2024年1月24日水曜日

2024.1.21 牧師室便り

  ~ 祈り、祈られる恵み ~

先週15日(月)、日本バプテスト連盟の理事長の吉田真司先生と常務理事の中田義直先生、中部地方連合会長の鈴木直哉先生が小泉町教会を訪ねられました。訪問の目的は、先日起きた能登半島地震による北陸地方の3つのバプテスト教会の現状を聞き、支援対策などを話し合うためでした。当教会では、島田代表執事と牧師が皆さんを迎え、一時間ほど話し合う時を持つことができました。

 今回の能登半島地震が地震後のテレビの映像を通じて想像以上に大きかったこと、またその悲惨な状況が明らかになったこともあり、日本バプテスト連盟の諸教会、また世界各地からの問い合わせがある中で、吉田理事長と中田常務理事が直接赴いてくださったことは大きな慰めでした。先生方からの話によれば、連盟としてはこれまでの被災地支援の経験を活かし、今後、北陸3教会に負担がかからないようにしながら、3教会の働きを支援し協力する体制を探りたいとのことでした。恐らく能登半島地震の復旧には時間を要することから、息の長い関わりと祈りが求められると思います。

小泉町教会においては外側の被害は見えないものの、礼拝堂や牧師館の内側の診断が必要な状況です。また、能登半島の被災地に出かけて小さいながら支援活動を予定していますが、今まで使っていた教会の車両が経年劣化により廃車が決まったため、できれば、被災地支援の働きのためにも役立てる車両を購入しようとしています。 ぜひ、お祈りください。

 私個人に対しても日本のみならず、韓国の多くの教会から安否の電話があり、祈っているという声を多くいただきながら、祈られる恵みがいかに素晴らしいものであるかを再三実感することができました。願わくは、今年の小泉町教会の働きが、祈り、祈られる恵みの中で具体的な実を結ぶことができるように、さらに主に喜ばれ、弱い人々に勇気と力を与えることができるように…。シャローム!



2024.1.21 本日の宣教

  『先生、かまわないのですか』

                    マルコによる福音書  4章35~41節

イエス様が神の国について語り終えると、もう夕方になっていました。そこでイエス様は弟子たちに、“向こう岸に渡ろう” と声をかけておられました。イエス様が命じられた旅。しかし、その旅には予想もしなかった嵐が、イエス様と弟子たちの乗っていた舟を待ち受けていました。

皆さんご存知のように、当時の弟子たちの多くはガリラヤの湖で生まれ育った漁師でしたから、ガリラヤ湖のこともよく知っていましたし、湖を渡ることは簡単なことだったでしょう。 イエス様は一日の疲れからでしょうか、艫の方で枕をして眠っておられました。しかし、船を漕ぎ出していた弟子たちに、突然、予想しなかった嵐が襲ってきました。

私たちの人生の海はいつも変化します。時には静かで平和な状態が続くかと思えば、ある時は大波と嵐で大荒れになったりします。今まで自分の努力や経験で乗り越えてきましたが、どうしても自分の手に負えない状況が訪れることもあります。特に、私たちの大きなつまずきとなるのは、この旅はイエス様が命じられた旅であり、イエス様と共にする旅であるにも関わらず、人生の嵐や試練が襲ってくるということにわたしたちは戸惑いを覚えてしまうのです。

その時の弟子たちの言葉の中で私が注目したのが、「先生」と、「かまわないのですか」でした。まず、イエス様を「先生」と呼んでいる弟子たち。まだまだ、彼らにとってイエス様は「先生」に過ぎませんでした。イエス様が神の子であることも、救い主でメシアであることも、まだ彼らとは関係のないことでした。まだまだ、カラシ種のような信仰、チッポケで、イエス様の福音が蒔かれて芽を出したばかりの小さな信仰者の姿でした。また「かまわないのか」とつぶやく弟子たちの言葉から、「イエス様は私の苦しい状況に関心がない、イエス様は冷たい方」という感じを受けます。まだまだイエス様との信頼関係ができていない弟子たちの姿を見ます。

それでも私たちは、弟子たちの姿を通して「祈り」について学ぶことができます。その祈りとは、弟子たちが抱えている問題の真ん中に、イエス・キリストを招き入れることでした。「苦難の日、わたしを呼ぶがよい。わたしはお前を救おう(詩編50:15)」とある通りです。祈りこそが、神様の救いの業を体験できる恵みの通路です。まだまだ信仰が足りなくても構いません。私たちの祈りは立派な信仰の言葉を並べることでなく、必死になって「イエス様、助けてください」と叫ぶことが祈りであり、寝ているイエス様を起こすことが祈りです。まだ「先生」としか言えないあなたの薄い信仰かもしれません。でも、イエス様は私たちの祈りと叫ぶ声に応えて、私たちの人生の中に起こってくる嵐と波を静めてくださるのです。

