2020年11月29日日曜日

2020.11.29 牧師室便り

 ~ 同じ思い、同じ愛で ~          

 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

(フィリピ2:23

毎年1123日には北陸交流会を行っていましたが、今年は残念なことにコロナの影響で行うことができませんでした。伝道の最も厳しいと言われていた北陸三県に建てられた福井、金沢、富山小泉町の三教会は、日本バプテスト連盟諸教会の祈りと協力伝道の実であると言えましょう。まさに北陸三教会は、建てられた最初の日から今日に至るまで足踏みをそろえ「協力伝道」の素晴らしい歴史を刻んでくることができました。とりわけ2020年、福井教会は平良憲誠牧師を、金沢教会は杉山望牧師を新しく招聘したことで北陸三教会はまったく新たな歩みを始めることになります。ぜひ北陸三教会が、同じ思い、同じ愛で主の喜びを満たすことができますように…。

さて、本日は久しぶりに金沢教会との交換講壇を行います。金沢教会は24年間牧会して来られた敬愛する田口先生が引退され、杉山望先生を新しい牧師として迎えることになりました。杉山先生は西南学院大学神学部を卒業された後、札幌教会で5年間副牧師として仕えられ、今年4月から金沢教会の牧師として着任されました。本日初めて杉山先生からメッセージと主にある交わりをいただくことになります。ぜひ喜びの拍手をもって杉山先生を歓迎しましょう。愛する主が杉山先生を通して金沢教会と北陸地方に新たな風を起こされますように…。

いよいよ本日からアドベントに入ります。今年はコロナで始まりコロナで終わりを迎えるような一年になると思いますが、これからのアドベントの4週間、主イエス・キリストの受肉を通して示された御心を悟る時を過ごしたいと願います。とりわけ最も尊いお方が、最も低く汚いところに下ってこられたクリスマスのメッセージを心に刻みつつ、周りの人々を招くことはできなくとも、私たちの方から暗闇にいる方々を訪ね、光を届ける働きを試みたいと願います。願わくは、北陸三教会のクリスマス諸集会が豊かに祝福されますように…。「天には栄光!地には平和!」 

 

2020.11.29 本日の宣教

 『自分を取り戻す場所』 使徒言行録3章1~10節)

 4月から金沢教会に牧師として着任した杉山望(のぞむ)と申します。新型コロナウイルスのためにご挨拶が遅くなってしまいましたが、富山小泉町教会で共に礼拝を献げることを心待ちにしておりました。今日、この日を導いてくださった主に感謝します。私は札幌バプテスト教会で5年間、副牧師として働いておりました。道内の教会はとても繋がりが強く、良い交わりが与えられました。北陸でも三教会が良い交わりをもってこられたとうかがっており、私もその中へ加えていただくことを楽しみにしてきました。

 コロナは人の繋がりを制限してきました。ただ現代はそれ以前から、様々な人の繋がりが急激に変化してきた時代でもありました。特に日本社会は「無縁社会」とも呼ばれ、人の繋がりが弱まり、居場所を失う人も世代を超えて増えています。太田明という方が、居場所には二種類あると言っています。その一つは「社会的居場所」であり、他の人たちによって自分が必要とされていることを実感できる場所です。会社や学校、あるいは家庭や様々なグループなど、自分の役割があり、それが認められている場が社会的居場所となります。そしてもう一つは「人間的居場所」であり、「自分を取り戻すことができる場、庇護的な扱いを受けて安心できる場」です。社会的居場所は変わったり、無くなったりすることもあります。それでも、人間的居場所があれば、人はそこで慰められ、励まされて、新たな歩みを踏み出すことができます。しかし、人間的居場所を失っていると、社会的居場所も失いやすいという負の連鎖が生じます。無縁社会の中で特に重要なのは、安心して自分を取り戻すことができる人間的居場所なのでしょう。

 主イエスの召天後、弟子のペトロとヨハネは神殿の門で足の不自由な男性に出会います。施しをもらうことを期待して二人を見たこの男性に向かって、ペトロはこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)ペトロが彼の手を取って引き上げると、彼は足がしっかりして、躍り上がるように歩き出しました。教会が置かれた世界は、人の繋がりを失い、神から離れる罪の力が働く世界です。その中で教会はこの世の力を持ってはいません。教会に託されたのはイエス・キリストの名だけですが、その名は人を躍り上がるように立ち上がらせる力を持っています。

 足が不自由だった男性にとって、神殿の門は社会的居場所だったのかもしれません。毎日、物のように運ばれてきて、わずかな金銭を施してもらう。その繰り返しが彼の生活でした。しかしこの日、彼はイエスの名によって立ち上がり、自分の足で神殿の境内へと入っていきました。そのとき、神殿は彼にとって人間的居場所となりました。彼は神の前で安心して主を讃美しました。神からの祝福を受け取れるようになり、神に創られ、愛された自分を取り戻したのです。キリストの体である教会は、金や銀のようなこの世での力を持つことはできませんが、共に神の祝福を受け、共に讃美し、神の愛を分かち合い、喜び合うことで、自分を取り戻す場となるのです。

                                   金沢キリスト教会 杉山 望牧師

2020.11.22 牧師室便り

 ~ 互いに同じ思いを抱かせる主に感謝! ~          

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」 (エフェソ123

新型コロナウイルスによる影響で礼拝を二部制にしてからもう8ヶ月が経とうとしています。予想外に長引いてしまったコロナの影響でなかなか本来の礼拝に戻れなくなっていたため、近頃いろんな方から“そろそろ一部と二部の礼拝を一緒にしてもいいのではないか”という声がありました。一部と二部に分かれて礼拝しているため、交われなくなった方々の顔も見たいし、とりわけ二部礼拝に集う方々の数が少ないため、二つを合わせても防疫するのにそれほどの支障はないだろうという前向きな姿勢を表してくださったのです。   

皆さんの大切なご意見を伺った以上、神の家族全員に声をかけるべきであると思い、先週の礼拝出席者を対象にアンケートを取ることになったわけです。そしてアンケートの結果、2/3の方が、今のままの二部制で礼拝を執り行ってほしいとの意見を出してくださいました。お一人お一人のご意見を心から感謝します。中には一緒に礼拝してほしいと意見をもっていたけれど、コロナが猛烈なスピードで再拡大することによって諦めてしまわれた方もいるでしょう。

バプテスト教会のあり方の一つとして、「民主的な教会運営」という立場に立っています。ただし、今回のような人の命と安全にかかわるようなことやキリスト者の福音に触れるようなことを決める時には、ただ多数決で決めるようなことはふさわしくないと思っています。時には多数決より一人の人の意見が大切な時もあるはずです。常に私たちが大切に立つべきところこそ、「イエス様が望まれることなのか否か、聖書は何と語っているのか」ということでしょう。    

いずれにせよ、神の家族お一人お一人の大切なご意見が大事にされ、また話し合いと祈りの中で一致した教会の歩みを探し出すということは主イエスが望まれる素晴らしい教会の姿でしょう。いよいよクリスマスの季節がやってきます。もちろん、コロナとの共存の中で執り行う諸行事になると思います。そのため、例年のようにチラシを作って、周りの方々を誘うことをやめ、内輪だけのクリスマスになると思います。少し寂しくなるとは思いますが、お一人お一人の信仰を原点に戻し、神が人となり私たちのうちに宿られた感動を蘇らせる時としたいものです。ハレルヤ!

