2022年3月30日水曜日

2022.3.27 牧師室便り

 ~ 繋がれている恵み ~

本日は、2021年度の52週目となる主日礼拝です。コロナ危機が続く中での一年間の歩みが守られたことを心から賛美します。まだまだ明日という道に霧がかかっているような不安定な日がしばらく続きそうですが、主イエスの十字架にすがりつつ、信仰のチャレンジに励みたいものです。

さて、本日は富山小泉町教会に連なる二人の牧師先生のことを覚え祝福を祈りたいと願います。まず、富山小泉町教会の7代目の牧師であった酒井敬仁先生(緑の牧場キリスト教会)が、本日の礼拝をもって牧師を引退されることになりました。小泉町教会の歴史の中で、一時閉鎖という試練の後、再開拓が決まった1982年から1991年に東広島の方へ旅立たれるまで教会の信仰の土台をしっかりとしたものに建てられた先生でした。西南大学神学部を卒業されてからの最初の赴任地が小泉町教会でしたので、酒井先生ご夫妻にとって思い出深い教会であるでしょう。今まで酒井先生ご夫妻の流された汗と涙、ご苦労に主が豊かな慰めと祝福で報いてくださいますように…。

もう一人は、小泉町教会で救われ、小泉町教会から生み出された最初の献身者である宮田祐亮牧師です。宮田先生は2014年に召命を受け、西南大学神学部に入学し、卒業してからは福岡の野方キリスト教会の牧師として今年の3月まで立派な働きを果たされ、神の導きに従って今年4月からは山形キリスト教会の牧師として赴任することが決まりました。今まで宮田先生ご夫妻は、神の家族に愛されながら、祈りと支えの中で立派な働き人へと成長しました。そして本日は、宮田先生ご夫妻が山形へ旅立つ前に母教会の小泉町教会の神の家族に報告をし、祝福の中で山形へと旅立つことになります。愛する主が、宮田先生ご夫妻の新しい旅を祝福され、豊かな実を結ばせてくださいますように…。主イエスにつながれている恵みはいかに素晴らしく幸いなことでしょうか。「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」・・・シャローム!


2022.3.27 本日の宣教

『  鎖につながれた希望 』使徒言行録28:17~20)

         


こうして愛する富山小泉町教会の皆さんと、久しぶりに礼拝をおささげする事ができることを心から主に感謝したします。いつも私たち家族の為に執り成し祈ってくださっていること本当にありがとうございます。この度5年間の牧会した野方教会を辞任して、新たに招聘をいただいた山形教会へと転任することとなりました。たとえ仕える教会が変わったとしても、どこに行こうとも、富山小泉町教会で養われた信仰をもって、主と教会に謙遜に、忠実に仕えていきたいと願っています。

さて、このコロナ危機を生きる私たちですが、一体どこに希望を見出せばよいのか分からないような日々を過ごしています。まるで何重にも鎖が巻き付けられたような不自由さを味わっているわけです。小泉町教会におかれましても、十分に教会の宣教活動ができずに、感染予防の観点から自粛せざるを得ない状況であったと思います(現在進行形で)。コロナの影響によって世界中のキリスト教会もまた、問われ続けています。聖書が教えるように、初代教会は、人々が一つの家に集まり、心を一つにして祈り、一緒に食事をとりながらその信仰を育んでいきました。教会の原点は「共に集まる」ことから始まっていると言えます。共に顔と顔とを合わせ、共に手を取り合い、共に祈り、共に賛美し、共に聖書を読み、共に食卓を囲む。そのような愛の交わりこそ、教会の何にも勝る大きな特徴であったと思います。ところが、私たちがコロナによって経験した変化は、「共に」が遮られて、「集う」ことを控えなければならない現実でした。

パウロも危機の中で、鎖に繫がれながらも、福音を宣べ伝えました。そしてそこに神さまの不思議な導きがあったのです。私たちも希望を捨てず、コロナ禍においても、イエスさまの愛と福音が1人でも多くの人に宣べ伝えられることを期待して歩みたいと思います。


                          宮田 祐亮


2022.3.27 小さな泉の恵み


私の住む村は立山町でも丘陸地のため町内でも積雪の多い村、標高240メートル、春の訪れは町内では遅い地域です。家の裏から富山平野や、日本海が見える、とても景色の良い所です。積雪が多く、雪どけが遅く、現在、いまも村の所々に雪が残っています。

荒木の家族は戦災にあって住む所が無く、この村に来て75年の歳月。この村は全員の方が戦災でこの村に住み着いたとのこと。

我が家は生きるために農業を強いられ、懸命だったとよく聞きました。

ここは標高が高地のために色々の苦労があったと語られました。栄作を耕作するには、標高が高いため水の温度が冷たく、なかなか収量が少なく苦労が多く困ったこと。

色々と指導員のアドバイス等を三こしての農作業等の苦労話が聞かされました。

農業は、その季節によって収量が左右される。事なので苦労もあります。

神さまから与えられた土地を守って励んでいきたいと思います。

村の方々と交わり、色々と教えて頂き、この土地に合った農作業を営んでおります。

                               A.M. 姉


2022.3.20 牧師室便り

  ~ どのようなときも賛美を! ~

「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。(詩編34:2~4)」

本日は、2022年度最後の賛美礼拝です。 聖書は「どのようなときも、絶えることなく主を賛美せよ」と勧めていますが、この一年間、神の家族お一人お一人にとって賛美の生活はいかがだったでしょうか。とりわけ2年以上も続いているコロナパンデミックによって、私たちの賛美する心も薄れてしまったのではありませんか。さらに、ロシアとウクライナ戦争による世界的な混乱が高まっているし、世界各地における自然災害のことなどで、何となく心の中に雨雲がかかっているような近頃でしょう。そんな中、“もう少し状況が良くなれば賛美できるけど、今のところ、賛美は無理です!”と思う人もいるかもしれません。皆さんはいかがでしょうか。

今、教会の花壇は春の命の合唱で満ちています。特に、昨年の秋に植えていたチューリップの芽が勢いよく出てきています。チューリップが作り出す花壇の姿が待ち遠しいですね。大自然は私たちが心配し不安がっているコロナ、戦争、自然災害などに影響されません。彼らはただ神から与えられた自然の摂理に従うだけです。…「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。…今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな(マタイ6:26、30~31)。」…

神の家族の皆さん、私たちの目を天に向けましょう。大自然を創造され、今も治めておられる父なる神を見上げて、また、再び雲に乗って来られると約束された独り子の再臨を待ち望みつつ、どのような時も、絶えることなく賛美の歌を歌う小泉町教会のお一人お一人でありますように…。シャローム!


2022.3.20 本日の宣教

『 高ぶる者、へりくだる者』 (ルカによる福音書18:9~14)

 今は受難節です。本日の御言葉は、今から2000年前、主イエスがエルサレムに入城されてからの受難週のうちの火曜日に周りに集まってきた人々に語られた内容です。

本日の物語で主イエスは、ファリサイ派の人と徴税人の二人の祈りを対比しておられます。当時のファリサイ派の人々は一般の人からとても尊敬されていて、律法を誠実に守る聖なる人として認められていました。その反面、ローマ帝国に仕えていた徴税人の方は、最も罪深い存在として、イスラエルの人々からは汚れた存在、嫌われていた人と見なされていたので、その徴税人が祈りに神殿に行ったこと自体が珍しいこととして受け取られていたでしょう。

同じく神殿に集い、祈りを献げていた二人でしたが、二人の祈りの内容と態度は全く違うものでした。まず、ファリサイ派の人の祈りは長かったし、その祈りの主語は「私」であったことが分かります。しかし、徴税人の祈りはシンプルで短かったし、その祈りの主語は「神様」でありました。また、ファリサイ派の人の祈りは、他の人との比較の中で、彼の関心は人、すなわち人間社会の横の関係ばかりに関心がいって、人の方に目を向けていたことが分かります。しかし、徴税人の関心は、天の神様、すなわち神様との縦の関係に向けられていました。

とりわけ、ファリサイ派の人の祈りは「自分の義」を自慢する内容を並べることになっていることが分かります。まず、律法が「やるな!」と言われていたことに合わせて、自分はその罪を犯してなかったことを並べ、続けて、神の前で自分を誇れるような信仰行為、すなわち、断食のことや十分の一の献金生活に徹底していることを自慢するように祈りに加えていました。

 しかし、ファリサイ派の人の祈りとは対照的に、徴税人は遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、自分の胸を打ちながら、自分自身が罪人であることを告白し、神の憐れみを乞い求めている姿を見ることができます。この徴税人の祈りは詩編の中に記されている神が喜ばれる礼拝者の姿勢を反映していることが分かります。…「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる(詩編34:19)。」続けて、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません(詩編51:18)。」… 徴税人は自分が罪人であることを告白することで、神の前で義とされたことを主イエスによって認められたのです。神の家族の皆さん、礼拝や祈りの究極の目的は何でしょうか。それは、神に出会うことであり、神の御前で真の自分自身に気づき、神から義と認められることにあります。

主イエスはたとえ話を終えながら、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われます。私たちは、このたとえ話を通して主イエスが望まれる礼拝者、望まれる奉仕者の姿を知ることができます。とりわけ、次週は小泉町教会の2022年度の奉仕の先頭に立つ5人の執事を選ぶことになります。願わくは、神の前に高ぶることなく、常にへりくだり、神の憐れみと助けを乞い求める中で、神に義と認められる神の家族お一人お一人であり、執事の皆さんでありますように…。ハレルヤ!


