2021年11月24日水曜日

2021.11.21 牧師室便り

~ 感謝が難しくなってきた時代 ~

今週の木曜日はアメリカの収穫感謝日(Thanksgiving Day)です。アメリカ最大の祝日でもあります。1620年、「メイフラワー号」と呼ばれる船に信仰の自由を求めて100人を超えるピューリタン(清教徒)の群れが乗っていて、マサチューセッツの海岸にたどり着きました。しかし厳しい冬に直面し、生活に困難を極めましたがインディアン(先住民)に助けられ、半数が生き延びることができました。そして翌年には収穫を上げることができ、先住民たちを招待し、神の導きと守りに感謝を献げたのが収穫感謝祭の始まりであると言われています。その後、毎年の11月4週目の木曜日を収穫感謝日として祝っているのです。

「あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。(出エジプト23:16)」

聖書は、最初の収穫感謝祭のことを記しています。神は、荒野の中にいたイスラエルの民に、彼らを乳と蜜の流れる土地に導き入れられることを約束され、そして、その収穫物をもって神に感謝の礼拝を献げ祝う時を持つことを命じられました。春には、大麦の収穫時期に、初穂の祭りを行ないます。そしてその50日後には、小麦の収穫があり五旬節を祝います。そして秋になると、ぶどうやオリーブ、いちじくなどの実を刈り取ります。その後に、「仮庵の祭り」とも呼ばれている収穫祭を守るのです。こうして、イスラエルの民は、約束の地で神が収穫をもたらしてくださることを認め、主に感謝をささげ、喜び祝うことになったのです。

日本の教会の歴史を見ると、特別に収穫感謝祭と区別して祝う日を設けることはしませんでした。もちろんキリスト者にとっては毎日が感謝祭であるでしょう。しかし頭ではそう思っていても、実際の生活の中で神への感謝ができているでしょうか。パウロが「どんなことにも感謝しなさい」とキリスト者の生き方について示してくれたように、感謝はキリスト者を説明する代名詞であることを覚えましょう。とりわけコロナ時代を生きながら、とうしても感謝するのは難しいと言われている世界に向けて、どんなことにも感謝できる生き方を身につける神の家族でありますように…。シャローム!


2021.11.21 本日の宣教

 『 尊い自分を見つめる 』(イザヤ43:1~4)

本日は子ども祝福式を執り行う礼拝です。毎年この日を迎えながら子どもたちに伝えようとする御心こそ「自分の尊さを知る」ということです。現代の競争社会を生きる私たちにとって「自分の尊さ」というものを感じながら生きるということはなかなか難しいことのように思える近頃です。とりわけ子どもたちの目から見えてくる社会の有様は長い間、人々を支配してきた価値観とも言える弱肉強食、財産、学歴、能力といったものが「尊さ」の判断基準になっていると思います。

神の家族の皆さんは自分自身の尊さに気づきながら過ごしていますか。とりわけ神の愛と恵みに生かされているキリスト者としてあなたは自分自身の尊さをどこで見出しているでしょうか。むしろ、自分の罪のゆえに、病気のゆえに、以前できていたことができなくなったために、また周りの期待にこたえられなくなったがために、自分自身を尊く思えなくなっている私たちではないでしょうか。

しかし本日与えられている御言葉によれば、私たちの尊さの基準となるものは、今まで慣れ親しんできた社会的条件を満たしていくことではなく、「わたしの目にあなたは値高く尊い」と語られる創造主なる神の宣言にあると教えてくれます。神に愛される基準や条件はありません。今まで私たちを束縛していた社会的基準や条件を満たすことができなくても、神の似姿に造られたありのままの私たちを愛されるその愛が基準であり条件となるのです。ぜひ、「わたしの目にあなたは値高く尊い」と言われる神の御心に応答し、たとえ自分で立てた条件を満たすことができず、自分でもうけた基準に及ばなくても、自分を赦すことができ、尊い自分を見つめようと心がけることができれば、私たちの日々の生活は喜びと希望に輝くことになるでしょう。ハレルヤ!


かみさまのあい 

                          詩:クリバリユミコ

いいんだよ

そのままでいいんだ

何度 倒れても

私が差し出す手をつかんで

また立ち上がればいい 

父親って そういうものだよ


いいんだよ

そのままでいいんだ

何かを変えなければいけない とか

このままじゃ駄目 とか

ありのままの自分で

私の胸に飛び込んでおいで

母親って そういうものだよ


いいんだよ

そのままでいいんだ

いい時も 悪い時も

私はあなたと一緒に歩く

友達って そういうものだよ


いいんだよ

そのままでいいんだ

真っ暗闇の中で何も見えず

ただただ涙がこぼれ落ちる時

君の手を 黙って いつまでも

握っているよ

愛ってそういうものだよ



2021.11.21 小さな泉の恵み


 今頃大変良い天気が続きますが、11月は一年中働く喜びの月でもある。なんと言ってもこの月は勤労感謝の月であると思う。

私は一般的にいうにはまあ健康であるかなあ?…。結婚以来の仕事の農作業も、少しづつ少なくして残りの人生を充実に過ごしております。

これといった技術も得意もない自分であるが、農作業が終わった後は、なんとなく達成感があり、気持ちの中にはなんとなく満たされた感じがします。

毎日2時間から4時間位の農作業だが、時間に追われることなく、単純作業。ラジオで音楽を聞きながらルン・ルン気分になる時もありますが、これも大変、腰が痛くなったり、体のいたるところに負担がかかりますが、作業が終了した後、綺麗になった所を見ると、達成感があり心が満たされます。

色々と植付のことを考えたり、作業の手順考えたり、土をいじりながら、自然の中での生活に感謝しております。

時々町内の方々と会話をしながらの作業も楽しいものですネ。

自然の恵みの環境の中での生活、土に触れることが私に与えられた賜物と感謝しております。

                               A.M.姉


2021.11.14 牧師室便り

 ~ 主よ、分かりません。教えて!~

「主よ、これは何でしょうか。」わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、彼は答えて、わたしに言った。(ゼカリヤ4:4~6)