弟子たちの切なる叫びに起き上がられたイエス様が風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、凪になりました。この出来事こそ、弟子たちにとって今までの「先生」から「わが主、キリスト」へと変わる瞬間でした。…イエス様は私たちに嵐に合わせないようにしてくださるとは約束していません。まだまだ信仰の弱い私たちです。ちょっとした波風にも揺れてしまい、落ち込んでしまいがちな私たちです。しかし、イエス様を真の創造者、十字架にかかり、私たちの人生の苦しみと嵐の真ん中に立って救われる神と告白できれば、私たちのすべてが変わることでしょう。ハレルヤ!



2024.1.21 小さな泉の恵み

 昨年12月半ばから礼拝を守らせて頂いています酒井博恵です。一昨年初めから前の教会のことで本格的に悩み始め、遂に当教会のドアを叩くことになりました。様々な事が前の教会とは違います、どちらが良いとは言えません。神様は私にどのような働きを求めておられるかを考えています。以前の教会でもご奉仕をしていましたし、親しくして下さっている信仰の姉妹方もいます。しかし、今後の私に対して神様が何を求めておられるのかを考えています。

閔牧師は本当に素晴らしい牧師だと思います。神様に徹底的に従おうとしておられる姿勢が伺われます。これまでの私の緩んだ信仰の姿勢が正されるようです。元旦礼拝で示してくださったハバクク書3章17~19の箇所はとても厳しいもので、日本の農業と酪農の近未来を示すものでした。日本の食の安全保障は日本人の命を守るには余りにも乏しく、これからの私達は自らの命と生活を守るために、自助努力と相互扶助を求められていると思います。その観点で見ると、小泉町教会はそのための働きをしている教会だと思います。そして私はそのために何がどこまでできるか分かりませんが、微力を尽くしたいと思います。沢山のことはできませんが、できることを自分のペースで、ある時は他者の力を借りながら、進めていく。1ミリの事でも10回行えば10ミリになります。恐れず、躊躇せず、挑戦する、信仰を持って。振り返って自分を見たときに、少しは神様のお役に立てたかな、と思える自分でありたいと願っています。宜しくお願い致します。 

                           S.H.姉

2024.1.14 牧師室便り

 ~ 隠れている明かりを ~

先週の水曜祈祷会ではマルコによる福音書の御言葉を分かち合いました。その中でも「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはない(マルコ4章22節)」の言葉が心に留まりました。これは明かりである神の御言葉こそ、明らかにするために与えられており、だから隠れているように見えても、必ずあらわにされる時が来ることへの約束と確信の御言葉です。

 多くの日本のクリスチャンは、よく自分自身の信仰の弱さのゆえに、人々の前で福音を語ることができないまま信仰生活をしていることに情けない思いを抱いていると思われます。心の中では「私はクリスチャンで、あなたもぜひ福音を受け入れて救われてほしい!」と願っているものの、実際にクリスチャンとして積極的に信仰を表したり、福音を伝えたりすることを躊躇するのも現実でしょう。

しかし、自分自身の信仰の弱さを責めたり、罪意識で苦しんだりしないようにしましょうね。マルコによる福音書を書いた著者のマルコも若い時は弱虫であって、伝道旅行から勝手に離れてしまった時もありましたし、主イエスの12弟子たちは長い間主イエスと生活を共にしながらも御心を理解できず、十字架の前では裏切ったり、逃げてしまったりしていたことを私たちは知っています。それでも彼らは、後に、命をかけて福音の明かりを明らかにする人生を貫き通しました。

 暗闇がさらに深くなっている近頃です。主が言われた、終わりの日が近づいているような気がする日々です。共に明かりを持っているものとしてのアイデンティティーをもちつつ、今は隠れているようだけど、聖霊による勇気と力をいただきつつ、主の御心をしっかり聞くこと、聞いた御言葉を生活の中でできることから適用していくことです。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」ことを心がけましょう。シャローム!



