2020年11月29日日曜日

2020.11.1 本日の宣教

 『 私の抱く希望  』Ⅰペトロの手紙315

 先日、閔牧師より、証しをなさってみませんか?というお話を頂いた時、私の中に2つの気持ちが同時に湧き起こってきました。1つは、60周年記念礼拝で触れた先人達の福音伝道への熱い想いに倣い、自分も救いの素晴らしさを伝えたいという気持ち。そしてもう1つは、果たして自分は語るべき言葉を、きちんと準備できているのだろうか、という不安な気持ちです。

 私にはバプテスマ以来、ずっと心に引っかかっている御言葉があります。それは「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。Ⅰペトロ3:15後半」という御言葉です。

 私は、200210月にバプテスマを受けて以来18年間クリスチャンとして歩んできました。家族、親戚、友人知人に至るまで周囲にクリスチャンは殆どおらず、この18年間のほぼ全ての時間をノンクリスチャンの人々の中で過ごしてきました。このことは見方を変えると、18年間、生活の全ての場面で福音伝道の機会が与えられていた、ということになります。では、その機会を正しく用いてきたのか?と尋ねられれば、うなだれるより他ありません。周囲の人々に御言葉を書き送ったり、聖書の内容を部分的に説明したり、相手のために祈ったりしたことはありますが、信仰により与えられた希望について、明確な言葉で語ったことはなかったように思います。その理由について考えていく中で、改めて今回の御言葉が心に迫ってきました。そしてその時、私にはその希望について説明するための準備が整っていないことがはっきりと分かりました。私は、救いの恵みにあずかりながらも、自分1人でその喜びを握りしめ、周囲の人々に分け与えるための努力を怠ってきました。

 それは、なぜか?また心の奥を探っていくと、恐れの感情に突き当たりました。私は心の中で、救いの喜びという宝の上に、クリスチャンとして生きる中で生じた苦悩をレンガのように高く積み上げてしまっていたのです。これでは周囲の人々は、私から希望はおろか喜びすら感じることができません。このことに気づいた私は愕然としながらも、このレンガを取り除いてくれる御言葉を祈り求めました。祈りつつ読み進むと、同じⅠペトロの御言葉の中から、たくさんの祝福を受け取ることができました。本日は、その1部分を皆さまと分かち合っていけたらと願っております。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れす、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。1:3後半〜5」そうです。私達は恵みにより、イエス・キリストを通して永遠の命を与えられています!そして困難があっても、神の力により、信仰によって守られると、力強く励ましてくださいます。また、試練の時の慰めも備えていてくださいます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。2:19,20後半〜21」私達が、キリストのゆえに苦しむ時には、さらに豊かに神の霊が働いてくださるとも約束してくださっています。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。4:1314

 私は、神の恵みにより、キリストの十字架の贖いを通して永遠の命を与えられたこと、地上の幕屋である肉体を脱ぎ捨て栄光の主と再会するその日まで、主が守り導いてくださることを信じます。これが、私の抱いている希望です。アーメン。

                                         A. T執事

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