「主よ、これは何でしょうか。」、「主よ。分かりません。教えてください。」…これは聖書の多くの神の人がもっていた信仰姿勢における特徴を表す言葉です。つまり彼らは、常に神との対話をしていたということでした。ただ単に神からの言葉を聞いて何も質問せずに従順に従った人は少ないことが分かります。信仰の祖先アブラハムから、モーセも、ヨブも、ダビデも、ハバククも、バプテスマのヨハネも、主イエスの弟子たちも、そのほとんどの人が神さまとの対話を好む人でした。彼らにとって神は、恐ろしい方、遠くにおられ、何も聞いてくれない方ではなく、いつも神の子どもたちの近くにおられ、彼らと対話することを求められるお方であったのです。そして彼らが悟った真実とは、神と顔と顔を合わせて交わる人に神は御心を打ち明け、ご計画を分かち合われるということでした。

神の家族の皆さんは日々の生活の中で、神様と対話の時間をもっていますか。目の前に起きる様々な出来事について、分からない時ははっきりと「分かりません」と答え、「教えてください」と尋ねながら助けを求める謙遜で積極性をもっている人を主は喜ばれますし、その人に御心を示し神のビジョンを見せてくださるはずです。

今こそ、私たちは神との対話を深めていくべき時ではないでしょうか。まず、新型コロナウイルスについて、また、これからの世界について、日本の国について、小泉町教会のビジョンについて、各家庭の将来について…、「主よ、これは何でしょうか。主よ、分かりません。教えてください。」と。願わくは、神様との日々の対話の中で、神の国への将来の幻を描いていける神の家族となりますように・・・。シャローム!


2021.11.14 本日の宣教

『 何もしないことを選ぶ勇気 』  (出エジプト14:13~14)

キリスト教会の歴史を見ると、どのような時代においてもキリスト者の信仰生活におけるいろんな規則や規範を設けようとされてきました。たとえば、聖書を読まなければならない、定期的に祈らなければならない、断食をしなければならない、伝道しなければならない、早天祈祷会をすべきだ、セールグループを作るべきだ、弟子訓練をすべきだ、慈善活動をすべきだ、などなど、これらの規則や方法論がキリスト者の信仰の強さや敬虔さを測る基準となってきたことも事実です。しかし、神は定まった規則や規範、方法によってしか体験できない方ではありません。神は無限大の方法をもっておられる方で、規則や規範に頼らず御業を成し遂げられ、いつどこでも触れられるお方であります。 大切なのは、私たちが何かをすることで神に認められるのでなく、常に神との親しい交わりの中で御心を知ることです。神が望まれるのは、私たちが神の御心を生きること、一人一人が神様との関係の中で、それぞれが神の望んでおられる道を歩むことなのです。とりわけ神の前で「何もしないことを選ぶ勇気」こそ、今現在の私たち求められる姿勢ではないでしょうか。

聖書の中で最も多く出てくる神からの命令を挙げるとすれば、当然「恐れるな」という言葉でしょう。なぜならば、人間は恐れと思い悩みの問題を自ら解決することができない存在だからです。そこで神は、神の子どもたちが人生の重荷を神に委ね、ただ神が与えてくださる安息と平安を味わうことを望んでおられるのです。

多くのキリスト者は神が喜ばれる人生のために、また神様にもっと用いられるために心を尽くして頑張って日々を過ごしていきます。そうする中で、心身共に疲れを覚え、時々失望に陥る時があっても、絶えず何かをしようと心がけながら頑張りますし、何かをしなければ、自分は駄目な人間のように思い込んでしまうでしょう。

そこで聖書は、なかなか慣れない一つの命令を投げかけてくれるのです。それが、「何もしないことを選びなさい」という命令です。とりわけこの命令は、神の国のために力を尽くしている中で疲れてしまった働き人への御心として示されているのです。父なる神は、神の子どもたちが何か立派な業績を残し、特別に目立つようなことを成し遂げることを望まれるお方ではなく、かえって「何もしないということを選ぶ勇気」のある人を喜ばれるはずです。

「何もしない」ということは、単純に肉体的な休息を意味しているのではありません。これは、常に成功することを要求する世界において、自分の領域を超えることに関してはただ神の御業にすがることを指します。何もかも信仰の力で頑張るのではなく、自分にできることには最善を尽くして取り組むけれど、自分にとってできないこと、自分の領域を超えたことに関しては、かえって何もしないことを決断し、生きて働かれる神の御業に信頼し御手の業を仰ぎ見る勇気を育むことです。

「何もしないことを選ぶ勇気」、これこそ新型コロナウイルスパンデミックによって多くの制限が設けられている時代を生きる私たちが身につけるべき信仰姿勢ではないでしょうか。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:14)…ハレルヤ!                              


2021.11.14 小さな泉の恵み

先週は、天候の不安定な日が続きました。金曜日に晴れ間を縫うように散歩に出かけた所、立山連峰は雲に覆われていましたが、立山少年自然の家の南東側にある1361m、ピラミッド型の大辻山山頂付近は白く冠雪しているのが見えました。大日岳や薬師が岳など立山山脈は、前の週には真っ白く冠雪していましたが、不安定な低気圧の影響で雪は1千メートル代の山にも降り積もり、冬の到来を実感しました。

昨年10月から家から正面に見える尖山登山からはじめ、休みに登山に行くようになりました。大辻山にも4月と9月の二回登りました。40歳の頃化膿性椎間板炎で突然倒れ入院するまでは、丹沢、八ヶ岳、北アルプスなど縦走登山や住んでいた横須賀の裏山などに頻繁に登っていたのですが、倒れてからは、登山は諦めなければならないかと思っていました。 

来年には、テント泊での縦走登山ができるように、今は、低山登山を中心に山頂の眺めとラーメンを楽しみにのんびり登山をしています。それでも急な登りが続くときつく、へばりそうになります。一歩一歩と呼吸を整えつつ、汗だくになりながら登っています。山頂につく頃には、汗びっしょりになります。天気が良ければシャツを脱ぎ絞ります。なんでこんなに汗をかくのだろうかと思うほど汗っかきです。主が創造されたこの素晴らしい富山の自然に感謝しつつ、日々を楽しく過ごしています。

