2022年4月3日日曜日

2022.4.3 牧師室便り

 ~ 互いに重荷を担い合おう ~

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです(ガラテヤ6:2)」

 本日から2022年度が始まります。コロナパンデミックが始まって以来、私たちの生活様式をはじめ、何もかもが変わってしまいました。“もう2年以上続いているので慣れた”という人もいれば、まだまだスッキリしない思いでストレスを受けている人もいるでしょう。とりわけコロナパンデミックによる被害を直接受けている方々のことを思うと心が痛みます。

 父なる神は2022年度の小泉町教会の歩みをどのように導かれるでしょうか。また私たちはどのような夢を抱き、どのようなチャレンジをすべきでしょうか。何より私たちの信仰の命とされる主日礼拝をどのように立て直していくかを祈りつつ取り組んでいくべきでしょう。そのためには牧師と執事、また信徒の皆さんの心を一つにすることです。

 新年度を始めるに当たり、示された御言葉がガラテヤ6:2です。「互いに重荷を担いなさい」という御言葉です。非対面礼拝が続き、コロナ疲れが続く中で、礼拝に集うことができず、一人寂しく重荷を背負っている神の家族がいます。もちろん各自、それぞれが主イエスによって与えられた「自分の十字架」を背負って従うわけですが、キリストの体なる教会共同体においては、互いに担い合える重荷があることを覚えましょう。ある人は、「自分の十字架を背負うだけで精いっぱいです!」という人もいれば、「特別に重荷と言えるようなものはありません。」という人もいるでしょう。

しかし、「自分自身も重荷を負う人間であり、誤りを犯しやすく、助けを必要とする弱い存在であること」に目覚めることからキリストの教会の愛の交わりが始まることを覚えましょう。まず、牧師が、執事が、一人一人の信徒が弱さを認めつつ、与えられた働きに臨むことです。願わくは、主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも互いに重荷を担い合うことによって「キリストの律法を全う」する2022年度の小泉町教会の神の家族お一人お一人となりますように…。シャローム!


2022.4.3 本日の宣教

 『 世の罪を取り除く神の小羊 』(ヨハネ1:29、イザヤ53:6~7)

近年、イエス・キリストの十字架の贖いの死を認めない動きがあります。すなわち十字架が神の御心ではなく、ただ当時の政治権力による暴力によって殺されたのだと主張します。しかし、どうでしょうか。イエス・キリストの十字架を神の御心でないとすれば、十字架を誇るというキリスト教会とキリスト教信仰はどうなるでしょうか。十字架の信仰を否定することは、旧新約聖書の御言葉と主イエスの救いの御業を否定することになるでしょう。また、私の信仰の中心に立っている十字架による感動と恵みを消してしまうことになるのです。                                                  

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(ヨハネ1:29)。」… これは、バプテスマのヨハネが、主イエスを紹介した最初の言葉です。ヨハネはなぜ「小羊」という言葉で主イエスを表現したのでしょうか。偶然、頭に浮かんできた動物を表しただけでしょうか。ここで、彼が「世の罪を取り除く小羊」と言った時、恐らく彼の頭には「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ53:6~7節)。」というイザヤの「いけにえとしての小羊」として来られるメシアを根拠としたことでしょう。すなわち、罪人たちの罪の重荷をすべて背負われて屠られる小羊、しかも、その小羊は、受身的にただ、死刑の刑罰を受け入れたのではなく、自ら選び、進んでその命を献げ、最後の血の一滴までも世の人々のために注ぎ尽くされた小羊となられたのです。 

私たちキリスト者は、主イエスの十字架によって贖われ赦された存在です。十字架こそ、罪の中で滅んでいく人類を救おうとされた神のご計画でした。主イエスは、聖書に書いてある通り、神の独り子としてこの世に生まれ、ご自身の体をもって、全人類を救う贖いのいけにえとなり、赦しを得るための救いの道を開いてくださったのです。そしてその十字架で死なれた主イエスのゆえにすべての人を赦すことができます。 

愛する神の家族の皆さん、真にこの世は罪と汚れに満ちています。どこを見ても罪に汚れ悪に満ちています。何より、私たちの心が罪で汚れていますし、常に欲望と自己中心に満ちて神に背く性質をもっているのも事実です。そんな互いの欲望と自己中心というものがぶつかり合っているのが世の中ですし、その中で傷つき、傷をつけ合っている私たちです。しかし、主イエスは、私たちの欲望と自己中心の罪を打ち砕き完全に取り除くために十字架にかけられ、ご自身の体を裂いて、最後の一滴の血までも注ぎ出し死んでくださったのです。それゆえ、私たちは聖められ救われる道が開かれたのです。

願わくは、神の小羊なる主イエスの救いの御業を褒めたたえ、十字架を見上げる神の家族の日々でありますように…。罪の力に負けそうな時、“主よ、私の罪を取り除いてください”と祈りつつ御前に近づきましょう。ハレルヤ!


2022.4.3 小さな泉の恵み

 小泉町の神の家族の皆さん、お久しぶりです!

2月初に渡韓し、3月からはc大学校人文大学史学科で大学生活をしています。

初めての大学生活、寮生活、独り暮らし、(本格的な?)韓国での学校•教会生活、、、何重もの初めてを前に、不安と期待が複雑に入り交じった気持ちでスタートラインを切りました。

寮や学科、キリスト教学生会や教会で、神様が大切な出会いを豊かに恵んでくださって、今は最初に比べて大いにリラックスして、この生活に慣れてこられた気がします。

富山では雪が溶け、桜が咲くころでしょうか。こちらは天気が少しずつ春めき、黄色いレンギョウが愛らしく咲き誇っています。

新しいことを始められる神様が、私がどんなに愚かで弱くて揺れ動いても、不安と不信の中にいても、導いて善きことを成し遂げてこられたことを賛美します。

大学での学びの時が、変わらない真理を追究し、み言葉と深く向き合い、大事な隣人と出会い、神様が喜ばれる姿に成長する時でありますように。

皆さんの祈りに支えられて、皆さんに感謝して、皆さんを覚えて、これから善き大学生活を送っていきたいです!

主に栄光、主の平和

                               M.J. 兄