2026年10月25日日曜日

2026.10.25 牧師室便り

 「 新たな奉仕への提案 」 

教会は「エクレシア」、すなわち「神に呼び出された群れ」という意味です。教会は、特別な目的を持った大人だけの集団ではありません。生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまで、さまざまな世代の人々が共に歩む群れです。聖書はそれを「神の家族」と表現しています。家族の根本に愛が流れているように、教会もまた、互いに愛し合う共同体なのです。

また、聖書は教会を「キリストの体」とも表現します。頭であるキリストにつながり、キリストに従い導かれながら、体の各部分である一人ひとりが、それぞれに委ねられた役割を果たすことによって、教会は健康で生き生きとした体となります。一部のリーダーシップや限られた人たちだけに奉仕が集中するのではなく、小さな働きも含め、すべての部分が必要なのです。

これからの小泉教会がさらに成長し、神の国のために生き生きと働く共同体となるためには、牧師や執事だけでなく、教会員一人ひとり、そして共に礼拝に集う一人ひとりが、神から与えられた賜物を発揮することが大切です。

宗教改革記念礼拝をささげる今日、牧師として皆さんに提案があります。それは、神から与えられた自らの賜物を覚え、聖霊の導きのもとで喜んで用いていただくことです。

そのために「奉仕分担表」をお配りします。どうぞ各自の賜物に応じた項目にお名前をご記入ください。お寄せいただいた内容を調整し、互いの働きを認め、協力し支え合いながら、共に教会を建て上げていきたいのです。これこそが、まことの改革のゴールではないでしょうか。

一人ひとりが与えられた役割を、責任をもって担い合い、キリストの体であるこの教会を、より健康で素晴らしい共同体として共に築いていきましょう。

シャローム。



2026.10.25 本日の宣教

 『 自分の働きを尊び、相手の働きを尊ぶ 』  

                       ローマの信徒への手紙12章3~8節

神に贖われ、キリストの体として集められた教会において、奉仕は単なる組織運営や作業ではありません。それは復活の主であるキリストの体を地上に建て上げていく、クリスチャンの尊い営みです。

しかし、教会の中にも人間の弱さや比較の心が忍び込み、「自分の奉仕は目立たない」「なぜ正当に評価されないのか」「なぜ自分ばかり奉仕しなければならないのか」といった思いから、不平や不満、分裂、無力感が生まれてしまうことになります。

使徒パウロは、奉仕に向ける「心の目」を整えるために次のように語ります。

「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ 12:3)

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。」(フィリピ 2:3)

教会は一つの体であり、多様な奉仕の中に不要なものは一つもありません。自分に託された奉仕を主からの聖なる務めとして感謝して全うすることが「自分の働きを尊ぶ」ことです。 同時に、その姿勢が自慢や他者を裁く心になってはなりません。へりくだった心で隣人を見つめ、互いに相手を尊重し感謝すること、これが「相手の働きを尊ぶ」ことです。

預言、奉仕、教えること、勧め、施し、指導、慈善など、それぞれの持ち場で発揮される賜物はすべて同じ神の恵みの現れです。自分にはできない奉仕を誠実に担う兄弟姉妹を敬い、互いに祝福し合う姿こそが、サタンによる分断や葛藤を退け、教会を愛の絆で結び合わせる土台となります。

私たちが互いに仕え合える最大根拠は、イエス・キリストご自身の姿にあります。「キリストは神の身分でありながら僕の身分になり、十字架の死に至るまでへりくだって私たちに仕えてくださいました。」この圧倒的な愛を受けたからこそ、私たちは自らの務めに誇りを持ち、隣人の奉仕を心から支えることができるのです。

教会は、各人が自らの奉仕を尊び、互いの働きを尊重し合うときに健全に成長します。  ぜひ、自らの務めを感謝して全うし、互いの働きを敬い励まし合いながら、主の愛を証しする力強い教会を建て上げていきましょう。

ハレルヤ!


2026.10.25 小さな泉の恵み

 「どう老いるか」(2)

老人の価値は、成長の峠は越えても知恵があるという点でした。昔から、若い世代にはない、人生の経験と知恵があるがゆえに大事にされてきたといわれます。昔から「老」は、むしろ憧れの表現で、老中、大老等の役職の老もそうであり、必ずしも年功序列的に高齢者のみが務めていたわけではありません。「老人のように優れている」という意味です。

しかし、その老人の知恵も、AI時代になり、影が薄くなってきました。でも伝えるべきことはちゃんとあるといいます。

ある雑草学者の書籍のなかで、次の短歌が載っていました。私には、日頃、短歌の素養はまったく無いのですが、この句は痛烈に感じるものがありましたので紹介しておきます。

「遺産なき母が唯一のものとして残しゆく『死』を子らは受け取れ(中城ふみ子)」

若い人たちも、必ず同じ道を辿る。伝えるべきは、しっかりと生きる姿、老いる姿、死にゆく姿を見せることだといいます。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」コリントⅡ4:16 新改訳

先ほどの雑草学者も、「経験を積み重ね、思考を積み重ねて、心だけは、死ぬまで成長し続けることができる」という。しっかりと心だけは、ピカピカに磨いておきたいものです。

