2019年3月22日金曜日

2019.3.17 牧師室便り


~成長する人、成長する教会~

 “わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:13)”
 人の体の成長はいつか止まってしまいます。成長が止まっているのにもっと大きくなりたいと願ったとしても無駄なことになるでしょう。だから親は成長期の子どもたちにもっと良いものを食べさせ、できる限りのことをしてあげようとするのです。振り返ると、私の成長期には家庭環境のせいでしっかり栄養を取ることができず、“もっと伸びることができたのに…”という悔いが残っていました。だから、自分の子どもたちのためには最善を尽くそうとしているわけです。
 聖書は、私たちの「外なる人」より「内なる人」にもっと大きな関心を示します。なぜならば、「外なる人」の成長は時間的制限があるけれど、「内なる人」の成長には限りがないからです。私たちの“内なる人”はこの世で息を引き取る最後の瞬間まで成長し続けるという性質をもっています。そして聖書は、一人のキリスト者の内なる人が神との交わりの中で成長を続け、やがては「霊的巨人」になることを勧めているのです。そしてキリストの体なる教会の成長においても同じです。多くの場合、教会共同体の成長を、目に見える人数の多さや建物の大きさで判断しようとします。しかし、神の望まれる教会の成長こそ、キリストの体なる教会の各部分としての一人一人の内なる人の成長と共に成し遂げられる特徴をもっていることを心がけたいですね。
 神の家族お一人お一人は、キリスト者としての信仰においてどこまで成長したいでしょうか。また小泉町教会の成長についてどのような期待をもっているでしょうか。父なる神はあなたの信仰の成長とキリストの体としての教会の成長を楽しみにしておられます。2019年度に備える今の時、お一人お一人の内なる人の成長を期待し、祈りましょう。あなたの内なる人の成長が教会共同体の成長そのものであることを覚えましょう。シャローム!

2019.3.17 本日の宣教

『愛してくださる方によって』 (ローマの信徒へ手紙8:3139)
   本日、私たちは神の愛に満ち溢れ声高らかに讃美をしている一人のキリスト者の姿に出会います。その人は使徒パウロ。彼はもともと主イエスを信じるキリスト者と教会を迫害していた辛い過去をもっていた人でした。しかし、復活されたイエス・キリストとの不思議な出会いによって、全く変えられた人生を生きるようになった人でした。 パウロは、いくつかの質問を投げかけながら、手紙の読者たちを讃美の方へと導きます。それでは、質問の内容を挙げて見ると、①だれがわたしたちに敵対できますか。②だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょうか。③だれがわたしたちを罪に定めることができましょうか。④だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。 ・・・興味深いことは、パウロが投げかけているこれらの問いかけは、彼が分からないためではなく、実は、すでに答えが分かっていて、その答えを苦難に遭っているキリスト者と教会に伝えようとするパウロの確信に満ちた情熱の現れであったということでしょう。
 すなわち、創造主であり、全能者である神が味方であれば、どのような被造物も私たちに敵対することはできないという確信。そして、神が私たちのため、独り子でさえも惜しまずに死に渡されたならば、私たちに必要なものを与えられないはずがないという確信。それに加え、義の裁判官であられる神は、独り子イエス・キリストの十字架の贖いによる救いを信じる者を、罪赦された神の子どもとして認めておられるので、だれも私たちを訴えることができないのだという確信。さらに、真の弁護士となられる主イエスが、「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべきすべての罪の罰を、わたしが代わりに受けました。もう、この人が罰を受ける必要はありません」と執り成してくださるという確信。最後に、使徒パウロは、神に愛されている者としての勝利者宣言を声高らかにかかげます。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(3739
 今神の家族が置かれている状況はどうでしょうか。あなたを神の愛と勝利という讃美の場から引きずり下ろそうとする問題はどのようなものでしょうか。受難節を過ごしている今、ぜひ、神の愛の上にしっかり立ちましょう。あなたを救うために独り子をこの世に遣わし、十字架の上で死なせるほどあなたを愛してくださった神の愛にすがりつつ、勝利者の讃美をささげましょう。あなたを愛してくださる方によって生きるのです。ハレルヤ!
                          

