2022年9月28日水曜日

2022.9.25 牧師室便り

 ~中部連合の諸教会のために祈ろう ~

「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。(ペトロの手紙一5章14節)」

 先週、三年ぶりに中部地方連合交流会が行われました。対面ではなくzoomによる会となりましたが、約50名の連合に連なる諸教会の皆さんがzoom画面を通して顔を合わせ、開会礼拝と3回にわたる自己紹介タイム、そして10のパートに分かれて、諸教会が直面している課題について話し合う時を持ちました。朝10時から午後3時まで5時間に及んだ会だったので、疲れてしまうのではないかという危惧もありましたが、思ったよりスムーズに各プログラムが進められ、中部連合に連なる群れとしての一体感を感じることができた交流会となったと思います。これからのzoomによる活動がさらに広げられる可能性を見つけたひと時でありました。

 最近のニュースによると、コロナ規制をさらに緩くするということが決まるそうです。今までコロナがもたらした被害は日本社会のあらゆる領域に大きなダメージを与えてきたため、一日でも早く正常な生活に戻りたいという人々の願望は当然のことでしょう。同じように、キリスト教会においても伝道活動が全く閉ざされていたことも事実です。実際、コロナ下において連盟の諸教会の教勢や受浸者、献金など、ほとんどの指標が大きく下回っている現状です。

 今現在、中部連合に属している岐阜教会と愛知新生教会が無牧師の状態で、中部連合の他の教会の牧師たちが宣教と主の晩餐の奉仕に協力しています。このような時であるからこそ、互いに支え合う中で伝道に励むことです。小泉町教会も無牧師の時がありましたし、福井教会も、他の多くの教会もそうでした。中部連合の諸教会がキリストと結ばれているものとして、各地域において祝福された働きがなされますように執り成し続けましょう。シャローム!


2022.9.25 本日の宣教

 『統一協会から救われて』   (マタイによる福音書24:3~8)

安倍元首相が参院選の街頭演説中に銃撃、殺害された事件以降、容疑者の動機が旧統一協会(現・世界平和家庭連合)に対する恨みであったことから連日マスコミに取り上げられ統一協会という言葉を聞かない日が無い状態になっています。統一協会と言えばカルト教団の代表のような存在でしたが、オウム真理教の事件があってからは暫く名前を聞かなくなっていました。かつて統一協会に身をおいた者として今自分が経験したことをお話することでカルトについて考えるきっかけとしていただけたらと思います。

35年前、私が21歳、当時勤めていた富山市の洋菓子店の寮に中学校時代の同級生が訪ねて来ました。統一協会の幹部と共に。その時は一切宗教団体とは言わずに為になる知識を得られるサークル活動の勧誘ということでした。「ビデオセンター」というので入会すれば好きな映画のビデオが安くみられるというくらいの安易な気持ちで入会しました。ビデオセンターに行くと一人一台のビデオ内臓テレビの前に誘われ一時間位の講義のビデオを見せられます。その内容が統一協会の教義なのです。何日か通って講義を何本か受けたところで2daysセミナーという一泊二日のセミナーがあってそこで初めて教祖が文鮮明師でその方が再臨のキリスト、メシアであると告げられます。ここで統一協会の教義の一部をお話します。始めに本物の聖書を用いて話が展開します。神が天地を造られてアダムとエバを住まわせ「善悪知る木の実をとって食べてはならない」とお命じになります。統一協会では善悪知る木の実をとって食べるとは男女の性行為と説きます。アダムとエバは罪を犯した後いちじくの葉で腰を覆った(創世記1章7節)のはその証拠だといいます。まずエバが堕天使ルシファー(統一協会ではルーシェル)と性行為が行われエバに罪が入り、その後アダムと性行為があってアダムにも罪が入った。アダムとエバは成熟して完全数7の3倍の21歳になってから結ばれなければならなかったのに早く関係ができてしまった。それで人類は堕落し原罪を負ったのだと言います。そこから神様による人類救済が開始されます。救済には信仰基台と実体基台の2段階あって、人類はいつも失敗を繰り返し、イエスも信仰基台を完成したが実体基台を完成出来ず失敗した。そこでその失敗を回復するために文鮮明師がメシアとして現れて心だけでなく物質も回復するのだと。悪名高い霊感商法も万物復帰といって物質、特に人が一番執着の強いお金をサタンから神様、メシアの下に取り返すと同時にお金を出した人も天に宝を積むことになると教えられています。信者は百パーセント良いことをしているつもりでそれらのことを行います。決して詐欺行為を行っている気など毛頭ありません。