                               島田 茂兄

2021.11.7 牧師室便り

 ~ 愛する者に眠りをくださる主 ~

神の家族の執り成しに支えられ、無事富山に戻ることができました。余命1年と言われていた母は、死の宣告から1年2ヶ月が経っており、主に召される日を待ち望みながら礼拝者としての日々を過ごしています。私は、母との最後の触れ合いになると思い、同じ部屋で寝泊まりしながら介護をすることになりました。毎日、母の人生への感謝を告げ、思い出を語り合うことは親子にとって何よりの慰めでした。そうする中で、最も辛かったのは、夜中に痛みのゆえに何度も起こされてしまう母の姿でした。母の呻き声が聞こえる度に私も一緒に起こされましたね。母の痛みと苦しみの程度を知らないわけですし代わって上げることもできなかったためただ神に祈り続けるしかありませんでした。「父なる神様、あなたは愛する者に眠りをお与えになるお方ですから、母がゆっくり眠れるように深い眠りを与えてください」と。

振り返ると、母には感謝の言葉しか語ることができません。教会に通えるようになったのも、賛美が好きになったのも、聖書を読む習慣が身についたのも、貧しさの中で幸せを味わえたのも、日本に来るようになったのも、…すべてが母を通して得られた恵みでした。感謝!感謝!

先週の水曜日、富山に戻ってからやったことのほとんどは寝不足で疲れている体のために時間が許される限り寝ることに専念することでした。そうすることでようやく体調を戻すことができました。それほど眠ることは創造者なる神が愛する者に与える素晴らしいプレゼントなのです。

愛する神の家族の皆さん、ぜひ眠りにつく時には「愛する者に眠りを与えてくださる」主に祈りましょうね。そして皆さんの周りの大切な人が、また病床の方々が、御手の中で平安な眠りにつけるように執り成しましょう。願わくは、すべての人がやがて地上における歩みを終えて眠りにつき、永遠の神の国で目覚める幸いをいただけるようにと伝道に励むことを心がけながら日々を過ごしましょう。シャローム!


2021.11.7 本日の証し

 『 空間を超えて広がる神様の働き 』

                               ヘブライ人への手紙4:12

遠いところから毎週zoomで礼拝に参加できる恵みを感謝しています。互いの思い、祈り合う心というものは空間を超えるものだと感じています。

コロナで息子たちともなかなか会えなくなりましたが、会えなくても思いは伝えられるはずです。皆様のお祈りに支えられ、息子たちは大阪で元気に働いています。感謝です。ただし、「教会なんか行かなくても、死ぬ間際に、『イエス様ごめんなさい』と言えば、神様は何だって赦してくれて、天国に連れて行ってくれるはずだ」と反抗的な息子たちです。いつの日か、イエス様に出会って欲しいと、祈っています。

神様との親しい交わりの日々を過ごすことの素晴らしさを息子たちに知って欲しいと思っていたときに、そのことに打って付けのOpen the Bibleというwebサイトに出会いました。聖書に馴染みがない人を対象として、旧約聖書と新約聖書がイエス様を中心に据えた一貫した一つの物語であること、イエス様にすがらなければならない罪の問題などがわかりやすく説明してある、ガイドです。

これが日本語のサイトだったら、息子たちに紹介するのにと思いました。そして、日本語に訳したらいいんだと、閃いたのです。一つのセッションを訳し終わるたびに、息子たちに送っていました。息子たちからの反応は全くありませんでしたが、神様が息子たちの心に語りかけてくださったと私は信じています。それぞれ落ち着いた生き方を始めたからです。まだまだ課題はありますが、息子たちが教会に行かないのであれば、親である私が神様の言葉を押し売りすれば良いのだと示されました。小泉町教会での礼拝や聖書の学びで示されたことを息子達にメールして伝えたり、週報を送ったりしています。これからも、御言葉の押し売りを続けていきたいと思っています。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く・・・」(ヘブライ人への手紙4;11)とある通り、御言葉には力があります。親が子供に贈ることができる最大の贈りものは、御言葉ではないかと私は思います。そして、Open the Bibleの日本語版が立ち上がりました。https://openthebible.org/ja/

アメリカと日本をzoomで繋いで、作業を進めてきました。神様の働きは空間を超えて広がっていきます。人となかなか会えなくても、神様はそれに代わる方法を備えてくださいます。

私が洗礼を授けていただいた時に、スウェーデン人の牧師先生が、「今、あなたは世界中のクリスチャンの集団の一員となったのですよ。世界中のクリスチャンから助けてもらえますし、世界中のクリスチャンに貢献することができます」と言われました。

田舎に帰って、孤独だと思っていましたが、そうではありませんでした。私には、日本の各地に、そして世界中に友達がいます。助け合えるテクノロジーを神様が与えてくださっています。それを活用して、イエス様を紹介していくことができたらと願っています。

                               K.K.姉


2021.11.7 小さな泉の恵み

 11月の後半から、秋を通り越して真冬の寒さになったかと思えば、夏に逆戻りで暑さが続いた、今日この頃です。体調管理には、気をくばりたいものです。

 最近色々とあって、精神的に参っている状況が続いていた時期もありました。その時、カメラを持ち出し風景を撮影に出かけます。

風景を撮影すると今まで悩みが不思議と消え去ってしまいます。

これは、神様の力なのかな?って、自分に言い聞かせております。

富山に来て5年以上経ちます。富山に来てからの約5年間、自分の身の回りにおいて、様々な困難がありました。その困難の中、手を差し伸べてくださった、全ての方に感謝しています。

まだ、私は未熟な人間です。こういう、私を温かく向かい入れてくださった、閔先生はじめ、教会の方々、神様に感謝します。これからもよろしくお願いたします。

                                N.H.兄

2021.10.24 牧師室便り

~ 善い業を始められた神に委ねる ~

 本日は久しぶりの交換講壇が開かれて大変嬉しく思っています。特に、福井教会の平良憲誠先生を迎えて、初めてのメッセージをいただくことになったことも感謝です。長い間、諸事情により金沢教会と富山小泉町教会の二つの教会だけの交換講壇でしたが、今回から福井教会が加わったことで完全な北陸三教会の地域協働としての交換講壇が始まるわけです。

