2026年11月1日日曜日

2026.11.1 牧師室便り

 「 キリストの神殿を健康に 」

先週、1ヶ月前に受けた健康診断の結果を聞きに病院を訪ねました。バリウム検査が苦手で内視鏡検査ができる病院を探して以来、ずっと同じ病院で健康診断を受けています。幸い今回も異常はなく守られたことを感謝しました。

神の家族の皆さんの中には、「重い病気が見つかるのでは」という不安から受診をためらう方もいるかもしれませんし、病院自体を嫌う方もいるでしょう。しかし、早期発見できれば早く手を打てますし、何もなければ安心して日々の生活に励むことができることは恵みです。

それ以上に大切なことは、キリスト者にとって私たちの体は「聖霊の住まわれる神殿」であり、その体で行う日々のすべての歩みが神への礼拝となるということです。だからこそ、私たちの体を健康に、キリストの神殿にふさわしく保つことが大切なのです。

もちろん年齢とともに衰えは生じますが、自分の現状をしっかり見極め、それに合わせた生活を作っていくことを心がけながら過ごしていきたいものですね。
最近、神の家族の中に体の病や弱さゆえに礼拝に来られない方、また心の弱さや様々な悩みで苦しんでいる方々のことも伺っています。その一人一人の健康のため、神の癒しのため、そして聖霊によって人知を超えた平安で心が満たされるよう祈っています。
いつどこにおいても、主は共におられます。一人一人を一時も忘れることがない、これがイエス様の約束です。昇天される際、イエス様は言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と。その約束を信頼し、私たちは主と共に歩み、毎日聖霊様との交わりの中に生きる恵みを味わいながら過ごすのです。シャローム!

2026.11.1 本日の宣教

 『 誰かが祈っている 』  

                     ヘブライ人への手紙 7章25節

人生には、病や肉体の弱さ、人間関係の葛藤などによって深く傷つき、「神様、助けてください」という言葉さえ出てこない夜があります。祈る気力も失い、ただ沈黙するしかないとき、私たちは神から見放されたのではないか、一人きりなのではないかという孤独に襲われます。しかし、忘れてはならない真実があります。それは、私たちが祈れないときも、主イエス・キリストが私たちのために祈り続けておられるということです。

牧師や教会の兄弟姉妹、愛する家族が祈ってくれることは、大きな慰めです。しかし、それ以上に確かな支えは、神の右におられる主イエスご自身が、私たちのために執り成してくださっていることです。

「執り成し」とは、苦しむ人のそばに立ち、その重荷や弱さを担い、父なる神に執り成すことです。主イエスは私たちの苦しみを遠くから眺めておられるのではありません。私たち同様に、人として地上での生活を歩まれ、疲れ、裏切られ、苦しみ、死の恐れを経験されたのです。ゲツセマネの園では深い苦悩の中で祈られ、弟子ペトロには「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22章32節)と言われました。この愛と祈りは過去のものではなく、今も私たち一人一人のために続いているのです。

また、「この方(主イエス)は常に生きていて、人々のために執り成しておられる」と教えています。 旧約時代の大祭司は死によってその務めを終えました。しかし、死を打ち破って復活された主イエスは、永遠に生きておられる大祭司であり、「常に」執り成しておられるお方です。

私たちが健康なときも、病床で不安と闘うときも、年齢を重ねて以前のように奉仕できなくなったときも、主の愛は変わりません。信仰が揺らぐときにも、主は私たちを見捨てることなく支えてくださいます。

さらに主イエスは、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる」と記されています。これは将来の救いだけでなく、人生の最後まで、あらゆる困難の中で私たちを支え、救いへと導いてくださることを示しています。苦しみがすぐに取り除かれるとは限りません。しかし、どのような状況にあっても、主の愛から見捨てられることはないのです。

ローマの信徒への手紙8章も、苦難や危険、死も、現在のことも将来のことも、私たちを十字架と復活のキリストの愛から引き離すことはできないと宣言しています。その理由は主イエスが神の右におられ、私たちのために執り成してくださるからです。

「誰かが祈っている」…祈れない夜にも、あなたは一人ではありません。言葉にならない涙も、深い沈黙も、主はご存じです。私たちの真の希望は、自分の強さではなく、今も生きて執り成してくださる主の変わらない愛にあるのです。アーメン