私は家族の働きによってカルト集団統一協会から逃れることが出来、更に本物の救いに与りました。今回の事件の山上容疑者の家庭崩壊は他人事ではなく、胸が痛みます。彼の悲劇は氷山の一角です。カルトによって人生を破壊された方、家庭崩壊した方を見過ごすことは出来ません。私が、これから何が出きるのか主に尋ね求めます。聖書的には偽キリストの出現は驚くことではありません。主イエスご自身がはっきりと語っておられます。世の終わりの近いことを思い、聖書に書かれたことことが全て真実であると確信し、信仰の歩みを続けて参ります。

                              S.Y.兄


2022.9.25 小さな泉の恵み

 ~子ども達と自転車に乗って~

毎年9月に僕の働いているYMCAでは子ども達と五福運動公園から氷見の島尾キャンプ場までを自転車で往復するサイクリングキャンプという活動をしています。今年は18日から19日までの二日間で行ってきました。このキャンプは長い距離を自転車で走るため自転車に慣れていない子ども達にとっては過酷なキャンプで、毎年途中でリタイヤして並走している車に回収されていく子もいます。でもその分達成感もひとしおでゴールした時の子ども達の顔は自信で満ち溢れています。また毎年開催されていて参加している子どももリピーターが多いの前年度と比べて子ども達の成長を感じられるキャンプで、去年はリタイヤしていた子どもが今年は泣きながらも最後まで走りとおすことができました。いつも子ども達を見守り導いてくれる神様に感謝したいと思います。

                           S.H.兄

2022.9.18 牧師室便り

~王の王は誰か ~

「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。(テモテへの手紙一6章15~16節」

 先日、英国の女王として70年間在位し、世界的に大きな影響力をもっていたエリザベス女王が死去しました。享年96歳でした。世界各国は追悼のメッセージを送り、19日に行われる国葬には各国首脳たちが参列するとのニュースが流れています。“大英帝国、太陽が落ちない国”と言われてきた英国の女王として、また英国の国民との関係においては親近感のある庶民的女王として栄光と尊厳を受けてきた人生であったでしょう。その反面、世界で最も多くの国を植民地とした国の君主として、植民地の人々にとっては測ることのできない苦しみを与えた存在であり、多くの人の命を奪った権力者として記憶されるでしょう。そう考えると、彼女の人生には確かに明と暗がはっきりと表れていると言えます。

そしてもう一人、日本でも安倍元首相の国葬が行われることになりますが、未だに国葬反対の国民の声が高まっているところです。統一協会との深い関わりがあったことと多額の費用、過去の政策に対する批判などが原因で反対が賛成を上回っている状況で、内閣支持率も低迷する結果となっています。最も長く総理を歴任し力を振るっていた安倍元総理でしたが、その最後が多くの国民から批判を受けている状況を見ると寂しい限りですね。

聖書は真の王こそ、全能者なる神であると告げます。私たちはイスラエルの民らが最初の王を求めていた時、同じ人間が王という権力の座に着くことで生じる悲劇のことを神が御自ら語られていたことを覚えます。神の御言葉通り、最初の王サウルをはじめ、イスラエルの歴史の中で、またこの世のあらゆる国においても、王によって繰り返された悲劇の歴史を確認することができました。真の王はただ一人。創造者であり、世界を支配しておられる神、人を救うために命さえ惜しまず与え、復活なさった王の王、主の主であられるイエス・キリストに誉れと永遠の支配がありますように…。シャローム!