 福井教会は無牧状態になってから数年間、1人~3人で礼拝を献げつつ、教会復興のための幻を抱き祈り続けて来られたことを知っています。その中でも土肥章造兄の献身的な働きと証しに心打たれながらここ数年間、恵み豊かな交わりをもつことができました。本当に一人の生きた信仰者がもたらす力がいかに素晴らしいものであるかを知らされ

たと実感しています。

そして神は、昨年の春から福井教会に平良先生ご夫妻を遣わしてくださり、新たな歩みを始められました。現役牧師としての定年を終えられた平良先生ご夫妻に、神は新たな奉仕の場所として福井教会を与えられ、先生も快く主の召しに応答されたことでしょう。そして、驚くべきことに、ここ一年で伝道の実が結ばれ、毎週、10人以上の方々が集い喜びに溢れた礼拝を献げているという証しを伺っています。

 今、福井教会は大きな祈りの課題を抱えています。それは、昨年シロアリの被害を受け壊してしまった礼拝堂を新たに建てるということです。そのために、中部地方連合の諸教会の祈りと支援のもと、日本バプテスト連盟の地域・協働プロジェクトを申請し礼拝堂建築のための支援を受けようとしています。しかし、コロナパンデミックによる被害が連盟諸教会にも及んでいることもあって、直ちに連盟からの支援を受けることが難しくなっている現状です。ぜひ、福井教会に善い業を始められた神が、早いうちにその業を成し遂げてくださるようにと心を合わせ祈りましょう。これからの北陸三教会の主にある協力と交わりが豊かな実を結び、主に喜びとなりますように…。シャローム!


2021.10.24 本日の宣教

『主からのチャレンジ 』(エゼキエル書37:1-14)

北陸3教会の交換講壇ということで、本日は、富山小泉町教会でご奉仕させていただくことになり、こういう機会を作ってくださった神様に感謝致します。また、本日の説教のご奉仕をお許しくださった富山小泉町教会の皆様に感謝致します。

私が、この教会を最初に訪れましたのは、30年前です。当時、私が牧師として招かれた山梨の富士吉田伝道所も、その頃は全国拠点開拓伝道所という形でしたので、本多英一郎先生とは天城山荘で、同じ全国拠点開拓伝道所となっている教会同士の集まりがありまして、親しくさせていただきいろいろと教えてもいただいたということもあり、富山を訪れたのでした。閔先生には、初めてお会いしたのは宮田先生の野方教会の牧師就任式のときでした。笑顔の素敵な溌剌とした先生だといった印象です。宮田先生は、神学生時代に私が牧師をしておりました平尾教会に研修神学生として来てくださって、この篤い方は、きっとすばらしい牧師として成長なさるだろうなあと思ったことでした。現在、福井教会は、閔先生、坂上さんをはじめ、富山小泉町教会の皆様には、ほんとうに多くのお支えをいただいておりまして、お礼の申し上げようもございません。先日も、全国支援・地域協働プロジェクトに関して、富山小泉町教会から、応援しますとの力強い意思表明を理事会宛てに提出してくださいまして、ありがとうございました。

さて、今日は、福井教会に神様から今いただいているメッセージを皆様とも分かち合いたいと願いつつ、説教の務めを果たさせていただきます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。この言葉は、預言者エゼキエルが、神様から問われた言葉です。この言葉は、いつの時代であれ、絶望の極みにある人間に与えられる神様からのチャレンジです。神様は、どのようなどん底においても神様を信頼し続けることを人間に求めておられます

                                                       福井キリスト教会  平良憲誠 


2021.10.24 小さな泉の恵み


ある日のディボーションのメッセージでお勧めしてあった『アンドリュー・マーレー』の祈りを読み、改めてとりなしの祈りの大切さ、そしてパワーを感じました。

私が家族、親戚、教会の兄弟姉妹、友達、世界の人々の為に祈る事は当然だと思っています。そして私自身も家族や教会の兄弟姉妹から祈られている。私の認識はそこまででした。でもそれだけではなく更に、世界のどこかで、私の知らない場所で私の為に祈ってくれている誰かがいる、という事に気付かされました。例えば、誰かが「富山に住んでいる人達の事」を祈っているとする。すると祈られたのは「富山に住んでいる私個人」も祈られているという事です。

誰かの為に私がとりなしの祈りをするのと同じように、誰かも私の為にとりなしの祈りをして下さっている。そして、その祈りを全て聞き逃すことなく聞いてくださっている主に感謝します。

今日も何千、何万人の人たちに祈られているというこの素晴らしい内なるパワーを感じて、今後もとりなしの祈りをしていきたいと思います。

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。コロサイ4章2節)」

                                 K.K.Ⅱ姉


2021.10.17 牧師室便り

  ~ いつでも帰って来れる家 ~

 本日の賛美礼拝の中では「N姉の転入会式」が執り行われます。姉妹は、2009年わが教会に転入され恵み豊かな交わりの時を過ごされましたが、ご主人の転勤のため2年後、秋田の方へ旅立たれました。それでも、毎年の夏のファミリーキャンプには休暇を兼ねて参加され、神の家族の交わりを大切にしておられました。そして数年後、再びご主人の転勤で福山へ旅立たれ、その後は現役を引退され故郷の岡山に戻られました。聖書に登場する「旅するイスラエル」のように、神の導きの下で転出と転入を繰り返して来られましたが、すべての歩みの上に主の御手にある守りと祝福があったことを感謝します。

 そして、コロナパンデミックが始まり、対面の礼拝が難しくなってから小泉町教会もZoomによるオンライン中心の体制に変わったことで、遠くにいる方々ともつながれるようになりました。今現在、N姉は火曜楽しい聖書の学び、水曜祈祷会、金曜ディボーションタイム、主日礼拝と4回の礼拝や諸集会に努めて参加しておられますし、ご主人も祈祷会と主日礼拝には欠かさず加わっておられることは何よりの喜びです。まさに、姉妹の御言葉への熱情と恵みにつながりたいという思いに、神がオンラインを通じて答えられたと信じています。これこそ、コロナパンデミックがもたらしてくれた恵みであると言えましょう。

 私は願います。小泉町教会は遠く離れていた方々がいつでも帰ってきて、主にある交わりの中でゆっくりと安息を得、元気を取り戻してから再び旅立つことを応援する共同体となることを。いつも話しているように、人の出会いと別れは神の導きであって、私たちにはどうすることもできませんが、一度神の家族としての親しい交わりを交わしていた方々が、いつでも帰ってきて、違和感なく神の家族として受け入れられ歓迎されることを。

 N姉とご主人と、わが教会との新しい交わりが豊かに祝福され、一つの模範として周りの教会やキリスト者たちに良い影響を与えることができるように祈ります。シャローム!