2020.11.22 本日の宣教

 主がその手をとらえていてくださる』                  コリントの信徒への手紙Ⅱ 12910  詩編372324)

 コロナによる緊急事態宣言で、学校や色々な機関や教会も閉じられ、世間の多くの人々が不要不急の外出を控えるようになった3か月ほどの間、一人暮らしで無職の私は、自分の時間が格段に増えたという変な解放感から、じっくりと聖書を読み、熱心に祈るのではなく、新しいことを始めたり、色々な楽しい事に熱中したり、自分のしたいことを優先し、世の誘惑に負けっぱなしでした。ですから当然、毎日の祈りやディボーションはおろそかになりました。そんな私は、今の自分は神様の目にはどのように映っているだろうかと思いつつ、改めることなく同じような生活は続いていました。その結果、突然私に一つの試練が与えられました。それは、順調だった右の股関節が急速に悪くなり、127日に人工関節に置き換える手術をするという現実です。全身麻酔をするような大きな手術は今回10回目になり、さすがにへこみました。

 それと同時にコロナ以降、今まで経験のないことが次々と起きている世の中で、私の心にコロナ禍の不安とは違う、漠然とした不安な気持ちがが、ほぼ毎日のどこかのタイミングで顕れるようになりました。勿論、激しい痛みや手術という試練を与えられたことの不安もあるでしょうが、それよりももっと心の奥の方で感じる自分がしっかりと立っていないような不安です。その感覚は以前に何度も感じたことで、「あ~この得体のしれないような不安感は神様から離れているから起きたことだ」と気が付きました。いえ、本当は気が付いていたのに、日常の優先事項の中に埋もれさせて見ないようにしていたのでしょう。でも心は正直です。その気持ちと罪の意識が不安となって表れたのです。

 私達クリスチャンのアイデンティティ(クリスチャンとしての本質・自己同一性)は、イエス様を信じ、イエス様を自分の中心に置いて生きること、イエスキリストの十字架の贖いと蘇りの恵みと希望に感謝して生きるということだと思います。「イン・クライスト、キリストにあって」の言葉のようにイエス様を離れては肉体として生きてはいても、魂は死んだと等しいのだと思います。そして、今回のことを通して、主はこのような情けない私を決して見放さず、とげを与えることによってブドウの木から離れて、死んでしまう枝ではなく、生きた枝として主に立ち返る機会を与えてくださったのです。神はご愛のお方です。

 振り返ると、私は何度も試練を与えられています。そしてそれは、主がご愛をもって私のような小さな者にも、日々気づかされ立ち返るチャンスを下さっているのだと思っています。主の大きなご愛と恵みに感謝します。

願わくは、何度もチャンスを下さっている神様が、これ以上悲しい思いをされないように、そして、お願いの祈りばかりするのではなく、自分ではできないことでも聖霊様のお力を頂いて祈り、神様に喜ばれる自分になれる日が来ますように。

最後に、今回のことで、また両方の手に握りしめることになった私の大切な聖句を記します。

「すると、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われましただから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(中略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。  (コリント信徒への手紙Ⅱ12:9-10 一部抜粋)」

「主は人の一歩一歩を定め、み旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない、主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:23-24)」 アーメン。     
                                              S. Y執事          

2020.11.15 牧師室便り

  ~ 子どもたちの信仰告白を喜ぶ ~

 先週の礼拝では久しぶりに主の晩餐式を執り行いました。コロナが始まってから中止していた配餐を再開することを決め、コロナ時代においてみんなが参与できる主の晩餐式を工夫し執り行うことができたのです。10ヶ月ぶりに主の晩餐に加わった皆さんの喜姿を見ながら心から感謝せざるを得ませんでした。

 そんな中、私にとって特別な感動を与えてくれたのが、小学生以下の子どもたちも主の晩餐に加わったことでした。今は大人の礼拝と子ども礼拝を分けて献げているため、子どもたちが主の晩餐を経験することはできませんでしたが、今年のクリスマス礼拝の時にバプテスマを予定している娘を主の晩餐の恵みに与らせ、また他の子どもたちにも良き刺激を与えるために全員参加させることにしたわけです。

 まず、主の晩餐の意味を説明し、配餐をする前に子どもたちにイエス・キリストの十字架の愛の御業が自分自身のためであることを信じる人がいるかを聞いたところ、陸央くんが控えめではありましたが、小さく手を挙げ自分の信仰を公に表し、“自分も主の晩餐に与りたい”という意思を示してくれました。その陸央くんの信仰告白と姿に第二礼拝に集ったみんなは大きな喜びと感動を覚えましたね。もちろん、ご両親の方の喜びは比べられないものであったと思います。おそらく、陸央くんの目に映っていたご両親の日々の信仰姿勢と信仰告白に影響を受け、自然と信仰が芽生えたことでしょう。彼の心に信仰を与え、また信仰を表す勇気を与えられた聖霊を讃美します。

 そうです。大人は子どもたちの信仰を大人の立場で判断し、信仰を表す場をなかなか与えない流れがあることも事実でしょう。しかし、ここで私たちが立ち止まって耳を傾けなければならない御言葉があります。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ183…   子どもたちの信仰がますます祝福され、大胆に主イエスへの信仰を表し救われる恵みを期待しつつ。シャローム!

