ここに宝石があります。この宝石は値高く尊いもので、特別に飾らなくても宝石のままで素晴らしいものでした。まさに、この宝石に変わるものはないと断言できるほどでした。そこで人々はこの宝石を保管するために綺麗な箱やケースを準備しました。しかし、大切なことは綺麗なケースではなく、宝石そのものであることを忘れてはならないということです。というのは、多くの人が宝石ではなく、それを飾るものや、ケースに心を奪われる時がしばしばあるというのです。日本の包装術は世界一です。私が日本に来て驚いたことの一つが、商品を包装する技術でした。綺麗に包装された商品、まず、一枚を破ったら、その中に綺麗な箱が出て来て、それをあけて見ると、また別の箱が出てくる。そこで期待をもって中身を開けるのですが、中身は小さく、期待外れになってしまうことをよく経験します。人々は包装に心が奪われ、大切な中身は後のものになってしまうという・・・皆さんも経験していることではありませんか。…これは教会においても同じです。教会にとって宝石となるべきものは「福音」というものでした。その福音を喜び救われた者として主を礼拝し、福音にふさわしい生活へと導かれていかなければならないのです。ところが、教会の中で福音ではないものが中心に立っているのではないか、「教会のプログラムが、影響力のある人が、立派な礼拝堂が、教会の伝統が、重んじられてしまい、福音が語られなくなってしまったことを目の当たりにしてはいませんか。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(15:3~5)
「復活の信仰」は、「十字架の信仰」と並んで初代教会とキリスト者の福音であって、信仰告白の中心でありました。「主イエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったこと、そして三日目に死より復活してくださった。」という十字架と復活があって、初めて私たちの罪の赦しと救いとが成し遂げられるのです。
過去から現代に至るまで多くの人々は、主イエスの十字架という出来事には納得のいく反応を見せますが、「復活」という、人間の科学と理性を超えてしまう出来事の前で、躓いてしまったことを目の当たりにしてきました。しかし、復活の信仰なしでは、初代教会の爆発的なエネルギーを説明することも、理解することもできません。使徒パウロは復活の確かさについて、復活の証人たちを具体的に示すことで明らかにしています。しかもパウロは、自らが復活を体験した証人であることを告白します。実に、復活信仰に出会う人は変わりました。主イエスと教会の迫害者をキリストの伝道者へ、十字架の死を恐れ逃げていた弟子たちを殉教者へと変えたのが、復活信仰の実でした。それほど、イエス・キリストへの復活信仰は大いなる変革をもたらす力となり、人と歴史を変えていきました。
今、復活信仰は、生きてあなたを刺激していますか。その復活信仰によってあなたは日々変えられるはずです。
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