2021.10.17 本日の宣教

『 イエス、すべての王② 』 (ヨハネの黙示録1:4~8)

ヨハネは、三位一体の神を信じる人々への祝福を祈っています。その祝福の祈りこそ「恵みと平和」でした。

「恵み」とはキリスト教を説明する上で最も大切な概念でありますね。受ける価値のない者を神の子どもとし、その者に送ってくださった素晴らしい贈り物のことです。それを聖書は、罪の奴隷として滅びていくしかなかった私たち人類を愛し憐れまれた神が、罪の代価として神の独り子イエス・キリストを十字架の上で死なせ、贖ってくださった。その神の愛の御業を心から信じ受け入れた人に与えられるプレゼントが恵みなのです。また「平和」こそ、イエス・キリストの十字架によって成し遂げられた御業であって、神との関係においても、また人との関係においても完全に回復されるはずのプレゼントであり、生活に実現できる調和を指します。すなわち、罪によってこの世界から消えてしまっていた真の恵みと平和の福音を告げ知らせることこそキリスト教会の使命なのです。

続けてヨハネは、王の王なるイエス・キリスト、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」に賛美を献げようと声を上げています。実に、罪こそが、罪人なる私たちの人生の根本的問題であり、罪を犯した者は誰でも永遠の死と滅びに落とされてしまうはずでした。その罪と死から私たちを救うために、主イエスは私たちへの愛のゆえに、御自分の血によって罪を洗い、罪から解放してくださったのです。そのため、私たちは王なる主イエスを賛美し礼拝を献げなければならないのです。ここの「罪から解放される」とは、「罪を洗われる」という意味で、主イエスの十字架の血潮は、人が犯すどんな罪も清めることができ、完全なる自由を約束しているのです。

ヨハネはここで、主イエスの血によって罪赦された人は、「神の国の王として、また神の国の祭司として変えられた」と宣言します。これは、主イエスによって救われた者に約束された特権であります。使徒ペトロも同じことを語っています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(Ⅰペトロ2:9)…アーメン、これはいかに素晴らしい約束でしょうか。罪の奴隷の身分から神の国の王とされ、祭司とされる。この偉大なる約束をいただいている者に相応しいことは、「イエス・キリストの栄光と力」をほめたたえることです。

 最後に、神の国の約束をいただいている者たちは「再び来られるイエス・キリスト」を待ち望む生活をすべきであると勧めます。7節の「見よ」という言葉の意味は、これから大切なことを語るので、注意を払ってよく聞きなさい!ということです。すなわち、「雲に乗って再び来られる」イエス・キリストに注意しながら生きることが今私たちに求められることなのです。「雲に乗って来られる」とは、神の栄光と力を帯びて来られるという意味です。すなわち神の栄光と権威と力を帯びて来られる主イエスは、すべての人にあがめられる中で裁きの王として来られるのです。

イエス・キリストは「今おられ、かつておられ、やがて来られる、全能なる神」です。また、「アルファであり、オメガであるお方」です。すべてを始められた主イエスが、再臨の御業を通してすべての終わりを告げ、すべてを完成される。この主イエスの再臨への確かな信仰をもち、試練と苦しみのただ中で揺るがない信仰を全うする神の家族でありますように…。ハレルヤ!


2021.10.17 小さな泉の恵み

  

小泉町教会の神の家族の皆さんと共に礼拝に参加できる恵みを心から感謝しています。

 主人が定年となり、岡山県に戻ってきましたが、田舎故の信仰の闘い、さらに、心に病を抱える兄や年老いた両親・義父母の世話などで、疲れを覚える日々でした。御言葉と祈りを大切にする教会に席を置く必要がありましたし、共に礼拝に出席してくれている主人を信仰へと導いてくださる牧師先生が必要でした。そのような状況の中で、神様の導きを求めて、ずっと祈っていました。

 そして、小泉町教会のオンライン礼拝へと導かれました。コロナのために、できなくなったこともたくさんありますが、この恵には感謝しています。

 イエス様に今後のすべてを委ねて祈っています。日本の田舎の現状をこのまま放っておかれる神様ではないでしょう。やがて神様が御業を成していかれる時に、用いていただきたいと願っています。

 そのためにも、本日、小泉町教会に転入させていただき、御言葉によって信仰を養っていきたいと願っています。遠く離れていても、小泉町教会の神の家族の一員として、イエス様の十字架と復活の福音の証人として歩んでいきたいと思っています。私たちのために祈り、支えてくださり、ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いいたします。

                                                                                              K.K.姉

2021.10.10 牧師室便り

 ~ 永遠につながれている恵み ~

先週、世界規模でfacebook、Instagram、Facebook Messengerなどのsnsサービスが使えなくなるということで大混乱となりました。その中でも、Facebookの利用者は世界人口のほぼ半分の30億人に及ぶそうですね。小泉町教会の神の家族の中でも多くの方が利用しているサービスでもあります。

コロナパンデミックが始まってから、インターネットによる通信がさらに拡大しその影響力は日に日に力を増している状況です。小泉町教会の礼拝や諸集会もfacebookやZoomなどのサービスの恩恵を受けていて、世界各地の方々と同じ時間につながれるようになり、画面を通してですが、顔と顔を確認しつつ励まし合うことは大きな喜びです。