2022.3.20 小さな泉の恵み

 少し前の話です。

私は、“甘いばあちゃん”なので、孫を連れてハンバーガーショップに行きました。

孫はオマケ目当てで、子ども向けのセットを注文したいと言いました。目当てのオマケは、孫が好きなキャラクターで、3分の一だったか、4分の一だったかの確率で、孫の目当てのものが付いてくるということでした。

当たればいいけど、もし外れたら…と、私は心配で、「もし、違うのが当たったら…」と話し出したら、すかさず、「お祈りしたから大丈夫。」と、まるで安心した様子の孫に、どうやってお祈りしたのか聞いてみたら、「こうやって…」と、指を組み、教会でいつも見ている祈りのポーズをやって見せました。

(ワガママな孫のことだから、外れたら、どうしよう。)と、ドキドキしながら帰宅して、オマケの袋を開けたら、なんと、希望通りのオマケが入っていました。

こんなことが、子どもの信仰と言えるのか、わかりませんが、信じて安心していた孫と、疑って心配していた ばあちゃんの、ある日の出来事でした。

                           K.I.姉

2022.3.13 牧師室便り

 ~すべてをつなぐ十字架~

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

(エフェソ2:14~16)

 ロシアのウクライナ侵攻によって始まった戦争が、すぐ終わるだろうという予想を超えて長引いています。それに伴いウクライナとロシア両国における犠牲と被害は日に日に厳しさを増していますし、これから起きるだろう両国の国民同士による復讐の連鎖が心配です。また、被害は両国間だけでなく、世界の経済や政治にも及んでいることを目の当たりにすることで、戦争は勝利者のいない悲劇に過ぎないことを、再三教えられているような気がします。テレビや新聞を見ると、今回の戦争がロシアの間違いだという主張が多くを占めている反面、ウクライナが問題の発端となったために今回の戦争が起きたのだという主張も少なくありません。しかし、何より大切なことは戦争があってはならないという必死の思いで両国が取り組むべきだったことですし、今も一日も早い戦争の終息のために最善を選ぶことです。

 そして先週、隣国の韓国において大統領選挙が行われ野党の候補が大統領に選ばれました。しかし、その得票数の差は僅か0.8%でした。まさしく両陣営が極端に分かれていることが見て取れます。もちろん勝った方は嬉しいと思いますが、負けた方の悔しさの感情は耐えられないものでしょう。真っ二つに分かれている国民をどのように和解させ将来に向けるかが新しい大統領の正念場であるでしょう。

 私たちは絶えず価値観、思想、階層、性別、地域などの違いのゆえに争ってきました。それを解決するために様々な人間的な方法を使って頑張ってきましたが、一瞬の間違った選択によって葛藤が生じ、赦せない敵を作ってしまい、戦争に走るという間違いを繰り返してきたのも事実です。これはまさしく悪しきサタンの狙いであるのです。それでは、どうすればいいだろうか。答えはただ一つ、キリストの十字架をすべての関係の間に置くことです。主イエスの十字架から示された命をかけた愛と赦しを通して国が国を、民族が民族を、人が人を見ることです。主イエスの十字架はすべてをつなぐ力をもっていて、すべての敵意を滅ぼすことができるからです。シャローム!


2022.3.13 本日の宣教

『 主イエスが望まれる教会③ 』~ペルガモン教会②~(ヨハネの黙示録2:12~17)

 =わたしの忠実な、わたしの証人②=    

先週からペルガモン教会について学んでいます。主イエスは、ペルガモン教会が外側の攻撃や迫害に対しては妥協しなかったことを称賛されましたが、本日の御言葉を通して、内側において小さな誘惑につまずいてしまったことを叱責されていることが分かります。

そこで、例えられているのが「バラムの教え」でした。バラムは民数記に登場する占い師です。彼は、イスラエルの民をモアブの女たちを通して性的乱れと偶像崇拝の罪へと誘い、イスラエルの内側から大きな混乱を招くことがありました。それと同じように、ペルガモン教会の中にはバラムに例えられる「ニコライ派」の教えに従う者たちが忍び込み、ペルガモン教会の信徒たちを偶像と皇帝崇拝へと誘惑することになります。それなのに、ペルガモンの教会は、その偽りの教えを拒むどころか、彼らを受け入れてしまったのです。外側からの命をかけるほどの厳しい戦いには勝利したけれど、内側からの小さな誘惑に負けてしまい世俗化の波に呑み込まれてしまったペルガモン教会でした。パウロが語っているように、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。(一コリント5:6)」という、小さなパン種が全体に影響を与えることを私たちも重く受け止めなければならないでしょう。…主イエスは聖なる方で真理そのものであるため、偽りとは共におられません。その通り、もし真理ではない偽りの教え、間違った異端の教えが教会の中に忍び込み、それが容認されてしまうのであれば、教会はその根本から揺れ動いてしまうのです。それらの偽りからの誘惑に惑わされないために、教会は福音の御言葉を教えることと、養うことに力を尽くし、偽りを見抜く力を身に付けなければならないのです。

続けて、主イエスはペルガモン教会を「悔い改める」ことへと招かれます。「だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。(16節)」・・・ヨハネ黙示録において、とりわけ7つの教会へのメッセージにおいて、叱責と悔い改めのメッセージは一つのセットとなって語られています。主イエスは、真心から悔い改めた人や共同体の罪を赦し、新しいチャンスを与えてくださいます。主イエスは真心から悔い改める人や共同体を赦されない時はなかったことを覚え、常に御前に近づくことです。そして、主イエスはここで、「もし悔い改めなければ、主イエスの口の剣をもって戦われる」!言われます。「イエス様の口の剣」とは、裁きのことを意味しますし、しかも「すぐに」と言われることから、終末においては、悔い改めの時間がそれほど残されていないことを指しているのです。主イエスとの関係を回復し、神の国をいただくために、悔い改め以外の方法はありません。

最後に、勝利を得る者たちに与えられる特別なご褒美の約束が語られます。「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。(17節)」…「隠されていたマナ」とは、ユダヤの黙示文学において、終末に再び与えられる“隠された荒野のマナ”のことを指します。また、新しい名が記されている「白い小石」とは、信仰の清さを守った人が、終末のメシアの祝宴に参加できる資格を与えるしるしとしての石のことです。願わくは、サタンとの戦いに勝利し、神が催された祝宴の豊かさに与ることのできる神の家族お一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ!


2022.3.6 牧師室便り

  ~主イエスの十字架を仰いで~

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6:14)」

 今年も受難節(レント)が訪れました。灰の水曜日(3月2日)からイースター(復活祭)の前日までの40日間の主イエス・キリストの十字架の受難を覚え、私たちの罪を悔い改めつつ、キリストへの献身、服従を新たにする期間でありますし、未だ救われていない、愛する家族、友人、共同体、国のために執り成す時です。ぜひ、神の家族お一人お一人が、福音書に記されている主イエスの十字架の苦難の道を一緒に辿りながら、その受難と死を黙想し、罪人たちを愛し救うために独り子を十字架にかからせ死なせられた父なる神の恵みに応答する時としましょう。

とりわけ今は、ロシアのウクライナ侵攻によって犠牲になられ涙している方々の上に主イエスの慰めと助けを祈りましょう。また、サタンに支配され、戦争と混乱の道を走ろうとしている世界の権力者たち、また彼らの側に立っている国々や民らも、主イエスの十字架による愛と正義によって、必ず裁かれ砕かれますように、加えて、一日も早い和解と終戦が訪れるように祈りましょう。

 今しばらく新型コロナウイルスによって顔と顔を合わせることができない中で礼拝を献げていますが、神の家族お一人お一人が、それぞれの場所で主イエスの十字架の愛に触れながら、何をするにしても主イエスの十字架を仰ぐ十字架の証人としての歩みを確かにしますように…。世界中のキリスト者が十字架の証人として愛と赦し、犠牲のメッセージを発信することによって神の国は力強く成就されていくでしょう。シャローム!