2022.9.18 本日の宣教

『 主イエスが望まれる教会⑤ 』~サルディス教会②~ ヨハネの黙示録3:1~6                

:白い衣を着せられる           

先週、私たちはサルディス教会に向けて、目を覚ませ!と命じられる主イエスの御声を聞きました。そして主は、目を覚ます目的について、「死にかけている残りの者たちを強めるため」だと教えられます。サルディス教会は死んでいたのですが、その中にはまだ、死んでいない、死にかけている残りの者たちがいるんだ!と、その人たちを強めることでサルディス教会は新たにされる可能性があるのだ!と言われているのです。

続けて、「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。(3:4)」と言われます。ここでの「白い衣」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、すべて清められたキリスト者を意味します。つまり、サルディス教会のすべての人が白い衣を汚したわけではありませんでした。霊的に目を覚ましていた少数の人々がいたのです。主イエスはこの少数の人々に目を止めておられます。聖書の中で示されている白い衣というのは、やがて天の御国に帰った時に救われた者らが着せられる栄光と祝福の象徴です(黙示録7:9~17 )。しかし、ここでの白い衣を着せられるとは、ただ天の御国でだけ着るという意味ではなく、この地上においてイエス・キリストによって救われた人として、聖霊に満たされ福音にふさわしく聖い生活を歩む人々に着せられる白い衣のことを指していて、そのような人々を神は用いてくださるのです。

続けて主イエスは、白い衣を着ている人と「共に歩かれる」と言われました。ここで「共に歩く」とは、主イエスの十字架の苦難の道も、人々に仕える道も、また、復活の栄光の道も、すべてを主イエスと共にすることを意味します。そして、そのような人々を、主は「ふさわしい者」だと認められるのです。

愛する皆さん、皆さんも白い衣を着せられ主イエスと共に歩む人として認められる人生を歩もうではありませんか。もちろん、すべての人が主イエスと共に歩めばいいのですが、聖書は「少数の者たち」だと言われます。すなわち主イエスは共に歩もうと手を差し伸べておられるのに、「畑を買ったので見に行かねばならない。牛を買ったので、調べに行かねばならない。妻を迎えたばかりなので、行けない。商売のために忙しいので行けない。…」などなどの理由をつけて、主と共に歩むことを拒んでいる私たちではないでしょうか。

私たちの日々の生活は霊的戦争の場であります。そして、霊的戦争において、私たちは勝利を得る者とならなければなりません。サタンは絶えず、私たちを眠らせようとして、様々な誘惑をもって仕掛けてくるでしょう。そこで、多くの者がすでに「名前はあっても、もう死んでしまったような状態」へと負けてしまっています。ぜひ、霊的な戦いにおいて勝利を収める神の家族でありますように…。

願わくは、神の家族が日々の霊的戦争において、勝利を得る者でありますように。そのためには皆さんの礼拝生活、祈りの生活、ディボーション生活が勝利へと結びつく力となるでしょう。そして、やがて天の御国で白い衣を着せられて小羊への大いなる讃美を献げることを夢見る者として日々を歩みたいものです。ハレルヤ!


2022.9.11 牧師室便り

 ~ 元気を取り戻してください!~

「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。(使徒言行録27:22)」

 先週は大型台風が通りすぎましたね。大変強い風に見舞われていた富山でした。恐らく地球温暖化が原因でこれからは大型台風の発生も多くなってくるでしょう。常に心の備えをしておきましょう。そしてぜひ、人々のための悔い改めと執り成しの祈りを続けていきたいと願います。

 先週のリビングライフには信仰の父であるアブラハムの旅が記されていました。その中で、アブラハムはペリシテのアビメレクの好意を受ける中、彼らのために執り成していたアブラハムの祈りによって、アビメレクとその民らが神の祝福に与るとの物語がありました。最初、アブラハムを訪ねられカナンへの旅を命じられた神が、創世記12章にあるように、アブラハムに祝福の源としての召命を与えられたことを覚えています。神はアブラハムと交わした契約を忘れられることなく、確かに成し遂げてくださったのです。しかもアブラハムへの約束の言葉は、今の私たち小泉町教会にも同じく交わされていることでしょう。ぜひ、神の家族一人一人を通して、各自が置かれている家庭、会社、学校、町内などに祝福がもたらされますように…。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。(創世記12:3)」…これほど素晴らしい約束があるでしょうか。

 使徒パウロも、彼が乗っていたローマ行きの船が地中海の台風に遭い、破船してしまう絶望の時に、神からの約束の言葉をいただき、「元気を出しなさい」と恐れていた人々を励まし、祝福をもたらす人になったことを覚えています。願わくは、小泉町教会の神の家族も同じく祝福の人になりますように…。特に、近ごろの神の家族の中には、いろいろな理由で体の痛みと心の疲れを覚えている方が増えているような気がします。季節の変わり目ということもあって、夏の疲れが出ている方もいるでしょう。こういう時だからこそ、私たちは祝福の源、また執り成しの人として歩むことです。シャローム!