小泉町教会は毎週、facebookに礼拝案内や動画を投稿し、zoomで礼拝のライブ配信を行い、Youtubeには編集した礼拝映像をアップロードしています。これは私たちの教会だけでなく、世界中の多くの教会も同じく活用しています。時間と空間を超えて世界中に発信できることは、現代技術がもたらしてくれたプレゼントと言えましょう。しかし、今回の出来事のように、ある障害が起きて一瞬にすべてが切れてしまうことが続くようになると、私たちは不安に包まれることになるでしょう。実際のところ、自然災害に遭ったり、戦争が起きたりして通信できなくなることも十分あり得る現実です。

それに対して、永遠に繋がれている恵みをいただいている私たちです。世界どこにでもおられ神の民を一つにしてくださる聖霊は、私たちが世界のどこにいても、同じ御心を教え、神の国の希望を与えてくださいます。たとえ私たちが無人島に独り落とされることがあっても、礼拝と祈りによって天と地が、また、世界中の神の民が永遠に繋がれていることを知っています。シャローム!  ・・・「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。・・・二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:18、20」

    


2021.10.10 本日の宣教

 『 イエス、すべての王 』  (ヨハネの黙示録1:4~8)

ヨハネの黙示録はヨハネがパトモス島に捕らわれていた時に見たビジョンを記録した書物です。当時のローマでは世界の支配者であったローマ皇帝が神の子として神格化され、植民地のありとあらゆるところに皇帝の像を立てていました。ローマは軍事力だけでなく、文化的な面においても世界のすべてを変え支配していたのです。

 ですからキリスト教会にとって、紀元1世紀末頃の状況は、ネロ皇帝とその後続く皇帝たちの迫害によって多くのキリスト教会と信徒たちが命を奪われ追放されていった過酷な時代でした。ちょうどその頃、ヨハネも捕らわれパトモス島に監禁されたのです。いつ殺されてもおかしくないような日が続く中、ヨハネは神の国を求めつつ、厳しい絶望の時をくぐり抜けていったわけです。

神の家族の皆さんは、そのような時代背景を念頭に置きながら、ヨハネの黙示録を読まなければなりません。とりわけ、アジアの7つの教会に手紙を送るヨハネがもっていた、信仰の確信を分かち合うことこそ、終末と言われる今を生きる私たちに求められる知恵となるでしょう。これから7つの教会へのメッセージを学ぶ前に、ヨハネがそれらを三位一体の神を賛美することから始めていることに注目しましょう。

まず、ヨハネは父なる神について、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現します。ここで、「おられる」という言葉は、ただ神だけが存在の源であることを表す言葉です。すなわち、この世に存在するすべては、存在の源であり、存在そのものである神によって成っているのだという宣言です。興味深いことに、ヨハネは神の存在を表すのに、時間の順序を変えていることが分かります。普段、時間の流れを語る時、「過去、現在、未来」と表現しますが、ヨハネは「現在、過去、未来」の順にしている。これは、神と神の民の時間は常に現在であることを示しているのです。まさに迫害の時代、希望が見えない時代であるけれども、共におられる神の支配は今も続いていることを表現しているのです。

続けてヨハネは、聖霊なる神を、「玉座の前におられる七つの霊」と表現しています。「七つの霊」とは、聖霊が七つに分かれているという意味ではなく、完全数としての7つ、すなわち、神のうちに満ちておられる完全なる御霊を強調しているのです。その完全なる聖霊に満たされることがキリスト教会と信徒たちが求めるべきことであります。

最後に、すべてのものの王となられる御子イエス・キリストを賛美しています。さらに、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」であると、主イエスが十字架の贖いと復活、再臨の大いなる御業を成し遂げられた王の王であることを宣言します。それに加え、主イエスが血を流されるまで私たちを愛し、罪から解放し、私たちを王とし、神に仕える祭司としてくださったことをほめたたえているのです。

聖書が絶えず、私たちに問いかけます。「あなたの人生の王は誰ですか」と。とりわけ、主の再臨を待ち望む終末を生きるキリスト教会と信徒たちが、主イエスを真の王とし、主が再び来られ完成される神の国を世界中に宣べ伝える生活を第一として生きているのかと問いかけられているのです。まさに一歩先も見えない現実を生きている私たちですが、このような時だからこそ、王なる主イエスを讃美し証し人として信仰を新たにしたいものです。ハレルヤ!


2021.10.10 小さな泉の恵み


9月9日の早朝の散歩中に、我が家のミー助が行方不明になりました。いつも私の横で安心してお腹を上にして寝ていたミー助が、どうして私から逃げ出したのだろうか。毎朝と毎夕に息子と町内を探し回りました。

交通事故では?食事は、水は、と心配で夜も眠れませんでした。

しばらく晴れの日が続いていたのですが、明日から雨になるとの天気予報。

そんな時に、町内の人から猫を見掛けたよと連絡がありました。

早速見掛けた場所で、ミー助と呼んだら、“ミャ―”と鳴いて出て来ました。

ミー助を抱き、「神様ありがとうございます。見捨てないでありがとう」と、胸いっぱいになりました。

閔牧師の祈り、教会の皆様の祈り、本当にありがとうございました。おかげで怪我もなく私の所へ無事に帰ってくれました。

本当にありがとうございます。

神様に感謝しています。

                               N.J.姉

2021.10.3 牧師室便り

 ~ 新しい出発を期待して ~

 長く続いていた緊急事態宣言とまん延防止措置が解除されたことで、私たちの生活にも新しい生活方式が求められると思います。その方式こそ、コロナとの共存(withコロナ)です。いつまでもコロナを恐れ引いてしまうのでなく、ワクチン接種が一定のレベルまで達する中、いよいよ社会的同意としてのコロナとの共存(withコロナ)を始める時が来たと思うからです。すでにアメリカやヨーロッパでは“with コロナ”を実施することでほとんどの生活が元に戻ったような状況です。しかし、あまりにも性急に実施したがために、多くの感染者とかなりの死亡者が出ているのも事実です。いつまでも今の厳しい制限を続けることはできない現状ではありますが、、私たちは本当に安心だと思える時までは徹底したマスク着用と一定の距離を置くなどの生活は続けるべきでしょう。

 小泉町教会も10月から礼拝堂での対面礼拝を再開することになりますが、それと同時に少しでも不安を抱く方や諸事情のある方のためのオンライン礼拝と、2部礼拝(シンプルな礼拝)を継続していきたいと思いますので、互いに“withコロナ“の中でそれぞれに相応しい生き方を大切に身に着けていく神の家族でありますように・・。

 今こそ「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなさい」という御言葉を実行すべき時ではないでしょうか。コロナパンデミックによって私たちの生活のすべてが変わってしまった中、コロナ以前に戻りたいという思いは、新しい出発をするための邪魔になるかもしれませんね。とりわけ、小泉町教会共同体と一人のキリスト者としての新しい革袋を備えるべきであると思います。ぜひ、信仰の目を開き、聖霊の知恵をいただく中で、みんなが力を合わせ、喜んで新しい革袋を作っていきましょうね。主が成されることは時に適って美しく実を結ぶことを期待しつつ。シャローム!

