2022年3月30日水曜日

2022.1.23 本日の宣教

『 良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか 』(ローマの信徒への手紙10:5~15)         

「あなたは今日地上生涯を終えたとしたら、目を覚ました時天国にいると思いますか?」、「小泉賛美集14 番「Footprints(あしあと)」の歌詞の通り、主イエスがいつも一緒に歩んでおられると思いますか?」

このように問われる時、私は喜びに満たされます。「アーメン。主は良き羊飼い。主は私を捨てず、いつも共におられ永遠へと誘って下さいます。」救いの喜びが増し加えられます。ハレルヤ。主を信じる者は失望することが有りません。私たちの救いである御言葉は近くにあり、口と心にあらわれます。心にある救いは公に言い表す口と一体です。黙ってはいられない。伝えたくてしょうがない。もしそうでないならキリストの愛への理解が足りないのかもしれません( エフェソの信徒への手紙3章18節 )。主イエスがどのような方で何を下さったかを思いおこし大いに喜びましょう。 救いは宝くじのようなものでは有りません。死んでみなけりゃわからないというようなあやふやなものではないのです。栄光の主が私の罪の購いとして十字架で死なれたこと、神が主イエスを死人の中から復活させられたこと、初穂である主イエスを信じる者は死んでも生きることはすべて真実です。福音伝道は心に湧きいずる喜びの現れです。

 私はかつて統一協会に身をおいていました。本物の聖書を用いていながら「原理講論」によって内容を大きくねじ曲げ、十字架の救いを否定し、主イエスは失敗したと教えられました。聖書について無知であった為それを信じてしまいました。今、私たちが福音を伝えるべき方々も聖書を知りません。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」知って貰おうとすると、波が起こります。特に大切な人や親しい人からの抵抗が強かったりもします。それはとても良いことです。波風も立たず滅びに至るより遥かに良いでしょう。信じた私たちはまだ信じていない方々より知恵が勝っていたのでしょうか?決してそうではありません。全て神様の憐れみの結果です。私に福音を伝えてくれた多くの人と遣わされた神様に感謝します。救われていない方々に福音をお伝えできるように知恵と信仰が増し加えられますように。主の御名が崇められますように。

 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28:18~20)』

                     S.Y兄


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