2019.3.17 小さな泉の恵み


先週嬉しい報告がFacebookにアップされていた。広島に住んでいる友達が東京の神学大学への編入学が許され、4月から新生活を始めるという報告であった。彼女との出会いはYMCAでの活動を通してだった。私がバプテスマについて悩んでいるときに真っ先に相談した。バプテスマを決意し、報告した時、一緒に泣いて喜んでくれた。
愛する姉妹。いつも聖書から甘い蜜の御言葉を私に与え癒してくれる。ずっと彼女はわたしの牧者として献身してくれていた。家族がクリスチャンではないという悩みを分かち合い励ましあい、共に祈ってきた。そんな彼女を神様は神学校に導かれた。私も彼女のように祈り、神様の声に導かれ、まっすぐ私の使命を全うしたいと思う。彼女が私に与えてくれた聖書箇所で一番すきなところ「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」あなたが私と共にいてくださる! アーメン!
                          M.Y.姉

2019年3月12日火曜日

2019.3.10 牧師室便り


~ 給仕する者(執事)を増やそう ~

  毎週、わが教会の昼食後の台所は笑い声と明るい会話で賑わっています。最近まで“男の人が台所に入るのは恥ずべきこと”であった日本文化の中で、兄弟方が姉妹方と共に喜んで昼食の給仕や後片付けをするということは珍しく感じるかもしれません。すべての教会の奉仕がそうですが、その中でも昼食の時は、兄弟姉妹の協働のハーモニーが響き渡っているのです。料理をする人、料理を配る人、おかずを備える人、お箸を整え、お茶を配る人、食後には皿洗いをする人、皿を拭く人、皿や箸、小道具を片づける人などなど、そして兄弟姉妹の顔には喜びと笑いが絶えません。これこそ、わが教会の自慢の一つであると言えましょう。

  もともと、聖書が教えている「執事」(ギ:ディアコノス)の意味は「給仕する者」という意味です。聖書における多くの場合、給仕する者の多くは僕でした。主人のために、お客のために、仕える者としての僕の姿が、「執事」のあるべき姿なのです。ある教派や教会では、執事というと、教会の中の階級として用いられたり、名誉職のように扱われたりします。しかし、そうではない。執事は僕のスピリットをもって神と人に仕える者なのです。

次週、わが教会では2019年度、神の国と教会のために働きの先頭に立つ5人の執事を選ぶことになります。今までは4人でしたが、昨年の定期総会で提案された通り、5人の給仕する働き人を選びます。教会員が多く増えたからではありません。むしろ、“いつも決まった人ではなく、もう一人の働き人を育てたい、また、4人の執事が背負いきれなかった部分をもう一人を選ぶことで、補い合えれば素晴らしい”という神の家族の教会を思う愛からでした。神の家族の皆さん、僕になることを喜びましょう。また選ばれることを感謝しましょう。シャローム!

2019.3.10 本日の宣教

『小さな者たちの小さな祈りがもたらす奇跡』 (ルカによる福音書17510) 
 主イエスの御言葉のうち、浮彫りになる概念の一つが、「小さなものの素晴らしさ」ではないかと思います。主イエスはいつも小さなものの価値を強調されます。私たちの生きている世界は、大きいものの価値を強調し、多さに目を注ぎます。しかし、主イエスは小さいものを大切にされ、小さな人を愛されます。本日の御言葉に登場する「からし種一粒」がそうですし、“ごく小さなことに忠実な者”、また、“2枚のレプトンを献げたやもめの信仰”、“一人の少年が献げた5つのパンと2匹の魚の小さな献身”などを主イエスは大切に語られたのです。そうです。主は、常に、小さなもの、小さな人の忠誠を喜ばれ、神の国のために用いられるのです。

 しかし、主イエスが語られる小さなものが、本当に小さなものなのでしょうか。主イエスが言われる「小ささ」は私たちの目に見える形としての小ささ、また、量としての小ささを意味するのではありません。主イエスは、「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに対し、彼らにどれくらいの信仰があるか、以前に比べて信仰がどのくらい増してきたのか、ということに関心がありませんでした。むしろ、その人のもっている信仰のあり方について関心をもっておられることが分かります。すなわち、弟子たちが信仰の量に目を奪われることなく、彼らのもっている信仰がからし種一粒ほど小さいという信仰の謙遜さと自らを僕に過ぎないという信仰を身に着けて生きることを望まれるのです。
 愛する皆さん、私たちはどれほど小さなものでしょうか。どれほど弱いものでしょうか。この世界の巨大さ、その堅い壁を前にして私たちは小さくなってしまい、何もできない自分自身に失望しがちです。そのような傾向は信仰生活にも及んでいるのかもしれません。しかし、これは信仰を量で測ろうとしていた弟子たちの思いであって、決して主イエスの御心ではないことに心を定めましょう。私たちの主イエスは、私たちの小さな信仰の中に潜んでいる素晴らしい力をご存知ですし、その信仰の小ささを通して成し遂げられる大いなる奇跡を描いておられるのです。ただ、私たちに求められるのは、「からし種一粒のような小さな信仰の持ち主としての謙遜さと信仰の確信」、それだけで十分です。
 主イエスの弟子は自分の小ささを誇り、自分の弱さを誇ります。その人は、目に見える現実につまずいたり失望したりすることはありません。たとえ、どんな厳しい状況に置かれていても、その人は小さな信仰の祈りによる神の御業を信じ、ゆだねることができるからです。ぜひ、神の教会は最も小さな一人一人の信仰が合わせられて、大いなる神の国の御業が起こせることを覚えましょう。小さな者たちの小さな祈りがもたらす奇跡を期待しつつ、主イエスの御教えに耳を傾けることができる神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!

