2026年6月30日火曜日

2026.6.28 本日の宣教

 『  神の御心に適う祈りを 』  

                          ヨハネの手紙一 5章14~15節

私たちは日々さまざまな心配を抱えて生きています。心理学者アーニー・J・ゼリンスキーによれば、“人が心配することの多くは、実際には起こらないことや、すでに過ぎ去ったこと、あるいは自分ではどうにもできないことだ”と言われています。

私たちは皆、祈ります。病のときには癒しを、問題に直面すれば解決を、愛する者のためには守りと祝福を祈ります。祈りは信仰者の呼吸であり、神との交わりの大切な時です。しかし、祈り続けていても、願ったとおりにならないことがあります。その時私たちは、「神は私の祈りを聞いておられるのだろうか」「祈っても意味がないのではないか」と心を曇らせてしまうことがあります。

今日の聖書箇所で、使徒ヨハネは「神に対する確信」について語っています。ここで用いられている「確信」という言葉は、ギリシャ語で「パレーシア」といい、「大胆さ」や「包み隠さず堂々と語ること」を意味します。私たちは神の前で恐れたり遠慮したりする必要はありません。神は父として私たちの祈りに耳を傾けてくださるからです。

しかしヨハネは同時に、「神の御心に適うことを願うなら」と教えています。祈りは単に自分の願望を実現するための手段ではありません。祈りとは、自分の心を神の御心へと合わせていく営みです。

主イエスはゲツセマネの園で、「この杯を取りのけてください」と祈られました。しかしその後、「わたしの願い ではなく、御心のままになさってください」と祈られました。ここに祈りの本質があります。祈りとは自分の願いを神に押しつけることではなく、自分の願いを率直に申し上げながらも、最終的には神の御心に身を委ねることなのです。

私たちは何が最善かを十分に知りません。しかし神は私たち以上に私たちを知り、愛し、人生のすべてをご覧になっています。だからこそ、神の御心に信頼して祈る時、私たちは平安を得ることができます。

神の答えは必ずしも私たちの期待どおりではありません。時には「はい」、時には「待ちなさい」、また時には「いいえ」という答えが与えられます。しかし、そのすべては神の愛から出ています。祈りがすぐにかなえられない時でも、神は決して沈黙しておられるのではありません。私たちの見えないところで最善の御業を進めておられます。だから私たちは大胆に祈り、同時に謙遜に祈ることができます。

「主よ、これが私の願いです。しかし、あなたの御心がなりますように。」

私たちの確信は、自分の信仰の強さや祈りの熱心さではなく、祈りを聞いてくださる神の真実にあります。神は私たちの祈りを聞き、最善の時に最善の方法で御心を成してくださいます。この確信をもって、神の御心に適う祈りをささげ続ける者でありたいと思います。

ハレルヤ!


2026.6.28 小さな泉の恵み

 恵み深い父なる神様。

すべてのことに感謝いたします。

文福の活動の日である2026年6月9日(火)、部会終了後、呉羽町から北陸コピー前、諏訪川原を経由してラッコハウス西公文名町へ向かいました。その途中、大泉郵便局付近で、歩道の幅が電動車椅子より狭く、さらに歩道と車道の段差が高かったため、電動車椅子とともに転倒してしまいました。

その際、右ひじと左ひざの右側を擦りむき、出血するけがを負いました。また、左手の人差し指と中指の第二関節にもけがをしました。幸いなことに今は治りかけています。

このような事故は今回で3度目です。私は、これも社会に存在するバリアの一つだと感じています。このけがを通して、社会の危険性を伝え、私自身の口を通して注意を呼びかけ、安全対策を見直す機会となるよう願っています。そして、議員団にも声を届けたいと思います。この出来事を公開し、みんなで安全なまちづくりについて考える機会を与えてくださった神様に感謝いたします。

どうか、すべての人が安心して暮らせる、安全で満たされたまちへと導いてください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 💒🍷🍞⛪

                             M.T.兄


2026.6.21 牧師室便り

   「 父を覚え、父なる神を仰ぐ」

本日は父の日です。私たちに父親を与えてくださった神様を心から賛美いたします。

私が覚えている父は、いつも黙々と仕事に励み、責任感が強く誠実な人でした。農作業をしながら、一人で大きな声で演歌を歌っていた姿も、今では懐かしい思い出です。

特に忘れられない出来事があります。小学2年生の頃、激しい遊びが好きだった私は、友達と壁から飛び降りて遊んでいました。その際、後ろにいた子が私の足をつかんだため、私は逆さまになって落下し、地面にあった電球におでこを強くぶつけて意識を失いました。気がつくと、父が血を流している私を抱きかかえ、必死に病院へ走っていました。その腕の中で感じた安心感は、今も忘れられません。病院ではおでこを7針ほど縫いましたが、あの時、わが子を抱きかかえながら慌てて走っていた父の姿は、今も鮮明に覚えています。