2022.9.11 本日の宣教

 『主イエスが望まれる教会⑤ 』~サルディス教会①~                                                                  ヨハネの黙示録3:1~6

 私たちはヨハネの黙示録に登場する7つの教会に送られたメッセージについて学んでいます。7つの教会は、それぞれ置かれていた状況が違っていましたし、それぞれの教会が抱えていた問題も違っていたため、主イエスは7つの教会に向けて、それぞれ違ったメッセージを与えられました。つまり、主イエスは過去、現在、未来を問わず、世界中に存在する各教会が置かれている状況をご存じであり、各教会にふさわしいメッセージを送られる方であるのです。

本日は、7つの教会の内、5つ目のサルディス教会について分かち合います。

サルディスという町は、当時のローマ時代の古代社会において、「最も安全な町であると同時に、最も豊かな町」として知られていました。天恵の要塞に位置していたサルディスは金や銀の貨幣を歴史上初めて使うほど、富の象徴となっていた町でした。その富の影響もあって、巨大な「女神のアルテミス神殿」を中心に、毎日快楽と贅沢を追い求め、宴会と祭りが絶えなく行われていたそうです。その結果、性的な堕落、腐敗がまん延している世俗化した都市となっていたのです。そのため、サルディス教会も急速な世俗化の影響を受けていたことが考えられます。

興味深いことは、7つの内の他の教会には称賛の言葉と叱責の言葉が交互に登場していたのですが、サルディス教会だけは称賛のメッセージはなく、叱責の言葉だけが記されているということでしょう。

主イエスは、サルディス教会について、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる(3:1)」と厳しく叱責されます。すなわち、キリスト教会としてのサルディス教会という名前と、立派な礼拝堂があり、定期礼拝や諸集会が行われていたでしょう。それなのに、主イエスから「あなたがたは死んでいるんだ!」という厳しい判決が下されているのです。“名前もある、形もある、立派なプログラム、礼拝や諸集会が行われていた。サルディスの町のように、ほとんどのことは整っていて、特別に悩ませる問題もなかったサルディス教会であったでしょう。しかし、私たちはサルディス教会の姿から主イエスに厳しく批判されていたファリサイ派の人々の姿が重なって見えます。…「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(マタイ23:27)」…聖書の中で神が最も嫌われる集団とすれば、ファリサイ派の人々でした。外側は綺麗で立派な行いをし、人々から尊敬されていた人々、しかし内側は誰よりも汚れていて腐敗し福音の命の働きが見えないお墓がファリサイ派の人々であり、サルディス教会がそうであったわけです。

そのようなサルディス教会への主イエスのメッセージを聞きましょう。「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。(3:2)」…もう死んでいるような状態のサルディス教会であるけれど、彼らが世俗化のお墓から目を覚まし新しく生まれ変わる希望を見出せることが示されているのです。3節では、「主の御言葉を思い起こし、それを守り抜き、かつ悔い改める」と、目を覚まし死から生へと変わるための具体的な道が提示されます。…(つづく)


2022.9.11 小さな泉の恵み

 ~ 一つにされるということ ~

ロシアのウクライナ侵攻による軍事侵攻の報道には心を傷められています。閔牧師、田口牧師のお話の中で、いずれかの側に立つ祈りに加わるのではなく、一つとされることを祈ることの大切さを教えられ、納得できるものの、どうしたらよいのか、不安を感じてしまっている、このごろです。

家族が集まった時、あんみつをリクエストする娘。牛乳寒天の方がいいという別の娘、寒天が苦手な孫。冷たいものを控えているという母…知恵と腕のみせどころの私…

個々が、自分の要望だけを訴えていれば、神さまだって、聞き入れてはくださらないでしょうに。私は神ではないし。

私たち、小泉町キリスト教会は神さまに愛された、恵みにあふれる教会ですから、世の中の諸問題が積み上がっている、こんな時代にも、一枚岩となって、進んでいきたいものですよね…