2022.3.6 本日の宣教

『 主イエスが望まれる教会③ 』~ペルガモン教会①~(ヨハネの黙示録2:12~17)

      =わたしの忠実な、わたしの証人①=    

本日は、7つの教会のうち3番目のペルガモン教会です。ペルガモンは前回のスミルナ教会から北に約60㎞離れた、海抜300mのところにある、谷間に囲まれた町で、「要塞」という名前通り、地理的、環境的にとても恵まれた町でありました。また、経済的、宗教的な影響力においては、エフェソやスミルナに匹敵するほどの町であって、ペルガモンの町にはギリシャ神話に登場する神々、ゼウス神殿から、アポロ神殿、知恵のアテネ神殿、お酒のディオノソス神殿など、私たちも初めて聞くような神殿が町の至る所に建てられていたのです。その中でも、小アジアの中で、ペルガモンは、皇帝を崇拝するための神殿が最初に建てられるほど、偶像崇拝に熱心な町でした。その結果、ペルガモンの町は皇帝の象徴である特別な「剣」を授けるほど、信頼を得ていたのです。ペルガモンの人々はその剣を「正義の剣」と呼びながら誇っていたわけです。

主イエスはご自身について、「鋭い両刃の剣をもっている方(12節)」であると紹介されます。すなわち、世界を支配するものはローマの剣ではないのだ!という、むしろ真の神、世界の王の王なる主イエスの口から出る御言葉こそ、すべてのものを支配し、すべてを切り離す力であります。…今、世界はまさしくロシアによるウクライナ侵攻によって、ローマ皇帝の剣が支配しているように見えるかもしれませんが、真に世界を支配しているのは、イエス・キリストの口から出る御言葉であり、その鋭い御言葉の両刃によって、すべての人を裁かれ、新たに創造される日が必ずやってくるということを示しているのです。(※ヘブライ4:12参照!)  

続けて主イエスは、ペルガモン教会があった地が、「サタンの王座がある所であることを知っている(13節前半)。」と告げられます。その通り、ギリシャのあらゆる神々の神殿で溢れていた町、ローマ皇帝崇拝の中心地であったペルガモンはまさしくサタンが王として即位しているような地でありました。そのサタンの王座のある町の只中にペルガモン教会は建てられていたのです。ですから、当時のペルガモン教会と信徒たちが被っていた厳しい迫害と苦しい生活は大変だったでしょう。しかし、主イエスは彼らの置かれていた状況をよくご存じでありました。         

そこで語られる、主イエスの称賛の言葉に耳を傾けましょう。…「しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった(13節)。」…この御言葉通り、ペルガモン教会の信徒たちは、主イエスの名をしっかり守り、信仰を堅く保ちました。サタンの圧倒的な力を前にしながらも、彼らは主イエスを否認せず、主イエスこそ真の神、真の王であることを堅く信じ信仰を貫き通したのです。そのペルガモン教会の信仰は、アンティパスとう人の殉教の死を通してはっきりと示されることになりました。

ここで「わたしの忠実な証人」と訳されているこの個所の原文を見ると、実は「わたしの忠実な、わたしの証人」というふうになっています。すなわち、「わたしの」という言葉を二度繰り返すことで、アンティパスに対する主イエスの親しみと愛の深さが示されているわけです。主イエスから「わたしの忠実な、わたしの証人」と呼ばれていたアンティパスのように、私たちも呼ばれたいものです(※二コリント4:8~11参照!)。ハレルヤ!


2022.2.27 牧師室便り

 ~今こそ、世界に目を向けるとき~

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか(詩編2:1~2)」

いよいよ心配していたロシアによるウクライナへの侵攻が始まり多くの犠牲者が発生ました。1991年、ソ連崩壊後独立したウクライナでした。しかし、独立した後のウクライナは親ロシア派(東部側)と親欧米派(西部側)に分かれ、ずっと政治的な対立が繰り返されてきました。「オレンジ革命」、「クリミア半島併合」などの出来事は、今のウクライナを象徴していると言えましょう。…その反面、「大国の復活」を掲げるロシアのプーチン大統領は、旧ソ連から独立したウクライナのEU加盟や「NATO(北大西洋条約機構)」への加盟を進めることを警戒し、圧力をかけ続けてきました。そして先週に入って、プーチン大統領はウクライナ東部の武装勢力地域を「独立国家」として承認し、その地域を守るという口実でウクライナの東部地域を侵攻し、すでにウクライナの全土における軍事施設への爆撃を行い、攻撃は首都のキエフにも及んでいて、多くの人が命を落とされている現状です。これに対して、国連はじめ、世界の国々がロシア制裁を発表しています。しかし、その制裁がどれほどの効果をもたらすかは否定的な状況でしょう。これから、戦争による犠牲に遭う多くの人のことを思うと心が痛みます。コロナ危機も続く中、今回のロシアによるウクライナ侵攻によって、さらなる混乱が、世界を覆うことになるでしょう。・・・“主よ、憐みたまえ!”

主イエスは一人の罪人が悔い改めることで、天国では宴会が開かれると言われるほど、一人の存在と命こそ、何にも代えがたいものであることを教えられます。なのに、ロシアをはじめ、アメリカ、中国などのこの世の権力者たちは、決して正当化されない理由で戦争を始め、主イエスが十字架の上で命を捨て、身代わりとされるほどの尊い人の命を軽々しく殺してしまっています。真の支配者、真の正義を成し遂げられる神が、必ず罰せられることを信じつつ、主の助けと憐みを祈るのみです。主イエスに赦され神の国の民とされた者として、個人主義やナショナリズムに狂ってしまっている世界で、十字架の証人として世界平和と救いのため執り成しつつ、御心を叫びましょう。シャローム!


2022.2.27 本日の宣教

 『 “喜びの遊び”~福音の種をまく人~ 』

わたしの目には、あなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し‥。(イザヤ書43:4)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピの信徒への手紙 4:4)

私が少女時代を過ごした名古屋は、子供の私にとって楽しさとワクワクと優しさに満ちた場所でした。子供たちは学校から帰ると、誰が言うでもなくいつもの場所に集まり、みんなで相談して何をして遊ぶかを決め、力いっぱい体を動かして夢中で遊んでいました。一方で、虫や植物を観察したり、本を読むのが大好きだった私は、本が沢山ある友達の家で心ゆくまで本を読んでいました。そんな幸せな日々の中で、とても大切な一冊の本に出合いました。それが「少女パレアナ」です。あらすじをいうと少女パレアナは母と牧師である父を幼くして亡くし、遠く離れた叔母に引き取られます。叔母は大金持ちですが、心がかたくなで冷たくなっていましたし、村にも問題を抱えた人々が沢山いました。しかし、生前父から「聖書には800もの喜ぶがある」ということから始められた「喜びの遊び」をずっと続けていたパレアナは、ピュアな心でその喜びの遊びの種を村中にまき続け、その種が芽を出して育ち、叔母だけでなく問題のあった村を喜びの村に変えていく話です。

わたしたちは生きていく中でさまざまな出来事に出会います。楽しく嬉しいこともあれば、辛く悲しいこともあります。また、自分はダメな価値のない人間だと思い自信を無くしてしまうようなこともあるでしょう。

でも考えてみれば、私を見つけ出してくださった主が、「わたしの目には、あなたは価高く貴く」と言われ、続いて、「私はあなたを愛し…。」と言って下されば、「何と感謝なこと!」といって大喜びするところでですから、主が愛してくださっていることを思い出し、どんな自分も好きでいようと思わずにはいられません。                                          

御言葉を知ることは、神を知ることであり、私たちには、大きな喜びであり生きる糧となります。それゆえに、主は私たちに、どんな時でも「主に於いて常に喜ぶ」ことを望んでおられるのではと思います。私たちは時として喜ぶことを忘れ、ネガティブな感情に飲み込まれてしまう事があります。そんな時、そんな状況でも喜びと感謝を見つけ出せば、ポジティブな心を取り戻すことができるのです。その本と出合ってから、喜びの遊びを続けている私ですが、長い年月を経て教会に導かれ、御言葉に触れるうちに聖書には喜びという言葉が溢れていることを自分の目で知ることができました。今、聖書を読む日々の中で、聖書は究極のポジティブ本ではないかと思っています。聖書には私たちを励まし、希望と元気を与え、生きてゆく知恵を頂ける言葉が数えきれないほどぎっしりと詰まっています。それは命の箱であり、宝石箱であり、時にはびっくり箱でもあります。そしてその中には800もの喜びという御言葉が溢れています。     

