2020年3月17日火曜日

2020.3.15 牧師室便り


~地が姿を変え、山々が揺らぐとも~

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 
わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。」(詩編4623

  金曜日の真夜中、牧師館が大きく揺れることを体で感じ、慌ててテレビをつけました。“M5.4”、石川県輪島を震源地とした地震は北陸地方全域に及んでいました。特に気になったことは、今回の地震の揺れが、他の地域に比べて富山の方が大きかったことでしょう。いつも立山連峰のおかげで守られているという漠然とした安心感も大きく揺れてしまったのも現実です。そうですよね。世界のどこにおいても自然災害から自由だと言えるところはないでしょう。だから、いつどんなことが起きても全能なる神の御許しのもとにあることを覚えつつ、執り成す人としての歩みを心がけたいと思います。

  先週は311東日本大震災9周忌を迎えました。いまだに悲しみと涙の中にある方々のことを思うと心が痛みます。あいにく新型コロナウィルスの影響で、被害に遭われた方々への思いやる余裕がなかった日本社会でした。考えてみると、今の新型コロナウィルスの影響を直接受ける人々も、経済的弱者、病の中にある者、高齢者がほとんどです。むしろ、お金があって、権力のある既得権益の者らは相変わらずの生活を享受するでしょう。

  先日、コロナウィルスのため開幕延期が決まったアメリカのMLBのある選手の言葉が反響を呼びました。「今こそ、社会の構成員すべてが力を合わせるべきだ。今、私たちすべては善きサマリア人にならなければならない。…」と。…そうです。今のような災難の時に求められることこそ、不安と恐れに捕らわれ自己中心になるのでなく、全能者なる神に目を向けつつ、ゆだねられている人々を愛し神の国を広げることでしょう。シャローム!

2020.3.15 本日の宣教

『エゴーエイミ 』~わたしだ!~ 
                                       ヨハネによる福音書64552

5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹したという奇跡を経験した後、弟子たちは舟に乗って、向こう岸へ行くことになりました。驚くべき奇跡を体験した弟子たちは、押さえきれない興奮と熱狂の心に満たされていたことでしょう。しかし聖書はすぐ、湖の嵐に揺れ動く弟子たちの姿を描きます。先ほどまで弟子たちを捕らえていた興奮と熱狂の思いが一瞬で恐れに変わってしまう様子を目の当たりにすることができます。
弟子たちは、夕方から出かけたにもかかわらず、夜が明けるころまで目的地に着かず、湖の真ん中で苦しんでいました。ほとんどが漁師であって、湖に詳しい弟子たちでしたが、逆風のために波に悩まされ前に進むことができなくなっていたのです。彼らの中には主イエスがおられない。早くこの苦しい状況から逃れたいのに前の方に進めない状況。・・・私たちもこのようなことを人生の中で何度も経験します。
 しかし、ここで忘れてはならないことがあります。主イエスは、嵐の中で苦しむ弟子たちの姿をずっと見ておられたということです。今弟子たちの目の前にはイエスの姿は見えないけれど、主イエスは私たちの旅のために祈っておられ、見ておられたことを聖書は教えているのです。そしていよいよ、主イエス様は苦しんでいる弟子たちの前に現れます。湖を歩いて・・・。そして、聞こえてくる言葉、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14:27
 荒波の中で苦しむ弟子たちにかけられた主イエスの力強い言葉です。そして今、新型コロナウィルスという荒波に苦しむ私たちの耳に聞こえてくる御声でもあります。“わたしだ”という言葉は、ギリシャ語で“エゴーエイミ”といいます。この言葉は聖書全体を通して、神がご自身を紹介される時によく使われる言葉です。旧約聖書でモーセにご自身を現わされる時にも用いられた言葉です。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト314
 これは創造者なる神、救いを与える唯一の神の名前であり、その神が目に見える姿をもって、わたしたちの人生の真ん中に立たれ、この言葉でご自身を表わされるのです。“エゴーエイミ~わたしだ~”・・・ 主イエスはこの言葉をもって私たちの人生の真ん中に入って来られ、恐れと不安を取り除いてくださるのです。
時々、今日の弟子たちのように、神の子どもたちの人生にも、突然の荒波による苦しみが押し寄せてきます。人生の海を渡ろうと一生懸命に漕ぎ出して見るけれど、なかなか前に進まない。しかし、私たちのために執り成される主イエスがおられる。そして、私たちの人生の荒波の苦しみのただ中で“わたしだ”と御声をかけられ、荒海を歩いて近づかれる主イエスを忘れないでください。2020年度の小泉町教会の航海は様々な嵐や苦しみに覆われるでしょう。しかし、私たちは心配しません。この航海は主イエスが命じられた旅であり、主が共におられるから。

