2021年5月3日月曜日

2021.5.2 牧師室便り

 

 ~ わが子よ… ~


「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。・・・何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。(箴言42023)


毎年の5月は、ゴールデンウィークで始まり、子どもの日、また、母の日が続いているため、家庭の月と呼ばれていいでしょう。例年であれば、家族でどこかに出かけてゆっくりと大自然の命の躍動感に触れながら、家族愛を深めるべきでしたが、コロナ再拡散ということもあって、どこにも出かけず家の中でつまらない時間を過ごしているかもしれませんね。できれば、遠くには行けなくても、近くの自然に出かけ(もちろん、マスク着用で)、家族だけの楽しい時を造ってくださいね。我が家は例年であれば、必ず温泉に行っていましたが、コロナで行けないので、他の予定を考えています。


今年は、子どもの日を迎え、高校3年生、中学校1年生の二人の子どもを見つめながら、「私は父親としてふさわしく歩んできただろうか、今のままでいいだろうか」などのことを黙想し、父なる神の前で祈る時を過ごしています。実は、牧師家庭ということもあって、子どもたちは特別な感情や負担、その他、責任感のようなもので誰にも言えない辛さを抱えてきたのかもしれない。世界中の牧師家庭の子どもたちが逸脱してしまうケースが多々あるということもよく耳にします。とりわけ今年、受験を迎える長男と中学生になった長女のことが気になるのは仕方ないかもしれない。願わくは、子どもたちが父なる神に親しみ、神を愛し自分自身のことを愛する人になるように、また、神の御心を知る中で、人生を楽しく進んで行ってほしい…。


聖書の偉大な信仰の先人たちも、彼らの期待とは裏腹に子育てには大変苦労していたことを知っています。親である神の家族の皆さん、「わが子よ」と、私たちの愛する子どもたちが父なる神を愛し自分自身を愛する子どもに、また、何よりもまず、自分の心を守っていける子どもになるように教えつつ祈っていきましょう。シャローム!

2021.5.2 本日の宣教

 『 傷ついた葦を折ることなく 』(イザヤ4214)    

今日の聖書の御言葉は主イエスが生まれる700年も前の時代、預言者イザヤを通して語られた「主の僕」への預言の言葉です。特に、今日の御言葉には、主イエスによって成就される救い主の姿が描かれています。

“傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(34節)”

まず、「傷ついた葦を折ることなく癒される主の僕」の姿を描いています。葦という植物は、当時のエジプト、パレスチナ地方に多く見られていたものです。とりわけ葦は、弱く、少しの風にも揺れ動き、すぐ折れてしまいそうな姿から、聖書の言葉はもちろん、世界の詩や小説など、文学の中においても、弱い人間の姿を表す時によく使われてきた植物です。ここの「傷ついた葦」という表現は、文字通り「半分ぐらい折れている葦の状態」の意味で、精神的・肉体的に回復できないほどの打撃を受けた人間、特に、罪の中で汚れてしまった人間の状態を表しているのです。実に、折れてしまった葦はどこにも使い道がないので、そのまま折って捨ててしまっても不思議ではない。しかし、主の僕は、傷ついた葦のような一人一人の弱くみすぼらしい人との関係の中で、彼らを癒されるという表現を通して、主イエスがいかに優しく、愛に富んでおられる方であるかがよく分かります。

次に、「暗くなってゆく灯心を消すことなく守られる主の僕」の姿があります。当時のイスラエルの民の生活において無くてはならない物の一つが「灯心」でした。この灯心も、当時の聖書や古代の文学によく用いられていたもので、人間の希望、命を表現する時によく用いられていた概念です。特に、「暗くなってゆく灯心」というのは、「風前の灯火」というコトワザと殆ど同じ意味でしょう。夜の闇は深くなりつつあるのに、先ほどまで周りを照らしていた灯心が、油がなくなり、また風が強まることで、だんだんと勢いを失い、今にも消えてしまいそうな「灯心」の姿なのです。その消えそうな灯心の姿から、私たち人間の弱さが見えるのです。すなわち、この世界の中で希望の光をなくして生きている暗闇の人々にイエス・キリストが真の光となってくださり、永遠になくならない油で燃やしてくださることが約束されているのです。

イエス・キリストは、あらゆる苦しみを知っておられ、傷つけられ、十字架にかけられ死んでくださった。そのことによって、今にも折れそうな葦のような私たちを癒すことができ、強めてくださることができるのです。そしての主イエスは、絶望だと、失敗だと、不可能だと思われた十字架の死を打ち破り、復活を通して真の勝利と希望を示されたのです。ですから、私たちの弱さは、十字架の強さを体験できる恵みの通路に変わるのです。主イエスは今日も “どんな傷でもいい、どんな失敗でもいい、どんな痛みでもいいから、わたしの前にきて癒されなさいと優しく声をかけられます。

神の家族の皆さん、私たちを取り囲む現実は、少し傷があったら折って捨ててしまう社会、一度失敗したら待ってもらえず取り残される社会、小さな憐れみも、慰めも、赦しも見出せない状況です。しかし主イエスは、傷ついている葦のような私たちを折ってしまったり、あきらめたりはなさらず、今にも消えてしまう灯心のような私たちを支え、励まし、希望の光を与えてくださるでしょう。互いの弱さを愛し合い、喜び合える神の家族であるように…。ハレルヤ!

