2019年3月4日月曜日

2019.3.3 牧師室便り


~ いつも福音の恵みを確かにする教会 ~

 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。…ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1:23-24
 イギリスのある小さな教会のアーチの門は蔦で覆われていました。その門には次のような言葉が刻まれていました。「私たちは十字架につけられたキリストを伝える」。・・・その教会の初期の敬虔な信者たちはこの言葉をいつも確認しながら、その言葉通りに生きようとしていました。どこに行っても、誰に会っても自分を愛し自分を救うために十字架につけられたキリストを伝えようと心がけていたのです。しかし、歳月が流れ、初期の人々は次第に年老い、若い人たちが教会の中心を担うようになり、教会の雰囲気も変わっていきました。蔦も次第に伸びて、刻まれていた門の言葉の一部分を覆うほどになり、次のような言葉が見えていました。「私たちはキリストを伝える」。・・・不思議と人々は、キリストを伝えてはいましたが、歴史上の聖人であり、愛の実践者として、また先生としてのキリストを伝えることに熱心でしたが、いつの間にか「十字架につけられたキリストの福音」が消えていったのです。その後、また月日が流れ、蔦はさらに伸び続き、アーチの門にあった言葉も次のような言葉しか見えなくなってしまいました。「私たちは伝える」。・・・その教会の中心を成す後の世代の人々は、自分たちが良しと思っていた思想や倫理、教会の伝統など、手当たり次第に何でも伝えました。そのうち、福音の恵みは薄れ、信仰する感動は冷えて行きました。やがてその教会には伝統と形が重んじられ、議論と行いを好む人たちだけが残るようになりました。

 神の家族の皆さん、私たちはいかがでしょうか。福音の恵みに生きるキリスト者としてのアイデンティティーが曖昧になっていては、信仰生活の方向性を見失ってしまうことになるでしょう。確かなことは、私たちの信仰を妨げている霊的な蔦を取り除くことです。再び、確かな福音の恵みに生きる神の家族でありますように…。シャローム!

0 件のコメント:

コメントを投稿