2020.3.15 小さな泉の恵み




新型コロナウィルス対策のための臨時休校が始まってちょうど2週間がたちました。
急な決定となり、受験の終わった先輩方にも会えず、卒業式にも参加できず、しかも大切な授業もすべて取り消しになってしまい、正直むなしく不安な気持ちが大きいです。本当なら学校で進むはずだった範囲は自学せよと言われ、普段なら学校で感じるはずのストレスを家で感じながら、親には迷惑をかけてしまい申し訳ないです。実際友人らもストレスや退屈さに耐えられないのか、SNSには毎日「遊びに行ったよ」の類の投稿があふれています。控えめに言って本末転倒です。ㅠㅠ
でも悪いことばかりではなく、映画を遅れて観られたり、読みたかった信仰書籍を読めたり、進めたかった講座や問題集に取組めたりと、ある意味余分な恵みの時となっています。幸い、もちろんスマホ時間は増えましたが、昼夜逆転にはならず、生活習慣は保てて感謝です。
休校に直面して先ず感じたのは、本当に、明日はどんな日か私は知らない、ということです。戦争や災害、又今回のような病気の流行などが、全世界的に起きているのを見ると、本当に我々は当に終わりの時を生きてるんだ、イエス様ももうすぐ来られるんだ、と思わされ、怖くなったり生活を見直させられたりします。然し、聖書を通して、苦難や誘惑に遭うであろう我々の為に最後まで愛し平和を祈られ、すべての苦難を背負って命まで捧げられたイエス様を見ながら、この苦難も経験され勝利されたんだ、再臨の徴こそ希望なんだ、と思って平安が与えられました。
残りの休校の日々も、誘惑や、家族や自我とのトラブルがあると思いますが、イエス様の十字架の道行を日々覚えながら過ごしたいです。
                                        M.J.兄
                  

2020.3.8 牧師室便り


~ 御翼の陰に ~

「神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も」(詩編9146

   いつになったらこの騒ぎが終息するだろうか。ウィルスという見えない存在に人間の弱さが克明に表されている日々です。この二週間ほど、どこの国と言わず、全世界の国と地域でマスクの品切れによる混乱、日本社会ではトイレットペーパー、消毒液、ペーパータオルなどの買い占めによる葛藤が、また、オリンピックを前にして、マスコミによるうわさ、政治不信、明日への不安が広がりつつあります。

  私たちキリスト教会も各地域や教派、各個教会によってそれぞれ違った対応策を出している状況です。“主日礼拝や諸集会を全面的に止めるべきだ!”いや、“主日礼拝だけは守るべきだ!”、“このようなことで騒いではならない。気にしないでいつものように集うべきだ!”…どの意見が正しいでしょうか。主日礼拝をささげるか止めるかということで悩むということは、胎児の時からの52年の人生の中において初めての経験なので、戸惑いを覚えているのも現実です。

  神の家族の皆さん、まず、お年寄りの方々、病床の方々が新型コロナウィルスから守られることを祈りましょう。また、主日礼拝に来られなくてもそれぞれがお宅で礼拝する恵みを味わっていただきたいですね。

  イスラエルのタルムードに出てくる言葉の中に、「これもまた過ぎ去るだろう」(This, too, shall pass away.)という言葉があります。神の民が試練に遭われても、神が必ずその試練を過ぎ去らせてくださることへと信仰告白なのです。ぜひ、御翼の陰で守られているという信仰のもとで、人知を超えた平安を見出すお一人お一人であるように…。