主が一人一人に与えてくださった聖霊様に助けられ聖書を読み、瞑想し祈る私たちが、主に於いて常に喜び、その喜びの種を、少女パレアナが「喜びの遊び」という福音の種をまき続けたように、私たちも今、喜びの種を携えて周りの人々や隣人に喜びの(福音の)種をまく力が与えられますように祈ります。

                        S.Y. 姉

2022.2.27 小さな泉の恵み

 立春も過ぎ春だなぁと思っていたのに、雪、先日は一日中降りどうしだった。雪には慣れている私ですが、やっぱり歳のせいか、うんざりしてしまいました。  

私の住む所は、立山町でも雪の多く降る地域。

雪の降った後が、大変である。若い時は、歩くのが好きで、得意だったのが、どうも歳のせいか歩行が困難になり、小さな障害物にも、つい転倒して困っております。

先日も転倒して、幸いなことに軽い傷で終わりましたが、神様は歩くときは充分注意をしてと、私に諭してくださっているのだと信じています。

「大難は小難」「小難は大難」のことわざがあるように、いましめの言葉だと思います。

お互いの日常生活においても十分注意して行動したいものです。

                               A.M. 姉


2022.2.20 牧師室便り

  ~今こそ行いによる信仰を示すとき~

“行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(ヤコブの手紙2:17~18)” 

牧師になってから多くの人にバプテスマを授けてきました。その度毎に、創造者なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神への信仰告白と共に、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いの愛と復活を真心から信じることによって神の子とされ、神の国の永遠の命が約束されていることを学ぶ時をもちます。その後、信仰の証しを信仰共同体の前で確かめることによってバプテスマ式を執り行ってきたのです。

しかし、私がバプテスマの度に抱く課題として、その人の唇による信仰告白でしか、その人の信仰を確かめることができないということでした。だからといって、その人の行いを何年もかけて確かめてから、バプテスマを授けることもおかしな話になるでしょう。救いは行いではなく、信仰によって与えられる恵みだからです。結局は、神とその人だけが知っている信仰によって救いが決まるということでしょう。たとえ牧師であっても、その人が救われているとか、救われていないとかを決定し、宣言することはできないからです。救いのことは100%神の恵みの領域であるからです。

私たちは「正しい人は信仰によって生きる」という言葉に慣れ親しんできました。確かに信仰によって救われるという事実は誰も否定することはできません。では、その信仰の真偽を何によって判断することができるでしょうか。しかしヤコブは、信仰を判断する基準を行いにあると告げます。信仰にふさわしい行いが伴うとき、その信仰は真実なものであると。口では「信じます」と言っても行いが伴わないなら、あるいは信仰を否定する行いをするならば、その人の信仰は偽物なのかもしれません。

新型コロナ、気候変動、戦争、飢餓、共同体崩壊など、主イエスが言われた終末に起こるはずのしるしを目の当たりにしている今日です。今こそ、キリスト教会と私たちキリスト者は、御言葉に基づいた行いによる信仰を世界に示すべき時、キリスト者としての真骨頂が問われる時、神の子としてのプライドを、生きた行いをもって指し示すべき時です。シャローム!


2022.2.20 本日の宣教

 『 あなたを見守ってくださる神に 』(詩編121:1~8)  

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから(詩編121:1~2)。」

本日与えられた詩編121編は「都に上る歌」という、神殿巡礼の時に巡礼者たちが歌っていた詩編です。

人間は助けを受けなければならない存在として創造されました。この世の中で、一人の力で生きていける人は一人もいません。詩人は、人生の真の助けと守りは創造者なる神から来るのだ!という確かな信仰を、彼の人生を通して、またイスラエルの歴史を通して学び、その神への確信と感動で満たされていることがうかがえます。実に、人の人生は苦難と問題の連続であります。それは予想もしないうちに突然訪れ、何もかも変えてしまうのです。今日の新型コロナがそうですし、異常気象、自然災害がそうです。その時、人々は嘆き悲しむのです。

しかし神の人は、いかなる苦難の状況に置かれても、神の助けを求めて山に向かって目を上げると告白します。人々は助けを求めるために力となってくれそうな人の方に目を向けるはずです。しかし詩人は山を仰いでいる。ユダヤ人にとって山とは、永遠に変わらない象徴とされるところです。また聖書に登場する「山」とは創造者なる神の臨在の場所であり、神ご自身を指している意味として用いられてきました。あまりにも変わりやすいもので溢れる人間社会において、創造者なる神こそ、決して変わることなく、いつどこでも山のようにそこに立っておられ、神の子どもたちを助けてくださるお方であると歌っているのです。     

3節~8節の間の核心となる言葉は「見守る」という言葉で、6回も繰り返されていることから、神の全き守りによって、神の民が真の平和と安心感を得ることへの賛美で満ちています。その通り、神は、ご自身を信じる神の民と共に、いついかなる時にも共におられます。神の手の届かないところはありません。また、一瞬たりとも目を離されることもありません。私たちが遠くに離れていても私たちの考えをことごとく知っておられ、すべての行いを見ておられるお方です。「神の見守り」を表す具体的な言葉として、「まどろむことなく、眠ることもない。神の民を覆う陰、右にいます方、すべての災いを遠ざけて、出で立つのも帰るのも、とこしえに見守られる」などを用いることで、神の民を見守られる愛の熱心の凄まじさが示されているのです。

とりわけ私たちの目を引くところは、1~2節の主語は「わたし」でありますが、3~8節の主語は「あなた」に変わるということです。恐らく「わたし」という、エルサレム神殿での礼拝に集うために巡礼する群れのリーダーとなる人が、今までの彼の人生の中で恵みを与え素晴らしく見守ってくださった神を、「あなた」という、共に旅していた人々に紹介しながら、彼らを祝福するということでしょう。これこそ、信仰共同体に与えられている執り成しの恵みの姿です。…願わくは、互いが「わたし」として個人的に神との豊かな交わりを体験し、「あなた」である神の家族に体験した神を証しし、祝福を祈るという生きた信仰共同体としての小泉町教会でありますように…。「わたしとあなた」を見守られ、出で立つのも帰るのも見守られる神を賛美しましょう。ハレルヤ!


2022.2.20 小さな泉の恵み

 虫歯の治療がとうとう終わりました。私の通う歯科医は予約がとれなくて月に二回10ヶ月程かかりました。妻に「歯の治療が終わっちゃった。残念だ。」「何で?終わって良かったじゃない。美人の歯科衛生士さんに会えなくなるから?(妻)」「コロナ前じゃあるまいし、顔の半分を隠したマスク美人なんて街にあふれているよ!それより、俺はドリルで歯を削るときのキィーンっていう音と時々神経に触れて激痛が走るのが大好きなんだよ。許されるなら毎日でも通うよ。」「変態か!(妻)」

私たちに与えられた素晴らしい約束「新しい天と新しい地」には悲しみも叫びも苦しみもありません。虫歯治療の苦しみもありません(たぶん)。味わうなら今のうちです。

『そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって神が人と住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:3~4)」』

私みたいにのんきなことをいっていられない方もおられるかもしれません。今、病やその他様々な苦しみの中にある方々に主の憐れみと慰め、癒しがありますように。主の栄光が現されますように

                       S.Y. 兄

2022.2.13 牧師室便り

    ~ 医療従事者のために祈る ~

 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法(愛)を全うすることになるのです。

(ガラテヤ6:2)」

再び広まってきた新型コロナウイルスのオミクロン株による感染が収まる気配が見えません。日本でも毎日10万人規模の感染者が出ていて、富山でも400人を超えている状況です。オミクロン株の症状が軽いとはいえ、インフルエンザの2倍以上の致死率をもっているということですので、常に気をつけながら過ごすべきでしょう。そのために、小泉町教会でも1月末から礼拝体制をzoomやYoutubeなどを用いての非対面礼拝に切り替えて執り行っています。しばらく寂しい日が続きますが、主の働きと助けを信じつつ、さらに御言葉との親密な交わりと祈りに専念して信仰の火を燃やしていかなければならないでしょう。

 ここで神の家族の皆さんに執り成しのお願いをしたいと思います。コロナ感染が3年目に入ることで、pcr検査やワクチン接種、治療に当たる医師や看護師など医療従事者のための執り成しのことです。小泉町教会にも病院、老人介護施設、保育園などに努めている方が数人いますし、それぞれ大変な疲れと感染への心配などで礼拝にもまともに集うことができなくなっている現状です。聖書は「互いに重荷を担いなさい」と勧めます。もちろん、それぞれの働きの場所が違いますし、賜物と役割は違いますが、私たちには主イエスが示してくださったように、互いを思いやる心と何よりも強力な祈りという力をもっています。また、実際に互いの重荷を担い合うことができるならば、積極的に担い合い、補い合うことを心がけたいですね。そうする中で、神の家族に属する者として心が温まり、人知を超えた励ましを得、ホッと一息できるようになるのではないでしょうか。ぜひ、愛の実践の恵みに与りましょう。シャローム!


