2026年4月27日月曜日

集会案内(変更)

主日礼拝  10時00分~11:20分 (※5月から礼拝開始時間が10時00分に変更されました。)

教会学校 11時20分~12時00分

  (クラス分け:小学科、中高生、新来者・求道者、大人①②)

   ・ 昼食   12時00分~

聖書の学び 10時00分~12時00分

水曜祈祷会① 10時30分~12時00分
       ② 19時30分~21時00分

※ チヂミカフェ(毎月二週目(日)15時00分~17時00分)
※ 小さな泉の村(毎月二週目(土) 9時30分~12時00分(場所:サン・フォルテ2階)

†随時、日曜の夕礼拝、家庭礼拝を行っています。詳しくは、教会におたずねください。
†バプテスマを決心された方、転入会を希望される方、相談を希望される方はご遠慮なく牧師までどうぞ!

2026.4.26 牧師室便り

「 試練を越えて、主と共に歩む 」

先週、主日礼拝の準備を進める中で、神の家族の方々から次々と予期せぬ知らせが届きました。車の故障、急な体調不良、大切な物の紛失、さらには転倒による入院や交通事故。加えて、突風によって教会の窓ガラスが無残に割れるという出来事まで重なりました。

一気に押し寄せたこれらの試練を前に、牧師として胸が締め付けられる思いでした。しかし、これら一つひとつの出来事は決して偶然ではありません。私たちは今、まさに「霊的戦い」の渦中にあります。悪しき者からの揺さぶりであると同時に、私たちの信仰が試される神からのテストでもあるのです。

このような時、私たちは目に見える現象に振り回され、不安や恐れに心を支配されてはいけません。むしろ、今こそ霊的なアンテナを高く掲げ、神の御顔を仰ぎ見る時です。これこそが神の恵み、その大いなる御力を体験できる「恵みの時」であると心に刻みましょう。

本日、私たちは2026年度の定期総会を迎えます。世界情勢は不安定で、いつ終わるともしれない戦争や自然災害の脅威が、私たちの日常を脅かしています。今年度、私たちの歩みにはさらなる困難が待ち受けているかもしれません。しかし、だからこそ神の家族である私たちは、聖霊の力によって心を一つにする必要があります。

互いに執り成し合い、祈り合い、主の恵みを共に求めようではありませんか。小泉町教会を通してなされようとする神の業に期待し、力強く歩み出しましょう。

2026年度、私たちの教会の歩みの上に、主の豊かな恵みと祝福が注がれますようにお祈りいたします。シャローム。



2026.4.26 本日の宣教

 『 力と愛と思慮分別の霊によって 』  

                     テモテへの手紙 二 1章7節

現代社会は、かつてないほどの不確実性からくる不安に包まれています。終わりのない戦争や紛争、頻発する地震などの自然災害、AI(人工知能)の爆発的進化による不安。こうした激動のさなか、キリスト者として、また教会としてどう歩むべきでしょうか。聖書は今、私たちに必要な指針をどう示しているでしょうか。

使徒パウロが若き弟子テモテにこの手紙を書いたとき、彼は投獄され、死の影が間近に迫っていました。教会の指導者であったテモテ自身も、教会内外の困難を前に気弱になっていたことが伺えます。そこでパウロはテモテに対し、神が私たちに与えてくださったのは「おくびょうの霊」ではないと語りかけました。

「おくびょう」とは、単なる性格の問題ではありません。それは、神の支配よりも目に見える脅威や問題を大きく見積もってしまう不信仰の現れです。「戦争がこのまま広がったらどうしよう」「AIによって仕事を奪われたらどうしよう」「病にかかったら?地震が発生したら?」など。

しかし、パウロは断言します。「そのおくびょうさは、神から来たものではない」と。私たちが不安に飲み込まれそうになるとき、それは聖霊によるものではなく、世の霊、あるいは肉から来るものです。キリスト者はまず、この「おくびょうの霊」が自分の内に根付くことを拒絶しなければなりません。