2020.3.8 本日の宣教


『 昇天され執り成される主イエス 』  (ローマの信徒への手紙8:3134)
私たちのために十字架の上で苦しみを受け死なれた主イエスは、墓より復活され、40日間弟子たちと一緒におられた後天に昇って行かれた。そして天にあって父なる神の右に座しておられる。このことを聖書記者と初代教会の信徒たちは信仰信条の告白で表しました。
本日分かち合う使徒信条の「天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられる」という告白の意味は、文字的、また空間的意味で考えてはなりません。まず、「天に昇られた」とは、復活されたイエス様が宇宙空間のどこかに消えてしまったのではなく、神の御もとに帰られたことを意味します。ここでの「天」は英語の「sky」ではなく、「heaven」です。すなわち、空間的意味でなく、次元的意味としての「heaven」、神の支配される世界を意味します。また、「右に座す」の「右」とは、「栄光、権威、力」を表わすのに使われます。また、「座す」とはヘブライ的意味で、その場所を支配し所有するという表現です。すなわち、主イエスが神の右に座しておられるとは、まずその場所が主イエスが永遠に支配される場所であり、主イエスが本来座るべきところに座しておられるという意味です。また「座す」のもう一つの意味に、“休息と安息、喜びと楽しさ”があります。ですから、主イエスが任せられた十字架と復活の働きを成し遂げられた後、最高の座に挙げられ、すべてを支配される中で喜びと楽しさを味われたということなのです。
神の家族の皆さん、主イエスの誕生、十字架の受難、死、復活、昇天は「過去の出来事」です。また、主イエスがこの世界を裁くために来られる再臨は「未来の出来事」です。しかし、天において父なる神の右に座し、世界と教会を支配し、治めておられるのは「現在の出来事」であるということをぜひ覚えてください。そしてそれだけではない。主イエス様が今父なる神の右に座してなされていることは何でしょうか。それこそ私たち神の子どもたちのための執り成しです。…「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)…
 私たちが生きている今の世界は、私たちの思いや期待の通りには流れていかない厳しい現実にあります。しかし主イエスは父なる神の右に座して、時間と空間を越え、世界中のキリスト者一人一人のために執り成し助けておられます。主イエスは、あなたと私を愛するゆえ、十字架の上で私たち罪人の代わりに苦しみを受け、命までも惜しまず与えてくださった。その命を捨てるほどの愛をもって、今も主イエスは神の右に座し、私たち一人一人のために執り成してくださり、時宜にかなった助けを与えてくださるのです。この御言葉の確かな約束と事実、これほど素晴らしい慰めのメッセージがあるでしょうか。ハレルヤ!

2020.3.8 小さな泉の恵み


以前、礼拝で次のような話をしました。嫁姑問題を抱えた同僚を見て別の先輩から「息子の理想の女性は母親だから、息子の嫁は母親にソックリなイヤ~な女だ」と聞き妻に言うと「それならうちの子達のお嫁さんは私にソックリなよく気のきく優しい人やね。楽しみ~!」と言っていたと。それをうけて佐々木道子姉が「坂上さんの奥さんには会ったことが無いけど大好き」と言って下さいました。妻にそのことを伝えるととても喜んでいました。妻の心が少し教会に近づいたようです。妻の救いを願う私には大きな励ましとなりました。神様は私達の願いを聞いてくださいます。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14:14)いつも励ましを与えて下さる神の家族の皆様に感謝しています。愛する主にある兄弟姉妹とそのご家族の上に主の豊な恵みが有りますように。
                                S.Y.兄

2020年3月2日月曜日

2020.3.1 牧師室便り


~ 受難節を過ごす神の家族へ~                   

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音書14:27

 先週からレント(受難節)に入りました。イエス・キリストの受難の歩みを共にたどりつつ黙想する、キリスト教会において大切な時です。とりわけ新型コロナウィルスが世界を覆う中、受難のキリストの十字架の恵みを黙想し御心をいただくことが求められるでしょう。

 先日、執事会では今週からしばらくの間、新型コロナウィルスの脅威から神の家族と教会の働きを守るため、まず、日曜日には主日礼拝を除くすべてのプログラムを行わないこと、また、平日集会も水曜祈祷会を除き、休むことを決めました。その理由は、いまだ新型コロナウィルスがはっきりと究明されないまま、検査もほとんど行われず、どこまで広がっているのかが分からない現状で、無症状感染が実際に起きていること、また高齢者や持病のある方には大変危ないとされているからです。そのため、わが教会も最低限の対処を取る判断を下しました。今の状況がいつまで続くかは分かりませんが、一日も早い終息を祈りましょう。

 まさに思いもよらない苦難と共に始まった受難節ですが、だからこそ確かな信仰の上に立ち、主イエスの御言葉と十字架の恵みに励まされながらこれからの日々を過ごしていきたいものです。この時こそ御言葉を黙想する中で主イエスとの人格的な交わりが深められますように…。シャローム!