2026.11.1 小さな泉の恵み

 ~福井教会‐誰でも食堂訪問~

10月23日に中部地方連合壮年会の協働プロジェクトの一環で、毎月第4金曜日に開催されている『だれでも食堂~夕焼けこやけ』にあわせて福井教会を訪問しました。私は、去る1月に欠員であった書記に任命されました。壮年会役員は4人なのですが、今回は、会長長谷幸男氏(各務原教会)と副会長鎌井泰氏(名古屋教会)、そして私の3人が参加しました。天文学に詳しい鎌井さんは、食事の後参加者に映像を交えて月について分かりやすく講義し、持参された天体望遠鏡を外に設置し、こどもたちは実際に月を観察することができました。

福井教会の『夕焼けこやけ』は、「だれでもいいよ、遊びにおいで」のキャッチフレーズで、子どもから高齢者まで気軽に参加でき、地域の方々の楽しく、「助けて」と言える居場所になっています。大半のボランティアは教会員ではなく、案内、調理、受付などの活動を担っています。教会が地域にとって開かれた、大切な場になっていることがうかがえます。設計上も一般の教会堂と異なり、コーナーにカウンターがあるオープンな厨房があることも福井教会の伝道コンセプトが良くわかる構造となっています。

ボランティアや参加されている方々が礼拝に出席され、イエス・キリストに見いだされ、救われる方が増えていくことを祈ります。

                                 島田 茂


2026年10月25日日曜日

2026.10.25 牧師室便り

 「 新たな奉仕への提案 」 

教会は「エクレシア」、すなわち「神に呼び出された群れ」という意味です。教会は、特別な目的を持った大人だけの集団ではありません。生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまで、さまざまな世代の人々が共に歩む群れです。聖書はそれを「神の家族」と表現しています。家族の根本に愛が流れているように、教会もまた、互いに愛し合う共同体なのです。

また、聖書は教会を「キリストの体」とも表現します。頭であるキリストにつながり、キリストに従い導かれながら、体の各部分である一人ひとりが、それぞれに委ねられた役割を果たすことによって、教会は健康で生き生きとした体となります。一部のリーダーシップや限られた人たちだけに奉仕が集中するのではなく、小さな働きも含め、すべての部分が必要なのです。

これからの小泉教会がさらに成長し、神の国のために生き生きと働く共同体となるためには、牧師や執事だけでなく、教会員一人ひとり、そして共に礼拝に集う一人ひとりが、神から与えられた賜物を発揮することが大切です。

宗教改革記念礼拝をささげる今日、牧師として皆さんに提案があります。それは、神から与えられた自らの賜物を覚え、聖霊の導きのもとで喜んで用いていただくことです。

そのために「奉仕分担表」をお配りします。どうぞ各自の賜物に応じた項目にお名前をご記入ください。お寄せいただいた内容を調整し、互いの働きを認め、協力し支え合いながら、共に教会を建て上げていきたいのです。これこそが、まことの改革のゴールではないでしょうか。

一人ひとりが与えられた役割を、責任をもって担い合い、キリストの体であるこの教会を、より健康で素晴らしい共同体として共に築いていきましょう。

シャローム。



2026.10.25 本日の宣教

 『 自分の働きを尊び、相手の働きを尊ぶ 』  

                       ローマの信徒への手紙12章3~8節

神に贖われ、キリストの体として集められた教会において、奉仕は単なる組織運営や作業ではありません。それは復活の主であるキリストの体を地上に建て上げていく、クリスチャンの尊い営みです。

しかし、教会の中にも人間の弱さや比較の心が忍び込み、「自分の奉仕は目立たない」「なぜ正当に評価されないのか」「なぜ自分ばかり奉仕しなければならないのか」といった思いから、不平や不満、分裂、無力感が生まれてしまうことになります。

使徒パウロは、奉仕に向ける「心の目」を整えるために次のように語ります。

「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ 12:3)

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。」(フィリピ 2:3)

教会は一つの体であり、多様な奉仕の中に不要なものは一つもありません。自分に託された奉仕を主からの聖なる務めとして感謝して全うすることが「自分の働きを尊ぶ」ことです。 同時に、その姿勢が自慢や他者を裁く心になってはなりません。へりくだった心で隣人を見つめ、互いに相手を尊重し感謝すること、これが「相手の働きを尊ぶ」ことです。