神は、臆病に震える私たちを放置されません。代わりに、三つの明確な性質を持つ聖霊を注いでくださいます。これこそが、今を生きる私たちが備えるべき「武具」です。

まず、聖霊は「力の霊」です。ここでの力とは、困難の中でも福音に立ち続ける霊的な強さを指します。ペンテコステの日、弟子たちが聖霊を受け、恐れから大胆さへと変えられた「あなたがたの上に聖霊が降るとき、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)という、あの力です。

続けて、「愛の霊」です。神が与える力は、必ず愛と結びついています。愛がなければ、力は独善的な暴力になりかねません。聖霊によって注がれる愛は、他者のために自分をささげる愛であり、恐れを締め出す「完全な愛」(第一ヨハネ4:18)です。

最後に、「思慮分別の霊」です。これは「自己コントロール」や「健全な判断力」とも訳されます。つまり、感情に振り回されず、神の視点から物事を冷静に判断する知恵です。常に自分を慎み、なすべきことを見極める力。これが聖霊のバランス感覚です。

私たちは、自分の力で「力」や「愛」や「思慮分別」を作り出すことはできません。これらはすべて、聖霊から「与えられる」ものです。私たちはただ、自分の中に住まう聖霊に心を開き、その導きに委ねるのみです。

「力と愛と思慮分別の霊によって」。この御言葉を胸に刻み、聖霊と共に歩む2026年度の日々が、常に証しで満ち溢れますように。ハレルヤ!


2026.4.26 小さな泉の恵み

 『イエス様の不思議な導き』

閉店した『銀巴里』という銀座にあったシャンソン喫茶の元プロデューサーの夫人で、プロの歌手である秋篠樹里亜さんのスタジオに、亡くなった兄が生前、私たちの実家にあったピアノを贈呈していたことを知りました。その際に兄は、浅利さんという調律師を紹介しました。

浅利さんが初めてこの歌手のスタジオに伺った際に、彼女は夫を亡くされた悲しみを紛らわすために、窓の外に向かって歌いながら祈っていたそうです。その祈っている方向に船橋バプテスト教会があることに気づき、浅利さんは、この方に教会に行って祈ってくださいと伝え、イエス様についてお話したそうです。

その後樹里亜さんは、教会に通うようになり、イエス様を信じてバプテスマを受けたそうです。浅利さんは、バブ連多摩川教会の信徒だったのです。先週、浅利さんを通して樹里亜さんから長いメールが来ました。メールの終わりに以下の言葉が書いてありました。

「不思議なめぐり合わせ。それを知らせてくれた聖霊のお働き。私にピアノを下さった島田さん、ご紹介の調律師さんの浅利さん、浅利さんがお向かいの教会と同じ連盟のメンバーだった事。・・・これが、島田さんと私のピアノとの不思議なお話です。人は亡くなると、生きている間には出来ない不思議な力で、こんなめぐり合わせをしてくれるのかな。」

兄島田実は、クリスチャンではありませんでした。晩年は、枕元に聖書と讃美歌が他の多くの本と一緒に枕元においてありました。イエス様がよみに降り、兄を天に引き上げてくださっていることを祈ります。

                            島田 茂

2026.4.19 牧師室便り

  「 真の王に従え! 」

世界は今、アメリカ、イスラエル、そしてイランの間で続く戦火によって深く傷ついています。原油価格は高騰し、ホルムズ海峡の封鎖危機に世界中が翻弄されています。

開戦から一か月が過ぎ、ようやく停戦協議の兆しが見え始めたものの、「この戦争は何のためだったのか」という問いに対し、私たちは言いようのない虚無感と悲しみに包まれています。失われた尊い命の重さを思うとき、その痛みは計り知れません。

そのような中、アメリカのドナルド・トランプ大統領がSNSに投稿した画像が波紋を広げています。これまでも自らを王やローマ教皇になぞらえてきた彼ですが、今回はついにイエス・キリストの姿に自らを重ね、あたかもメシアであるかのような象徴化を行いました。これは単なるパフォーマンスの域を超え、権力者が自己を神格化しようとする危うさを露呈しています。

歴史を紐解けば、自らを「神の子」と称したローマ皇帝のように、人が神の座に座ろうとするとき、そこには常に数多くの悲劇が生まれてきました。権力者に真に求められるのは、自己の神格化ではなく、人々に仕える謙虚な姿勢です。

