2026年3月18日水曜日

2026.3.15 牧師室便り

 「中部地方連合総会に寄せて」

今週20日、中部地方連合の定期総会が当教会で開催されます。富山での開催は13年ぶりとなり、東海地区をはじめとする各地の教会の皆さんにとって、富山の地を訪れることは決して容易なことではありません。そんな中、今回は普段より多くの方々が参加され、また、数名の方は2階に宿泊される予定にもなっています。

私たちは迎え入れる教会として、小泉町教会の神の家族としての温かい愛とおもてなしの心をもって、皆さんをお迎えしたいと願っています。

中部地方連合は、太平洋側の豊橋から北陸に至るまで、日本の本州を横断するように広がる地域にあります。そのため、普段はなかなか顔を合わせて交わる機会が十分になく、定期総会や交流会以外では共に集うことが難しい状況にあります。だからこそ、今回の集まりは私たちにとっても特別な恵みの機会です。

これまで中部地方連合の諸教会は、いつも小泉町教会のために執り成し祈り、私たちが困難の中にある時には支えとなってくださいました。また、協力伝道を通して共に主の働きを担ってくださっています。そのような愛と支えに感謝の思いを込めて、心からおもてなしをしたいと願っています。
どうぞ20日の定期総会には、できれば多くの方がこの集まりに加わり、それぞれに任された奉仕に力を合わせてくだされば幸いです。主にある交わり、優しい笑顔、そして親切な触れ合いを通して、中部地方連合の13の教会が主に愛され祝福されている群れであることを、共に味わう時となるように心がけましょう。
皆さん一人ひとりの姿を通して、神様の愛と恵みが豊かに現されますように。 
シャローム。

2026.3.15 本日の宣教

 『イエスの命がこの体に現れるために』

                     二コリントの信徒への手紙4:7~10節

パウロは、キリストを信じて生きるキリスト者の姿を、思いがけない言葉で表しています。「わたしたちはこの宝を土の器に納めている」と。ここで「宝」とは福音のこと、すなわちイエス・キリストによって示された神の栄光を指します。しかしそれを入れている器は、金や銀ではなく、土でできた器だと言われます。

土の器は壊れやすいものです。少し衝撃を受けるとひびが入り、落としてしまえば砕けてしまいます。パウロは、私たちクリスチャンをそのような土の器にたとえています。その通り、私たちは決して強くありません。常に疲れ、悩み、恐れ、失敗し、時には信仰さえ揺らぎます。外から見れば、とても「神の栄光を宿している器」とは思えないほど脆い存在です。

もし私たちが完全で、強く、何一つ揺るがない存在であったなら、人はその力を人間自身のものだと思ってしまうでしょう。しかし私たちが弱い器であるからこそ、そこで働いている力が神のものであるとはっきりと見えてくるのです。ここに神の働き人が備えるべき姿があるのです。・・・とりわけ本日、2026年度の富山小泉町キリスト教会の5名の執事を選ぶことになりますが、その執事に選ばれる皆さんがまず抱くべき御言葉であり、また他の神の家族が心がけるべき御心でもあるでしょう。

そこでパウロは、キリスト者の生き方を「イエスの死を体 にまとって生きること」だと言います。この言葉は、少し不思議な表現に聞こえるかもしれません。しかしこれは、キリストの十字架の道を自分の人生の中で担って生きるという、キリスト者として、しかも献身者として告白できる宣言なのです。

今、私たちはイエス・キリストの受難を覚える受難節を歩んでいますが、イエス様が歩まれた道は十字架の道でした。人々に仕え、愛し、赦し続け、その結果として苦しみを受け、十字架にかけられ、死なれました。しかしその十字架の先に、神は復活の命を備えておられました。イエス様が味わわれたその十字架の死と復活の命の恵みを、パウロ自身も同じくいただいていること、そしてその同じ神の働きが自分たちの人生の中にも現れると信じ、十字架と復活の証人として歩もうと覚悟を新たにしている宣言を、ここで語っているのです。

「イエスの命がこの体に現れるために。」

この言葉は、特別な人への言葉ではありません。弱さを抱えて生きるすべての信仰者に向けられた言葉です。私たちの壊れやすい人生の中にこそ、神の力は働きます。私たちの小さな歩みの中にこそ、キリストの命は現れます。

そのことを信じて、今日もまた、この土の器のままで歩んでいこうではありませんか。

ハレルヤ!


