富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)
2026年10月13日火曜日
2026.10.11 牧師室便り
「チャペルコンサートの祝福を祈ろう」
来週、富山小泉町教会にて「2026チャペルコンサート」が開催されます。小泉町教会にとって一年のうちで最も楽しみであり、祝福されたひと時です。ぜひ、ミルトス三姉妹のために心を合わせて祈りましょう。
私が富山小泉町教会に赴任してまず目に留まったのが、ミルトス三姉妹の素晴らしい賜物でした。歌、箏、バイオリンという、それぞれに豊かな音楽の賜物を持ち、三人が心を合わせて賛美するとき、大きな恵みと感動が伝わってきました。そこで私は、「この三姉妹でコンサートを開きましょう」と教会員の皆さんに提案しました。
当初は、「小さな教会の教会員だけでコンサートを開くことができるのでしょうか」と戸惑いや否定的な声もありました。しかし、「一つの教会にこれほどの音楽の賜物が与えられていることは素晴らしい恵みであって、主が三姉妹を用いることを望まれるでしょう」と勧め、コンサートが始まることになったのです。
三姉妹の名前である「ミルトス」の由来は、聖書に登場する、祝福のしるしとして用いられた美しい香りを放つ木です。不思議なことに教会の花壇にもミルトスが植えられており、ミルトスの音色が良い香りとなって小泉町教会から地域へと広がっていくことを願って、これまでコンサートを続けてきました。
しかし、毎年続けていく中で、最初の頃にあった良い緊張感や畏れとおののきが薄れ、少しマンネリ化してしまったような気もします。今年、もう一度初心に帰り、喜びと祈りをもって備えたいと思います。特に、ミルトス三姉妹が、神から与えられた賜物を十分に発揮し、喜びをもって賛美できますように祈りをもって支えましょう。また、家族や友人、近隣から来られる方々を温かくお迎えし、神の愛と祝福に包まれるひとときにしたいと願っています。
ぜひ、神の家族一人ひとりが心を一つにして奉仕し、来られた方々が神の愛を深く味わう幸いな時となりますように。シャローム。
2026.10.11 本日の宣教
『 わたしの民よ、立ち帰りなさい 』
歴代誌下7章14節
私たちが暮らすこの日本という国は、世界にも誇れる美しさと秩序、そして優れた技術力を持った素晴らしい社会です。
私が1995年に初めて日本を訪れた当時、この国は活気ある世界第二位の先進国でした。しかし、この30年間停滞と後退を続けてきた現実を前に、人々の心はかつてないほどの深い孤独や喪失感、そして何とも言えない無気力に覆われているように思います。
このような現実の中で、私たちはどこに希望を見いだせるでしょうか。心身が疲れ果てたとき、聖書は私たちにこう語りかけます。
「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」(歴代誌下 7:14)
この御言葉の背景には、ソロモンが神殿を完成させた栄光の頂点と、その直後の神の警告がありました。神は、人間が繁栄の中で傲慢になることを見越し、回復への道筋を先回りして用意してくださっていたのです。しかし、イスラエルは神の警告を忘れ、滅びの道をたどることになってしまいました。
私は韓国人として、自国の問題には声を上げてきましたが、外国籍ゆえに日本の社会や政治の課題にはなかなか声を上げられずにいるもどかしさを抱えてきました。それゆえにこそ、日本に生きる民である皆さんが、それに相応しい声を挙げなければなりません。 しかし、私たちの関心はどうしても自分のことや家族のことに限られがちです。
かつてイスラエルの民は、国に試練が起きたとき、民族が一つになって深く嘆き、神の助けを求め、御前に出て悔い改めの時を過ごしました。同様に、日本という「地」が抱える痛みを、人間の手段だけで癒やすことはできません。神の赦しと癒やしが不可欠なのです。
本日の御言葉は、すでに神を知っている私たちクリスチャンに向けて警鐘を鳴らしています。形式的な信仰生活と神の御心から離れ反逆の道をたどった生活から立ち返り、「ひざまずいて祈り、御顔を求め、悪の道を捨てる」というステップを踏み出すようにと。
私たちはちょうど宗教改革記念日を覚える季節にいます。「改革された教会は、常に改革され続けなければならない」との宗教改革者たちの言葉通り、今こそ十字架の原点へと心を向け直し、「あなたと子どもたちのために祈れ」と言われた主イエスの御声に従って、この国と民のために祈る時です。