                               S.T.兄

2026年10月19日月曜日

2026.10.18 牧師室便り

 「 チャペルコンサートにようこそ! 」 

本日は2026年チャペルコンサートにお越しくださり、ありがとうございます。皆さんと共に、この喜びのひとときを分かち合えますことを心より感謝します。

賛美は、聖書の時代から今日に至るまで、絶えず歌い継がれてきました。詩編に「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19)とあるように、人が喜ぶときも、悲しみ涙するときも、絶望の中にあるときも、神を賛美する姿が描かれています。それは、どのような状況にあっても神は共におられ、新しい道を示し、私達を最善へと導いてくださるお方だからです。

すなわち賛美とは、その神を信頼し、すべてを委ねる信仰者の告白なのです。だからこそ、賛美の言葉とメロディーは、今を生きる私たちにも大きな力と慰めを与えてくれます。

さて、私たちは今、いわゆる「AI時代」を生きています。人工知能によって瞬く間に新しい曲が生み出され、歌があふれる時代となりました。しかし、そうして作られた歌に、私たちの心を深く動かし、生きる力や慰めを与える命はあるのでしょうか。

本日は、ミルトス三姉妹による賛美と歌、箏、そしてクラシック音楽をお楽しみいただきます。そこには、歴史の中で神を体験した人々の信仰や祈りが、歌詞となり、メロディーとなって息づいています。

どうぞ、三姉妹の歌と音楽を通して、賛美とは何か、音楽は何のためにあるのかを改めて味わっていただきたいと思います。そして、生きた賛美、生きた音楽の喜びを、皆さまと共に分かち合うひとときとなりますよう願っております。

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ!」(詩編150:6)

本日のチャペルコンサートが、皆さんにとって豊かな恵みと喜びの時となりますように。

シャローム。



2026.10.18 本日の宣教

 『 神はわたしたちの砦 』  

                           詩編46章2~4節

私たちは今、社会や経済、人間関係、健康や命などに関して、さまざまな不確実さの中を生きています。明日何が起こるか分からないという不安は、私たちの心を少しずつ蝕み、無力感をもたらします。

詩編46編は、このような混乱と脅威のただ中で、神への揺るぎない信頼を宣言しています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。たとえ地が姿を変え、山々が揺らぎ、海が荒れ狂うような事態になっても、私たちは恐れないと詩人は語ります。

ここでいう「砦」とは、危険から身を守る避難所や要塞を意味します。人間が築いた安全網や社会の仕組みは、どれほど堅固に見えても、困難の前に崩れることがあります。しかし、私たちの真の砦は、人間の造り出したものではなく、神自身です。恐れないでいられるのは、状況が変わらないからではなく、どのような状況にあっても神の慈しみと主権が変わらないからです。

10月は宗教改革を覚える月です。詩編46編は、マルティン・ルターの讃美歌『神はわがやぐら』の源となった御言葉です。破門され、ヴァルトブルク城に身を隠したルターを真に支えたのは、城壁ではなく、嵐の中でも共にいてくださる神への信仰でした。

私自身も、大学時代にイエス様と出会って以来、人生の試練に直面するたび、祈祷院や教会の礼拝堂で神の助けを求めてきました。私にとって礼拝堂は、神の御翼の陰に包まれる恵みの避け所です。 また、蜂窩織炎で緊急入院したとき、病室は父なる神と深く交わるための静かな場所となりました。困難の中でさえ、神は御言葉と平安を与えてくださることを経験したのです。

神が私たちの砦であるとは、困難が起こらない人生を意味するのではありません。困難に遭っても、絶望に押しつぶされずに生きることができるということです。私たちは不安や恐れを完全に消すことはできません。だからこそ、自分の力や環境の安定だけに頼らず、父なる神に身を委ねることが大切なのです。

祈りとは、真の神という砦に身を置くことです。「主よ、私の足元は揺らいでいます。あなたこそ私の砦です」と祈るとき、私たちの目は問題の大きさから、すべてを包み込む神の大きさへと向けられます。

詩編46編11節には、「力を捨てよ、知れ、わたしは神」とあります。世界が騒がしく、心が揺れ動くときこそ、祈りと讃美によって神様に心を向けましょう。震える声や心の中の小さな呟きであっても、主を信頼する告白は、私たちに平安と希望を与えてくれます。

私たちは自力で人生の嵐を鎮めることはできません。しかし、どのような嵐の中でも、揺らぐことのない神の砦に逃れ、主をほめたたえることができます。

本日のチャペルコンサートを通して、神こそ私たちの砦であり、真の神であることを、皆さんと共に証しする時となることを願っています。ハレルヤ!

                    

2026.10.18 小さな泉の恵み

 ~能都聖書教会のドン先生との出会いの恵み~

前に気仙沼教会の信徒の1人から「震災後に仏教徒からもクリスチャンからも助けられた。ただ、キリスト教には毎週礼拝があって集まる。だからクリスチャンになった」と聞きました。

私は神さまに祈りながら、能登での小さな泉のカフェでも、地元の教会の協力が必要だと思いました。神さまの愛を知った地元の住民が教会につながることができるように。ただ、私は能都聖書教会とは何のつながりもなく、直接教会に行ってもどういう反応をされるか全く分かりませんでした。

能登町に着き、教会の健全な姿を見たとき、いよいよ教会に行かなければいけなくなりました。運転中も歩くときも「行きたくない」と神さまに祈りましたが、私の思いとは裏腹に結果はひっくり返らず、重い足取りで教会に向かいました。

結果的に、ドン先生達は私の訪問や柳田での活動に難色を示さずに話を聞いてくださり、小さな泉のカフェに合流されてよかったです。

                             N.Y.兄