2024.1.14 本日の宣教

 『日々死んでいく人々』  

             コリントの信徒への手紙一15章31節

私たちは神を信じ、イエス・キリストが私たちのために十字架を背負ってくださり、復活されたことを信じて生きています。そのため、人々は私たちを「クリスチャン:イエス・キリストに従う人」と呼んでいるのです。

そういう面で、私たちは区別された人々と言えます。それは、この世に生きてはいるけれども、この世とは区別されて生きる存在でもあるのです。そしてその区別された者たちが集う群れを教会と呼びます。「教会」とはエクレシア(呼び出された者たち)で、「キリストによって区別され集められた人々」という意味になるでしょう。だからと言って、ユダヤ人たちのように、「選民意識」に陥るのではなく、むしろ「赦された罪人たちの群れ」としてこの世に仕えながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えて生きるのです。

ですから、この世の人々も私たちクリスチャンに対して、自分たちとは少し異なる存在と見なしていることもあるでしょう。さらに人々は、私たちクリスチャンに対して少しでも違った生き方、少しは異なる生活を期待しているのかもしれません。その理由こそ、クリスチャンの生活の基準が違うからだと思います。私たちクリスチャンの生活の基準はイエス・キリストであり、神の御言葉にあるのです。神の子ども、神の民と呼ばれるにふさわしい聖さを持ち、主イエスの愛に倣って生きることが求められているのです。

主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23~24)」と言われました。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従うことを「日々、毎日」行うのがクリスチャンの生き方だと教えておられるのです。主が言われた「自分を捨て、自分の十字架を背負うこと」は、祭壇に供えられる犠牲のように自分の命がいけにえとして献げられて「死ぬ」ことを指します。主イエスは、私たちが十字架を背負って従うようにするため、御自ら罪人たちのために十字架にかかり、贖いの死を成し遂げられたのです。

この主イエスの御言葉に応答して、日々、十字架を背負って死んでいくことを告白した人がパウロでした。

「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。(一コリント15:31)」

使徒パウロは、主イエスの十字架と復活の恵みを体験してから繰り返し告白していたのが「生きるにしても、死ぬにしても」という言葉でした。その中でも、「キリストに結ばれて死ぬこと」が強調されていることが分かります。しかも、その死ぬことが毎日の生活の中で成就することを誇りとしていたことが分かります。

神の家族の皆さん、主イエスのために、日々、自分自身を死なせることを誇りとして生きていますか。願わくは、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものであり、私たちにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことも利益である」と誇りながら歩む2024年でありますように…。ハレルヤ!



2024.1.14 小さな泉の恵み

 今年は、年賀状を出すことができませんでした。世界が見ている中で公然と天井の無い壁に囲まれた収容所のようなガザに、クリスマスと年始にかけてもミサイルや爆弾が落とされ、毎日のように100人以上の人々が殺されている現実に、「明けましておめでとう」と書けなかったのです。

すでにガザでは220万人の人口の1%にあたる2万3千人が亡くなっています。その内7割は、女性と子どもと発表されています。12月17日には、避難所となっていたガザのYMCAと隣の教会も攻撃されて、多数の死者が出ました。

元旦、能登半島大地震、翌日の航空機事故にさらに心が暗くなりました。教会と教会員の方々に被害が少なかったことは幸いでした。

YMCAの指導者でもある川渕映子さんは、2日に早くもパンや水・ジュースを届けに穴水に向かいました。そして、4日には、私も同行し、穴水町に食料と水を届けました。川渕さんは、東日本大震災をはじめ国内外の大災害にすぐに駆けつけ、長期的に支援を続けている経験豊富な専門NPOの代表です。

教会関係では、日本基督教団やカトリックの輪島教会が大きな被害を受けています。  

YMCAでも支援方針を決めるために、同盟総主事と富山YMCA事務局長が七尾に行きました。長期的な支援が必要となりますので、今後被災地に近い教会としての支援活動が求められます。富山小泉町教会としてできることを考えましょう。世界の平和と被災地の救援を祈りつつ。

                                          島田 茂


2024.1.7 牧師室便り

 ~ 生と死の狭間で ~

皆さん、先週一週間は、落ち着かない日々を過ごされたことでしょう。私は日本で生活した28年の中で、初めて経験する大地震の揺れに遭い、抑えられない恐怖に陥っていました。…地震の大きな揺れに驚きながら、台所のドアを開け、世界が激しく揺れるのを見て、このまま牧師館が倒れてしまうのではないか!と不安に包まれていました。… 