神は私たちがひざまずき御顔を求める時、両手を広げて迎え入れてくださいます。忙しい生活、時代の流れのただ中で立ち止まり、「わたしの民よ、立ち帰りなさい」という愛の呼びかけに答え、新しく希望の歩みを踏み出そうではありませんか。
アーメン。
2026.10.11 小さな泉の恵み
近年の気候変動により、気温上昇や豪雨が農業にも様々な影響を及ぼしています。現在、作付けしている水稲の早生品種の収穫は終わりましたが、中生品種はこれからというところです。両品種ともに8月に出穂しましたが、この時期は開花・受精に水を最も必要としています。
今年のこの地域の8月の降水量は31㎜でしたが、平年降水量の27%と大変少なかったです。このため、私も含め周りの農家は連日のように溜池から水をひいていました。池の水量がどんどん減ってきましたので、神様に雨が降りますようにお祈りしていました。
その後台風15号の接近により、9㎜という恵みの雨がもたらされました。この台風15号は、日本列島の東側で発生し、観測史上初めて茨城県に上陸し、福井県からぬけるという逆走台風でした。当時、祈祷会において、閔先生をはじめ参加された皆さんが、恵みの雨が降りますようにとお祈りしてくださっていましたが、予期せぬ形でかないました。溜池にも幾分かは水量が回復して大変感謝でした。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。コリントの信徒への手紙一3:6」。
2026年10月4日日曜日
2026.10.4 牧師室便り
「 たとえ霧の道に遭遇しても 」
先週、名古屋教会の牧師就任式に出席するため、車で名古屋へ向かいました。酒井朋宏先生の就任式は、中部地方連合の先生方や信徒の皆さんの温かい祝福の中で執り行われました。これまで別府国際教会の牧師として忠実に仕えてこられた酒井先生が、出身教会である名古屋教会に戻り、献身者として新たな歩みを始められることを覚え、先生のこれからの牧会と名古屋教会の福音伝道の業が豊かに祝福されますようにと心から祈ります。
就任式後には、以前小泉町教会で共に信仰の歩みをした榎本兄とも、久しぶりに交わりの時を持つことができました。当時、クリスチャンホームとして良き模範となる姿を示してくださった榎本ご一家は、現在も兄弟が公務員としての務めを果たしながら、御教会の長老として忠実に仕えておられます。その変わらぬお姿に触れ、ご一家のこれからの歩みの上に主の守りと祝福が豊かにあるようお祈りいたしました。
交わりを終えて富山に戻るため、3時間かけて夜の道を走りましたが、途中、山道で深い霧に遭遇するアクシデントがありました。ライトをつけても前方が見えず、雨も降ったり止んだりする中では緊張が走り、両腕に力が入りましたが、讃美歌を流し、また歌いながらその時を乗り越えることができました。その経験を通して、私たちの人生や教会の歩みも、この霧の中を進むような時があるのだと思い至らされました。先が見えず不安を覚えることもありますが、霧はいつまでも続くものではありません。「主はいつも私たちと共に歩まれ、道を開いてくださる」という約束があるからこそ、すべてを委ねて歩み続けることができます。
小泉町教会のこれまでの歩みも、そしてこれからの歩みも、すべては主の御手の中にあります。たとえ今は霧の中にあっても、主が備えてくださる道を信仰によって歩み続けるなら、やがて主の恵みによって視界は開かれます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編 37:5)
主の御守りと導きを信じ、今週も共に信仰の道を歩んでまいりましょう。シャローム。
2026.10.4 本日の宣教
『 真の改革こそ、悔い改めから 』
コリントの信徒への手紙二5章17節
10月になると、私たちは宗教改革を覚えます。1517年、マルティン・ルターが「95箇条の提題」を掲げたことをきっかけに、宗教改革は大きく広がりました。しかし、その本質は単なる教会制度の改革ではない。神の御言葉と福音に立ち返ること、すなわち「悔い改め」にありました。