そんな父でしたが、我が家では最後にクリスチャンになりました。母は四十年にわたり、父の救いのために祈り続けました。かつて父は母の信仰生活を妨げることもありましたが、神様はその祈りに応えてくださり、父は七十歳の時にイエス様を受け入れ、共に信仰生活を始めました。しかし、八十歳頃から認知症を患い、最後には子どものように母に寄り添い、頼るようになりました。

父はもともと口数の少ない人で、一人で海を眺めたり、静かに新聞を読んだりして過ごしていました。コロナ禍の中で天に召され、私は最期に立ち会うことはできませんでしたが、父が神様の御胸に抱かれて天の御国へ帰ったことを信じ、感謝しています。

皆さんにも、それぞれお父様との思い出があることでしょう。その父を通して、私たちはこの世に生まれ、生かされています。その恵みに感謝するとともに、何よりも私たちのまことの父であられる神様を心から賛美いたしましょう。シャローム。



2026.6.21 本日の宣教

 『 アッパ、父よ 』  

                     ローマの信徒への手紙8章14~16節

本日の御言葉は、クリスチャンの祈りの本質を教えています。私たちはしばしば、「どう祈ればよいのか」「もっと立派な祈りをしなければならないのではないか」と考え、特に苦しみの中では祈れない自分を責めてしまいます。しかしパウロは、「あなたがたは神の子とする霊を受けている。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語ります。

祈りの出発点は、私たちの熱心さや信仰の強さではありません。神が私たちを子どもとしてくださり、父となってくださったことにあります。「アッバ」とは、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ「パパ、父ちゃん」という言葉です。子どもは父親の前で立派な言葉を用いません。ただ信頼して、「父さん」と呼びます。嬉しいときも、悲しいときも、何も言えないときでさえ父のもとへ行き、すべてを吐き出すのです。

祈りも同じです。祈りは宗教的な形式ではなく、父と子の交わりの時です。もし私たちが奴隷なら、祈りは義務や報告になるでしょう。しかし私たちは奴隷ではなく、神の子です。だからこそ疲れたときも、失敗したときも、罪を犯したときでさえ、「父よ」と呼ぶことができます。私たちは良い子だから神の子なのではなく、神の子とされたからこそ祈ることができるのです。

また、私たちはどう祈ればよいかも分からない弱い存在です。しかしローマ8章26節でパウロは、「霊も 弱い私たちを助けてくださる」と語ります。祈りの言葉が出ないときも、聖霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださいます。

また、「アッバ、父よ」と呼ぶ心も、祈り続ける力も、すべて聖霊の働きであると教えます。だから祈りは、頑張って神に近づく努力ではなく、父なる神の恵みの中に身を置き語り合うことなのです。

さらに、「アッバ、父よ」という祈りを最初に教えてくださったのは主イエスご自身でした。主イエスはゲツセマネの園で、十字架を前に深く苦しみながら、「アッバ、父よ、この杯を取りのけてください。」と祈られました。主イエスでさえ苦しみを隠さず、悲しみをそのまま父に申し上げられたのです。

したがって、「アッバ、父よ」とは、苦しみのない人の祈りではありません。涙の中でも、不安の中でも、それでもなお神を「父よ」と呼ぶ祈りです。そして、イエス・キリストが十字架への従順を貫いてくださったゆえに、私たちも神を「父よ」と呼びつつ、主イエスの後に従うことができるのです。

神の家族の皆さん、私たちの祈りは、いつも主イエスの祈りの中にあります。私たちは一人で祈るのではありません。聖霊によって支えられ、神の子として、今日もありのままの姿で「アッバ、父よ」と祈ることができるのです。

ハレルヤ!


2026.6.21 小さな泉の恵み

 ~家庭での信仰生活~

小泉町教会に通うようになって、今年で7年なります。いつか、洗礼を受けたいと思いながら、家族の理解などが充分得られずに今日にいたっています。ただ、お祈りを時々して心を落ち着かせたり、リビングライフを黙想して、み言葉をいただいたりする習慣は身についてきました。聖書を勉強してから、本当に良かったと思えるのは、やはり、神様のご計画に導かれて今があると思えることです。いろいろな困難が次々と起こり、本当に辛いなと思うこともありますが、すべてを益に変えてくださる神様の存在に支えられて生きていると実感しています。7月には3週間ほど富山市民病院に入院していましたが、入院の荷物の中に聖書とリビングライフを入れていき、有り余る時間を無駄にせずにすみました。有り難い事に、入院したことで、体調も少し落ち着きました。もしかすると、聖書を勉強する時間を充分持てたことが心の安定に大きな働きを持ったのかもしれません。退院後は、礼拝に参加できる事も有り難い事と思えるようになったし、小泉町教会の信徒の方々の優しさも貴重なものと思っています。家族を説得するのにまだ時間がかかるかもしれないけど、いつか、クリスチャンとして神様の前に出て行ける日が来ることを切に願っています。      

