2026年10月4日日曜日

2026.10.4 牧師室便り

 「 たとえ霧の道に遭遇しても 」  

先週、名古屋教会の牧師就任式に出席するため、車で名古屋へ向かいました。酒井朋宏先生の就任式は、中部地方連合の先生方や信徒の皆さんの温かい祝福の中で執り行われました。これまで別府国際教会の牧師として忠実に仕えてこられた酒井先生が、出身教会である名古屋教会に戻り、献身者として新たな歩みを始められることを覚え、先生のこれからの牧会と名古屋教会の福音伝道の業が豊かに祝福されますようにと心から祈ります。

就任式後には、以前小泉町教会で共に信仰の歩みをした榎本兄とも、久しぶりに交わりの時を持つことができました。当時、クリスチャンホームとして良き模範となる姿を示してくださった榎本ご一家は、現在も兄弟が公務員としての務めを果たしながら、御教会の長老として忠実に仕えておられます。その変わらぬお姿に触れ、ご一家のこれからの歩みの上に主の守りと祝福が豊かにあるようお祈りいたしました。

交わりを終えて富山に戻るため、3時間かけて夜の道を走りましたが、途中、山道で深い霧に遭遇するアクシデントがありました。ライトをつけても前方が見えず、雨も降ったり止んだりする中では緊張が走り、両腕に力が入りましたが、讃美歌を流し、また歌いながらその時を乗り越えることができました。その経験を通して、私たちの人生や教会の歩みも、この霧の中を進むような時があるのだと思い至らされました。先が見えず不安を覚えることもありますが、霧はいつまでも続くものではありません。「主はいつも私たちと共に歩まれ、道を開いてくださる」という約束があるからこそ、すべてを委ねて歩み続けることができます。 

小泉町教会のこれまでの歩みも、そしてこれからの歩みも、すべては主の御手の中にあります。たとえ今は霧の中にあっても、主が備えてくださる道を信仰によって歩み続けるなら、やがて主の恵みによって視界は開かれます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編 37:5)

主の御守りと導きを信じ、今週も共に信仰の道を歩んでまいりましょう。シャローム。



2026.10.4 本日の宣教

 『 真の改革こそ、悔い改めから 』  

                 コリントの信徒への手紙二5章17節

10月になると、私たちは宗教改革を覚えます。1517年、マルティン・ルターが「95箇条の提題」を掲げたことをきっかけに、宗教改革は大きく広がりました。しかし、その本質は単なる教会制度の改革ではない。神の御言葉と福音に立ち返ること、すなわち「悔い改め」にありました。

私たちは「改革」という言葉を聞くと、制度や仕組み、環境を変えることを考えます。漢字から一つのイメージを受け取るなら、「革」を「改める」こと、すなわち古い革を剥ぎ取るという意味になります。革を剥ぐというのは、表面を少し手直しすることではありません。古くなった皮を取り除き、その下にあるものを新たにすることです。

だからこそ「改革」とは、単に既存の制度や組織を部分的に修正することではなく、古い仕組みを根本から見直し、必要であればその「古い革」を剥ぎ取って、新しい形へと作り変えていくことを意味するのです。

しかし、どれほど立派な制度をつくっても、それを担う人間の心が変わらなければ、同じ過ちや利己主義が繰り返されます。本当の改革は、どこから始まるのでしょうか。

今日の御言葉は、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と語ります。聖書が語る改革とは、まず私たちの心と命が神によって新しくされることです。

私たちの中には、神から離れ、自分を中心に生きようとする「古いもの」があります。人を愛するより自分を優先し、自分の正しさや功績に頼ろうとする心です。だから真の改革は、「社会を変えよう」「教会を変えよう」と叫ぶことからで はなく、「主よ、変わらなければならないのは私自身です」と神の前に立つことから始まります。私たちの罪のために、キリストが十字架にかかり、その血を流してくださったからです。悔い改めとは、自分の罪を見つめて絶望することではなく、その罪を背負ってくださったキリストを仰ぐことです。「主よ、私は自分の力では自分を変えることができません。私を赦し、あなたの十字架の贖いと恵みによって新しくしてください。」という祈りから、新しい命が始まります。

特に、「新しく創造された者」とは、少し改善された者ではありません。キリストと結ばれるとき、神が私たちを新しい者としてくださるのです。失敗や弱さが残っていても、それらが人生の最後の言葉ではありません。最後の言葉は、十字架と復活のキリストの恵みです。

宗教改革を覚える十月、キリスト教会は、御言葉によって改革され、福音へと立ち返り続ける共同体です。聖書に戻り、福音に戻り、キリストの十字架に戻ること。そこから真の改革が始まります。もちろん、私たち自身も神の前に悔い改めによる改革をいただくことです。

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

神の家族の皆さん、大切なのは、自分の力で自分を作り直すのではありません。十字架のキリストが私たちを新しくしてくださいます。自分の正しさではなくキリストの義によって、自分の功績ではなくただ恵みによって生きることです。