2020.11.15 本日の宣教

   『 主イエスの喜びであるあなたへ 』フィリピの信徒への手紙41)

今世界を覆っている暗闇があります。人間の尊厳が価値なきものとされ、生きる意味を失ったまま死に向かうという流れが人々を捕らえています。とりわけコロナによる社会封鎖や関係の断絶、また経済的困窮によって、自分の存在の尊厳を奪われ、自ら命を絶ってしまう人が後を絶たない日本社会の現実です。ニュースを見ると、先月自殺した人が去年の同じ時期より39.9%増加したそうです。日本社会を覆っている暗闇の力をどうすればいいでしょうか。どうすれば人々の心を暗闇ではなく光に、死ではなく命に満たすことができるでしょうか。

本日与えられたフィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙として知られています。この手紙には「喜び」という言葉が際立っています。しかし、パウロがこの喜びの手紙を書いていた場所は、たくさんの本が置かれた書斎でもなければ、安楽な椅子に座っての余裕のある生活の中でもありません。手紙を書いた場所はローマの牢でした。この世の価値観からすれば、暗闇であって、失望すべき場所でしょう。しかしパウロは牢という絶望の環境を喜びに変え、祝福の場所に変えることができたのです。パウロは殺されることもあり得る状況の中で、「喜びの書簡」とされている「フィリピの信徒への手紙」を書いたわけです。

パウロは同手紙129で次のように告白しています。“つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(129)”・・・私たちはここでキリスト者の信仰では、救われた恵みを受けているだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているという驚くべき事実を教えられ、パウロの喜びの源がどこにあるかを知ります。

それでは、パウロがこれほどまで喜ぶことができた理由はどこにあったのでしょうか。そのことをパウロは、フィリピ教会の信徒たちのゆえ、そしてフィリピ教会の信徒たちに蒔かれた福音の種をキリスト・イエスの日に完成してくださる真実な神への確信のゆえであると告白します。とりわけその喜びは「主によって」味わうことができ、実現できるものであると言います。すなわち、真の喜びは人が作り出すものではなく、イエス・キリストとの交わりによって得られる恵みであることを忘れてはなりません。・・・「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(41

本日は子ども祝福式です。本日の御言葉の主語をパウロでなく主イエスに替えて読むことで私たちが抱くべきキリスト者のアイデンティティーを確認することができるでしょう。また、小泉町教会の子どもたちにも同じくしっかりと心に刻んでほしいと願っています。まず、自分自身が主イエスに愛され慕われている存在であること、そして主イエスに喜びとされ、冠とされていることです。そして何より、各自が日々の生活の基準を「主によってしっかり立つ」ことにあると心がけて歩むことでしょう。さらに、暗闇の中で自分の存在の尊厳を失っている隣人に神の愛とその存在の尊さを伝え、真の喜びの光をプレゼントできるような人に成長することを執り成していきましょう。ハレルヤ!

2020.11.15 小さな泉の恵み

 

南砺市の南部、城端、福光地区の干し柿農家では、干し柿作りの繁忙期です。わが愛するW農園でも干し柿作りの三年目です。この時期だけお手伝い頂く7名の高齢者と共に1日に三千個の柿を吊るしています。社員は私一人なので、皆が働き易い環境をつくるよう心掛けています。

干し柿作りはいまのところ順調で、生の柿の売れ行きも好調です。どんなに忙しくても日曜日には快く礼拝に送り出してくれ、教会の為にと野菜を持たせてくれる社長と農園を主が覚え酬いて下さっているのを感じます。

「あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべてあなたによって祝福に入る。(創世記12:3)」祝福の源なる小泉町キリスト教会に集う全ての皆様と大切な方々の上に主の豊かな恵みがありますように。主の栄光が永遠にありますように。

                                      S. Y兄

2020.11.8 牧師室便り

 ~ コロナと共存するために ~ 

 2週間に及んだ自主隔離がやっと終わりました。その間、できるだけ人と接することを避けるために平日は教会の牧師室と2階の部屋で、主日は牧師館の使っていない物置の部屋で過ごしました。食事も一人でしました。もちろん、体の健康状態はいつよりも良く保てていましたし、心情的には神の家族を訪ねたい思いでいっぱいでしたが、国が定めた法律でしたので、感謝しつつ2週間の時を一人で楽しむことができました。

 教会という同じ場所にいながらも、礼拝に出席できないということは自分にとってとても不思議な経験でしたね。礼拝堂から聞こえてくる皆さんの歌声を聴きながら、一緒に声を合わせ賛美し一人だけの礼拝をささげました。何より、坂上兄、浅野姉の二人の執事の証し宣教を聞けたことが大変嬉しかったし感動を受けました。これぞ、宗教改革精神であって、御言葉に生きる実践としての信徒説教者を立てていくという教会本来の使命であることを再三確かめることができました。ぜひ、神の家族お一人お一人も証し礼拝を通して各自が体験した恵み、また確信している信仰を公に語ることを積極的にしていきたいですね。

 さて、コロナによってほぼ一年間、わたしたちは多くのことを中止せざるを得ませんでした。主の晩餐式も、礼拝後の教会学校も、昼食も、聖書の学びも、英語・中国語礼拝も・・・。これから寒くなるにつれ、なおさら難しくなるのでは?という意見も聞かれます。しかし、これでいいだろうか。世間ではGO TOトラベル、GO TOイートなど、どんどんと新しい政策を打ち出し、社会全体もそれに応答しようとしているのに・・・。私は牧師として常に祈りと決断の場に立たされてきましたし、その度ごとに選択をして歩んできました。とりわけ「コロナとの共存」が課題とされている今、いつまでもコロナを恐れ何も行わないのであれば、それが信仰的だろうか、主イエスが望まれるのは何であろうかと問いかけられています。神の家族の皆さんはいかがでしょうか。今のままでいいでしょうか。「コロナとの共存」への具体的な歩みを始めるために主の御心と知恵、勇気をいただきたいものです。シャローム!

2020.11.8 本日の宣教

 『 誰が、何を言おうとも 』 (ガラテヤ614) 

 コロナでコロナがいつ終わるかも分からず、人々はコロナワクチンが早く開発され世界が以前の生活に戻るようにと願っています。しかし、そのような願いとは裏腹にコロナは爆発的に拡がり、世界各地で再び、都市封鎖(ロックダウン)が実施されるほど混乱を極めています。今こそ、コロナという未曾有の試練を前にして世界中が一致して戦っても乗り越えられるか否か分からないのに、欧米諸国はじめ世界の国々は葛藤と分裂に走り続け、宗教戦争、ナショナリズム、快楽主義、個人主義など人間の罪の本性が爆発的に噴き出されていることを目の当たりにしています。
 さらに先日、アメリカで行われた大統領選挙は今まで経験したことのない方向へと進もうとしています。実質的世界のリーダーとして、またキリスト教精神に立ち、民主主義と資本主義の中心としての役割を担っていたアメリカが跡形もなく消えてしまいそうな気がしてなりません。どこを見てもキリスト教精神は見出せず、ただあらゆる欲望、差別、分裂、道徳的堕落などに支配されている国にしか見えません。そこにキリスト教精神は生きているでしょうか。
 このような世界において、キリスト者はどう生きるべきでしょうか。どこから希望を見出すことができましょうか。いろいろと頭を働かせますが、行き着くところはやっぱり「イエス・キリストの十字架」しかありませんでした。「十字架の信仰を貫く」ことで唯一の希望を見出せるのがキリスト者であり、十字架の上に立つことで真の平和と和解が実現できる世界へと変えられるのです。また、その十字架の愛と平和のメッセージを伝えることこそ「宣教」であって、教会は「十字架の福音」を宣べ伝えることを最優先にしていかなければならないのです。しかし、現実はどうだろうか。
 使徒パウロの言葉に耳を傾けましょう。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント118「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(同2:2)「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ614)…
 なるほど、今わたしたちに求められるのは、「十字架の言葉、十字架につけられたキリスト」にのみ希望を置き、十字架に私たちの生き方を合わせることです。世界のキリスト教会と一人一人のキリスト者が十字架をアクセサリとするのでなく、十字架の証人として、主イエスが十字架の上で流された血潮をキリスト者の生活の中で流すことです。日々、主イエスの十字架にすがり、十字架から目を逸らさないで生きる決心をするキリスト者、誰が、何を言おうとも、十字架だけを愛し十字架だけを誇る人として立ちますように…。ハレルヤ!