                              

2021.10.3 本日の宣教

『 苦難の中で完成される救い 』 (ヨブ記1:13~22)

この世の誰が、迫ってくる苦難を止めることができましょうか。たとえその人が、世における権力者であっても、金持ちであっても、その人の人生には苦難は必ず訪れるはずです。10月のリビングライフのテキストのヨブ記には、苦難に遭いながら、その苦難をくぐり抜け救いを得たヨブという人が登場します。

ヨブは経済的には「東の国一番の富豪であった」と言われるほどでしたし、家庭においては、「七人の息子と三人の娘」を持っている祝福された人でありました。何よりもヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。(1:1)」人として、神との関係においても、人間関係においても非の打ち所がない人として描かれています。とりわけヨブは、子どもたちを、神の前に聖別された者として育て、子どもたちのためにいけにえを献げながら、彼自身、常に礼拝に生きる素晴らしい信仰者であったことが記されています。そのヨブに対する神の評価を見ましょう。「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(ヨブ1:8)…、これほど神に認められ褒められるほどの義人であったヨブでありました。 

ところが、彼が手にしていた祝福はたったの一日でそのすべてを失くしてしまうことになります。愛する子どもたちを一瞬にして失い、彼の家畜を含むすべての財産も消えてしまい、ヨブ自身も、ひどい皮膚病にかかり、灰の中に座って、体中をかきむしるような悲惨な状況に陥ってしまうのです。まさに、最高に尊い姿から、最低のみすぼらしい存在にまで落とされることを聖書は記します。…さらに、ヨブにとどめを刺すような、妻からの呪いの言葉が聞こえてきます。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(2:9)と。・・・一生涯、神を礼拝し、神の栄光を現すために生きていたヨブであって、その姿を目の当たりにしていた妻にとっては、どうしても納得の行かない理不尽な試練であって、しかも神が沈黙するような状況は受け入れられなかったかもしれません。「神を呪って、死ぬ方がましだ!!!」…この言葉はいかに多くの人が苦しみの中で叫ぶ言葉でしょうか。

キリスト者にとって神が沈黙されるような時こそ本当の苦しみです。神に祈っても、叫び求めても、神からは何も聞こえてこないような状況。そんな中で神を信仰しつづけることに意味があるだろうかと疑問を抱くことも多々あるでしょう。その叫びを私たちは、詩編22編のダビデと十字架上の主イエスの叫びから聞くことができます。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という叫び声を。

しかし、私たちが忘れてはならない事実があります。それは、主イエスが十字架上の苦しみの瞬間、「すべて成し遂げられた。」と宣言されたことです。主イエスにとって、十字架の苦しみの叫びと救いの完成は父なる神を信頼する信仰の中で同時に起きたことでありました。主イエスが、苦しみと痛みの中で叫ばれたその瞬間、神は独り子を捨てたのでなく、主イエスの中であなたと私を救おう!という偉大なる御業を成し遂げられたのです。その通り、今は耐えられない苦しみであり、今は分からない痛みであっても、独り子さえも惜しまず与えられた神への信頼をもって歩み続ける人を、神は必ず、最善の時に適って最善のものを与えられ、祝福されるでしょう。同じように、愛なる神はヨブが苦難に遭うことを許されますが、ただ苦難だけで終わらせる方ではありませんでした。ヨブは耐えられないような苦難のただ中で、罪人としての本当の自分に出会い、神による真の救いと赦しを経験することになり、以前よりはるかに豊かな祝福に与るように変わります。コロナパンデミックの中で苦しんでいる人々への神の約束も同じです。ぜひ、苦難の中で完成していく神の救いの方に目を向ける私たちであるように…。


2021.10.3 小さな泉の恵み

~主が創造されたものは素晴らしい~

結婚当初から続けていた家庭菜園ですが、昨年からは広い畑をレンタルして続けています。

畑は神通川の側にあり、井戸水もとれます。土の中にはミミズも沢山!空には野菜をつまむ鳥たちも多くいます。農薬や除草剤を使わずに野菜を育てているので、草むしりも虫とりも大変です(ハリヨが。笑)先日、落花生を収穫しました。でもこれ、沢山植えた種の1つだけ生き残ったものでした。落花生を日本で育てるのは初めてだったので、カラスの好物だとは想像もせずに植えた所、芽が出た瞬間1つを残し食べられてしまいました。落花生はインドネシア料理に欠かせないものだし、富山で新鮮な落花生は手に入りにくいのでとても悲しかったです。残った一つを大切にし収穫した所、これまた想像していた何倍も土の中で広がっており、沢山の落花生を収穫することが出来ました。神様は私たちに必要な分を残し、それ以外を他の動物に分け与えられたのです。

土仕事をしていると、人間も自然の一部分だと実感します。人間が楽をするために、農薬を使えば自然のバランスは崩れ余計に虫も発生しますし、最終的には健康被害もこうむります。つくづつ主が創造され、よしとされたものは完璧で素晴らしいと感じます。私たち一人一人の存在も含めて。手を高くあげて主を賛美できることに感謝です!