2022.2.13 本日の宣教

 『 主が望まれる教会② 』~ 死に至るまで忠実に② ~ (ヨハネの黙示録2:8~11)  

「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当は、あなたは豊かなのだ。(2:9)」

主イエスは、「本当は、あなた方は豊かなのだ!」と言われています。この「豊かさ」こそ、「イエス・キリストによって救われ神の子とされた者たちが、やがて神の国でいただくはずの永遠の命と究極の豊かさへの祝福の約束」を指しているのです。すなわち「終末論的観点から永遠に続くはずの豊かさ」を意味しますし、その豊かさの約束を受けているスミルナ教会であったのです。まさしく、スミルナ教会の信徒たちの豊かさこそ、イエス・キリストが命を捨ててまで教えようとしたことであり、復活をもって永遠に生きる希望と共に約束された現実だったのです。その確かな約束のゆえに、今の苦難と貧しさに耐えることができるわけです。皆さん、この豊かさへの約束を信じますか。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ11:1~2)」・・・ハレルヤ!今は、キリストを信じるということで、この世において差別と厳しい苦難を受けることになるけれど、私たちにはこの世の人々が知らない豊かさが約束されていますし、神の国の祝福を先取りして生きることができる幸いな存在であることを心に刻みましょう。

 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(2:10)」                          

スミルナ教会の信徒たちを十字架と復活の信仰の上にさらに強く奮い立たせただろうこの御言葉に、私たちも心打たれ、信仰を新たにしていきたいものです。・・・実際、スミルナの教会の歴史において「死に至るまで忠実であった」人がいました。その人こそ、スミルナ教会の監督であったポリュカルポスです。彼は、教会史において殉教者の代表として登場する人です。ポリュカルポスは、やがて火あぶり刑で殉教することになりますが、処刑される前、彼が残した有名な言葉があります。「今までの86年間、私が信じてきたイエス・キリストは、一度も私を裏切ったことがありません。なのに、どうやって私が一瞬の試練から逃れるため、主イエスを裏切ることができようか…今、あなた方は一瞬の燃える火で私を脅迫するが、あなた方は、神が悪人たちのために備えられた永遠に燃える火に投げ込まれる刑罰を受けることになるでしょう。」と。これこそ、体の死を超えた主イエス・キリストへの信仰宣言でしょう。そうです。キリスト者が目指す勝利者の姿は、この世の中で手にするものではありません。彼らには何にも代えがたい神の国の約束、死を打ち破ったイエス・キリストの十字架と復活の愛と命に与ることによって、与えられた勝利であって冠であるのです。最後に、死に至るまで忠実であるようにと語る主は、私たちを「勝利者」と呼んでくださいます。その勝利を得る者は「決して第二の死によってそこなわれることがない」のです。願わくは、スミルナ教会の信徒たちが苦難の中で得た勝利の冠を神の家族も手にすることができますように…。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書16:33)」ハレルヤ!


2022.2.6 小さな泉の恵み

 「神が私に求めておられること」

 昨年の3月末に神奈川県に転居して、早10ヶ月。立山連峰を望む日本海から、富士山を望む太平洋へ。気候も、町の雰囲気も大きく変わり、戸惑うこともたくさんありました。しかしこの間、主の導きと、皆さまの祈りに支えられ、無事に過ごすことができ、感謝でいっぱいです。

教会生活では、地域の礼拝に参加してみたいとの思いから、平塚バプテスト教会に通わせてもらっております。コロナ禍で、オンライン礼拝の期間が長く、直接の交わりはまだまだですが、徐々に礼拝以外の活動にも参加していくつもりです。

小泉町教会の皆さまから1人ポツンと離れてこちらに来た当初は、やはり寂しくて、神様は私に何を求めておられるのだろうと思い悩んだこともありました。答えを祈り求めつつ、教会生活を送っていたある日、次の御言葉が示されました。

「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」(申命記10章12〜13節)

この御言葉を読み、神様は、こんな不甲斐ない私に対しても、幸いを得ることを願っていてくださるのだと、その愛の深さに心を打たれました。そして、主を愛し、心と魂を尽くして主に仕えることが、幸いへの最短距離なのだと、改めて強く心に刻むことができました。この1年、この御言葉を大切に歩んでいきたいと願っております。

                             A.T.姉 

2022.2.6 牧師室便り

 ~ みなしごの父となる神

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です(ヤコブの手紙1:27)。」

 2022年に入り、もう一か月が経ちましたが、世界情勢は一向に良くなる気配が見えません。コロナ時代がいつまで続くのかも予測できず、自然災害は日に日に厳しくなっている状況です。特に、東日本大震災を経験し、現在も富士山噴火や関東大地震が噂されている日本の民にとって落ち着かない近頃であります。

 しかし、いろいろな災難が起きると、真っ先に苦しむ人々は社会的弱者たちであることを忘れてはなりません。人は誰であっても、自分の身に何か起きると、まず自分の身の周りを守ろうとし、家族のことを優先することになります。これは当然のことですし、誰もその選択を非難することはできないでしょう。

それでは、キリスト者としての私たちに求められる父なる神の御心はいかがでしょうか。詩編68編の詩人は、“神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる(詩編68:6)。”と語ります。私たちの神について、「みなしごの父となり、やもめの訴えに答えてくださるお方」だと教えてくれるのです。とりわけ社会的試練の時にはなおさら、父なる神の御目が向かわれるところこそ、社会的弱者の方にあることを覚えましょう。

主の再臨が近い終末の時を過ごしているキリスト教会と神の民に向けられる主イエスの御声を聞くために耳を傾けることです。常に主が語られる御声を聞くために、霊的なアンテナを立てておく必要があるでしょう。ぜひ、ヤコブの言葉通り、小泉町教会の神の家族一人一人が、父なる神の御前に清く汚れのない信心を確かめつつ、神に喜ばれる日々を歩みますように。シャローム!


2022.2.6 本日の宣教

 『 主が望まれる教会② 』~スミルナ教会①~ (ヨハネの黙示録2:8~11)  

今年に入ってから「主が望まれる教会」というテーマで、ヨハネ黙示録2~3章に登場する7つの教会を学んでいます。本日は、エフェソ教会に続き、スミルナ教会から主が望まれる教会の姿を分かち合ってみましょう。

スミルナは、「没薬」という意味の港町です。スミルナは、当時エフェソに匹敵するほどの大きな町で、「小アジアの宝石」とも呼ばれた町でした。スミルナ教会は、使徒パウロの第3次伝道旅行の時に立てられました。黙示録に描かれているスミルナ教会は、フィラデルフィア教会とともに、主イエスから称賛だけを受けていた教会でした。

当時のスミルナ教会は、苦難と貧しさの中にある教会でした。ローマ皇帝を神として崇拝していたローマ帝国において、イエス・キリストだけを王の王、主の主として仕えているスミルナ教会に、迫害が訪れたのは当然のことでしょう。先ほど、スミルナという意味を「没薬」と言いましたが、没薬は、香水の一種で、砕けば砕くほどその香りが強くなる特徴をもっているそうですね。その名前の通り、スミルナ教会は迫害が強くなればなるほど、その信仰の香りをますます強く漂わせた教会であったでしょう。昔から、教会は「殉教者の血を飲んで育つ」とありますが、まさにスミルナ教会は迫害によって強められ、福音を広める働きができたわけです。   

まず主イエスは、スミルナ教会と関わっておられるご自身について、「『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方』(2:8)として表現しておられます。なぜ、このような言葉でご自身を紹介されたのでしょうか。それこそ厳しい迫害の中で死んで行くスミルナ教会の信徒たちに向けて、一度十字架の上で死なれたけれども、死を打ち破り復活なさった主イエスを示されることで、スミルナ教会の信徒たちも死から復活し、神の国をいただくという信仰の確信を与えるためでした。十字架と復活信仰こそ、殉教を目前にしていたスミルナ教会の信徒たちにとって切なるものでした。

「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」(2:9)

主イエスはスミルナ教会の「苦難と貧しさを知っている」と言われます。ここで「苦難」とは、信仰ゆえに受ける外的な圧迫のことを意味し、「貧しさ」はその苦難の結果としての貧しさのことを指します。実に彼らは信仰ゆえに長い間、政治的迫害と経済的な貧しさの最中にありましたが、それらの迫害と貧しさが、スミルナ教会の信徒たちを主イエスの十字架の恵みに導き、復活と神の国の豊かさへの揺るがない確信をもたらしたのです。だからこそ、主イエスはスミルナ教会の信徒たちが、苦難と貧しさの中にあるけれど、本当は豊かなのだとほめておられるのです。

続けて、苦難と貧しさの中にいるスミルナ教会に与えられた主イエスの約束を確かめましょう。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(2:10)…そうです。イエス・キリストが約束されるのは「命の冠を授けてくださること」でした。スミルナ教会の信徒たちは、この約束を信じて、死をも覚悟しつつ、神の国における永遠の命の冠を受ける信仰を貫き通しました。彼らにとって何より価値があり尊いものこそ、イエス・キリストの十字架によって救われ、やがて神の国で勝利者が受けるべき永遠の命の冠であったのです。            

願わくは、信仰のゆえに苦しみと貧しさを味わっていたスミルナ教会の信徒たちの信仰に倣い、主イエスの十字架と復活の証し人として神の国における祝福の約束に満たされて生きる神の家族でありますように…。ハレルヤ!