2020.11.1 牧師室便り

 ~ 今こそ、隣人の命を守るとき ~          

  全世界が実質的なコロナ第二波に襲われ、連日感染者数最多を更新していて、欧米諸国は再びロックダウン(都市封鎖)を実施せざるを得なくなってきました。やはり奇遇していた通り、冬が近づき寒くなるに連れ、感染者の数が爆発的に増えています。とりわけ欧米諸国の増加ぶりを見ると恐ろしくなるほどです。そんな中、未だにマスクを着用するしないの問題で、もめている欧米を中心とした人々の論争や破壊的な行動を目の当たりにしながら、人間の傲慢と愚かさがもたらす結果がいかに悲惨であるかを知らされています。そういう面から、日本、韓国、中国、台湾など、コロナを抑制している各国の政策については触れなくても、“まずマスクさえすれば、コロナの拡がりを防げるのだ!”という共通した認識をもっていることを、厳しい第二波に覆われている欧米の人々は考え直さなければならないでしょう。
 
 先日、英国の研究チームの結果で分かったこととして、「新型コロナウイルス感染症の完治後、その後遺症として“脳霧”現象で知能力低下を起こし、知能指数(IQ)が最大8.5下落して脳が最大10年老化する」という内容が発表されました。何より恐ろしいのは、これらの現象が高齢者だけに現れるのでなく、全年齢に及ぶということです。すなわち、目に見える表面的な変化は少ないかもしれないが、目に見えない内側に大きなダメージを受けるということでした。

 先週、アメリカのプロ野球(MLB)で優勝したチームの選手が喜びのあまり、コロナに感染したにもかかわらず、マスクもせず、人々と口づけをし、チームの輪に入って歓声をあげていたことでマスコミから厳しく叩かれていたニュースを見ました。確かに運動選手だし、一般の人と比べて免疫力も強く、すぐ回復するかもしれません。しかし、彼の不注意で身近な人がコロナに感染し亡くなったり、後遺症で苦しむことがあったりするなら、誰が責任を負うことになるでしょうか。
 
 「生命」より大切なものはあるでしょうか。欧米の人々はじめ世界中の人が、ゆるくなっていた認識の帯を締め直し、隣人の命を守ることを心がける時、主イエスが言われた隣人愛の実践こそコロナから隣人を守ることなのです。シャローム!

2020.11.1 本日の宣教

 『 私の抱く希望  』Ⅰペトロの手紙315

 先日、閔牧師より、証しをなさってみませんか?というお話を頂いた時、私の中に2つの気持ちが同時に湧き起こってきました。1つは、60周年記念礼拝で触れた先人達の福音伝道への熱い想いに倣い、自分も救いの素晴らしさを伝えたいという気持ち。そしてもう1つは、果たして自分は語るべき言葉を、きちんと準備できているのだろうか、という不安な気持ちです。

 私にはバプテスマ以来、ずっと心に引っかかっている御言葉があります。それは「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。Ⅰペトロ3:15後半」という御言葉です。

 私は、200210月にバプテスマを受けて以来18年間クリスチャンとして歩んできました。家族、親戚、友人知人に至るまで周囲にクリスチャンは殆どおらず、この18年間のほぼ全ての時間をノンクリスチャンの人々の中で過ごしてきました。このことは見方を変えると、18年間、生活の全ての場面で福音伝道の機会が与えられていた、ということになります。では、その機会を正しく用いてきたのか?と尋ねられれば、うなだれるより他ありません。周囲の人々に御言葉を書き送ったり、聖書の内容を部分的に説明したり、相手のために祈ったりしたことはありますが、信仰により与えられた希望について、明確な言葉で語ったことはなかったように思います。その理由について考えていく中で、改めて今回の御言葉が心に迫ってきました。そしてその時、私にはその希望について説明するための準備が整っていないことがはっきりと分かりました。私は、救いの恵みにあずかりながらも、自分1人でその喜びを握りしめ、周囲の人々に分け与えるための努力を怠ってきました。

 それは、なぜか?また心の奥を探っていくと、恐れの感情に突き当たりました。私は心の中で、救いの喜びという宝の上に、クリスチャンとして生きる中で生じた苦悩をレンガのように高く積み上げてしまっていたのです。これでは周囲の人々は、私から希望はおろか喜びすら感じることができません。このことに気づいた私は愕然としながらも、このレンガを取り除いてくれる御言葉を祈り求めました。祈りつつ読み進むと、同じⅠペトロの御言葉の中から、たくさんの祝福を受け取ることができました。本日は、その1部分を皆さまと分かち合っていけたらと願っております。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れす、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。1:3後半〜5」そうです。私達は恵みにより、イエス・キリストを通して永遠の命を与えられています!そして困難があっても、神の力により、信仰によって守られると、力強く励ましてくださいます。また、試練の時の慰めも備えていてくださいます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。2:19,20後半〜21」私達が、キリストのゆえに苦しむ時には、さらに豊かに神の霊が働いてくださるとも約束してくださっています。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。4:1314

 私は、神の恵みにより、キリストの十字架の贖いを通して永遠の命を与えられたこと、地上の幕屋である肉体を脱ぎ捨て栄光の主と再会するその日まで、主が守り導いてくださることを信じます。これが、私の抱いている希望です。アーメン。

                                         A. T執事

2020.10.25 牧師室便り

 ~ 絶対忘れてはならないこと ~          

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ117)

 先週は、我ら富山小泉町キリスト教会の宣教60周年を記念するひと時を過ごしました。映像を通して、また本多先生の宣教を通して60年にわたる教会の歩みを確かめ、深い恵みをいただくことができました。60年前、藤田先生に富山伝道のビジョンが与えられて以来、10人の牧師と多くの信徒たちの涙と汗、命をかけた献身があって今日の祝福に至ったことを感謝し、心から賛美いたします。