2026.3.15 小さな泉の恵み

 冬は秋田を思い出します。富山よりも寒く、雪が多く、空が暗く。大変な日々を過ごした秋田を思い寂しくなります。

僕は2022年5月に秋田に転勤しました。それは、昔ボランティアをした気仙沼に行くためでもありました。ただ、秋田にいたときは、体が冷たく、何かをする気力が起きず。そんなときに、たまたま平良先生の説教動画を見つけました。平良先生の声を聞くと、福岡での礼拝を思い出します。体の痛みを感じながら、この痛みの意味は何か、被災地のために何かできなかと祈っていたときのことを。僕は慣れない環境・仕事の中で、僕は2023年2月から毎月気仙沼に通いました。

2024年1月に能登半島で地震が起きたときに、僕は能登半島の近くの北陸へ転勤を希望

するか迷いました。転勤すれば今の居場所を失い、被災地へ行っても何もできないかもしれない。被災地へ行きたいという思いは叶えられてもそれ以外のものはすべて失うかもしれない。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24-25)。

それでも、ただただ日々の恵みに感謝しつつ神さまを信じて歩んでいきたいです。

                                  N.Y.兄

2026.3.8 牧師室便り

 「戦争とAIを見る預言者的視点 」

現在、世界はアメリカ・イスラエルによる対イラン軍事行動と、それに伴う経済的混乱の中にあります。戦争は尊い命を奪い、世界を滅亡へと導くサタンの道具に他なりません。とりわけ私が危惧しているのは、この戦争においてAI(人工知能)が自ら判断を下し、攻撃を遂行しているという現実です。かつてSF映画『ターミネーター』で描かれた恐ろしい世界が、今や目の前の現実として迫っています。

私たちは今、AIが生活の根底を支える時代を生きています。ChatGPT等の普及により利便性が向上する一方で、人型ロボットの台頭や、単純労働・知識労働がAIに取って代わられるなど、社会構造は激変しつつある現実です。この変革期において、私たちキリスト教会はAIをどう捉え、いかなる世界を築くべきなのでしょうか。

教会の使命は、単なる利便性の追求ではありません。常に預言者的視線を持って時代を見極め、神の御心を世界に指し示すことです。AIという強大な力が「効率」や「破壊」のためにのみ使われるのではなく、「人を救うため」の最善の知恵として用いられるよう、私たちは深い洞察を持ってメッセージを発信し続けなければなりません。
福音伝道の現場においても、AIを福音伝道のためにどう活用すべきかを問い直す必要があります。何よりも優先すべきは「神の御心」であり、人間の尊厳が守られることです。私たちは知恵を尽くし、与えられた技術を神の栄光のために管理する「良き管理人」として、この混迷の時代に希望の光を灯し続けていくべきなのです。シャローム。

2026.3.8 本日の宣教

 『キリストが負ったもの、私たちが受けたもの』  ~これだけは知ってもらいたい③~

                         イザヤ53章3~6節                   聖書の中心的なメッセージは、実は驚くほどシンプルです。それは「交換」の物語です。あなたが負うべきものを、別の誰かが肩代わりし、その代わりとして、あなたが本来持っていなかった最高のものを手渡される。宗教改革者マルティン・ルターは、この驚くべき出来事を指して「偉大なる交換(The Great Exchange)」と呼びました。

古くから教会はこのイザヤ書53章を「苦難の僕(しもべ)」の預言と呼び、十字架につけられたイエス・キリストの姿の中に、その成就を見出してきました。

すなわち、イエス・キリストの十字架は偶然の悲劇ではありませんでした。そこではイザヤが預言していた「わたしたちの」ものが、彼へと移されていたのです。私たちの罪、私たちの背き、私たちの自己中心、神から離れようとする心。それらすべてが、彼(苦難の僕)の上に置かれました。