2022.2.6 小さな泉の恵み

 オミクロン株の感染者が急拡大する中で、子どもたちは、コロナ禍での生活が3年目になってしまいました。保育園では、感染が広まり休園になってはならないという緊張が続く中で、職員のストレスはとても大きいです。保育士は、いつもマスクをつけていて子どもたちに表情が良く伝わらず、特に、乳幼児の子ども達にとって保育者の接触と言葉かけ、そして、子どもに向けた笑顔は、健全な成長のために欠かすことのできない事なので、子ども達の成長が心配です。言葉に関しても子どもは保育者の口の動きを見て習得するので、マスクをつけた状態での保育は、子どもにとって望ましくないと思われます。

3歳以上児のクラスで子どもたちは、昼食時にみんなで談笑しながら食事をすることができず、黙々と壁に向かって食事をしているのが現状です。富山YMCA福祉会を運営する理事長として、保育園を訪問する度に、保育士の笑顔が少なくなっていることが気になっています。笑顔であってもマスクをした状態では、伝わりにくいと思います。

行事など親子で参加できる活動は、制限せざるを得ないのですが、子どもたちの日常の生活は、のびのびと楽しく、笑顔で満ちあふれた保育園でありたいと願っています。S姉を始め、職員の方々のご苦労に思いをはせつつ、職員と子どもたちが笑顔と笑い声でいっぱいになる保育園に早く戻るようにお祈りください。

                                 S.S 兄

2022.1.30 牧師室便り

 ~ 主よ、いつまでですか ~

「わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。 あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。(詩編6:4~5)

 オミクロン株によるコロナ第6波が、連日最多感染者数を塗り替えています。オミクロン株の重症化率は低いと言われても、数倍に及ぶ感染力により多くの人が感染するようになれば、同様に状況が悪化していくのは同じでしょう。神の家族の皆さんもくれぐれも感染防止を心がけながら過ごしてくださいね。

 コロナ拡散のために執事の皆さんとこれからの主日礼拝のもち方について分かち合いました。その結果、礼拝は今のまま続けるが、zoom可能な方はできるだけzoomを利用して礼拝に出席されるように、その他、zoom利用が難しい方や礼拝堂での礼拝を希望する方だけに対面の礼拝をお願いすることになりました。もちろんさらに感染者数が増えまん延防止措置や緊急事態宣言が出されれば非対面の礼拝に切り替わることになるでしょう。これらの措置は、第6波が落ち着くまで続くことになると思います。(ただし、平日の諸集会は普段通り行いますので、ぜひお出でください。)

 コロナが始まってもう3年目に入りましたが、未だ先のことがまったく読めない状況であるため、神の家族の皆さんの生活においても様々な支障が生じているでしょう。楽しかった教会生活も常に緊張感の漂う中での礼拝や交わりとなっていますし、伝道を試みることも大変難しい状況となっています。牧師としてもなかなか無理を言えないような現実です。しかし、聖書はこれらのことを既に預言しており、これからの信仰こそ、常に目を覚まして時を見極めながら、さらに聖霊に燃えることでしょう。また、日々神の御前に進み出、「主よ、いつまでですか、主の御業を見させてください」と切に祈りつつ、神の国を待ち望む姿が求められるでしょう。今こそ、信仰が試される時、神の御業を体験できる恵みの時です。シャローム!


2022.1.30 本日の宣教

『 気を落とさずに祈る 』(ルカによる福音書18:1~8)  

私たちは本日の御言葉に登場する一人のやもめが不正な裁判官へのあきらめない訴えを通して答えを得る姿から、祈りとは何か、私たちはなぜ祈るのかについて大切な教えをいただくことができます。それは「私たちがまだあきらめていないから祈っている」ということです。もし、私たちが既にあきらめてしまったとすれば、もう祈る必要もないし、すでにあきらめていたはずです。そうです。あきらめていないから祈るのです。落胆してないから祈っているわけです。    

そしてもう一つ、本日の御言葉を通して教えられることは、「しばらくの間、神が沈黙しているような時がある」ということ、また「神が沈黙しているような長い時間をどのように待たなければならないのか」ということについてです。そこで、御言葉は「今、答えがすぐ与えられなくても、私たちを囲んでいる状況が暗く、苦しくても、神は必ず私たちの祈りを聞き、応えられることを信じるか」というチャレンジを投げかけているのです。                               

主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを(1節)」という言葉でもって話を始められます。私たちは主の御言葉から、祈りがすぐ答えられないことがあることを教えられます。1節で、「必ず~しなければならない」という言葉は、ルカによる福音書で多く使われている言葉で、とりわけ主イエスの十字架の受難に関するところで多く用いられています。すなわち、主イエスは十字架を避けずに、負わなければならなかった。主は十字架の苦しみという選択を前にして、それを背負うことをご自身のしなければならないこととして選ばれたという意味です。その理由こそ、十字架なしには愛する罪人たちを死と滅びから救い出す道はなかったため、その道を積極的に選ばれたわけです。同じように、神の子どもたちもあきらめることなく、父なる神の恵みと助けを祈らなければなりません。    

ここで、「気を落とす」ということは、祈っていたことがなかなか答えられないために、もうあきらめて落胆して座り込んでしまうということを意味します。座り込んでしまうと前の方へ進むことはできません。祈るということは“前に進んでいくこと”です。私たちが囲まれている状況はすべて閉ざされてしまっているようでも、祈りの道だけは常に開かれているので、決してあきらめることはないのです。それは、主イエスからの約束とその憐れみへの信頼であります。たとえ、「今まで私たちが献げていた祈りが応えられてなくても、私たちは祈り続けるべきです。それこそが、あきらめてない信仰の人の姿だからです。それだけが前の方に進んでいくクリスチャンの姿なのです。                              

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。(8節)」…主イエスは、このたとえの結びで、再び来られる終末の時には、果たして本日のやもめのような信仰を見出すだろうかという否定的な意味を含む問いかけをもって閉じています。すなわち再臨の時、人々は頑なになり神を愛することも、切に求めることも失ってしまいますし、生きた信仰をもって祈り求める人を見出すことが難しいことを指しているのです。                    

コロナ下の時代、皆さんは祈りを失っていませんか。もうだめだ!と、神は祈りを聞いてくださらない!とあきらめてはいませんか。気を落とさずに祈る信仰を新たにしましょう。私たちの神は真実で誠実なるお方です。神の答えは遅いのではありません。むしろ最も良い時のために備えておられ、万事を益に変えるために成し遂げておられるはずです。その父なる神への信頼を忘れず、あきらめない祈りをもって恵みの座、憐みの座に近づくことです。今こそ、再臨の時、終末の時です。主イエスが神の家族の祈りの生活から生きた信仰を見出されるように…。ハレルヤ!