 実は、先週の記念礼拝を終えてから、私は、突然天に召された父に会って別れを告げるために3泊4日の日程で韓国に行ってまいりました。19日の夜に仁川空港に着き、PCR検査を受け、夜通しに結果を待たされ、ようやく陰性の結果を受けて空港を出ることができました。翌日の朝6時でした。その後、保健所職員に付き添われバスに乗り、次に韓国の新幹線に乗り換え、迎えにきた兄に渡されるまで、ピリピリとした緊張感漂う時を過ごしました。そこから早速、日本再入国のために必要なコロナ陰性証明書を出してもらうため、別の病院で2度目のPCR検査を受け、やっとのことで兄の車に乗り、母のいる町へ向かって走ることができました。4時間に及ぶ途上で、兄と一緒に父の人生を振り返りながら、笑ったり、泣いたり、沈黙したりを繰り返していたら目的地に着きました。愛する夫を天に送った母を慰めるため、社会的距離を置きながら一泊をし、次の日朝早く父の遺骨が納められている山奥のお墓へ向かいました。父の遺骨の前でしばらく静まり、祈る時をもちました。…それから病院からコロナ陰性証明書をもらい、慌ただしい再入国の準備を終え、仁川空港へ。2時間半の飛行から成田に到着、またもや慌ただしい再入国のための細かい手続きと3度目のコロナ検査と結果待ち。そしてようやく荷物を手にし、後輩の車に乗り、富山へ向かうことができました。まさにある姉妹が言われたように「弾丸帰省」の34日でした。そんな中、頭をよぎる思い、「あぁ、もし天国に行くためにこんな手続きが必要だとしたら誰が行こうとするだろうか。…本当に良かった!“正しい者は信仰によって生きるんだから!”」…宗教改革記念日を迎えながら、信仰によってただで与えられた救いの恵みにホッとする自分がいました。シャローム!

 

2020.10.25 本日の宣教

 『 私が神様から頂いたもの 』イザヤ書434節)

十年ほど前に大ヒットした「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という小説で有名になったPF・ドラッカーが50歳前後で転職する事を奨めています。30年近く同じ仕事を続けると興味や意欲が低下すると説いています。私は図らずも50歳を過ぎて菓子製造業から農業へ転職しました。農業は実に興味深く、神様からの恵みに満ちています。そこで日頃、神様から頂いていると感じているものを思い付くままお話ししたいと思います。

農業は当然屋外の仕事が殆どです。今年はとても暑い夏でしたが、田んぼの中は思いのほか快適です。風がそよぐと暑さを忘れます。時々賛美歌が頭の中に鳴り響き、聖霊様に懐かれているようです。又、季節や時刻によって様々な色を見せる田園風景はとても美しく、今までに最も美しいと思ったのは、田植えが終わった後の田んぼの水面に映った薄い緑色に輝く景色で、思わず声を失いました。カメラで撮っても残せない神様から私へのプレゼントと感じました。作物は種や苗からあっという間に、大きく育ち神様の創造の業と恵みを覚えます。創世記3章に罪の裁きとして土を耕すことを命じられますが、文字通り体感しています。

私が神様から頂いたもので最も価値の有るものは「命」です。一般的にいう寿命が尽きたら死ぬという動物としての命ではなく、罪の為に神様から離れて死んでいた私の身代りとなって十字架にかかり、葬られ、三日目に甦り今も生きて執成していてくださる主イエスの故に頂いた「永遠の命」のことです。これは何物にも優ります。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったらなんの得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。マタイ16:26」私は自分が愚かで価値の無いものであることを自覚しています。しかし神様は私を価値有るものとして赦し、愛し、命有るものとして下さいました。それと同時に周りに多くの愛すべき方々を置き、福音を伝える働きを与えて下さいます。

先週は本多英一郎牧師をお迎えして宣教60周年記念礼拝を持ち、大いに恵みを得ました。60年というのは人間なら還暦で暦が一巡して赤ちゃんに戻るという意味が有ります。小泉町教会が原点の志に燃え、一人でも多くの方に福音が伝えられ救われるように願います。

                       S. Y 執事

2020.10.25 小さな泉の恵み

~ただ一つ残るのは~

「何もかも、信仰すら失ったとき、人には何が残るのか」...8年ほど前、ある兄弟が発した問いです。「信仰すら」というのが難問で、以後もときどき思い出してはいたのですが、この前ルカ15章のあの「放蕩息子のたとえ」を考える機会に恵まれて、パーッと来るものがありました。

 父親からもらった財産を使い果たし、友も失い、息子としての「資格」も失った弟息子ですが、それでもあの父親の息子として生まれた「関係」だけは残っていたのです。それは、息子が一方的に与えられたもの。しかし、放蕩でも、飢饉でも決して消えないもの。

 「そうだ、家に帰ろう!」...惨めな体たらくで、その「関係」だけを握りしめ、家路へ走る弟息子の姿が、脳裏にパーッと輝きました。行け行け!おまえに残されたたった一つのソレをどんなんでも使って、とにかく生きろ、放蕩息子!

 今度、あの兄弟に会ったら、答えることができそうです。「残るのは、神が私を作られたという、その関係です」

                       S. M姉

   

2020.10.18 牧師室便り

  ~ 信仰の証人たちを思う ~          

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」

(ヘブライ121

 先週土曜日(10日)の夜、韓国の父が召天したとの連絡が届きました。実は9日から危篤という知らせをもらっていて、その日の朝には、映像で父と目と目を合わせることで地上における最後の挨拶を交わすことができました。享年88歳、北朝鮮出身で南北戦争の時、南の方に避難し、すぐさま兵士として戦争にも参加し、紆余曲折のある人生ではありましたが、最後まで誠実を尽くして歩み続けた父の人生でした。4人の子どもに恵まれ、人生の後半には母に導かれイエス様を信じてクリスチャンとして幸いな日々を過ごすことができました。病の中にあったため、臨終を共にすることができなかった母でしたが、“主よ、感謝します”と賛美をもって父を天に送ることができました。


本日は待ちに待った宣教60周年、教会組織20周年記念礼拝を神の家族と共に献げることができ、心より感謝いたします。先週は父の死のこともあって、私が小泉町教会に赴任してから天に凱旋された教会員の方々のことが頭に浮かんできました。“Y兄、M兄、N兄”の三兄弟です。それぞれ、小泉町教会の歴史において特別な存在として刻まれている兄弟たちです。まず一人は、重い障害を抱えながらも生きた礼拝者の模範を示され、もう一人は、極めて重い罪を犯したが、赦された罪人として生まれ変わった証人であって、最後の一人は、教籍番号一番として、教会の歴史の歩みの出発から召される時まで尊い足跡を刻まれました。


愛する神の家族の皆さん、宣教60周年を記念し礼拝するこの時、先に天の御国に凱旋された証人の群れが私たちのために執り成し、エールを送っていることを覚えつつ、信仰の競走を忍耐強く走り抜きましょう。シャローム!