真の改革は、悔い改めから始まります。そして、その先には、私たちの罪のために十字架で血を流し、私たちを新しく創造してくださるイエス・キリストがおられます。アーメン。


2026.10.4 小さな泉の恵み

『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』という映画がベネチア国際映画祭で話題になっていました。映画のモデルとなったアレン・ネルソン氏は、ベトナム戦争の体験から本当の戦争がどんなに恐ろしいもので、深く人の心を傷つけるかを語り続けてこられた方です。

 2008年に私は、新潟県の敬和学園高校、新潟の教会、そして9条の会主催の講演会でアレンさんの通訳としてお手伝いをさせていただきました。控え室でお弁当を食べ終わった頃に、どこからともなくハエが一匹飛んできました。アレンさんは、「私にはまだ血の匂いが残っているから、私のところにばかりハエが飛んでくる・・・」と半ばパニックになってしまったのです。

 PTSDをある程度克服して、講演活動もできるようになった方でも、これほど取り乱されるのかと、その心の傷の深さに改めて戦争の恐ろしさを見る思いでした。

 アレンさんは、新潟の後も日本各地を回って講演をされ、アメリカに帰国されると枯葉剤の影響と思われる多発性骨髄腫を発症されて61歳で亡くなられました。今回、アレンさんをモデルにした映画が話題になったことで、20年近く前のいろいろな思い出が蘇ってきました。

 「平和とは、一人ひとりが今、目の前にいる人を愛することから始まる。今隣に座っている人と握手をすること、微笑みかけること、それが平和だ」と語られていたことが、とても印象に残っています。

 「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:18)          

                                 K.K.姉

2026年9月28日月曜日

2026.9.27 牧師室便り

 「 生きた礼拝を献げよう 」     

詩篇は、もともと礼拝のために書かれ、メロディーを加えて賛美として歌われてきた歌集です。そこには人間の喜び、悲しみ、苦しみ、怒りなど、人生のあらゆる感情が描かれています。しかし、そのすべての底には、創造者であり救い主である神への信仰が流れています。だからこそ、詩篇は賛美そのものであると言えましょう。

私自身、音楽を正式に学んだわけではありませんが、聖書の御言葉を黙想する中で何度もメロディーが心に浮かび、賛美が生まれた経験があります。自分の信仰告白とも言える御言葉に出会った感動が、自然に賛美へと変えられました。聖霊が与えてくださる感動に導かれて、賛美が形になったのです。

礼拝は教会の存在そのものです。教会は伝道のため、祈りや交わりのためにも存在します。しかし何より、神を礼拝する場所です。私たち自身と教会共同体を神にお献げすることが、教会の大切な使命です。

だからこそ、礼拝が形式的になったり、マンネリ化したりしてはいけません。毎回の礼拝を、生きた礼拝として神に喜ばれるものにしたいのです。

そのために、小泉町教会の一人一人が御言葉からオリジナルの賛美を生み出し、その賛美をもって神を礼拝する群れになってほしいと願います。特別な音楽の知識や技術がなくても、御言葉に心を動かされ、聖霊によって与えられた感動を言葉にするなら、それは主への賛美となるでしょう。

常に御言葉に親しみ、黙想し、聖霊の感動を受け取りましょう。そして主から与えられた賛美をもって、共に生きた礼拝を献げましょう。

私たちの毎週の礼拝に、涙があり、喜びがあり、感動がありますように。天と地が一つにつながるような礼拝を、心を合わせて主にお献げしましょう。

シャローム。


2026.9.27 本日の宣教

 『 御言葉で祈り讃美する 』  

コロサイの信徒への手紙3章16節

私たちの信仰生活の中心には、祈りと讃美があります。嬉しいときには自然に神を讃美し、苦しいときには神に祈ります。しかし、今日の御言葉は、祈りも讃美も、私たちの心の中に「キリストの言葉」が豊かに宿るところから生まれることを教えています。

パウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧めています。「宿る」という言葉には、ただ一時的に訪れるのではなく、そこに住み、生活するという意味があります。つまり、御言葉を日曜日に聞くだけではなく、私たちの日々の生活の中に迎え入れることです。

私たちは、ときに自分の思いを中心にして祈ります。「こうしてください」「これを与えてください」と神に願います。それは決して悪いことではありません。しかし、御言葉が私たちの内に豊かに宿るなら、祈りの言葉も少しずつ変えられていきます。「主よ、あなたの御心を教えてください」「あなたの御言葉に従う力を与えてください」と祈るようになるのです。

