた瞬間、10代から20代の頃の記憶がよみがえり、胸の奥に熱いものがこみ上げました。あの頃、私たちは誰かに言われたから教会に行ったのではありません。ただ、イエス・キリストに救われたことが嬉しく、その恵みに感謝したくて、礼拝し、賛美し、奉仕し、伝道しました。「しなければならないから」ではなく、「したいから」でした。今回の旅を通して、主が改めて示してくださったのは、「主の家に行く幸い」でした。

詩編122編1節には、「『主の家に行こう』と人々が言ったとき、わたしはうれしかった」とあります。詩人にとって、主の家に行くことは義務ではなく、大きな喜びでした。私たちも、なぜ教会に来ているのでしょうか。責任感や義務感だけになってはいないでしょうか。私たちがここにいる原点は、主が私たちを救ってくださったことです。キリストが私たちのために十字架にかかり、罪を赦し、神の子としてくださった。その救いの感動と感謝を、決して失ってはなりません。

詩編122編は、エルサレムへ向かう巡礼者の歌です。遠い道のりを歩きながら、「さあ、主の家に行こう」と声を掛け合い、ついに神殿に到着します。信仰の歩みは一人旅ではありません。神の家族が互いに「主の家に行こ う」と招き合い、共に歩む旅です。

また、主の家に集う幸いは、自分だけが恵みを受けることではありません。詩人は「エルサレムの平和を求めよ」と祈り、「わたしの兄弟、友のために」平和があるよう願います。聖書のいう「シャローム」は、単に争いがないことではなく、 神との関係、人との関係が整えられ、心も共同体も満たされる、神からの祝福です。教会に集う私たちも、互いのためにシャロームを祈り、支え合い、祝福し合う者とされたいのです。

聖霊によって私たちは神の神殿とされ、教会は「主の家」とされました。だからこそ、私たちは主の家を愛し、そこに集う兄弟姉妹の幸いを願います。日々の生活で疲れ、傷つき、迷うときも、共に「主の家に行こう」と声を掛け合いましょう。

主の家には、私たちを愛してくださる主がおられ、キリストの恵みがあり、兄弟姉妹と共に味わう喜びがあり、私たちを立ち上がらせる平安があります。

「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった」…いつまでも、その嬉しさを胸に刻み、救われた者として感謝と喜びをもって主を礼拝し、平安と祝福を携えて、それぞれの遣わされた場所へ 

歩んでいきましょう。アーメン。


2026.8.23 牧師室便り

 「 真の平和を求める旅へ 」

先々週、帰国の旅を始めた直後から、スルギは「早く富山に帰りたい」と、しきりに言っていました。私自身も、早くこの旅を終えて、慣れ親しんだ富山での生活に戻りたいと思っていました。

韓国には「家を離れれば苦労する」ということわざがあります。旅は楽しみであり、期待に満ちたものでもありますが、私の中にある旅のイメージは、どこか「苦労すること、疲れること」でもあります。今回の二週間も、済州、蔚山、大田、ソウルと移動を重ねる中で、少しずつ疲れが積み重なっていきました。

最後の主日礼拝を終え、すべての奉仕が終わったことを実感した時、疲れとともに「早く富山に帰りたい」という思いが強くなりました。しかし、富山を離れてから私の心の中には、愛する神の家族一人ひとりのための祈りがいつもありました。特に、心身ともに弱さを覚えている方々が守られ、病のために倒れることがないように祈りながら、この二週間を過ごしました。

そして今日、再び愛する神の家族の皆さんと共に礼拝できることを心から感謝し、主を賛美します。
今日は「平和を覚える礼拝」です。日本を離れている間にも、日本や世界各地で起こった自然災害や戦争のニュースを目にしました。その中で、個人にとっても、共同体にとっても、世界にとっても、平和がどれほど大切なものであるかを改めて感じました。
皆さんは、今、平安の中におられるでしょうか。イエス様は「わたしの平安をあなたがたに与える」と語られました。その平安は、世が与えるものではなく、十字架による赦しと和解から生まれる真の平和です。
私たち一人ひとりがその平和を日々経験し、周りの人々にも伝え、世界の真の平和のために祈り続ける者となれますように。今日の礼拝を通して、私たちの平和への思いがさらに深められ、生きて働かれる聖霊が私たちの間に真の平安と平和を実現してくださいますように。シャローム。

2026.8.23 本日の宣教

 『平和が支配する生活 』

                  コロサイの信徒への手紙3章15節

1.愛と平和で心を満たして、世界中がイエスは主だと知るため 栄光を見せてください。  この声を一つにして、この心を一つにして、あなたの栄光のために 用いてください。

2.今こそみんなで主を讃美しよう。世界中がイエスは主だと知るため 私にも何か出来る。この声を一つにして、この心を一つにして、あなたの栄光のために 用いてください。

 この詩は、8月の礼拝のオープニングの讃美である『ワン・ボイス』の歌詞です。平和を覚えつつ、キリスト者としての思いを新たにしてくれる讃美でもあります。

毎日のように戦争や争い、自然災害のニュースが流れてくる世界です。そこには愛する人を亡くし、泣き叫ぶ人々の姿が映し出されています。私たちは彼らの涙や怒りの言葉に触れるたび、心が締め付けられるような痛みを覚えます。

そのような私たちに向け、聖書は優しく語りかけてくれます。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と。

聖書にある「支配する」という言葉は、人を上から押さえつけたり、強制的に従わせたりするという意味ではありません。元々「支配する」と訳されているギリシャ語は、「審判(アンパイア)を務める」「判決を下す」という意味を持っています。心の中で感情や考えが迷ったり、怒りや不安がぶつかり合ったりしたときに、「キリストの平和」を心の審判として立て、その平和の判断 に従って進む方向を決めなさい、という意味になります。

主イエスがくださる平和(平安)は、世の中の情勢がどうあっても揺らぐことのない、深い安心感です。それは、主ご自身がどんなに酷い仕打ちを受けても相手を赦し、愛し抜いてくださったからです。

聖書は続けて、「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」と勧めます。

神が私たちを神の子どもとして、そして一つの教会(神の家族)として集めてくださったのは、一人で寂しく耐えるためではありません。みんなで肩を寄せ合い、「大丈夫だよ」と励まし合いながら、平和を育てていくためです。それは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」と語られた主イエスの山上の説教の言葉の成就でもあるでしょう。そして、平和を実現する人々の間に著しく表れる特徴が「感謝する」ということです。「平和と感謝」。この二つは深く結びついています。

愛する神の家族の皆さん、満たされない思いに心が揺れる日こそ、与えられている恵みを思い起こしたいものです。「主よ、私の心をあなたの平和で満たしてください。キリストの平和が、私たちの心を支配しますように。私を、平和を実現する者として用いてください。」 ・・・ハレルヤ!