2020.3.1 本日の宣教

『 試練の時、忘れてはならないこと 』      ヤコブの手紙1:24) 

  私が小学生の頃は、学校で予防接種を受けていました。その中でも「火の注射」と言われたものは、火で熱した針で注射するという、子どもには最も恐ろしいものでした。当時は現在のように医療技術薬が発達していなかったので、注射を受ける時は激しい痛みがあり、受けた後しばらくの間は膿ができて苦しんでいたことを覚えています。しかし、この一瞬の苦しみを経て接種が終わると、その病気に対する免疫力が高まり、たとえその病気にかかったとしてもさほど苦しまず、大事に至らないわけですから、そのありがたさは大きかったと思い出しています。

  このような経験は私たちが試練を受ける時に得る恵みについて教えてくれると思います。神は私たちの人生において試練や苦難を通して私たちを神の御心にふさわしい者に整えられます。しばらくの間の苦難による痛みや悲しみは大きいものですが、やがてそれは予防接種のような役割を担うことを悟らせてくださるのです。受ける瞬間は痛いですが、その痛みと試練を通して私たちの健康と幸せが守られるからです。

 私たちに試練がやって来る時、忘れてはならないことがあります。それは、神が許されなければ、どんな試練も私たちにやってくることはないという事実です。そうです。天の父の許しがなければ、神の子どもたちの髪の毛一本さえ地に落ちることはありません。父なる神は神の子どもたちを愛し、いつも助けてくださるお方、だから試練がやってくるとき、私たちはその試練に潜んでいる神の御心をよく黙想すべきなのです。そして父なる神が望まれる御心と方法で試練に立ち向かわなければならないのです。

 次に、神は試練を通してかたくなな心を砕き神の御前にすがることを学ばせてくださると覚えましょう。もちろん、試練に遭えば遭うほどもっとかたくなになる人もいますが、多くの場合、試練に遭う時には自分自身の高慢、虚栄心など弱さに気づかされ、今まで求めてきたものがいかに空しいかを知らされることになるでしょう。その時、人は真の神を求めるようになり、神との新しい次元の関係を結ぶことになるのです。そうです。「弱さの中で味わう真の強さ」をこそ、主イエス・キリストとの人格的交わりを通して得ることができます。
 だから本日の聖書は試練に遭うキリスト者に向けて、その試練を喜びとしなさいと勧めているのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコブ1:24…そうです。知恵あるキリスト者はどのような試練に遭っても揺るぎません。彼らはいつも神の知恵と導きを求めます。だから忍耐できますし、神の約束を信じて一歩踏み出すことができるのです。
 受難節を過ごす神の家族を襲った試練がありますか。その試練を通して強められることを期待しましょう。ハレルヤ!

2020.3.1 小さな泉の恵み


年始に長男の成人式を当教会でして頂きました。子供の成長は早いものですね。ふと、私が成人したばかりの時の事を思い出しました。
私は大学でスキー部に所属していました(ボーゲン担当())。20歳でクリスチャンになったばかりの私は嬉しくて、部内で「私はクリスチャンになった!」と言いふらし、証しする機会を伺っていました。そんな折、大学祭があり部員みんなで飲み会に行きました。呑むのが大好きだった私はベロンベロンに酔って大はしゃぎをし、しまいには車を運転して帰宅しました。後日クリスチャンの先輩部員から呼び出しを食らい、「キリストの福音にふさわしい生活をする事が1番の証だと思うよ。」と諫められました。先輩クリスチャンの言葉は今でも私の心に語りかけてきます。
『あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。』 ―第Ⅱテサロニケ2章17節―
                          K.K.姉


2020.2.23 牧師室便り

~ 祈りの力を味わう幸い ~

「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、」(エレミヤ291214

 先週は神の家族の祈りに支えられ、無事韓国に行ってきました。今回の旅は、突然決まったもので、私の信仰生活に大きな影響を与え、常に模範となってくれた母教会の一人の先輩のための執り成しの旅でした。末期癌と診断され、生と死の戦いをする先輩のために顔と顔を合わせて励まし祈る願望が与えられ、心が進むまま御手にゆだねて過ごせた3日間でした。もちろん癒しは主のものであり、私にできることは切に祈ることしかありませんでしたが、主は私を祈りの原点に戻され、祈りがもたらす力と感動を味わわせてくださいました。