まさしく、キリストによる「偉大なる交換」が私たちの身に起こったのです。もしこの恵みを確信できずにいるならば、私たちは絶えずサタンの訴えにさらされ、落胆や罪悪感に陥り、新しい人生の喜びを味わうことが難しくなってしまいます。

「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平

和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)

この御言葉こそ、キリスト教の「偉大なる交換」の核心です。ここには、キリストが受けた悲惨な苦難と、それによって私たちが得た対照的な恵みが並べられています。

釘で打たれ、槍で突かれ、内面まで粉々に砕かれたキリスト。それは、私たちの「背き」と「咎」という重い代価を支払うためでした。また、彼が受けた懲らしめによって、私たちは神との間に「平和(平安)」を取り戻しました。もう神を恐れて逃げる必要はなく、愛される子どもとして神の前に出られるようになったのです。

その中でも、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉は不思議です。普通、傷は痛みを呼びますが、キリストの傷だけは「癒やし」を運びます。彼が傷だらけになったのは、私たちの魂の破れを塞ぎ、元通りの健やかな姿に戻すためでした。

愛する神の家族の皆さん。もし、あなたが今「自分は価値がない」「もうやり直せない」と感じているなら、十字架を見上げましょう。神は、あなたを救うために、ご自分の独り子を「軽蔑され、砕かれる」ままにされました。あなたは、神がそれほどの代償を払ってでも手に入れたかった、かけがえのない宝物なのです。

ハレルヤ!


2026.3.8 小さな泉の恵み

私は、能登半島地震が発生した2024年1月中旬にYMCA災害支援の活動地域と宿泊拠点を調査するために、輪島市の旅館あるねぶた温泉能登の庄を訪問し、利用させて頂いてます。 

この旅館の専務はYMCAホテル専門学校の卒業生で、幸い教会の柳田での活動が始まり、翌日に富山での用事がない限り、定期的に訪問することができ、彼の両親である私と同世代の社長ご夫妻の生活や事業再建のために苦闘されている話しを聞かせて頂いています。 

旅館の建物自体の被害は比較的軽微です。ただ、深刻なのはわずかな傾きがあり、いまだに旅館の客室は、電気は通っても、上下水道の配管は遮断されて、大浴場の洗面とトイレ以外は利用できません。 温泉は約1ヶ月後に自噴が戻り、7月末にクラウドファンドで温泉施設を改修することができて、現在は地域や工事関係者の方々の癒しのオアシスになっています。 

輪島では、訪問するたびに様々な方々との不思議な出会いを与えられています。主イエス様に促され、自らの災害支援や関係法人施設の被災経験を活かし、少しでも能登支援地震で困難な中にある人々に寄り添い続けたいと思います。

                            島田 茂


2026.3.1 牧師室便り

 「 受難節、執事選挙を前にして 」

本日は3月第1主日、礼拝の中で主の晩餐式を執り行います。主イエスは、主の晩餐に先立ち、弟子たちの足を洗い、仕える者としての姿勢を示されました。そして「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(ヨハネ13:14)」と命じられました。十字架の死を目前にした状況にあっても、誰が偉いかと争う弟子たちの姿をご覧になりながら、最も尊い姿とは「仕えること」であると、身をもって教えられたのです。

来る15日、私たちは2026年度の奉仕の先頭に立つ執事を選びます。執事(ディアコノス)とは「仕える者」「奉仕者」を意味し、新約聖書の中では「給仕する者」として用いられました。すなわち、決して階級や権威を示すものではありません。使徒言行録6章に記される最初の執事たちも、常に人々の必要に目を留め、教会の一致を守り、福音宣教が妨げられないよう陰で支える働きに徹していたことを私たちは知っています。

あらためて心に留めたいのは、執事選挙は人気投票ではないということです。能力や活動力、信仰歴の評価でもありません。教会の土台を祈りと愛をもって支える人が立てられるとき、教会は健やかに成長します。ですから、選ばれる人も選ぶ人も、祈りのうちに神の導きを求めましょう。これは単なる人事ではなく、教会の霊的成熟を映す鏡です。受難節を歩みつつ、主のへりくだりに倣い、神の家族お一人お一人が仕える者としての思いを新たにしたいと願います。

シャローム。