預言、奉仕、教えること、勧め、施し、指導、慈善など、それぞれの持ち場で発揮される賜物はすべて同じ神の恵みの現れです。自分にはできない奉仕を誠実に担う兄弟姉妹を敬い、互いに祝福し合う姿こそが、サタンによる分断や葛藤を退け、教会を愛の絆で結び合わせる土台となります。

私たちが互いに仕え合える最大根拠は、イエス・キリストご自身の姿にあります。「キリストは神の身分でありながら僕の身分になり、十字架の死に至るまでへりくだって私たちに仕えてくださいました。」この圧倒的な愛を受けたからこそ、私たちは自らの務めに誇りを持ち、隣人の奉仕を心から支えることができるのです。

教会は、各人が自らの奉仕を尊び、互いの働きを尊重し合うときに健全に成長します。  ぜひ、自らの務めを感謝して全うし、互いの働きを敬い励まし合いながら、主の愛を証しする力強い教会を建て上げていきましょう。

ハレルヤ!


2026.10.25 小さな泉の恵み

 「どう老いるか」(2)

老人の価値は、成長の峠は越えても知恵があるという点でした。昔から、若い世代にはない、人生の経験と知恵があるがゆえに大事にされてきたといわれます。昔から「老」は、むしろ憧れの表現で、老中、大老等の役職の老もそうであり、必ずしも年功序列的に高齢者のみが務めていたわけではありません。「老人のように優れている」という意味です。

しかし、その老人の知恵も、AI時代になり、影が薄くなってきました。でも伝えるべきことはちゃんとあるといいます。

ある雑草学者の書籍のなかで、次の短歌が載っていました。私には、日頃、短歌の素養はまったく無いのですが、この句は痛烈に感じるものがありましたので紹介しておきます。

「遺産なき母が唯一のものとして残しゆく『死』を子らは受け取れ(中城ふみ子)」

若い人たちも、必ず同じ道を辿る。伝えるべきは、しっかりと生きる姿、老いる姿、死にゆく姿を見せることだといいます。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」コリントⅡ4:16 新改訳

先ほどの雑草学者も、「経験を積み重ね、思考を積み重ねて、心だけは、死ぬまで成長し続けることができる」という。しっかりと心だけは、ピカピカに磨いておきたいものです。

                               S.T.兄

2026年10月19日月曜日

2026.10.18 牧師室便り

 「 チャペルコンサートにようこそ! 」 

本日は2026年チャペルコンサートにお越しくださり、ありがとうございます。皆さんと共に、この喜びのひとときを分かち合えますことを心より感謝します。

賛美は、聖書の時代から今日に至るまで、絶えず歌い継がれてきました。詩編に「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19)とあるように、人が喜ぶときも、悲しみ涙するときも、絶望の中にあるときも、神を賛美する姿が描かれています。それは、どのような状況にあっても神は共におられ、新しい道を示し、私達を最善へと導いてくださるお方だからです。

すなわち賛美とは、その神を信頼し、すべてを委ねる信仰者の告白なのです。だからこそ、賛美の言葉とメロディーは、今を生きる私たちにも大きな力と慰めを与えてくれます。

さて、私たちは今、いわゆる「AI時代」を生きています。人工知能によって瞬く間に新しい曲が生み出され、歌があふれる時代となりました。しかし、そうして作られた歌に、私たちの心を深く動かし、生きる力や慰めを与える命はあるのでしょうか。

本日は、ミルトス三姉妹による賛美と歌、箏、そしてクラシック音楽をお楽しみいただきます。そこには、歴史の中で神を体験した人々の信仰や祈りが、歌詞となり、メロディーとなって息づいています。

どうぞ、三姉妹の歌と音楽を通して、賛美とは何か、音楽は何のためにあるのかを改めて味わっていただきたいと思います。そして、生きた賛美、生きた音楽の喜びを、皆さまと共に分かち合うひとときとなりますよう願っております。

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ!」(詩編150:6)

本日のチャペルコンサートが、皆さんにとって豊かな恵みと喜びの時となりますように。

シャローム。