                                  I.A. 姉


2021.9.26 牧師室便り

 ~ 失われた猫を見つけ出すまで… ~

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカによる福音書15:4)

 先日、N姉の飼っていた猫の「みー助ちゃん」が、散歩の途中行方不明になりました。みー助ちゃんを散歩用の車に乗せて散歩していた時、ちょっとした隙間から逃げてしまったそうです。行方不明になってから早速、町中を捜し回り、チラシを作って警察にも、町内会にも知らせて助けを求めましたが見つけることができませんでした。そして一週間の日が経ちました。まさに、子どものように愛情を注いでいた猫ちゃんでしたので、N姉が感じただろう戸惑いと悲しみは大変なものだったでしょう。教会の皆さんにも祈りを要請し、私もN姉の家の周りを探したりもしましたが、何の手がかりもなく時間だけが流れていきました。

 N姉のために祈りながら、聖書の一匹の羊を見失った羊飼いと家出してしまった放蕩息子を待ち続ける父の姿が思い浮かびました。聖書は「見失った一匹の羊を見つけ出すまで探し回らないだろうか」という言葉で、愛と憐みをもって必死に探し回る羊飼いの思いを描いています。そして、ちょうど一週間が経とうとしたある日、N姉から電話が届きました。「先生、みー助を見つけ出しました。隣の町の方から連絡があり、駆けつけていって“みー助”と呼んだら、脇から出てきたのです。」・・・その時のN姉の喜びと歓喜に満ちた声を忘れられません。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:5~6)… 今回の出来事から、改めて「悔い改める一人の罪人」を切に待っておられる父なる神の御心を感じることができたことを感謝します。神の家族の皆さんは周りの見失われた一人についてどんな思いをもって関わっているでしょうか。ぜひ、父なる神の御心を抱きつつ、見つけた喜びを味わいたいものです。


2021.9.26 本日の宣教

『 神を礼拝する喜び 』 (詩編95:1~6)        

インターネットで次のような話を目にしました。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが当時の日本人に次のように問われ困ったというのです。「キリスト教がそんなにありがたい教えなら、なぜ今まで日本に来なかったのか?」「そのありがたい教えを一度も聞くこと無く死んでしまったわれわれの先祖はどうなってしまうのか?」「キリスト教の神様はあまりに無慈悲ではないのか?」。その話は曲解や捏造に近いものなのですが、アップした人はこれらの疑問がキリスト教の矛盾であり弱点であると主張します。私自身もまだ救われていなかった頃にはそんな思いも多少有りました。「知らない」というのはなんと悲しいことでしょう。

以前CSリーダー会で「ケーキが切れない非行少年たち」という本を紹介しました。この本に書かれている内容は誰一人取り残さないと言うSDGsにつながるものであり、 当時の小泉町教会が抱える問題の解決のヒントがあるように思えました。しかし私のプレゼンがあまりに稚拙であったが為に取り合って貰えませんでした。その時ある姉妹が「この本の内容はプロとしてはあまり目新しい物ではない」と言われました。確かにそうなのかもしれません。しかし私のように知らない人が大勢いたからベストセラーになったのです。

私たちは今知っています。救われる前は自分たちが死刑囚であったことを。自らの罪により命を取られてもしかたのない状態でありました。そんな私たちを憐れに思い御子の命という大きな犠牲をはらった上で、私たちには「御子を信じる」という小さなことで死から解放し、「神様を礼拝する者」として下さいました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)」死刑囚という最も低いところから神様に礼拝を捧げ御言葉を受ける身分へと引き上げて下さったのです。奇跡という他ありません。礼拝することをゆるされるということは恐るべきことです。この素晴らしい奇跡を全ての人に知って頂きたいと願います。

先週の火曜日は十五夜で、美しい月を見ることが出来ました。いつもは暗くて何も見えないのに、月の光りに照らされて妖しく幻想的な世界が広がっていました。主イエスは「あなたがたは世の光である(マタイによる福音書5:14a)」と言われました。私たちは月です。自ら光ることは出来ませんが主の光を受けて世を照らします。月夜の美しさを写真に残したいと思いカメラを向けましたが、肉眼では明るく見えるのにカメラには何も写りません。辛うじて月だけを写して主にある兄弟姉妹と離れて暮らす息子にLINEで送りました。「美しい月を見ませんか?」主の創造の業への讚美を込めて。息子から直ちに「ありがとう」の返信が有りました。その時ふと息子の小さかった頃を思い出しました。当時自らに課していたことがあります。それは紙でできた工作の付録がついた雑誌を買った時には必ずその日にその付録を完成させて遊ぶということです。子どもは飽きやすいので付録で遊びたい気持ちは買ったその日がピークです。次の日には必ず目減りします。子どもは夕飯を食べると寝てしまうので時間との戦いです。「お父さん、ありがとう」嬉しそうに遊ぶ子の姿を見るのは大変幸せな時間でした。

マタイによる福音書の七章にあるように私のような愚かで悪い親であっても子どもには良くしたいと思います。まして完全な愛であられる神様はいつでも最善を下さいます。息子からの返信に思わず笑みがこぼれました。私たちがお捧げする礼拝も目には見えない方が喜んで下さるものであると良いですね。「神様。最善をありがとうございます。」 小泉町教会の全ての皆様が主の栄光の光を受けて世を照らすことができますように。天の父なる神様の御名が褒め称えられるために。

                               S.Y.兄


2021.9.26 小さな泉の恵み

 

9月21日は中秋の名月であった。各地で名月の観賞会を催している地区もあるが、コロナのために簡単にしての観賞会である。
我が家から見る月は素晴らしかった。地形上、山の間に出ては、雲にかくれては雲の切れより顔を出しては・・・。本当に情緒がありドラマの様な感じ、自然って素晴らしい限りである。名月と私との会話のようなものでした。そうして心の中では、現在の日本は平和すぎると思いました。
今はコロナで色々と禁止制度がありますが、私は教会にいかなくても、家で主に守られて日々農作業等に従時出来感謝しております。
一年は「コマのように早くまわる」と言いますが、上手に言ったものだと思います。
私は週一回、A新聞に連載されるパズルを秋の夜長に楽しんでおります。高令の私のボケ防止だと思いやっていますが、なかなか解けない時もあります。自分の頭の悪さに痛感しております。これも高令のせいかなあ。
コロナが終息して早く平常の礼拝になることを祈っております。
                             A.M.姉