 とりわけ二日目の日には、私の信仰の出発であり、主イエスの十字架の恵みを与えてくださった山奥にある祈祷院を30年ぶりに訪ね、叫び求める時を過ごすことができました。そこは、人生の意味を探すため叫び求めていた哀れな罪人の私を訪ねられ、すべての罪を癒し、全く新しい者に造り変えられた主イエスとの人格的な交わりが始まった信仰の原点の場所でした。そして、不思議と言いましょうか。祈祷院の礼拝堂の床にひざまずき、祈り始める時から滝水のように注がれる主イエスの臨在、そして涙、涙・・・。私が祈るのでなく、聖霊が祈らせてくださる感動、そして主が私の祈りに応え、働かれるという確信を抱かせてくださったひと時でした。

 神の家族の皆さん、主イエスはあなたが飢え渇きと打ち砕かれた心をもって祈りの座に進むのを待っておられることを覚えましょう。そこで、祈りの力と感動を味わう幸いをいただきましょう。シャローム!
    

2020.2.23 本日の宣教

『 御言葉を行う者の幸い 』     ヤコブの手紙1:2225) 

  私達は主の哀れみによって「救い」を与えられました。永遠の命。それは決して取り去られることない神様からの希望の約束です。私達はそのことを喜び他の方にも知って頂きたいと伝道を試みてきました。しかし少なくとも私自身においては伝道について深く学んだことが有りませんでした。そこで福音伝道について考え、思いを分かち会いたいと思います。

 これまで救いの条件に行いは全く必要無いと度々聞いてきました。私達が誇ることかないためです。しかし一度救いを得たならば御言葉を行うことは大切です。 このところ幾つかの事柄を通じて「行う」事による幸いを与えられました。 その中で「路傍伝道」「小泉町教会オリジナル讃美歌歌詞募集」「子育て」についてお話します。
 1月の路傍伝道は天気は晴れていましたが、風が吹いて寒い日でした。イベントが有り富山駅北口にはそれなりに人通りがありました。皆寒そうに足早に通り過ぎる中、親子四人の家族が来られましたので、お父さんに聖書を差し出しましが、断られました。残念に思っているとお母さんに手を引かれた小学生程のお嬢さんが後ろを振り返り聖書を受け取ってくれました。私はその瞬間大いに主の励ましを得ました。私が初めて聖書を手にしたのは丁度彼女の歳頃に貰ったギデオン聖書です。それは今でも持っています。彼女の手にある御言葉の種が花開き実を結びご家族に祝福がもたらされることを祈らずにはいられません。 
  宣教60周年を記念してオリジナル讃美歌を作ることになりました。SE姉を中心に作曲はK姉が担当され、歌詞を教会の全ての人から募っています。KA姉の提案で曲に合わせた歌詞専用原稿用紙が配られました。これが無ければ最低一人一作品と言われても私のような音楽の素養の無いものに作詞など考えもおよびません。S姉をはじめ賜物豊な方々にお任せするだけだったでしょう。とりあえず第一回締め切りには間に合わせましたが、私のものが全く使われなくても良いと思っています。作詞にあたって主と語らい恵みの時を持ち既に幸いを得ているからです。
  この春、私の次男が大学に進学します。 彼の小学生時代は大変でした。学校でこんなこと出来て当然ということが出来ないでいました。先生からはやる気のない怠け者の上に言うことを聞かない強情者のレッテルを貼られ最低の落ちこぼれとして過ごしました。南砺市礼拝では毎回閔先生に次男の相談を繰り返していました。御言葉を学び祈る中で、彼に主の働きかけがありました。ある日中学校から呼び出しがあり「学校ではあらゆる手を尽くしたが、次男には発達障害の疑いがあるので、専門医に受診して欲しい」ということでした。祈り、彼に御言葉を伝え、何度も次男を医者に連れていきました。妻はまだ真の神様を知りませんが、次男が有用な者に変わることを信じて疑いませんでした。そうこうしている内に成績が上がりかつての姿から想像も出来ないほど明るく変貌を遂げました。
 神様はこの世においては、一見辛そうに思えることにも共に歩み、励ましを与え乗り越えた時の喜びと祝福を備えて下さるお方です。この世でさえ数え切れない恵みが見出だせるのですから、来るべき世においては更に豊なことは想像に難く有りません。神様は一人も滅びないことを望んでおられます。伝道は主の望み、喜びです。小泉町教会は神が共に働かれる教会と呼ばれるように伝道に励みましょう。神の御心を行う者に祝福が有りますように。主の栄光が永遠に有りますように。
                                                                                         S.Y.執事