私たちは「改革」という言葉を聞くと、制度や仕組み、環境を変えることを考えます。漢字から一つのイメージを受け取るなら、「革」を「改める」こと、すなわち古い革を剥ぎ取るという意味になります。革を剥ぐというのは、表面を少し手直しすることではありません。古くなった皮を取り除き、その下にあるものを新たにすることです。
だからこそ「改革」とは、単に既存の制度や組織を部分的に修正することではなく、古い仕組みを根本から見直し、必要であればその「古い革」を剥ぎ取って、新しい形へと作り変えていくことを意味するのです。
しかし、どれほど立派な制度をつくっても、それを担う人間の心が変わらなければ、同じ過ちや利己主義が繰り返されます。本当の改革は、どこから始まるのでしょうか。
今日の御言葉は、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と語ります。聖書が語る改革とは、まず私たちの心と命が神によって新しくされることです。
私たちの中には、神から離れ、自分を中心に生きようとする「古いもの」があります。人を愛するより自分を優先し、自分の正しさや功績に頼ろうとする心です。だから真の改革は、「社会を変えよう」「教会を変えよう」と叫ぶことからで はなく、「主よ、変わらなければならないのは私自身です」と神の前に立つことから始まります。私たちの罪のために、キリストが十字架にかかり、その血を流してくださったからです。悔い改めとは、自分の罪を見つめて絶望することではなく、その罪を背負ってくださったキリストを仰ぐことです。「主よ、私は自分の力では自分を変えることができません。私を赦し、あなたの十字架の贖いと恵みによって新しくしてください。」という祈りから、新しい命が始まります。
特に、「新しく創造された者」とは、少し改善された者ではありません。キリストと結ばれるとき、神が私たちを新しい者としてくださるのです。失敗や弱さが残っていても、それらが人生の最後の言葉ではありません。最後の言葉は、十字架と復活のキリストの恵みです。
宗教改革を覚える十月、キリスト教会は、御言葉によって改革され、福音へと立ち返り続ける共同体です。聖書に戻り、福音に戻り、キリストの十字架に戻ること。そこから真の改革が始まります。もちろん、私たち自身も神の前に悔い改めによる改革をいただくことです。
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
神の家族の皆さん、大切なのは、自分の力で自分を作り直すのではありません。十字架のキリストが私たちを新しくしてくださいます。自分の正しさではなくキリストの義によって、自分の功績ではなくただ恵みによって生きることです。
真の改革は、悔い改めから始まります。そして、その先には、私たちの罪のために十字架で血を流し、私たちを新しく創造してくださるイエス・キリストがおられます。アーメン。
2026.10.4 小さな泉の恵み
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』という映画がベネチア国際映画祭で話題になっていました。映画のモデルとなったアレン・ネルソン氏は、ベトナム戦争の体験から本当の戦争がどんなに恐ろしいもので、深く人の心を傷つけるかを語り続けてこられた方です。
2008年に私は、新潟県の敬和学園高校、新潟の教会、そして9条の会主催の講演会でアレンさんの通訳としてお手伝いをさせていただきました。控え室でお弁当を食べ終わった頃に、どこからともなくハエが一匹飛んできました。アレンさんは、「私にはまだ血の匂いが残っているから、私のところにばかりハエが飛んでくる・・・」と半ばパニックになってしまったのです。
PTSDをある程度克服して、講演活動もできるようになった方でも、これほど取り乱されるのかと、その心の傷の深さに改めて戦争の恐ろしさを見る思いでした。
アレンさんは、新潟の後も日本各地を回って講演をされ、アメリカに帰国されると枯葉剤の影響と思われる多発性骨髄腫を発症されて61歳で亡くなられました。今回、アレンさんをモデルにした映画が話題になったことで、20年近く前のいろいろな思い出が蘇ってきました。
「平和とは、一人ひとりが今、目の前にいる人を愛することから始まる。今隣に座っている人と握手をすること、微笑みかけること、それが平和だ」と語られていたことが、とても印象に残っています。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:18)
