2021年11月24日水曜日

2021.9.26 本日の宣教

『 神を礼拝する喜び 』 (詩編95:1~6)        

インターネットで次のような話を目にしました。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが当時の日本人に次のように問われ困ったというのです。「キリスト教がそんなにありがたい教えなら、なぜ今まで日本に来なかったのか?」「そのありがたい教えを一度も聞くこと無く死んでしまったわれわれの先祖はどうなってしまうのか?」「キリスト教の神様はあまりに無慈悲ではないのか?」。その話は曲解や捏造に近いものなのですが、アップした人はこれらの疑問がキリスト教の矛盾であり弱点であると主張します。私自身もまだ救われていなかった頃にはそんな思いも多少有りました。「知らない」というのはなんと悲しいことでしょう。

以前CSリーダー会で「ケーキが切れない非行少年たち」という本を紹介しました。この本に書かれている内容は誰一人取り残さないと言うSDGsにつながるものであり、 当時の小泉町教会が抱える問題の解決のヒントがあるように思えました。しかし私のプレゼンがあまりに稚拙であったが為に取り合って貰えませんでした。その時ある姉妹が「この本の内容はプロとしてはあまり目新しい物ではない」と言われました。確かにそうなのかもしれません。しかし私のように知らない人が大勢いたからベストセラーになったのです。

私たちは今知っています。救われる前は自分たちが死刑囚であったことを。自らの罪により命を取られてもしかたのない状態でありました。そんな私たちを憐れに思い御子の命という大きな犠牲をはらった上で、私たちには「御子を信じる」という小さなことで死から解放し、「神様を礼拝する者」として下さいました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)」死刑囚という最も低いところから神様に礼拝を捧げ御言葉を受ける身分へと引き上げて下さったのです。奇跡という他ありません。礼拝することをゆるされるということは恐るべきことです。この素晴らしい奇跡を全ての人に知って頂きたいと願います。

先週の火曜日は十五夜で、美しい月を見ることが出来ました。いつもは暗くて何も見えないのに、月の光りに照らされて妖しく幻想的な世界が広がっていました。主イエスは「あなたがたは世の光である(マタイによる福音書5:14a)」と言われました。私たちは月です。自ら光ることは出来ませんが主の光を受けて世を照らします。月夜の美しさを写真に残したいと思いカメラを向けましたが、肉眼では明るく見えるのにカメラには何も写りません。辛うじて月だけを写して主にある兄弟姉妹と離れて暮らす息子にLINEで送りました。「美しい月を見ませんか?」主の創造の業への讚美を込めて。息子から直ちに「ありがとう」の返信が有りました。その時ふと息子の小さかった頃を思い出しました。当時自らに課していたことがあります。それは紙でできた工作の付録がついた雑誌を買った時には必ずその日にその付録を完成させて遊ぶということです。子どもは飽きやすいので付録で遊びたい気持ちは買ったその日がピークです。次の日には必ず目減りします。子どもは夕飯を食べると寝てしまうので時間との戦いです。「お父さん、ありがとう」嬉しそうに遊ぶ子の姿を見るのは大変幸せな時間でした。

マタイによる福音書の七章にあるように私のような愚かで悪い親であっても子どもには良くしたいと思います。まして完全な愛であられる神様はいつでも最善を下さいます。息子からの返信に思わず笑みがこぼれました。私たちがお捧げする礼拝も目には見えない方が喜んで下さるものであると良いですね。「神様。最善をありがとうございます。」 小泉町教会の全ての皆様が主の栄光の光を受けて世を照らすことができますように。天の父なる神様の御名が褒め称えられるために。

                               S.Y.兄


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