2021.5.2 小さな泉の恵み

 

もう五月である。以前にこの欄に書いたことがあるが、わがっやの裏から見下ろすと、富山の平野の水田は水をいっぱい満たしての田植えの準備やら、田植えの終了した所などが見られる。

忙しい農家のようすが目に入ります。我が家は水田があるのにいろいろの事情で現在は休耕。本当に神様に申し訳ありませんと謝りたい気持ちがいっぱいあります。

 もうこの季節になったのかと、自分の無関心に気づき、ふと現実に返ってみては最近の私は、「あゝだめだなあ」…。一日の三度の食事だけに無意味に過ごしている。

 高齢のためか、この頃物忘れがひどく、困っております。先日も曜日を間違えてしまった。自分では気を付けているつもりですが、家族にひどく注意されてしまった。

 高齢者が多くなり、新聞紙上もに時々行方不明の記事を読むと、私も、もっとしっかりしなければと、自分に言い聞かせているのであるが…。

 もっと聖書等を読んで年寄りなりの勉強等を。しかし、なかなか思うようにはいかないのが現実である。

 コロナ禍のため、兄弟姉妹等の方々とも…交わりがあまり出来なく、早くコロナ禍が終息をと神様に祈っております。

                           A.M. 姉

2021.4.25 牧師室便り

 

~ 定期総会を迎える神の家族へ ~

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言169)」

今日は2021年度定期総会です。新型コロナウイルスパンデミックが始まった昨年度の定期総会は、日程を延期して、6月に恐る恐る少人数で行ったことを覚えています。そして、今年度は予定通りですが、依然として厳しいコロナ危機の中で執り行うことになります。教会員全員が集えることを望んでいますが、仕事や諸事情のため、また、コロナへの心配などの理由で、出席できない方々がいるでしょう。たとえ集えなくても、それぞれの場所で祈りによって繋がれることを信じて、時を過ごしていただきたいと思います。

総会の準備をしながら、何より戸惑いを覚えたのは、今年度のスケジュールが立たなくなっているということでした。毎年大切に行っていた“春のピクニック、夏のチャペルコンサート、ファミリーキャンプ、平和集会、北陸交流会、その他、…”一年間のコロナ危機を経験してきたけれども、再び拡散しているコロナウイルスの脅威の前に、日本や世界が動きを止めてしまっている現状です。さらに心苦しいのは、これからの日々が、予測不能で全く定まっていないため、計画を立てることができないということでしょう。

このような不確かさの中で、神の家族の皆さんに求められることこそ、まず、昨年度の一年間のすべての歩みを、守り祝福してくださった神を讃美することでしょう。昨年度も、全く見えない未知の道でしたが、ふり返ると、すべてが神の恵みの一年の旅であったと告白せざるを得ません。私たちにできることは、与えられた道を一歩一歩歩むことでした。そして、主イエスは、新たに2021年度という道を歩むようにと命じられ。しかし、私たちは恐れません。なぜならば、インマヌエルの主イエスが共に歩まれ、守られることを信じるからです。もちろん、いろんな面で昨年度とは違うでしょうし、私たちの心構えも新しくすべきでしょう。願わくは、神の家族お一人お一人が、日々の歩みの中で一歩一歩を備え導かれる主イエスの手をしっかりとつかみ、信仰の歩みを始められますように、また、小泉町教会の神の家族の日々の歩みが、生きた礼拝者として、主の喜びとなりますように…。シャローム!

 

2021.4.25 本日の宣教

 『 種を蒔く人の涙 』 詩編12616)

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編12656)」

春を迎え、農夫たちは一年間の営みのために畑や田んぼで忙しくしています。私も先週、牧師館の周りの小さい畑に種を蒔くための備えをしました。今年はどんな野菜が食べられるか楽しみです。本日、小泉町教会もキリストの畑としての一年間の豊かな収穫のために、農夫たちがどんな種を蒔くべきか、どのように育てていくべきかなどについて話し合う総会を開きます。とりわけコロナ危機という状況において、主の御心に従いたいと願います。

さて、今日の詩編126編は、バビロン帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、多くのイスラエルの民が、遠くバビロンにまで捕虜として連れ去られた「バビロン捕囚」と呼ばれる歴史を、その背景に持ちます。そして神は、預言者たちの言葉通り、ペルシャ帝国のキュロス王の勅令によって、長きに亘る捕虜生活から解放を与え、イスラエルへの帰還を成就されることになります。しかし、希望と幻をもって帰ってきた人々を待ち受けていたのは、過酷な現実でした。ソロモン王が建てたエルサレム神殿は、見る影もなく廃墟となっていましたし、すでに異民族が、エルサレムの地に住んでいました。それに追い討ちをかけるように、飢饉や病気が帰国の民の中に広がり、人々は疲れ果ててしまっていたのです。そのような状況の中、帰還した民らが第一に優先したことが、エルサレム神殿の再建でした。(その辺の経緯はエズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書を参照してください。)