2020.10.18 本日の宣教

 主の業に常に励みなさい コリントの信徒への手紙 一 1558節)

伝道開始60周年、教会組織20周年、おめでとうございます。この「おめでとうございます」の背景には、神に召されて、富山小泉町キリスト教会を形成するために汗水を流された牧師、信徒の皆さん、求道者の皆さん、日本バプテスト連盟諸教会、伝道所の皆さん、富山祷援会の栗山秀男会長と会員の皆さん方の御労苦があったことを忘れてはならないと思います。

私は19924月に着任致しましたが、その前年、連盟の宣教部長であった金子敬牧師から「富山伝道に行かないか?」という電話がありました。「祈ってみます」と返答して、それから毎日、頭の中で「富山、富山、富山」がぐるぐる回っておりました。或る晩、夢の中で白い衣を着た方が私の前を歩いておられました。背中だけが見えました。それがイエス様だと、すぐわかりました。「主よいずこへ?」。ポーランドのノーベル文学賞受賞作家ヘンリック・シェンキェ―ヴィチの有名な小説、アメリカ映画(1951)「クォ・ヴァディス ドミネ」の本多英一郎版でした。イエス様は「富山へ」と仰いました。仕えていた福生教会の二度に亘る臨時総会で辞任が認められ、ここに遣わされました。富山に行くことが決まった時、或る集会の席上で、富山伝道所の第4代牧師であった故・加来剛毅先生に会ったので「富山に行くことになりました」と挨拶したら「あんなところに行くな」と言われたので、びっくりしました。「行くな」の背景には、加来先生はじめ歴代の牧師家族、信徒の皆さん方の厳しい御苦労があったのです。「行くな、苦労するぞ。行くなら覚悟して行け」という励ましのお言葉と受け止めました。私以前の八代に亘る牧師家族、信徒の皆さんは途中、伝道所閉鎖の危機を乗り越えて、忍耐強く伝道活動をされました。それらの尊い御働きを土台として、伝道所は「自分の足でまっすぐに立ちなさい」(使徒言行録1410)という御言葉をいただいて、2000720,(海の記念日)に、伝道開始40年を経て自給自立の教会組織をして、新しい船出をしました。連盟の全国支援拠点開拓伝道の実りでありました。

毎月いただいております当教会の週報によって、10代目の閔牧師御家族と教会の皆さんが、一生懸命、教会の歴史を紡いでおられる様子を知り、嬉しく思っております。時代と共に、伝道の労苦の内実は変わって来るでしょう。しかし、伝道の労苦は主の再臨の日まで続きます。それは「聖なる重荷」なのですから感謝して負わねばなりません。コロナ危機のように予期せぬ事態の直面することもありましょう。しかし、先立ち給うキリストに従って、全力を尽くして宣教の一端を担って下さい。それには大きな報いが伴うのです。

JR富山駅前にシックビルが建っております。てっぺんにCICと書いてあります。私はいつも「CITY IN CHRIST」の頭文字として読んでおりました。富山は正に、「キリストの町」なのであります。これから70年、80年、100年に向かって宣教活動を展開し、富山伝道の歴史を紡ぐ皆さんの上に主の限りなき祝福がありますように。ア―メン。

                                        三島バプテスト教会  本多英一郎牧師  

2020.10.18 小さな泉の恵み

 

~名古屋から~

主の祝福に満ちた富山小泉町キリスト教会。2年に満たない短い間でしたが富山に赴任した私達家族をとてもあたたかく迎入れてくださった皆様に感謝でいっぱいです。11年経った今でも様々な事柄が鮮明に思い出されます。賛美礼拝、愛餐会、夏のキャンプ、トラクト配布、クリスマス会、卓球台、子供室、バプテスマ槽、雪が積もる教会堂、そして兄弟姉妹の笑顔と閔先生の子供たちへの熱いキッス。個人的には日曜の食事を兄弟方で用意した時の楽しい交わりが心に残っています。主がひとつとしてくださっている実感を味わいました。

豊かな自然とおいしい食べ物とお水。住んでしまうと当たり前でも、離れると教えられます。主の指のわざがあふれていると。小さかった子供らにとってもとても良い時を過ごさせていただいたと思います。久方ぶりに今年の元旦礼拝に参加させていただき、あの時のままだと懐かしく、富山にある素晴らしい居場所に主に感謝しました。60年という通過点を超えられた富山小泉町キリスト教会がますます主の栄光を放たれていかれますようお祈りいたします。

                        E. N兄

2020.10.11 牧師室便り

 

~ 本物のクリスチャンですか ~          

 リビングライフのテキストのエレミヤ書を黙想する中で、目立っている人たちがにせ預言者です。口では神からのメッセージを人々に伝えているかのように言いますが、にせ預言者たちの言葉には神はいませんし、神の御言葉も見出すことができません。彼らはただ、自分たちのための言葉、人が聞きたがる甘い言葉を語るだけです。しかし、にせ預言者が活動していた当時のみならず、歴史の中に見るにせ預言者たちのもつ影響力は多大なものでした。コロナが世界を覆っている今の世界においても偽りが力を振るっていることに心を痛めます。にせ政治家、にせ企業家、にせ牧師、にせクリスチャン…、偽物で溢れている現状です。

聖書を通して主イエスがご自身を紹介される時、用いられたのが、「わたしは真の○○○です」という表現でした。“わたしは真の光です”、“わたしは真の牧者です”、“わたしは真の門です”などなど。まさににせものが溢れている世界の中で力強く響く「本物」なる主イエスの御声です。

神の家族の皆さん、私たちは「本物の牧師です」と、「本物のクリスチャンです」と言えるでしょうか。神は、エレミヤという本物の一人の預言者を選ばれ、御言葉を伝えられました。エレミヤに神ご自身の思いを伝え、神の痛みと涙を分かち合う存在として用いられました。周りは数えられないほどのにせ預言者で満ちていても、神はエレミヤを通してのみ、御心とご計画を明らかにされたのです。

 神が求めているのは“本物”。神に近づき、神の御心を分かち合う人、また神だけを信頼し従順に従う人、滅びていく民を愛し涙と思いやりをもって執り成す人、自分に損失が生じることを知っていながらも神の国を第一にし黙々と歩み続ける人、その人が“本物”です。“偽物”で溢れている社会の中で、一人の“本物”のクリスチャンの存在は希望の光ですし、神にとって慰めとなる人です。ぜひ、主の喜びと慰めになる本物のクリスチャン、本物の預言者になることを祈りつつ、与えられた日々を大切に歩んでいきましょう。シャローム!