2019.3.10 小さな泉の恵み


〜「オンラインの恵み」〜
 ついに本年25日、小泉町のみなさんに送っていただき富山を後にしました。今通っているのは東京の中でも伝統ある大教会ですが、温かい歓迎を受け、水曜祈祷会や教会学校で親しき交わりをいただいています。
 とはいえ、小泉町での福音の学びと聖霊の交わりから離れることに不安を感じていたところ、閔先生が計らってくださり、Facebookのビデオチャットを通じて「火曜の聖書の学び」と「金曜ディボーション」に参加させていただいています。共に学んできた兄弟姉妹の顔を見て声を聞けるのが嬉しく、閔先生の解説とみなさんの証しから大いに学んでいます。遠隔からいろいろ御不便をおかけしていますが、みなさんの忍耐ある受容に感謝です。以前は自分で行くのが当然のように思っていた集会ですが、今はただ一方的に受ける恵みです。開始数分前からドキドキしてチャットの連絡を待っています。天から降るマナを待つ思いでもあり、主人一家のテーブルから落ちてくる食べ物を待つ子犬(キュ〜ン)でもあります。落ちてくるのは唐揚げやブリカツよりもおいしくて感謝です。こんなことをしてくれる教会はちょっと他にないですね。
 また、毎日のようにSNS やメールで兄弟姉妹とつながっています。こうしていただいているオンラインの恵みが、東京での新しいオフラインの礼拝と交わりの恵みとどのように共鳴していくか、とても楽しみです。
                                S.M.姉    

2019年3月4日月曜日

2019.3.3 牧師室便り


~ いつも福音の恵みを確かにする教会 ~

 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。…ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1:23-24
 イギリスのある小さな教会のアーチの門は蔦で覆われていました。その門には次のような言葉が刻まれていました。「私たちは十字架につけられたキリストを伝える」。・・・その教会の初期の敬虔な信者たちはこの言葉をいつも確認しながら、その言葉通りに生きようとしていました。どこに行っても、誰に会っても自分を愛し自分を救うために十字架につけられたキリストを伝えようと心がけていたのです。しかし、歳月が流れ、初期の人々は次第に年老い、若い人たちが教会の中心を担うようになり、教会の雰囲気も変わっていきました。蔦も次第に伸びて、刻まれていた門の言葉の一部分を覆うほどになり、次のような言葉が見えていました。「私たちはキリストを伝える」。・・・不思議と人々は、キリストを伝えてはいましたが、歴史上の聖人であり、愛の実践者として、また先生としてのキリストを伝えることに熱心でしたが、いつの間にか「十字架につけられたキリストの福音」が消えていったのです。その後、また月日が流れ、蔦はさらに伸び続き、アーチの門にあった言葉も次のような言葉しか見えなくなってしまいました。「私たちは伝える」。・・・その教会の中心を成す後の世代の人々は、自分たちが良しと思っていた思想や倫理、教会の伝統など、手当たり次第に何でも伝えました。そのうち、福音の恵みは薄れ、信仰する感動は冷えて行きました。やがてその教会には伝統と形が重んじられ、議論と行いを好む人たちだけが残るようになりました。

 神の家族の皆さん、私たちはいかがでしょうか。福音の恵みに生きるキリスト者としてのアイデンティティーが曖昧になっていては、信仰生活の方向性を見失ってしまうことになるでしょう。確かなことは、私たちの信仰を妨げている霊的な蔦を取り除くことです。再び、確かな福音の恵みに生きる神の家族でありますように…。シャローム!