                               K.I.姉


2022年9月5日月曜日

2022.9.4 本日の宣教

 『陶工と粘土』 (イザヤ64:5~8)

「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。(イザヤ64:7)」

聖書の中では、神と人との関係を「陶工と粘土」にたとえている場面が何度も描かれています。陶工と粘土の関係を用いることが創造者なる神と被造物である人間との関係を説明するにふさわしいからでしょう。

神は「土」で人間を創造されました。 「アダム」という、最初の人間の名前が、「土(アダマ)」と同じ意味を持っていることからもよく分かります。「土」とはホコリやホコリの固まりでできているようなもので、まったく価値のない存在です。土そのままでは何も起こりませんし何の価値もありません。しかし、創造者なる神はこれらの何の価値のないものを選んで、創造された被造物の中で唯一、神の形に似せた最も栄光ある存在として尊く造られたのです。

 特に、本日のイザヤ書64:7で、神を陶工と紹介される時、すべての人は、創造者なる神の特別な目的と意図をもって造られたことが分かります。陶工が一握りの粘土で何かを作る時、意味なく作ることはしません。その通りイザヤは、陶工の手によって作られるすべての器は、明確な意図と目的を持っているように、陶工なる神は、神の民一人一人を確かな意図と目的を持って造られたことを示しているのです。ですから、陶工なる神はご自身が作られた器が、ご自身が抱いておられた意図通りに用いられる時に最も喜ばれるはずです。

また、作られた器が自分自身を作ってくれた陶工に向け、「なぜ私をこんな形に作ったのか」と、「私はこの世に現れたくなかった」と抗議することもできないのです。作られたものは、ただ、作ってくださった方に感謝し、作られた目的と計画に従順に従わなければならないのです。

 しかもイザヤは、御言葉の中で、イスラエルの神について、「我らの父」と呼ぶことで、神との関係を陶工と粘土という一方的関係ではなく、人格的に結ばれている関係であることを示します。さらに、最高の陶工である父なる神は、粘土のような無価値な私たちを用いて素晴らしい作品を作られるというのです。むやみに作るものはなく、父としての繊細な愛の御手の中で、神の子どもという貴い器として作られるというのです。「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。(ローマ9:21) 」…そう、すべては御心による御手の業です。

私たちの父であり、素晴らしい陶工である神は、今日も粘土である私たちを触ったり、直したりされながら、新しい作品として作り上げておられることを覚えましょう。もう一つ忘れてはならないこと、「私たちは完成した存在ではない」ということ、だから父なる神は御手をもって今日まで私たちを作って来られたように、これからも貴い器として作ってくださり、御業のために用いて行かれるに違いないということを信じるのです。ハレルヤ!        


2022.9.4 牧師室便り

 ~十字架と避雷針~

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)」

先日、富山に戻る数日前の主日、K 姉より電話がありました。「先生、教会が停電となっています。どうしましょうか。」…。そこで何とか教会の一階の電気は戻りましたが、日本に戻った後確認したところ、2階は停電したままでした。ただ幸いなことに牧師館の方は停電になっていませんでした。その後の話によると、主日の前の日の夜、教会付近に雷が落ちたことを耳にしました。すなわち、停電になっていたのは礼拝堂の建物だけだったのです。そこでふと、“もしかしたら教会の十字架が避雷針の役割をし、雷が落ちたかも知りない”という思いに辿り着いたのです。

昔から落雷は「天から降る裁き」のように考えられていました。実際、宗教改革者のマルティン・ルターもある激しい雨の日、隣を歩いていた友人が雷に打たれ死ぬ姿を目の当たりにし、その場で恐れながら献身者として生きることを誓っていたほど、雷は被造物の人間にとっては、恐ろしい自然現象であったわけです。

