2024年1月24日水曜日

2024.1.21 本日の宣教

  『先生、かまわないのですか』

                    マルコによる福音書  4章35~41節

イエス様が神の国について語り終えると、もう夕方になっていました。そこでイエス様は弟子たちに、“向こう岸に渡ろう” と声をかけておられました。イエス様が命じられた旅。しかし、その旅には予想もしなかった嵐が、イエス様と弟子たちの乗っていた舟を待ち受けていました。

皆さんご存知のように、当時の弟子たちの多くはガリラヤの湖で生まれ育った漁師でしたから、ガリラヤ湖のこともよく知っていましたし、湖を渡ることは簡単なことだったでしょう。 イエス様は一日の疲れからでしょうか、艫の方で枕をして眠っておられました。しかし、船を漕ぎ出していた弟子たちに、突然、予想しなかった嵐が襲ってきました。

私たちの人生の海はいつも変化します。時には静かで平和な状態が続くかと思えば、ある時は大波と嵐で大荒れになったりします。今まで自分の努力や経験で乗り越えてきましたが、どうしても自分の手に負えない状況が訪れることもあります。特に、私たちの大きなつまずきとなるのは、この旅はイエス様が命じられた旅であり、イエス様と共にする旅であるにも関わらず、人生の嵐や試練が襲ってくるということにわたしたちは戸惑いを覚えてしまうのです。

その時の弟子たちの言葉の中で私が注目したのが、「先生」と、「かまわないのですか」でした。まず、イエス様を「先生」と呼んでいる弟子たち。まだまだ、彼らにとってイエス様は「先生」に過ぎませんでした。イエス様が神の子であることも、救い主でメシアであることも、まだ彼らとは関係のないことでした。まだまだ、カラシ種のような信仰、チッポケで、イエス様の福音が蒔かれて芽を出したばかりの小さな信仰者の姿でした。また「かまわないのか」とつぶやく弟子たちの言葉から、「イエス様は私の苦しい状況に関心がない、イエス様は冷たい方」という感じを受けます。まだまだイエス様との信頼関係ができていない弟子たちの姿を見ます。

それでも私たちは、弟子たちの姿を通して「祈り」について学ぶことができます。その祈りとは、弟子たちが抱えている問題の真ん中に、イエス・キリストを招き入れることでした。「苦難の日、わたしを呼ぶがよい。わたしはお前を救おう(詩編50:15)」とある通りです。祈りこそが、神様の救いの業を体験できる恵みの通路です。まだまだ信仰が足りなくても構いません。私たちの祈りは立派な信仰の言葉を並べることでなく、必死になって「イエス様、助けてください」と叫ぶことが祈りであり、寝ているイエス様を起こすことが祈りです。まだ「先生」としか言えないあなたの薄い信仰かもしれません。でも、イエス様は私たちの祈りと叫ぶ声に応えて、私たちの人生の中に起こってくる嵐と波を静めてくださるのです。

弟子たちの切なる叫びに起き上がられたイエス様が風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、凪になりました。この出来事こそ、弟子たちにとって今までの「先生」から「わが主、キリスト」へと変わる瞬間でした。…イエス様は私たちに嵐に合わせないようにしてくださるとは約束していません。まだまだ信仰の弱い私たちです。ちょっとした波風にも揺れてしまい、落ち込んでしまいがちな私たちです。しかし、イエス様を真の創造者、十字架にかかり、私たちの人生の苦しみと嵐の真ん中に立って救われる神と告白できれば、私たちのすべてが変わることでしょう。ハレルヤ!



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