何もできず、ただ地震の流れに揺れ動くまま、口からは自分も知らず「主よ!助けてください!」と叫び声が漏れていました。…妻はちょうど牧師館の2階から降りてくる時だったので、階段で身動きできないまま固まってしまい、娘も初めて経験する揺れのゆえに泣き叫んでいました。…私はしばらく地震が落ち着くのを待って、教会の二階の牧師室や各部屋を確かめたのですが、高い所にあったものが散乱していて、地震の揺れの大きさを再三感じました。… その後、神の家族の皆さんに電話やラインで安否を尋ねたのですが、幸い特に怪我した方も、大きな被害を受けた方もいなかったので、神に感謝の祈りをささげ、ホッと胸をなでおろしました。…ところが、大地震の揺れと余震のせいなのか、この一週間、ずっと宙にういているような、足元が動いているような気がしていましたね。それほど、初めて経験した大地震の揺れによるショックが意識の中に残っていたことでしょう。神の家族の皆さんはいかがだったでしょうか。

 2024年の最初の日が大地震と共に始まったこともあり、これからの一年間いかに恐ろしい出来事が続くだろうか気になります。一昨年よりは昨年が、昨年よりは今年が様々な面で悪化していくような気がして、主イエスが言われた神の国が近づいていることを大切に心に留めながら、生と死の狭間で正しい歩みができるようにと祈ります。シャローム!



2024.1.7 本日の宣教

 『山が移り、丘が揺らぐことがあっても』          

                                                                 イザヤ54章10節

新しい年を迎え、希望と決断の思いを抱くこの時、突然襲ってきた大地震、さらに羽田空港で起きた航空機衝突事故、そして隣の韓国で起きた野党の有力政治家を暗殺しようとしたテロ事件など、衝撃的な出来事が多発しています。これに加え、二つの戦争がさらに激しさを増しているような状況で、今年の世界情勢の不確かさが気になります。このような世界状況を見つめながら、キリスト者に求められる姿こそ、創造者であり世界を治めておられる神にさらに近づき、御心を求めることであると思います。

さて、能登半島地震による衝撃を黙想しながら示されたのがイザヤ54:10です。

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。

本日の御言葉はいわゆる第二イザヤ書(40章から55章)の後半部分で、バビロンに捕囚されているイスラエルの民に対する神の約束の言葉です。イスラエルの罪と悪に対する神の裁きとして、イスラエルはバビロンに滅ぼされ、イスラエルの民らは捕虜として連れ去られることになっていました(バビロン捕囚)。そして時が流れ、神はイスラエルに対する愛と憐れみをもって、彼らに新しい約束を与えられます。

とりわけその約束とは「山が移り、丘が揺らぐことがあっても」神の慈しみはイスラエルから決して移らないということでありました。それでは、ここで語られる山と丘はどのような意味をもっているでしょうか。…昔からイスラエルにおいて山は神が創造されたものの中で最も確かなものとして、決して変わることも、揺らぐこともないものの象徴として用いられてきました。しかし、聖書は、本日の御言葉を含め、いろんなところで山々は決して絶対的なもの、永遠のものではないことを教えます。なぜならば、それらすべては天と地を造られた創造者の被造物の一つに過ぎないからです。

 この地上において、確かなもの、決して変わることなく、いつもそこにいてくれるものと思っているものがあるとすれば、それは幻想を抱いているのであり、錯覚、騙されているのです。お金も、健康も、人も、知識も、国も、八百万の神々も、みな消え去ってしまうものであることを悟ることです。私たちの真の神以外、決して変わらないもの、揺るがないものはないことを心に刻みましょう。

そして預言者イザヤはここで、決して変わることのないものについて教えます。「山が移り、丘が揺らぐことがあっても、決して変わることのないもの、それこそ、神の慈しみだ」と、「神様と結ぶ平和の契約だ」とはっきりと示してくださるのです。ここで言われる「慈しみ」こそ、神の愛を示す「ヘッセ-ド」です。「ヘッセード」とは「神との契約における決して変わることのない愛」「誠実で真実な愛」のことを指します。神は真に、そのような絶対的な愛、慈しみをもって私たちと交わってくださるお方、揺るがない平和の契約を結ばれた方、

そして、さらに、私たち神の子どもたちを「憐れむ主」とであると紹介しています。ハレルヤ!