                            S.N.姉

2026.6.14 牧師室便り

  「 共に喜び、共に泣く社会のために!」

先週からサッカーワールドカップが始まりました。本来なら日本中が大きな盛り上がりを見せるはずですが、どこか冷めた空気を感じます。その背景には、近年オリンピックやWBCなどの国際大会が地上波テレビで放送されなくなり、有料のネット配信サービスでしか視聴できない場合が増えていることにあるでしょう。

かつて日本では、多くの人が同じ試合を見て、一緒に喜び、泣くという、スポーツは単なる娯楽ではなく、人々の心を結び合わせる共通体験でした。しかし今では、お金を払える人だけがその感動を共有できる仕組みになりつつあります。これは「お金がすべて」という資本主義社会の現実を映し出しているように思えます。

もちろん、放送権の取得や大会運営には多くの費用が必要であり、放送事業者にも経済的な事情があるでしょう。しかし、何でも市場原理で決められる社会となれば、それはいかに悲しいことでしょうか。お金がなければ共通の体験に参加できず、さらには電気や水道、ガスといった命に関わるライフラインさえ利用できなくなる現実を見ると、人間の尊厳より利益が優先されているように感じます。

聖書は「神と富(マモン)との両方に仕えることはできない」と教えます。お金そのものが悪いのではありませんが、お金が人間や社会を支配するとき、本来神から与えられた喜びや恵みまでもが失われてしまうでしょう。

神は私たちを孤立した存在としてではなく、互いに愛し合い、喜びや悲しみを分かち合う共同体の中で生きる者として創造されました。だからこそ私たちは、失われつつある共通体験を惜しむだけでなく、教会や家庭、地域社会において、人々が共に支え合う関係を築いていく必要があります。

この世界は今後ますます市場原理によって動いていくかもしれません。しかしクリスチャンは、その中にあっても神の国の価値観に立ち、人間の価値をお金ではなく神の愛に見出したいものです。シャローム。



2026.6.14 本日の宣教

 『 わたしたちは家族です 』  

                     マルコによる福音書3章31〜35節

現代を生きる私たちは、家族や職場、学校、SNSなど多くの人とのつながりの中で生きています。しかしその一方で、「私は本当に受け入れられているのだろうか」「ここが私の居場所なのだろうか」という孤独や渇きを抱えることがあります。

今日の聖書箇所では、主イエスの母と兄弟たちがイエスを呼びに来ます。しかし主は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われ、周りに座っている人々を指して、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と宣言されました。

これは主イエスが肉親を否定したという意味ではありません。主は十字架の上でも母マリアを弟子に託されました。ここで示されているのは、血縁や家柄を超えた新しい共同体、即ち「神の家族」の誕生です。

当時のユダヤ社会では血筋や家系が重視されていました。しかし主イエスの周りにいたのは、社会の中で疎外され、弱さや痛みを抱えた人々でした。彼らに共通していたのは、主イエスのもとに集まり、その言葉に耳を傾けていたことです。主は、そのような人々を神の家族と呼ばれました。

「神の御心を行う」とは、完璧な人間になることではありません。まずイエスを信じ、その言葉を受け入れることです。そして、その言葉に導かれながら歩み続けることでもあります。神の家族とは、立派な人々の集ま りではなく、イエスに従おうとする人々の共同体なのです。

教会とはまさにこの神の家族です。年齢や職業、育った環境や国籍が異なる人々が、「兄弟姉妹」と呼び合うことができるのは、イエス・キリストが私たちを一つに結び合わせてくださったからです。教会は、傷つき疲れた者がいつでも帰ることのできる霊的な家です。

しかし私たちは、教会を「お客様」の立場から眺めてはいないでしょうか。家族とは互いの弱さを受け入れ、喜びも悲しみも分かち合う関係です。主イエスの周りにいた人々は傍観者ではなく、主によって集められた家族でした。私たちもまた、神の家族の一員として互いに愛し、支え合うよう招かれています。

礼拝の後、私たちはそれぞれの日常へ遣わされます。しかし私たちはもう一人ではありません。父なる神がおられ、イエス・キリストがおられ、多くの兄弟姉妹が与えられています。互いに支え合いながら歩むその姿を通して、神の国の愛と希望がこの世界に証しされていくのです。

「わたしたちは家族です」。この主イエスの宣言を心に刻み、今週も神の家族として愛し合い、仕え合う歩みへと遣わされていきましょう。

アーメン。