近頃、地球温暖化による異常気象が世界各地を襲っています。とりわけヨーロッパや中国の干ばつやアジア諸国における強力な台風と大雨などは地球の終末を思わせるほど恐ろしい状況です。しかしこれからはさらに激しくなっていくことが予想されることが問題でしょう。特に、亜熱帯気候に変わりつつある日本ですので、急激な気圧変化やスコール現象の中で落雷も増えて行くと思いますね。そんな中、小泉町の町に落ちてくる雷を小泉町教会の高く立てられている十字架が避雷針の役割をし、雷を吸収できれば素晴らしいことでしょう。これこそ人類の罪と呪いをすべて背負い、十字架の上で神からの正義の裁きを引き受けてくださったイエス・キリストの十字架の恵みではないでしょうか。世界のキリスト教会が避雷針のように救いを求める人々への道具として、十字架の福音を宣べ伝える働きができるように…。シャローム!


2022.8.28 牧師室便り

 ~戦うことを学ばない世界へ~

「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。(ミカ書4:3)」

本日は平和礼拝として献げます。本日の宣教は、長年ガンジー研究者として「非暴力と平和運動」を訴え続け、糸つむぎの体験と共に実生活における非暴力による平和運動を広めて来られた片山佳代子姉がしてくださいます。特に、ロシア・ウクライナ戦争が勃発し半年が経とうとしている今、しかもアメリカとロシア、またアメリカと中国の間に出来てしまっている新冷戦状態が高まっている時だからこそ、非暴力と平和のメッセージを分かち合うことを大切にしたいと思います。

振り返ると、ロシア・ウクライナ戦争がここまで長くなるとは予想しませんでしたし、その戦争がもたらした全世界に及ぶ影響がこれほどまで大きいとは夢にも思っていなかったでしょう。一般的な見方からすると、この戦争はロシアによるウクライナ侵攻によって始まったものであって、「プーチンとロシアが悪い!」と思われがちです。もちろんそうではありますが、もう一つの側面があることを忘れではなりません。実のところ、ウクライナを通してアメリカが行っている代理戦争であると言えましょう。とりわけ代理戦争では、大国の軍事産業が開発している武器を実戦で使用できるチャンスとして、また溜まっている武器を処分できるチャンスと受け取っている側面があります。しかしアメリカが、いつまでも後ろに隠れて武器だけをウクライナに提供していては解決の糸口は見えないし、このまま行けば、想像もできない大参事に発展してしまう可能性もあることを重く受け止め、世界第一の国としての責任をもって解決に進まなければなりません。

「正義の戦争、聖なる戦争」という言葉は偽りです。神が望まれる神の国は、「殺してはならない。敵を愛しなさい。」という御言葉の上に成し遂げられる国、また、あらゆる武器がなくなり、国と国の間にもはや戦うことを学ばない世界です。そのために、主イエスは人類のすべての罪と悪を背負い十字架の上で完全に贖われたのであって、真の平和の道を開いてくださったのですし、キリストの弟子たちにその道を共に歩むことを求められるのです。シャローム!


2022.8.28 本日の宣教

 『 今こそ非暴力を』(マタイによる福音書 5:44, 22:37-39)

ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が半年以上も続いていることに、心が痛みます。一刻も早く終わることを願って神様に祈っていますが、とても悲しいです。特に残念なのは、侵略してくる敵がいるのだから、武力を備えなければならないし、武器を持って戦うのは当然のことだと考える人々が少なからずいる事実です。

 侵略に対しては、屈服して奴隷になるか、武器を取って反撃するかの2つの選択肢しかないのでしょうか? 今日はこのことを皆さんと一緒に考えたいと思っています。第3の選択肢として、ガンディーが提唱した非暴力があるというのが、今日の結論になります。

 みなさんは、非暴力という言葉を聞くと、どのようなイメージが思い浮かぶでしょうか? 何をされても、なすすべもなく傍観している弱々しいイメージでしょうか? 