2024.1.7 小さな泉の恵み


兄弟姉妹の皆様、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。今年は1日は地震、2日は飛行機事故と驚く1年の始まりでした。

個人的なことを言うと、3日にはインドネシアでとてもお世話になった友人の訃報が入り、なんだこれはという感じです。

1日の地震で海側に住む我が家は近くの小学校に避難しました。長男は従兄弟と公園に、次男は家に、残り3人は本屋に居たときに地震が起きたので家族バラバラに避難しました。会えた時は本当にほっとしましたね。

避難所では怖くて心配で過呼吸になっている方、寒い所で丸くなっている方、高齢のご家族を連れて不安でいっぱいの方などとにかく【不安】で埋め尽くされている感じでした。私はお祈りをしてから、出来るときに、出来る方に声をかけました。平常心を与えてくれた神様に感謝です。

新しい1年、悔いの残らないよう一生懸命生きたいな、そう強く思う1年の始まりでした。

皆様今年も宜しくお願いします。

                            I.A.姉

2023.12.31 牧師室便り

 ~ 感謝から感謝への歩みを ~

 2023年も52週間、主日礼拝を欠かすことなく執り行うことができました。一年間の歩みを守り、助け、導いてくださった父なる神に感謝を献げます。また、隣で足並みを揃えて共に信仰の歩みを続けてくださった神の家族の皆さんにも感謝を表します。

 今年は、コロナ収束に合わせ、教会の働きを一つずつ再開できた一年でもありました。チャペルコンサートも、ファミリーキャンプも、北陸交流会も、そして礼拝後の昼食も…。もちろん新しく始めたこともありましたね。

 未だに病院や学校、公共施設などはマスクをするところも残っていますが、一年前のような恐れと不安はほぼ消えているように見えます。

 しかし確かに言えることは、コロナが残した傷跡は至る所に残っているということでしょう。明日への不確実性や恐怖感、社会的孤立などの人間関係の面、デジタル化による働き方の変化などの仕事の面、失業や物価の高騰などの経済的な面などなど。特に、健康の面でも長期間に亘る疲れと後遺症などがありました。

小泉町教会の神の家族の中にも様々な傷跡を負い、信仰の道から遠ざかっている方々がいるのも事実でしょう。一度遠ざかると元の状態に戻ることが難しいことは今までの教会の歴史から何度も見てきました。それでも、皆さんの日々が聖霊様との交わりによって励まされつつ、神の家族の祈りが届けられることを期待しています。

「互いに重荷を担い合おう」という主題のもとで走り終えた2023年でしたが、牧師である私の方こそ皆さんの重荷を担い切れなかったような気がしてなりません。しかし、互いに重荷を担い合うことは限られた時間だけでなく、これからも続けて行うべき御心であります。思いを新たにして励んでいけますように…。シャローム!

 



2023.12.31 本日の宣教

 『 あなたがたのゆえに 』          

                                          フィリピの信徒への手紙一章3~7節

 2023年の最後の主日礼拝を迎え、神の家族の皆さんの心にはいろいろな思いが交差していることでしょう。「あの時こうすればよかった」「あの人にもう少し親切にしてあげたらよかった」「もう少し頑張っていたらよかったのに」…振り返ると後悔ばかり、そこでつぶやいたり悲しんだりしてしまう私たちです。そしてそこから「新年を迎えもう一度頑張ろう」と誓う自分に気づくでしょう。

 しかし聖書は私たちが弱さを認めることを勧め、神の御手にゆだね祈ることを教えます。弱さをもっているのが人間であって、神の助けなしには生きることができない私たちであるからです。

 願わくは、今年やり残してしまったことは、しんがりとなって守られる神に委ねつつ、2024年には先を歩まれる神の後に従う神の家族でありますように…。

 この一年、あなたがたのゆえに恵まれ祝福された日々を過ごすことができたことを心から感謝します。

ハレルヤ!


2023.12.31 小さな泉の恵み

 今年もあっという間に月日    が過ぎ、明日はもう2024年1月1日です。年を重ねるごとに時の過ぎる速度が早まっていると感じます。

先日テレビで、時の過ぎる速さの感じ方について、子供はゆっくりと感じ、大人になるにつれ、速く感じるようになるのだと研究者が話していました。その人の説によると、子供は経験値が少なく、新しい経験と学びが多いので時間がゆっくりと過ぎ、逆に大人は経験値が年を取るほど増え、新しい学びが減り、同じことの繰り返しが多いので、時間の経過が早く感じるのだそうです。専門家の話なので信ぴょう性があるのでしょうが、私にはあまりピンときませんでした。

それよりも、以前友人のお孫さん(高校生)が話したことの方に共感しました。彼の説は、歳をとるにつれ知的、肉体的共に能力が落ちてゆき、それに比例して今までより処理時間が掛かるようになり、例えば一年があっという間に感じられるのではないかと。その話を自分に置き換えると「確かに!」と腑に落ちたのと同時に寂しさを覚えました。

聖書には『外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。』と記され、私たちに勇気を与えて下さっています。日々新たにされていく内なる自分と共に、愛をもって元気に歩んでいけますように! 

                                 S.Y.姉