2020.2.23 小さな泉の恵み


「いつも喜んでいなさい、 
絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」 
(テサロニケ第一 5章16-18 節) 

色々と不安になり険しい顔で考え事をしている時、ふと棚を見上げると女性会の姉妹にプレゼントして頂いた上記の御言葉が目に映り、はっと目覚めたような感覚になりました。
小学校に登校し始め、嬉しそうな長男や、入学準備を毎日うるさいくらいにこなし入学式はまだかまだかと待ちわびている次男、インドネシアで共に苦労した弟夫婦の電話から聞こえる明るい声など、私の周りは喜びがいっぱいだなと気づかされ、そのことに感動し感謝の祈りを捧げました。
1年前の事を思い出すと、子供たちは慣れない環境のなか、日本の家族や友人が恋しく帰りたいと何度も泣くたびに心が苦しくなりました。しかし、次第に言葉がわかるようになり、最後には日本に帰りたくないと言うまでになりました。私も日本の食材とは違う中、毎日何を調理して食べようか…求めている物がどこで手に入るのだろうか…というもどかしさが多くあった日々があったものの、助けてくれる人が現れたり、情報が与えられたりと少しずつ生活環境が整えられたことを感謝します。
いつも神様は私と共にいてくださるんだと実感しています。私はやはりいつも喜び、感謝し、光の子でありたいです。また必ず道が整えられると信じて祈る日々を過ごせますように。アーメン。
                          I.A.姉

2020.2.16 牧師室便り

~ 神の世界を見渡す余裕を ~


目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」(イザヤ4026

慌ただしい毎日のうちに、目の前の仕事や限られた人間関係に捕らわれ周りを見渡せずに走り回る現代人の姿を見ます。子どもの時から神の造られた大自然を楽しむことは忘れられ、スマートフォンやインターネット、テレビに目を奪われて見るべきものを逃してしまっているような気がしてなりません。とりわけ子どもたちが幼い時からこれらの機械を渡され、頭も心、魂までも支配されてしまっていることに恐れを覚えています。

先日、これからの子ども礼拝や、子どもたちの教会生活のためにCS(教会学校)リーダーたちと親たちが、共に集い話し合う時が持たれました。日本社会の流行りに無防備に追い廻されている子どもたちが日曜日だけでも、神を礼拝することのすばらしさを知り、御言葉を学ぶ楽しさを味わい、神の家族の交わりの中で愛され、共同体精神を学び、また、大自然を通して創造者なる神を体験し、霊肉共に成長してもらおうという願いが、話し合われました。そのために、まず口を揃って出たことが、子どもたちの手から機械を取り上げ、大自然と生活の知恵と楽しさを身をもって体験できるプログラムを進めましょうということでした。

私の子どもの時には、町の子どもたちと山や川、道に転がる石など自然の中で得られるもので遊び、心を豊かにされていたことを嬉しく思い出します。もちろん、今の子どもたちに強要することもできなければ、それだけを望むこともできないことは知っています。しかし、神の家族に属している子どもたちを、このままにしておくことはできませんし、サタンの策略に、無防備に子どもたちを手放してはなりませんから、私たちに出来る最善を祈りつつ尽くしていきましょう。日々、神が創造された世界を見渡す余裕を持つ子どもたちになりますように…。シャローム!

2020.2.16 本日の宣教

『 従順、神の人の生き方 』        (創世記6:9~22

  聖書は神が偉大なる救いの歴史を成し遂げて行かれる大いなるドラマで満ちています。そして、その救いの歴史の中心にはいつも神に用いられる人が存在します。神は神の人たちを救いのドラマの主人公として選んでくださいます。堕落していく人間世界の中で、星のように輝く敬虔なクリスチャンに注目しておられます。その時、神に用いられる神の人がもっている特徴こそ、「従順」であります。

神が、神の似姿で人間を造られることで天地創造を終えられた時、神は「極めて良かった」という一言で創造の喜びと感動を表わされました。しかし、アダムの罪から始まった人間社会はますます罪を極め、世界は神の前に堕落し、不法に満ちるようになりました。神の栄光を失ってしまった人間社会に対して、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6:56と聖書は記しています。