 しかし、歴史を振り返ってみると、非暴力こそが「いのち」を守っている事実に気づくことになります。

 ソ連の属国であったハンガリーとチェコスロバキアは、それぞれソ連から自由になりたいと立ち上がりました。ハンガリーは暴力で、チェコスロバキアは非暴力の方法を取りました。犠牲者の数はチェコスロバキアの方が圧倒的に少ないのです。ナチスに占領された国々では、ユダヤ人狩りが行われ、多くのユダヤ人が強制収容所に送られて殺されました。しかし、デンマークでは98%のユダヤ人がスウェーデンに逃れて生き延びました。デンマークの人々は武器を持って戦ったのでしょうか? いいえ、ナチスに対して非協力・不服従を貫いたのです。

 家族を殺されて怒り狂う人たちに対してガンディーは、「復讐しても何も解決しない、敵を愛しなさい」と説きます。「イエスは十字架上で生命を失い,ローマ人ピラトが勝ったではないかと言われるかもしれない。しかし,何と言おうとイエスが勝ったのである。キリストの無抵抗の行為によって,善の力が社会に解き放たれた」とガンディーは書いています。

 非暴力で闘った方が犠牲者は少ないとはいえ、いのちを落としている人はいます。そのような人は犬死だったのでしょうか? ここで私たちは、生きる価値のある人生とは何かということを考える必要があります。確かに何事もなく天寿を全うできれば素晴らしいでしょう。一方で、交通事故や癌で死んでいく人もいます。言うまでもなく、「いのち」は神の御手にあるのです。大切なことは、生かされている1日、1日を神の御心に従って歩むことではないでしょうか? そして、神の御心とは、「殺してはならない」(出20:13)であり、「神を愛し、隣人を愛し、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」こと(マタイ 5:44、22:37-39)です。

                                   片山佳代子     


2022.8.28 小さな泉の恵み

 テレビのスイッチを入れると、名神高速道路でのバスの事故である。大事故である。

お互いに注意し合っていても、事故は起るものであるが、なかなか無くならない。

お盆の日々実家や実妹の家を訪問、しばらく昔話の思い出等を語り合いの時間だったが、いつのまにか時間がすぎ、一日が早く終わった。もう84歳、この年令、長寿の年令でもないし、マイペースの仕事である。

父母の墓参りの帰り浜辺に行ってみたが、日本海の荒波に砂浜は大分削られて、砂浜は大分少なくなっていたが、幼い時の思い出にしばし返ってまいりました。

現在山に生活していますが、やっぱり海もいいなあと思いました。

神様は上手に自然を平等に作って下さったと感謝しております。私の住む立山町は山紫水明でしたが、今は近くにレジャー施設が出来、自然がだんだんなくなりそう、これも時代の流れかなあ…と思っております。

我が家の近くに立山杉の森林があり、時々時間のあるとき散歩しておりますが、大自然に囲まれて、杉から出る空気がとっても栄養があると喜んでおります。  

                              A.M.姉

2022.8.21 牧師室便り

 ~ 太陽を昇らせ、雨を降らせる主 ~

「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイによる福音書5章 45節)」

主の御手の守りと神の家族の執り成しのお陰で2週間の韓国での旅を終え、無事帰ってくることができました。すべての旅路が恵まれ祝福されました。感謝!…今回の旅において、様々な出来事がありましたが、その中でも不思議と思ったことは、一度も大雨に遭うことがなかったことでした。ちょうど私たちが帰国した頃の韓国の天候は日本と同じく、全国的に大雨の被害に覆われていました。しかし幸いなことに、わが家がある地域を訪ねた時は良い天気が続き、わが家がその地域から離れた後に大雨が降って大きな被害に襲われるようなことが繰り返されたわけです。それが2週間の旅を終える時まで続きました。重い荷物をもって移動せざるを得なかったわが家にとっては幸いでしたね。こういうことを世間では、“運が良かった”といい、その反対を“運が悪かった”というでしょう。またある人は、“やっぱり神は天気までも動かして閔師家族の旅を守られる!”というふうに思うこともあるでしょう。実際、天候が守られたことで感謝していたわが家でした…。

それでは、ここで一つの疑問が生じるわけです。それは、「大雨に覆われ災害に遭われた人々は運が悪く、神に愛されてない」ということになるでしょうか。被害地域に住んでいたキリスト者は愛されてないことになるでしょうか。…いいえ、決してそうではない。たまたま、わが家の旅が守られたわけであって、たとえ大雨に覆われることがあったとしても、その中で主の守りと助けをゆだねて旅を続けたことでしょう。主イエスは「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるお方」だと教えてくださいます。私たちの信じる神への信仰をご利益の観点で見るのでなく、全世界のすべての人を愛する神、すべての人を公平に裁かれ救おうとする神である聖書の観点から見るべきです。

人間の罪が蔓延り、戦争や自然災害に覆われる今だからこそ、公平なる神への信仰に生きることです。シャローム!