2022.1.30 小さな泉の恵み

小泉町教会の皆様、こんにちは。富山から名古屋に移ってはや12年が経とうとしています。週報を通じて皆様のご様子を伺い知ることができますので、富山の日々はついこの前の様にも感じます。

以前、小さな泉の恵みで職場を超えたクリスチャン方との祈り会を始めたと書かさせていただきました。仕事柄、転勤があるため、祈り会は継続できませんでしたが、年始にお一方は還暦を迎え第二の人生へ、お一方はキリスト系の大学院で修士課程を無事終えられ、お一方は結婚し間もなく出産を迎えるとの近況をグループLINEで分かち合い互いに祈りますとの連絡ができました。

私は娘と息子のW受験を告げ、励ましを受けました。年齢も場所もそれぞれであっても、閔先生がよく仰っておられる神の家族を実感しました。小泉町教会の皆様とも、イエス様の尊い犠牲をもってイエス様によって神の家族とさせていただいている恵みに感謝いたします。

                                E.N 兄



2022.1.23 牧師室便り

 ~ 明日を守られるイエス様 ~

1.明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私をまもられるから。明日は私にはわからないけど明日を守られるイエスがおられる。♪♪♪

2.明日はどんな日か、私は知らない。どんな道筋が先にあるかも。だけど私は心配しない。イエスがおられる私のそばに。  明日は私にはわからないけど明日を守られるイエスがおられる。♪♪♪

 先週は朝晩の気温が低い日が多く、道が凍っていましたね。車の走る道路はアイスバーンのようになり、時速20㎞で走っていました。通学する学生たちや通行人のうち何人も道で転んでいるのを見かけましたし、接触事故も多くパトカーのサイレンの音が鳴り響いていましたね。神の家族の皆さんも大変だったでしょう。寒い冬が続くのでくれぐれも運転や歩く際、足もとに気をつけてくださいね。

 さて、本日はM兄の派遣式を執り行います。1歳の時から高校まで、人生のほとんどを日本で過ごしましたが、大学を故郷の韓国で送ることになり、親の懐から初めて旅立つことになりました。今は、恐らく不安でいっぱいでしょうし、期待、緊張、興奮など様々な感情が交差しているはずです。これから大学生活、兵役といったものが息子の人生の目の前に置かれていて、決して避けることができないため、主に信頼し、一人前のキリスト者としてのスタートをお祝いと共に送り出したいと思います。彼の新たな歩みの中では、上記の賛美歌詞のように、晴れの日も、嵐の日も、大雪の日もあるでしょうし、時には転んでしまったり、寂しくなったり、疲れ果てたりする時もあるでしょう。それでも、明日を備え、共に歩まれ、常に守られる主イエスを見つめながら、信仰者の一歩一歩を御言葉の上に立って進めてほしいと願います。

 願わくは、富山を離れ散らされて生活をしているすべてのディアスポラ(散らされた神の家族)の上に明日を守られる主イエスの守りと助け、導きがいつも共にありますように…。シャローム!


2022.1.23 本日の宣教

『 良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか 』(ローマの信徒への手紙10:5~15)         

「あなたは今日地上生涯を終えたとしたら、目を覚ました時天国にいると思いますか?」、「小泉賛美集14 番「Footprints(あしあと)」の歌詞の通り、主イエスがいつも一緒に歩んでおられると思いますか?」

このように問われる時、私は喜びに満たされます。「アーメン。主は良き羊飼い。主は私を捨てず、いつも共におられ永遠へと誘って下さいます。」救いの喜びが増し加えられます。ハレルヤ。主を信じる者は失望することが有りません。私たちの救いである御言葉は近くにあり、口と心にあらわれます。心にある救いは公に言い表す口と一体です。黙ってはいられない。伝えたくてしょうがない。もしそうでないならキリストの愛への理解が足りないのかもしれません( エフェソの信徒への手紙3章18節 )。主イエスがどのような方で何を下さったかを思いおこし大いに喜びましょう。 救いは宝くじのようなものでは有りません。死んでみなけりゃわからないというようなあやふやなものではないのです。栄光の主が私の罪の購いとして十字架で死なれたこと、神が主イエスを死人の中から復活させられたこと、初穂である主イエスを信じる者は死んでも生きることはすべて真実です。福音伝道は心に湧きいずる喜びの現れです。

 私はかつて統一協会に身をおいていました。本物の聖書を用いていながら「原理講論」によって内容を大きくねじ曲げ、十字架の救いを否定し、主イエスは失敗したと教えられました。聖書について無知であった為それを信じてしまいました。今、私たちが福音を伝えるべき方々も聖書を知りません。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」知って貰おうとすると、波が起こります。特に大切な人や親しい人からの抵抗が強かったりもします。それはとても良いことです。波風も立たず滅びに至るより遥かに良いでしょう。信じた私たちはまだ信じていない方々より知恵が勝っていたのでしょうか?決してそうではありません。全て神様の憐れみの結果です。私に福音を伝えてくれた多くの人と遣わされた神様に感謝します。救われていない方々に福音をお伝えできるように知恵と信仰が増し加えられますように。主の御名が崇められますように。

 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28:18~20)』

                     S.Y兄


2022.1.23 小さな泉の恵み

 人の出会いは本当に不思議だなと思います。富山で暮らしていたわけでもないのに、小泉町教会の神の家族の皆さんと出会い、そして今も交わりが続けられていることを神様の恵みと感謝しています。

お正月は、年賀状を見ながら懐かしい人々のことに思いを馳せる楽しいひとときでした。しかし、残念なことに、病などで亡くなられてしまい、もうこの人からは年賀状をもらえないという人が1人また1人と増えているのも事実です。同級生でも20人に1人くらいの方が、既にこの世を去っていかれました。人の命は本当に、はかないものだと思います。

インドで暮らしていたときに、猛毒の蛇が家の中に入ってきたことがありました。私は洗濯物をいっぱい抱えていて、気づかずに蛇をまたいでいました。あのとき、蛇を踏んでしまい、蛇に噛まれていたら、今ここにいないでしょう。そのくらい猛毒の蛇だったのです。皆さんとお会いすることもなかったでしょう。

今朝も目が覚め、新しい1日を与えられたことに、本当に感謝しているだろうかと思わされます。

「光のあるうちに歩きなさい」(ヨハネ12:35)と言われるイエス様の言葉を噛み締め、神様を証しながら日々を大切に歩みたいものです。

                          K.K 姉


2022.1.16 牧師室便り

 ~ 助け合いの時代へ ~

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、  互に心から熱く愛し合いなさい。」(一ペトロの手紙1:22、口語訳)                                   

 ちょうど昨年の今頃、富山は大雪に見舞われていましたが、今年も同じような大雪になりましたね。昨年の今頃、2回もスタックに遭い、大変な思いをしていたことが浮かんできます。二度と経験したくないような厳しい記憶です。しかし、スタックのお陰で、町内の方々に助けてもらうということは大きな恵みでありました。なかなか顔と顔を合わせることが難しかった町内の方々との出会いが与えられたのは父なる神からのプレゼントであったと思います。大雪がただの災いではなく、互いに助け合う良き交わりの場となってくれたのです。

 大雪は教会員同士の関係においても同じく助け合いの恵みを与えてくれる時でもあるでしょう。大雪のゆえに車のない方々が礼拝に出席したいけど、礼拝堂まで来ることができなくなる場合が多くなるでしょう。そんな中で、車のある方が少しの時間を割いて乗り合わせの配慮をしてくだされば、私たちの礼拝はもっと恵み豊かな時に変わることになるでしょう。…とりわけお年寄りの方々、体の弱い方々のための愛による配慮がますます求められる時代となりました。小泉町教会の皆さんが、互いに心から熱く愛し合うことによってこの冬を、温かい冬に変えられる。…「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)の御言葉にあるように、何をするにも、誰に会うにも、主に対してするように心がけたい。主イエスは、聖書時代だけでなく、今現代においても最も小さな者の姿で私たちの傍らを歩まれることに気づきながら過ごしたいものです。 

 神の家族の皆さん、今こそ助け合いの時代です。私たちが助け合いを実践する時、周りの人々は私たちの姿から主イエスの姿を見出すことになるでしょう。シャローム!


2022.1.16 本日の宣教

『 主が望まれる教会① 』~エフェソ教会②~  (ヨハネの黙示録2:1~7)

先週から、「主イエスが望まれた教会」について分かち合っています。その最初の教会として、エフェソ教会への主イエスからの称賛と叱責について学んでいます。本日は先週につづき、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」((2:4~5)という内容をもう少し詳しく見たいと思います。

「初めのころの愛」とは、初めて福音をいただき救われ、イエス様と人格的な関係を結んだ時の感激、その感動に満たされていた愛のことです。神の独り子が、私を愛し、罪深い私のためにすべての苦しみ、痛み、悲しみをご自身の身に受けて、十字架にかかり私のために命を捨ててくださり贖ってくださった。その愛を知りその愛に触れた時、私たちはイエス様の愛に燃えていたはずです。皆さんもその時の感動をもっているはずです。…しかし、時間の流れと共に、その感動は薄れていき、いつの間にか「初めのころの愛」は、「ただ、幼い信仰の時の未熟な感情にすぎない」が、今はたくさんの聖書知識や成熟した信仰者として落ち着いた日々を生きていると自負するキリスト者も多いでしょう。しかし、主イエスの御心はいかがでしょうか。むしろ、主イエスは「あなたとの初めのころの愛」を求むと言われる。

主イエスは、「初めのころの愛がどこから落ちたのかを、あなた自身が思い出しなさい」と迫って来られます。一度主イエスの愛に触れた人であれば、今愛が冷えてしまった理由がどこにあるのかを知っているはずだと。そして、どこからその愛が落ちてしまったのかを思い出さねばならないのです。そこから、悔い改めて主の御前に立ち帰ることができるからです。