復活の主を覚えるこの季節、私たちは今一度「誰を真の王としているのか」を問い直す必要があります。真の王こそ神お一人であることを心に刻み、この困難な時代を歩まねばなりません。

一日も早く戦火が止み、人々に仕える政治が実現するよう、そしてトランプ大統領やネタニヤフ首相をはじめとする指導者たちに悔い改めの心が与えられるよう、切に祈り求めます。「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。(詩編97:1)」 シャローム。



2026.4.19 本日の宣教

 『 イエス救いの名のゆえに 』  

                       使徒言行録4章10~12節

キリストの復活を体験した人を象徴する言葉は、「変化」です。復活の主イエスに出会った人は、例外なく大きな変化を経験します。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者である」(Ⅱコリント5章17節)とあるように、古いものは過ぎ去り、新しい命が始まるのです。たとえ外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされていきます。

この「変化」を最も劇的に示した人物がペトロです。彼はイエスの弟子でありながら、捕らえられた主を前に恐れ、「あんな人は知らない」と三度も否認した臆病な人物でした。しかし、使徒言行録4章では、同じペトロが最高法院の前に立ち、恐れることなくこう宣言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません」。かつての彼からは想像できない姿です。

なぜ彼はこれほどまでに変えられたのでしょうか。第一に、復活という事実です。ペトロは、十字架の絶望の後に復活の主と出会い、「死さえも神の力に打ち勝てない」と確信しました。この事実が彼の人生の土台となり、恐れを乗り越える力となったのです。

第二に、価値観の転換です。彼は「捨てられた石が隅の親石となった」という御言葉を通して、人間の評価ではなく神の評価に生きるようになりました。失敗者と思っていた自分も、神にあっては用いられる存在であると知ったのです。 第三に、「イエスの名」にある唯一の救いの確信です。これは排他的な主張ではなく、確かな救いを見いだした者の喜びの告白です。溺れる者が一本の確かなロープをつかむように、ペトロはこの名にすべてを委ねました。

聖書は今日、私たちに告げています。ペトロを臆病者から勇者へと変えた「イエスの名」の力は、今も全く衰えていないということを。

私たちもまた、この物語の外側にいるのではありません。ペトロを変えた同じ主が、今も生きておられます。  そして同じ御名が、今も私たちに与えられています。弱さを抱えたままであっても、この名のゆえに新しくされ、この名のゆえに立ち上がることができるのです。

「イエス、救いの名のゆえに」。この言葉が、単なる標語ではなく、私たち自身の生き方となるとき、そこに新しい人生が開かれていきます。ペトロのように、過去に縛られるのではなく、恵みによって押し出される歩みが始まるのです。

ペトロを劇的に変えたその同じ愛が、今日、神の家族お一人お一人にも向けられています。この「救いの名」に信頼して、「救いの名のゆえに」新しい一歩を踏み出そうではありませんか。ハレルヤ!


2026.4.19 小さな泉の恵み

 『小泉町教会のあの方へ』

わたしのいる教会では、今新・旧約二つの聖書通読日程が並走しています。新約のほうは、使徒言行録。このまえ15章で、異邦人の信仰についてエルサレム教会が聖霊のもと全員一致で定めた奨励文を、バルナバとパウロがアンティオキア教会に持ち帰り、皆がそれを読んで喜んだ場面です。このとき、小泉町教会で「アンティオキア教会」の話がお好きなある方のことを思い出しました。一方、旧約は今申命記。「聞け、イスラエルよ=シェマ、イスラエル 」が、かたくなな民への神のせつなる呼びかけであることを学び、「シェマ・イスラエル」の呼びかけもその方はお好きだよなぁと、また思い出しました。そしたら、おりしも閔牧師から、その方が緊急入院されたのでお祈りください!というLINEのメッセージが届きました。聖霊がその方を思い出して祈るように、先立って呼びかけてくださったのでしょうか。そんな神の守りがありますからきっと大丈夫。御回復お祈りしています。          

                        S.M.姉