 

2020.10.11 本日の宣教

 『 災いではなく、希望と将来の計画 』  (エレミヤ291014)

 エレミヤ29章は、バビロンに捕虜として連れ去られ、そこで生活していた者たちに向けられた神の言葉をエレミヤが書き送った手紙です。その中でも1014節では、バビロン捕囚の期間についての神の計画が示されます。実のところ、当時偽預言者ハナンヤを中心に、バビロンでの捕囚生活が2年ほどの短い期間で終わるという預言がなされていて、捕囚の民らは偽預言者たちの預言を信じていたため、偽りの希望にすがる生活をしていました。しかし、神はエレミヤを通して、バビロンでの捕囚生活は短く終わるのでなく、70年という長い期間になることを伝え、捕囚の民にバビロンに定着し、そこに家を建て、園に果樹を植えて実を食べ、家庭を作って人口を増やすという生活を勧められます。そして70年が満ちると神は捕囚の民をイスラエルの地に連れ戻されると約束をくださるのです。その時、宣言される神の恵みの言葉がありました。・・・“わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ2911

この御言葉は、多くのキリスト者が喜んで用いる聖書個所です。しかし、この部分だけを抜き取って励ましの言葉にしてしまうのでは本来の神の言葉の意味を正しく伝えることはできません。ここで語られる「平和の計画、将来と希望を与える計画」とは、70年に及ぶ試練を伴うものであって、その70年間の神と神の民との親密な信仰訓練があってのものでした。神の祝福と希望に満ちた将来への約束は自動的に手に入るものではありません。神のご計画では、神に近づき、神を呼び求める捕囚の民の新たな民作りが中心にありました。“そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(2912-14)”・・・長い間、エレミヤをはじめ、預言者たちを遣わされて求められた神と神の民との新たな関係回復をバビロンの地において神は70年という長き期間をかけて築こうとされたのです。

新型コロナウイルスの荒波による災いに覆われ続けている2020年です。コロナという疫病によって世界経済が、社会秩序が、人間関係が、信仰生活がすべて揺れ動かされています。しかし、深刻な問題は誰も「コロナの試練がいつまで続くか」ということを全く知らないことにあります。それなのに、人々は今すぐにもコロナがなくなり以前の生活に戻れるようなことを語り、現実から目を逸らそうと惑わします。

しかし、すべては神の御手にあることを覚えましょう。災いがいつまで続くのか、希望の約束はいつ実現するのか、というのはすべて神のご計画のスケジュールの中にあって、人はそれを知ることはできないからです。そして、ぜひ忘れてはならないのはこと、神からの災いは、ただ災いで終わるものではなく、神の切ない愛が込められ希望と祝福に変わるということです。そのことを私たち小泉町教会の60年間の歴史を通して何度も学んできたはずです。願わくは、神の家族お一人お一人が、希望と将来の約束の神を信じ、日々神に近づき、心を尽くして神を求める信仰姿勢を身につけますように…。神はその人を、また小泉町教会を星と輝くように用いてくださるでしょう。ハレルヤ!

2020.10.4 牧師室便り

  ~ ひとりよりもふたりが、ふたりよりも… ~ 

ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」(コヘレト4:9-10

 コロナ時代に入ってからできるだけ密を避け、一定の距離を置きながら生活することが普通になっています。私たちの教会も、祈祷会とディボーションを除く諸集会を極力避ける中で、一回であった主日礼拝も密にならないように二回に分けて執り行っています。その他、密になるような諸行事はすべて見合わせている状況です。本当に寂しい日々ですが、主の憐みと御心を祈っているのみです。

 

 そんな中、先週は宣教60周年記念礼拝を迎えるために、多目的室のカーペットの洗濯を行いました。数年前、礼拝の終わった午後の時間を用いて教会員全員がみんな楽しく水遊びをするようにカーペットを洗っていたことが記憶に新しいです。最近は、昼食もしなくなり、汚れも目立っていたので、洗濯しなきゃ!と思いつつも、みんなに声をかけることができず、ひとりで行うことにしたのです。まず、カーペットを剥がすことから始め、それを2階の風呂の中に運び、カーペットに染みついた汚れを取るために洗剤を溶かした水に一晩つけておくことにしました。そして次の日に一枚一枚丁寧に洗ってから、日差しの当たる場所に並べておき乾かそうとしましたが、雨の予報があったため、慌てて集めて礼拝堂の中へ、そして次の日、再び外の日差しの良いところへ並べて、完全に乾かしてからいよいよ多目的室に移し、最後にカーペットを組み合わせて元の状態に戻す…。一人で4日間に及んだ労働でした。その結果、普段使っていなかった全身の筋肉や筋が驚いたのか、しばらく筋肉痛と疲労感で苦しんだ一週間でしたね。

 

 神の家族の皆さんの力があったなら短時間で終わるはずのことが数日かかることになり、共に労苦する楽しさも味わえず、協働の充実感も得ることができなかった。…そうですね。教会はキリストの体であって、共に建てていく建物であることを改めて実感した日々でした。神の家族お一人お一人の尊さ、またその愛の協力に感謝します。 

2020.10.4 本日の宣教

 聖霊を信じます (使徒2:1721、Ⅰコリント12:3)

  使徒信条は、「私は聖霊を信じます」という言葉から第三項を始めます。第一項では、天地の創造者、全能なる父なる神について、第二項では、見える神としての独り子イエス・キリストについて、そして第三項、キリストを証しする聖霊なる神についての信仰告白へと進んでいます。まさしく使徒信条は三位一体の神への信仰を教会と信徒たちが確かなものとして告白していた宝物でした。とりわけ本日からは第三項の聖霊なる神について分かち合うことになります。

キリスト教の信仰と神学における聖霊は極めて重要な意味を持っています。もしも聖霊が存在しないとすれば、キリストの救いの出来事は2,000年前に起こった過去の出来事で終わってしまったことになりますし、今現在における私たちの生活の中に起こり得る出来事のすべても、聖霊とは関係のない人間的な出来事になってしまうわけです。すなわち現代の私たちの信仰は、聖霊が今生きて働かれるという現在性をもっているわけですし、2000年前に初代教会に起こった出来事と、今日の私たちが経験する出来事が同じく生きて働く聖霊によって成し遂げられる信仰へとつながるのです。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒2:161721という預言の言葉は、今を生きる私たちにも当てはまる夢物語です。