2019.3.3 本日の宣教

『 神の恵みに生きる幸い 』 (テトスへの手紙2:1115)             
  パウロは、11節で、「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と宣言します。「神の恵み」とは、イエス・キリストを通してすべての人々に現された神の救いの御業、すなわち、イエス・キリストが罪の奴隷であった私たちを神の子とするために、私たちの身代わりとして十字架にかけられ、全ての罪を贖われ救われたという御業、そして死から復活されて、私たちに永遠の希望を与えてくださった御業のことを言います。「恵み」はただで与えられたものであって、人が何かの努力や頑張りで得られるものではありません。そして神の恵みは、救われたキリスト者を信心深くし、霊肉共に健全に生きていけるようにする力となってくれます。ですから、日々、救いの恵みを味わいながら生きるキリスト者は、その恵みに対する当然の応答として、“不信心と現世的欲望を捨てて、思慮深く、正しく、信心深く(12節)”生きるようになるのです。それに加え、神の恵みは「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ(=主の再臨)を待ち望むように」(13節)教えてくれるのです。
 パウロは、イエス・キリストが父なる神と同じ性質をもたれた方であることを明らかにします。そして、主イエス・キリストは、再び栄光のうちに現れる再臨の主です。ですからキリスト者は、キリスト・イエスの贖いの死による救い、神の民とされる祝福を受けた者にふさわしく、栄光の日を待ち望みながら、良い業に熱心に励むことが求められていることを忘れてはなりません。良い業はキリストの愛に満たされてこそ、はじめてできるものです。
 最後にパウロはテトスに対し、彼の若さのゆえに信徒たちに侮られることがあってはならないことを強く勧めます。テトスもテモテのように、若さと弱さのゆえに小さくなっていたことでしょう。しかし、キリスト教会における働き人は、神の代理人としての権威を受けています。ですから、“御言葉を語り、勧め、戒める”ことに躊躇してはならないのです。これらのことは教会を強くし、信徒たちを成長させるための最も重要な働きです。 
 
 今週からレントに入ります。毎年訪れるこの時期ですが、ぜひイエス・キリストの十字架の恵みに深く浸されていただきたい。キリストがご自身の命を捨てて私たち罪人たちの身代わりとなり、贖ってくださったその恵みに強く打たれていただきたいですね。
とりわけ、2019年度の小泉町教会と神の国のために仕える執事選挙が告示されました。ぜひ、神の恵みに生きながら、主の教会のために仕える働き人が選ばれるように祈りましょう。キリスト教会においての働き人はこの世の価値観や能力によって選ばれるのではありません。何よりもまず、神の恵みに満たされ、福音の上にしっかり立ち、聖霊に従って歩もうとする人です。新しく選ばれる5人の執事の皆さんを通して豊かな祝福に与りますように・・・。ハレルヤ!

2019.3.3 小さな泉の恵み



                                  
~入会の証し~
 
ハレルヤ!主の愛と、主の恵みのおかげで、私はここにいます。小泉町教会の皆さんといっしょに、主を礼拝し、讃美できることを感謝します。

私が生まれたところは80%がキリスト教信者の町でした。そのため、小さいころから教会に生き、キリスト教について教えられました。毎週、日曜日になると、教会に行って、礼拝をささげることから生活を始めました。
ところが、16歳のとき、私の家族に大きな試練が訪れ、神に失望し教会を離れることになりました。それでも主イエスは私を離れず、いつも私と共におられ、守ってくださいました。主の恵みで私は不可能と思われた高校を卒業することができました。しかし、その後も、いろいろな問題に苦しみ、たくさんの罪を犯しました。それでも、主は私の罪を許し、十字架の愛で私を救ってくださいました。主は私を離れず、ずっと私の面倒を見て、守ってくださいました。主の愛は、いつも私とともにあることを信じます。

一つ、忘れられないことがあります。10年前、長男を生んだ時のことでした。出血が止まらなくなり、心臓がしばらく動かなくなったのです。息が止まっていて、病院の先生は私の命をあきらめていたそうです。しかし、その時、そこにいた、家族と周りの兄弟姉妹が主を礼拝し、熱心に祈ってくれました。“主を賛美します!”主はみんなの祈りを聞いてくださいました。主は私を愛し、私を生き返らせてくださったのです。
私は、主の愛についてもっと知りたいです。私の子供たちにキリストについて教えたいです。まだまだ分からないことがたくさんありますし、間違うこともあると思います。ぜひ、皆さんとともに楽しく信仰生活をしたいと思います。これからよろしくお願いします。インマヌエル!
                                                                 Y.M姉