ここには、主イエスによる「愛の回復の三段階」が記されていますね。まず、「どこから愛が落ちたのかを思い出すこと」、次に、「思い出せたなら、悔い改めて主イエスの前に立ち帰ること」、最後に、「初めのころの行いに生きること」です。 ご存じのように、「悔い改め」とは、今まで生きてきた自己中心だった歩みの方向を変え、主イエスの方に向きを変えて歩むことを指します。すなわちこの言葉には、「悔いる」という感情的な後悔にとどまるのでなく、「改める」という「決断とそれに伴う行い」までが同時に起きなければならないことをも含んでいます。「初めのころの愛」は、「初めのころの行い」につながり、その二つが一つとなるところに主イエスの命の実が結ばれるのです。そうです。エフェソ教会と今の私たちが取り戻すべき初めのころの愛は、抽象的なものではなく、行いを伴う具体的なものであることを忘れてはなりません。主イエスが望まれる愛は、言葉や口先でするのでなく、行いと真実をもって示されるものです。

最後に、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(7節)と締めくくります。もともと、「耳のある者は聞きなさい」という表現は、福音書で主イエスが大切な教えを語られた後に繰り返された言葉でした。それに、「聖霊が諸教会に告げること」という言葉を加えることで、主イエスの言葉が、聖霊によって語られる言葉であることを確かにしています。聖霊は神の人に常に語りかけておられます。ですから、ここで「聞く」というのは、ただ耳で聞くことで終わるのでなく、常に霊的なアンテナを立て聖霊の御声を聞くことであって、御声を聞いたならば、その御声に従うことをも含んでいることを覚えましょう。2022年の神の家族の一人一人が、御言葉の土台を確かめつつ、再び愛に燃え、聖霊の御声に従うことができますように…。主イエスからの豊かな命の木の実を結びましょう。ハレルヤ!


2022.1.16 小さな泉の恵み

 

妻の誘いにより水曜祈祷会に参加しています。昨年末は、ヨブ記を読み進めていましたが、38・39章で主なる神が、ヨブに気象や天体を含めた自然界の支配者について問い詰める場面があります。これに対して神に義を尽くしていたヨブは、反論の余地はありませんでした。

現在、地球規模の気候変動により熱波や豪雨、干ばつなど深刻な気象災害の頻発や冷水を好む秋刀魚や鮭等の漁獲減等による食料危機が叫ばれています。私も猫の額ほどの田畑で水稲、畑作物、野菜等を作付けしていますが、昨年は梅雨明けが早く、少雨により小豆等の播種が遅れました。その後、今度は大雨により畑は湛水し排水対策を行い、水田では寡日照によるいもち病発生で防除を行いました。一般的に農作物の生育は天候に左右されますが、昨年は、水稲では屑米が多くなり減収しました。近所のお百姓さんは、挨拶代わりに天気の話をしますが、「天気だけはどうにもならんけえのう。」と自分も含め諦め感があります。

冒頭のヨブ記を通じて、我力による限界を感じると同時に、人知を超えたところに神の采配をも感じました、本年は自然の恵み(=神の恵み)を少しでも多く頂けるよう、信仰をも深めていきたいと思います。

                                           K.K 兄

2022.1.9 牧師室便り

 ~ 御言葉を愛し、御言葉を聞く生活を ~

「わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。わたしはあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます(詩編119:47~49)。」

 2022年の最初の一週間を恵みのうちに過ごされたでしょうか。わが家は2022年の最初の家庭礼拝を献げました。できるだけ、週一回は必ず、家族4人が火曜日の夜9時に集まり、賛美と祈り、また過ぎ去った一週間を振り返りながら、神の子どもとして相応しく過ごせたのか、嬉しかったことや辛かったことなどを分かち合い、最後は御言葉を聞くことで思いを新たにする時間となっています。

 牧師であり父親として、子どもたちに常に訴えることがあります。それは、「日々の生活の中でイエス様の声を聞くことを習慣化していくことと、御言葉を反芻すること」です。とりわけ長男が2月には韓国での大学生活のために旅立つため、御言葉にさらに親しみ御声に聞くことを身に着けることを頼んでいます。息子の人生の中で初めてとなる一人暮らしになるので、さまざまなところで予想できないことに遭ったり、様々なことのゆえに戸惑ったりすることになると思いますが、その時こそ、御言葉に親しみながら御言葉に聞くことに命があると思うからです。もちろん、娘においても、毎朝の学校に行く20分ほどの時間を神の臨在を感じ、イエス様との対話の時間として楽しく過ごしてほしいと願っています。

 愛する神の家族の皆さん、この一年、御言葉を愛し、御言葉を聞く生活に今まで以上に心がけましょう。なぜならば、御言葉の上に立つ生活をする人はどんな出来事が起きてもぶれることなく落ち着いて生活することができるからです。たとえ、コロナパンデミックが終息できず、それ以上のウィルスが出現しても、大地震が起きて私たちの生活の基盤が揺れ動いても、世界的な経済危機や混乱に巻き込まれても、健康を失い病に苦しんでも、私たちを支え生きる希望と力を与えてくれるのは、主の御言葉しかありません。日々、主の御言葉を愛し、御言葉を待ち望む中で、人知を超えた平安と希望、恵みに満たされる神の家族お一人お一人の一年でありますように…。シャローム!


2022.1.9 本日の宣教

 『 主が望まれる教会① 』~エフェソ教会①~   (ヨハネの黙示録2:1~7)

「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4~5)

使徒ヨハネはローマのドミティアヌス皇帝のキリスト教会への迫害が行われた時にパトモス島に捕えられていました。しかし主イエスは、捕らわれていたヨハネに終末へのビジョンを教えてくださいます。とりわけ小アジアの7つの教会への啓示の御声を書くようにと命じられます。ここで「7」という数字は聖書の中で完全数であるため、7つの教会は初代教会を代表する7つの教会を意味していて、また、歴史の中で立てられていた教会、それに加え、これから立てられていく世界中の教会を意味しているものであるでしょう。だからこそ、私たちは7つの教会に向けられている主イエスの御声を通して、今現在の教会向け語り掛けられる御声を聞かなければならないのです。

主イエスは、最初エフェソ教会に向け称賛の言葉を語られます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている・・・、あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(2:2、3)      エフェソ教会は、使徒パウロの2次、3次の伝道旅行の時、最も長い時間をかけて福音を教えた教会でした。エフェソは政治、商業、宗教における小アジア最大の都市で、「小アジアの花」と呼ばれるほど栄えていた町でした。エフェソ教会も、小アジアの中心教会として様々な役割を担っていて、多くの迫害と試練に遭っていて、主イエスはエフェソ教会の長年に亘る「行いと労苦、忍耐を知っておられる」と言われます。「主イエスが知っておられる」、キリスト者にとって、この言葉ほど力になる言葉はないでしょう。ここで、「疲れ果てることがなかった」とは、実際、エフェソの教会が耐えられないほどの困難に遭わされていたことを指しています。いろいろな試練に遭いながらも、神と教会のために最善を尽くして仕えている教会と信徒たちの労苦と働きを主イエスが知っておられることはいかに幸いでしょうか。

続けて主イエスは、エフェソ教会が「悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」と称賛されます。当時のエフェソは、至る所に偶像が立てられていて、様々な偽りの教えで満ちていた町でした。そんな中で、エフェソ教会はにせ使徒や偽りの教えに対してしっかりと分別し見抜くことができるほど、揺るがない信仰をもって奮闘していたのです。その奮闘ぶりを主が知っておられることはいかに素晴らしいことでしょうか。そのために、彼らはしっかりと御言葉を学び、真理の上に立つ生活を心がけていたのです。

しかし主イエスは、エフェソ教会が「初めのころの愛から離れてしまった」と厳しく責めておられます。「愛」は主イエスが教えられた最も重要な戒めであり、至上命令でありました。聖書は、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい」ことを教えています。神の家族の皆さん、愛のない礼拝、愛のない奉仕、愛のない言葉、愛のない施し、愛のないあらゆる事柄は神に喜ばれませんし、命がありません。主イエスは、愛なしで行うすべての奉仕や働きを悔い改め、初めのころの愛に戻らなければならないと叫ばれます。そうです。愛がなければ、その他のすべては無意味になるのです。・・・あなたの信仰生活の源は何でしょうか。愛の感動によってなされているでしょうか。主イエスが求められるのは愛です。主に初めて出会った時の愛による感動、愛の心を取り戻すことです。主イエスが望まれるのは過去も、現在も、未来も一貫しています。愛を回復しましょう。ハレルヤ!