終わりの時、聖霊はすべての人に注がれます、そして、聖霊に満たされることで、老人から若者に至るまで、すべての人が神の国の御業に励む「夢」を見ることになる、というのです。ペトロは聖霊に満たされ「夢」を見ていました。その夢とは、主イエスが教えておられた「地の果て、世界の隅々にまで福音が宣べ伝えられること、すべての人がキリストを信じて救われること、そういう壮大な「夢物語」をペトロはヨエル書の言葉を引用して告げているのです。その夢を見させたのが「聖霊の力、聖霊の働き」です。人の目に見える厳しい現実を越えて、聖霊の力によって神の御心を悟り、聖霊の助けによって私たちの教会は夢見る教会に変えられるのです。

私たちバプテスト教会の「教会の約束」の一部分、「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます」という告白こそ、教会における聖霊なる神の主導的な働きを前提としていることを覚えましょう。使徒パウロは「聖霊によらなければ、わたしたちは誰もイエス・キリストは主であると告白することもできない(Ⅰコリント12:3)」と教えていることを通して、今私たちがイエス・キリストを救い主として信じ、バプテスマを受け、神の子どもとして生きるようになったすべての救いの業が、聖霊の働きであったということを告白せざるを得ません。そうです。聖霊によらなければ私も、あなたも、私たちの教会も存在しなかったことをしっかりと心に刻みつつ、今の時を過ごしていくべきです。

宣教60周年を迎えている小泉町キリスト教会はいかがでしょうか。聖霊による御業が現れているでしょうか。また、神の家族お一人お一人は聖霊からいただく賜物を生かす夢を見ているでしょうか。すべては聖霊なる神の恵み、聖霊なる神が導かれ完成してくださることを信じ、聖霊の臨在に生きる神の家族お一人お一人でありますように…。ハレルヤ!

2020.9.27 牧師室便り

 

~今こそ、神に近づく時~

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)

哲学者のショーペンハウアーの書いた「ヤマアラシのジレンマ」という寓話を知っていますか。「全身に針のように固い棘の生えたヤマアラシの群れが寒さに震えながらも、彼らは互いに近づいて温め合うことはできません。なぜならば、互いが近づけば近づくほど、体に生えている無数の棘のせいで、互いを傷つけてしまうことになるからです。そこでヤマアラシたちは近づいたり離れたり、近づいたり離れたりを繰り返すことになります。そして彼らはついに、最善ではないけれど、互いを傷つけずに、ある程度温め合うことのできる一定の距離をおいて暮らすすべを見出すことになる」という内容です。この寓話を通してショーペンハウアーは、「他人に近づきたいけど、傷つくのが怖くて近づけない」という人間関係における心理を描こうとしたわけです。


ある人はこのヤマアラシたちの一定の距離を置くという選択を見て、素晴らしい!これこそ、この社会を生きる知恵なのだ!と思うでしょう。しかし、これでいいでしょうか。この物語のように、恐らく人々がヤマアラシのように一定の距離を置く関係を維持しようとするとなれば、誰とも心の内側を打ち明けるような親密な関係を作り上げることはできなくなるでしょう。そしてやがては、孤独に陥っている自分自身に気づくことになるでしょう。


それでは、イエス様と私たちとの関係の方はどうでしょうか。イエス様との関係においても同じく、一定の距離を置いて信仰生活をしている人がいます。イエス様の方に近づきたいけど、自分自身の汚い罪と人間的弱さが明らかにされることを恐れ、近づくことをあきらめてしまう・・・、また、イエス様が近く来られると、自分の持っているものをイエス様に献げなければならないことに重荷を感じ、「イエス様!ここまでです!」と、イエス様と自分との間に線を引いて距離を置こうとする私たちではないでしょうか。今こそ、イエス様に近づく時です。コロナによって人々との交わりが難しくなった今、イエス様の方に近づき、私たちの心と魂を強めていただき、コロナ後に備えていただく時なのです。シャローム!

2020.9.27 本日の宣教

 『 人生の宝探し 』 (詩編19:8~15)

 “主の御言葉は金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。”(19:11

あなたは一日を始める朝、何から始めていますか。もしかしたら、その日のうちに処理すべき事柄で頭がいっぱいになり、常に慌ただしく始めているかもしれませんね。またある人は将来への不安に覆われながら一日を始めようとしているかもしれません。また人間関係の苦しみによって一日の一歩を踏み出すことを躊躇している人もいるでしょう。もちろん、与えられた新しい一日を感謝し、また期待しながら始める方もいるでしょう。皆さんはいかがでしょうか。

新型コロナウイルスによって生活の多くが変わってしまった時代を生きている私たちです。何となく人との交わりも少なくなり、在宅勤務、オンライン会議、オンライン授業など、家にいる時間が長くなっていくはずです。その中で、一人の時間も長くなると思います。その時、神の家族に勧めたいことが「ディボーション(聖書黙想)」です。キリスト者は神の前に一人になることを喜ぶ者であり、孤独を楽しむ存在です。孤独を楽しむ理由こそ、聖書の御言葉を黙想する素晴らしさを知っているからです。たとえ無人島に漂流することがあっても、御言葉さえあれば、その場所が恵みの場所に変わるはずです。御言葉に養われた人は、コロナ後の世界で神の御心を鮮明に表すことになるでしょう。

聖書は、神の御言葉は人生の道を照らす灯であり、宝石であると教えます。私は宣教や学びの中で、たびたび聖書を黙想することは“宝石探し”であると語ってきました。そうです。毎日、御言葉を黙想し、与えられた御言葉を口ずさみ、御言葉を生きる人は神からの宝物をいただきます。実は、本日の詩編19編を書いたダビデも神の御言葉が純金にまさる宝石であることを歌っています。私はぜひ、小泉町教会の神の家族にこの値高い宝石をプレゼントしたい思いでいっぱいです。

これからも私たちは様々な道を歩くことになるでしょう。苦難の道、初めて歩く不安な道、危険な道、また、一歩先も見えない深い暗闇の道、広々とした平らな道など・・・。しかし、どのような道が私たちの前に置かれていても、生きて働く御言葉に信頼し、御言葉にすがろうとする心の決断さえあれば、不安に陥ることなく大胆に歩むことができるでしょう。そしてぜひ心がけてほしい。授かった御言葉を頭の知識と知恵にとどめておくのでなく、御言葉を頭から胸(心)の方にもってくること、そうすれば、生きて働く御言葉は、私たちの胸の中で感動を呼び起こすでしょう。これを御言葉への霊的反芻と言えましょう。霊的反芻を通して、胸の感動も深まり、感動をもって与えられた道へと歩み出すわけです。ロゴス(言)である主イエスは私たちの傍らで共に歩まれ、時に適って御言葉による光を照らし、宝探しの歓喜を与えてくださるでしょう。神の家族の皆さん、ぜひ、心を一つにし、ダビデのように告白しましょう。

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。(詩編19:15