御言葉は、私たちの祈りを整えます。そして同時に、讃美を生み出します。

人生には、讃美できないように思える日があります。病や不安、悲しみ、失望の中では、喜びの歌を歌うことさえ難しくなります。しかし、そのようなときにも御言葉は私たちに語りかけます。「神はあなたを見捨ててはいない」「キリストはあなたと共におられる」と。 だから私たちは、自分の感情だけを土台にするのではなく、神が語られた御言葉を土台として讃美することができます。讃美とは、何も問題がないから歌うものではありません。問題のただ中にあっても、なお神を信頼するときに生まれるものです。

そしてパウロは、「詩編と賛歌と霊的な歌によって、感謝して心から神をほめたたえなさい」と勧めます。ここには、御言葉を受けた者同士が、互いに教え、励まし合う姿があります。私たちの祈りと讃美は、自分一人のためだけではありません。教会共同体の誰かの心を支え、誰かに神の愛を思い起こさせるものにもなるのです。

そうです。御言葉が心に宿るとき、祈りが変わります。讃美が変わります。そして、私たちの生き方そのものが変えられていきます。

今日、私たちの心に御言葉を迎えましょう。聖書を読むとき、ただ知識を得るだけではなく、「主よ、この御言葉を私の祈りにしてください」と願いましょう。そして、喜びの日にも、涙の日にも、御言葉を口ずさみながら「あなたをほめたたえます」と神を讃美しましょう。

私たちの内にキリストの言葉が豊かに宿るなら、祈りは神との交わりとなり、讃美は信仰の告白と変わるでしょう。御言葉によって祈り、御言葉によって讃美する、そこに、キリストと共に生きる幸いな人生が成就されるのです。   

ハレルヤ!


2026.9.27 小さな泉の恵み

 

日々、日常生活を送っていると、爪が伸びることがあります。

以前、指先に爪が食い込んで折れ、指先が化膿したことがありました。その際には、看護師さんや医師に爪を切ってもらうことになりました。私は障がいがあるため、医師が爪を切ってくださったのです。

1998年頃、総合病院に通院していたときにも同じように指先が化膿したことがあり、今回で二度目の出来事になります。そのときも、最初は医師が爪を切ってくださいました。

また、最近では、厚生労働省の取り決めにより、医師や看護師が爪を切る場合には3,000円が一律にかかると聞いています。

高峰クリニックでの出来事も含め、これまで医療関係者の皆さんに支えていただいたことに感謝しています。

去る2026年7月31日、富山生きる場で御手洗いをしていたとき、携帯電話が鳴りました。急いで携帯電話のある方へ向かおうとしたところ、足元から激痛が走りました。私は歩くことができず、尻ずりになりながら電話のところまで行き、その後、電動車椅子に乗って二口町のアパートへ戻りました。

送迎していただき、青山整形外科クリニックで診察を受け、レントゲン撮影をしました。その後、骨を3D画像で見ることができました。

私は「骨折ではないか」と思っていましたが、診断は捻挫でした。

今回も大事に至らなかったのは、イエス・キリストのおかげだと感じています。心から感謝申し上げます。

そして、皆さんが祈ってくださり、温かく抱きしめてくださったことにも、心から「ありがとう」と申し上げます。(^人^)

                         M.T.兄


2026.9.20 牧師室便り

 「 心に刻まれた御言葉を、賛美に 」 

次週の礼拝では、賛美大会を開きたいと思います。一人で歌っても、二人で歌っても、グループで歌っても構いません。それぞれが日々の信仰生活の中で体験した神様の恵みを、賛美を通して証ししていただきたいと思います。そして、その賛美に関わる出来事や証しを短く分かち合ってください。

もともと私は、9月が教会学校月間でもあるので、「今月の暗唱聖句」などを用いて聖書暗唱大会を開こうと考えていました。しかし、私たちが親しんできた聖書の翻訳は一人ひとり違います。新共同訳、新改訳、口語訳、新改訳2017、聖書協会共同訳など、それぞれが愛用している聖書があります。そして、長い信仰生活の中で心に刻まれ、暗唱している御言葉も、それぞれの翻訳によって表現が違います。

ですから、皆さんの聖書の言葉を一つの翻訳に合わせる必要はないと思いました。それぞれがこれまで親しんできた聖書を、これからも大切にしてください。

それぞれの翻訳には特徴があり、長所もあれば限界もあります。どの訳が一番だと決めることはできません。大切なのは、御言葉を愛し、日々口ずさみ、心に蓄え、その御言葉とともに歩むことです。
また、他の人が違う翻訳を使っているからといって、裁いたり、変えようとする必要もありません。むしろ互いの違いを大切にし、それぞれの信仰の歩みを見守り、喜び合いたいと思います。
教会とは、違いがなくなる場所ではなく、さまざまな違いを持つ私たちが、キリストの愛の中で受け入れられ、一つとされていくところです。それこそ神の国であり、イエス様が望んでおられる信仰共同体の姿ではないでしょうか。
次週は、一人ひとりの賛美と証しを通して、神様の恵みを共に喜びましょう。皆さんの賛美を楽しみにしています。シャローム。