そこで神は、堕落した世界を新たにするための計画を立てられます。その計画こそ、洪水による裁きでありました。そのため神に選ばれた人がノアでした。神は、ノアに「箱舟」を作るようにと命じられます。ただ作るようにと言われただけでなく、箱舟を作るための方法も教えられます。箱舟の木材から部屋をいくつ作るべきか、その長さと幅と、高さなど、事細かく命じられることが分かります。聖書はその時のノアのことを次のように表現します。「ノアが、すべて神が命じられた通りに果たした」22節)…実際、ノアは神が命じられること、小さいことから大きいことまでのすべてを命じられた通りに果たしたと記しています。この全き従順こそ、神の人が備えるべき生き方です。

神を信じる神の人であれば、誰もが神に従うことを心がけながら歩むでしょう。しかし、その従順がノアのように小さなことまで、全き従順を生きるか否かが大切なのです。私たちの従順も、大体のことには従いますが、ある時点で、あきれてしまったり、個人的な選びであきらめたりする場合が、よくあるのではないでしょうか。しかし、神の命じられる御言葉には、適当に扱ってもいいものはないことを覚えましょう。

イエス様も父なる神の御言葉に対して、ノアと同じ姿勢をとっておられました。フィリピ2:68です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」…ノアや主イエス様のような従順を通して、主は御業を成していかれるのです。本日、2020年度のキリストの体なる教会の、奉仕の先頭に立つべき執事を選ぶために、執事選挙が告示されました。
 ぜひ、神の命じられるみ言葉に従順である働き人が選ばれるように、執り成し祈りましょう。

2020.2.16 小さな泉の恵み




が待ちどおしい。22日のこの欄に、島田大兄が「雪を待ち望む」文章がありましたが、彼の気持ちも理解出来ます。
 私は内心降雪がない方が良いと願っておりますが、村の人達は会う人ごとに、「雪が降らないに…。」と言葉を交わします。この様な挨拶は…。常時、私って悪い人間である。積雪が無いと農家は困るのである。それは地下にいる虫が越冬するからである。降雪があると虫は寒さに弱いため「死」んだが、雪が無いと繁殖して、夏になると農作物を荒らすからである。しかし私は悪い人間である。心の中では降雪のないのを幸として喜んでいる。なんという偽善者だろうか。神様はこんな悪い私を見てどうお思いになるか…。
 また私は別の心で「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば全て添えて与えられる・・・・。」
 聖書の御言葉を思い、自分の身勝手なことを反省しました。私は祈りました。その祈りがかなって、先日立山町の山沿いに降雪があり感謝しております。
 雪積の風景は何とも言えない風光明媚なことまるで水墨画を観ているような実景。
 神様は農業を営む方々の為に雪を降らせてくださったのだと感謝しております。
田植えの頃の水が必要な時のために、雪を少しでも多く降らせて下さったのだと感謝しております。
                  A.M. 姉
             

2020.2.9 牧師室便り

~ 恐れからの解放 ~


 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:20)

毎週火曜日の「楽しい聖書の学び」は、2部形式で行われています。まず、前半の1時間はコーヒーを飲みながら、参加者全員による1週間の生活の中で経験したことの分かち合い、後半の1時間30分ほどの時間を聖書の学びで過ごしています。そのため、参加者の皆さんは一週間のうち、それぞれが経験した出来事から得た思いや恵みを準備して集います。だからでしょうか、一部の時間は聖書を学ぶ二部とはまた違った意味での恵みとなっています。また感謝なことに、ほとんどの方が備えてくださった内容がとても豊かで、様々な感動をもたらしてくれています。とりわけ求道者の皆さんも楽しみに集っておられることは何よりの喜びです。

ところが、先週の楽しい聖書の学びでは、誰から提案されてもないのに、ほとんどの方が新型肺炎の話題で盛り上がりました。TVでの騒ぎや感染症への恐れのゆえだったでしょう。その恐れは生活の隅々に影響を及び、マスクの買い溜めや人が多く集まるところを極力避けることを心がけている現状です。もちろん細目に手を洗い、人の集まるところでは、マスクをするなどの予防的な備えを心がけながらも、過剰に恐れに捕らわれることにならないようにしましょう。恐れは私たちを一歩前に進むことを妨げ、生活全般を支配しようと仕掛けてくるはずです。

主イエスは、嵐に遭い恐れていた弟子たちを救うために湖を歩いて来られました。そして「わたしだ。恐れることはない」と御声を発しておられます。主イエスは、今日の私たちにも次のように語られることでしょう。「あなたはわたしのもの、わたしはあなたと共にいる神、恐れずわたしと共に歩もう。」と。そうです。私たちの命は、主イエスの御手にあり、私たちは信仰をもって主の栄光を現すために、今生かされていることを覚えましょう。シャローム! 