まさしく絶望の状況、もう、立ち上がることのできない現実を前にして、気を落としていた詩人の目に、畑に種を蒔く一人の農夫の姿が入ってきました。その農夫は、泣きながら畑に種を蒔いていたのです。その農夫に、どういう事情があるのか分かりませんが、涙と共に種を蒔いていた農夫の姿は、詩人に大きな感動と共に、イスラエル共同体に求められる、神の御心を教えてくれたことでしょう。普段、私たちが考える「種を蒔く」ということは、希望の現れとして、豊かな収穫を夢見ながら行う行為です。ですから、「種を蒔く」ことと「涙を流す」ということは、なかなか結びつかないでしょう。大切なことは、農夫が涙と共に種を蒔いているということでした。

涙と共に種を蒔きつづける農夫の姿は、コロナ危機の中で、新たな歩みを始めようとする私とあなたにも、大きなチャレンジとなってくれます。コロナ危機の中で希望を失い、疲れ果ててしまっている私たちの隣人、また日本と世界の死に行く人々のために、あなたは何ができますか、あなた方は信仰と希望の種を蒔けますか、と。

主イエスは、私たちキリストの農夫たちの涙を喜ばれます。その涙を一滴一滴集められ、神の国と神の業の栄養分として用いてくださるでしょう。キリスト者にとって、涙を流して種を蒔く時こそ、祈る時であって、礼拝の時でしょう。私たちが神の助けを求めるために、一人で主の前にひざまずき祈る時、また自分自身をいけにえとして献げる生きた礼拝を献げる時、主イエスは、心から込み上げてくる涙を、恵みとして与えてくださるでしょう。ハレルヤ!

2021.4.25 小さな泉の恵み

 

「子どもって、桃太郎みたいだね。」今春、大学院に進学した長男を見て妻に言いました。「だって、子どもってすぐに大きくなる。桃太郎の絵本でも桃から産まれた次のページには大人になって鬼退治に行くじゃない。」すると妻が「私は毎日子どもたちの世話や三度の食事の準備をしているの。夏休みとか冬休みの長い休みには給食がある新学期がどれだけ待ち遠しいか!次のページには大人じゃないの。」「ごめんなさい。」妻への感謝が足りない自分です。子どもだけでなく私も一人で生きてきたわけもなく、命を与え、守り導き育んで下さる神様への感謝も足りません。全てが恵みで全てが喜びです。必要を満たして下さる主を誉め称ます。ハレルヤ。

「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。(マタイによる福音書6:26)」

                                  S.Y. 兄

2021.4.18 牧師室便り

 

~ 真実と向き合う勇気を ~

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(マタイによる福音書2412)」

毎日人々を暗くするようなニュースで溢れる世界です。朝早くテレビをつけるやいなや新型コロナウイルス再流行のニュースをはじめ、暗い事件事故のニュースが後を絶ちません。だからでしょう。あるテレビ局は明るい朝を提供したいということで、他のテレビ局と違ってバラエティー番組を朝から流しています。彼らの選択も一理あると思う人も多いでしょう。しかし、どうでしょうか。暗いニュースに目をつぶり、嫌なニュースを避けるということで現実は変わるでしょうか。もちろん少しの間はいいのかもしれませんが、根本的な解決策にはならないことに遠くないうちに気づくことになるでしょう。

神の家族の皆さんはいかがでしょうか。現実の苦しみから逃れ、明るく楽しいことだけを見たくなりますか。それでは聖書は何と語っているでしょうか。聖書が語っているのは、あなた方は常に苦難があるのが当たり前であって、世界には不法がはびこり、人々の間には愛が冷え、争いと戦いが絶えなくなると教えます。しかし、そこから逃げなさい、目をつぶりなさいとは言いません。むしろ、暗闇の光となり、腐敗している世界の塩となりなさいと教えます。暗闇の中でしっかりと立ちキリスト者として救いと希望の光を照らすこと、腐敗し悪臭漂う人々の間でキリストの良い香りとして、また腐敗を防ぎ、良い味をつける塩としての役割を担うことを語っているのです。

先週は、新型コロナウイルス再拡散、福島原発の放射性物質を含んだ処理水の海洋放出、地球温暖化による世界的な異常気候、ミャンマー軍部による弾圧、アメリカでのアジア人差別などの問題が大きな影響のあるニュースでした。ある面、暗いニュースであると言えましょう。しかしこれらのニュースに目をつぶる時、罪と欲望はますます大きくなり、世界とそこに住む人びとを呑み込もうとするでしょう。

2021年度、依然としてコロナの話題は続くでしょうし、私たちの心を暗くするようなニュースで溢れてくるでしょう。 しかし、私たちはこの世の光となり塩となることと、正義を河のように流すようにと命じられていることを忘れてはなりません。願わくは、主イエスが神の家族の上に、真実と正しく向き合う勇気と力を与えられるように…。シャローム!