2022.8.21 本日の宣教

  『すべての壁を取り壊すイエス 』 (エフェソの信徒への手紙2:14~22)

人はいつも壁を作って生きています。自分が作る壁もあれば、自分も知らないうちに作ってしまう壁もあります。最初に壁を作るときには、その壁が自分を守ってくれると思って作りますが、時間と共にだんだんとその壁に閉じ込められてしまう自分に気づくようになるでしょう。

この壁は、人と人の間、国と国の間、民族と民族の間、人種と人種の間、宗教と宗教の間、男と女の間、・・・それから、何より神と人との間に出来上がった隔ての壁によって、わたしたちは寂しく苦しい人生を生きているわけです。聖書は、人が造るその壁こそ「罪によってできてしまった壁」だと教えます。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:1~2)」と愛なる神の切なる叫びが記されています。

本日の御言葉は主イエスを「壁を取り壊す方」として紹介しています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(2:14~16)」・・・ある神学者は主イエスのお働きを一言でこのように定義しています。“境界線の真ん中を分けられるお方”と。つまり、“男と女、義人と罪人、健康な人と弱い人、エルサレムとサマリア、ユダヤ人と異邦人”など、主イエスは個人や群れ、共同体の関係の間を歩まれながら、ありとあらゆる壁を取り壊す生涯を歩まれました。それぞれ、点であった人たちを線へと、また、面へと繋いでくださったのです。どうしても一つになれないような人たちを出合わせ、一致の心を与えられ、今まで知らなかった互いの尊さと美しさに気づくように導いてくださったのです。

主イエスが生まれた時から夢見ておられたことは、世界のすべての人が神の子どもとして、互いに愛し合う世界でした。強い者が弱い者をいじめることなく、強い国が弱い国を支配することもない世界、知識を持っている人が知識をもってない人を無視することなく、すべての人が神に愛される資格のある神の子どもとして愛し合い、尊敬し合う世界、そのような神の国が実現することでした。そのような共同体を「オイクメネ」と言います。これは、“家、家庭、世界”を表すギリシャ語で、神の命の息吹を分け合う多様な人々が共に過ごす所、つまり、神の家、神の庭園という意味なのです。主イエスは、世界のすべての人が神の家で親しく交わりながら、共に愛し合い、喜び祝うことを望まれ、主イエスは人々が作っておいた分離の壁を取り壊すために、ご自身の体を十字架で裂かれました。その十字架を通して神と人を和解させ、人と人を平和に生きるようにとつないでくださったのです。ハレルヤ!     


2022.8.21 小さな泉の恵み

 今年、高校野球が3年ぶりにコロナ以前の形に戻り、満員の観客を入れての開催になったようです。夏の暑さが半端ない今日この頃でも甲子園の景色は、高校球児と、その一つ一つのまっすぐな躍動に魅せられる人々であふれていました。

そんな高校野球で忘れられない光景に8月15日の甲子園があります。その日父と一緒に観戦に来ていた私は、昼の12時直前にいきなり試合が止まり、グラウンドの球児たちもスタンドの応援団も観戦者も皆12時のサイレンを合図に戦争で犠牲になった方々に黙とうをしました。 賑やかだった空間が一瞬でシンと静まり返ったその景色に、戦争と平和を見て、心が震えた記憶があります。

今年の2月にロシアとウクライナで突然始まった戦争は、私たちが描いていた、ドラマや映画の中のように、特別な空間の中で特別な出来事として起きている事柄ではなく、日常の平和で平凡な生活の中に何の前触れもなく、入り込んでくる悲惨さで、それは平凡で平和な日常のすぐ側にあるものなのだと思い知らされました。今年は例年と比べ、人々の戦争や平和に対する意識が高いようです。今、閉塞感の強いこの世界に住む者として、神の愛と、信仰と、救いの希望を身に着け、互いに励まし合い、共に平和に生きる者となりますように。 

                               S.Y.姉