2020.2.9 本日の宣教

『復活の信仰を生きる』   (コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:1~8)
 ここに宝石があります。この宝石は値高く尊いもので、特別に飾らなくても宝石のままで素晴らしいものでした。まさに、この宝石に変わるものはないと断言できるほどでした。そこで人々はこの宝石を保管するために綺麗な箱やケースを準備しました。しかし、大切なことは綺麗なケースではなく、宝石そのものであることを忘れてはならないということです。というのは、多くの人が宝石ではなく、それを飾るものや、ケースに心を奪われる時がしばしばあるというのです。日本の包装術は世界一です。私が日本に来て驚いたことの一つが、商品を包装する技術でした。綺麗に包装された商品、まず、一枚を破ったら、その中に綺麗な箱が出て来て、それをあけて見ると、また別の箱が出てくる。そこで期待をもって中身を開けるのですが、中身は小さく、期待外れになってしまうことをよく経験します。人々は包装に心が奪われ、大切な中身は後のものになってしまうという・・・皆さんも経験していることではありませんか。…これは教会においても同じです。教会にとって宝石となるべきものは「福音」というものでした。その福音を喜び救われた者として主を礼拝し、福音にふさわしい生活へと導かれていかなければならないのです。ところが、教会の中で福音ではないものが中心に立っているのではないか、「教会のプログラムが、影響力のある人が、立派な礼拝堂が、教会の伝統が、重んじられてしまい、福音が語られなくなってしまったことを目の当たりにしてはいませんか。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(1535

「復活の信仰」は、「十字架の信仰」と並んで初代教会とキリスト者の福音であって、信仰告白の中心でありました。「主イエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったこと、そして三日目に死より復活してくださった。」という十字架と復活があって、初めて私たちの罪の赦しと救いとが成し遂げられるのです。

過去から現代に至るまで多くの人々は、主イエスの十字架という出来事には納得のいく反応を見せますが、「復活」という、人間の科学と理性を超えてしまう出来事の前で、躓いてしまったことを目の当たりにしてきました。しかし、復活の信仰なしでは、初代教会の爆発的なエネルギーを説明することも、理解することもできません。使徒パウロは復活の確かさについて、復活の証人たちを具体的に示すことで明らかにしています。しかもパウロは、自らが復活を体験した証人であることを告白します。実に、復活信仰に出会う人は変わりました。主イエスと教会の迫害者をキリストの伝道者へ、十字架の死を恐れ逃げていた弟子たちを殉教者へと変えたのが、復活信仰の実でした。それほど、イエス・キリストへの復活信仰は大いなる変革をもたらす力となり、人と歴史を変えていきました。
今、復活信仰は、生きてあなたを刺激していますか。その復活信仰によってあなたは日々変えられるはずです。

2020.2.9 小さな泉の恵み


「三浦綾子旧約聖書入門一四」~箴言を読んでの感想~

箴言の著者は箴言三一章のうち二四章まではソロモン、二五章から三十章まではユダの王ヘゼキヤの臣下が編集したソロモンの言葉、三十一章はマッサの王レムエルの言葉です。

ソロモンとはダビデが忠臣ウリヤを諜殺して得たウリヤの妻バテンバに産ませた息子です。このソロモンは、神を信じていて神がその妻に現れて「あなたに何を与えようか、欲しいものを言ってみよ」と言われた時、ソロモンは「私は小さな者です。しかしあなたの民は数え切れぬほど多いのです。それゆえどうかわたしに聞き分ける心を与えて民を公平に裁かせ、わたしに善意をわきまえることを得させてください」と願ったのです。私はこの箴言のなかの<主を恐れることは知恵のもとである>と書かれているのが一番心にのこりました。

 主をおそれていると何が悪いことで正しいことかを判だんすることができまた神様を大切にして神様だけを信頼することができます。これからも主が共にいてくださると信じて、よろこんで生きていきたいです。
                    M.T.姉