2021年5月3日月曜日

2021.5.2 牧師室便り

 

 ~ わが子よ… ~


「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。・・・何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。(箴言42023)


毎年の5月は、ゴールデンウィークで始まり、子どもの日、また、母の日が続いているため、家庭の月と呼ばれていいでしょう。例年であれば、家族でどこかに出かけてゆっくりと大自然の命の躍動感に触れながら、家族愛を深めるべきでしたが、コロナ再拡散ということもあって、どこにも出かけず家の中でつまらない時間を過ごしているかもしれませんね。できれば、遠くには行けなくても、近くの自然に出かけ(もちろん、マスク着用で)、家族だけの楽しい時を造ってくださいね。我が家は例年であれば、必ず温泉に行っていましたが、コロナで行けないので、他の予定を考えています。


今年は、子どもの日を迎え、高校3年生、中学校1年生の二人の子どもを見つめながら、「私は父親としてふさわしく歩んできただろうか、今のままでいいだろうか」などのことを黙想し、父なる神の前で祈る時を過ごしています。実は、牧師家庭ということもあって、子どもたちは特別な感情や負担、その他、責任感のようなもので誰にも言えない辛さを抱えてきたのかもしれない。世界中の牧師家庭の子どもたちが逸脱してしまうケースが多々あるということもよく耳にします。とりわけ今年、受験を迎える長男と中学生になった長女のことが気になるのは仕方ないかもしれない。願わくは、子どもたちが父なる神に親しみ、神を愛し自分自身のことを愛する人になるように、また、神の御心を知る中で、人生を楽しく進んで行ってほしい…。


聖書の偉大な信仰の先人たちも、彼らの期待とは裏腹に子育てには大変苦労していたことを知っています。親である神の家族の皆さん、「わが子よ」と、私たちの愛する子どもたちが父なる神を愛し自分自身を愛する子どもに、また、何よりもまず、自分の心を守っていける子どもになるように教えつつ祈っていきましょう。シャローム!

2021.5.2 本日の宣教

 『 傷ついた葦を折ることなく 』(イザヤ4214)    

今日の聖書の御言葉は主イエスが生まれる700年も前の時代、預言者イザヤを通して語られた「主の僕」への預言の言葉です。特に、今日の御言葉には、主イエスによって成就される救い主の姿が描かれています。

“傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(34節)”

まず、「傷ついた葦を折ることなく癒される主の僕」の姿を描いています。葦という植物は、当時のエジプト、パレスチナ地方に多く見られていたものです。とりわけ葦は、弱く、少しの風にも揺れ動き、すぐ折れてしまいそうな姿から、聖書の言葉はもちろん、世界の詩や小説など、文学の中においても、弱い人間の姿を表す時によく使われてきた植物です。ここの「傷ついた葦」という表現は、文字通り「半分ぐらい折れている葦の状態」の意味で、精神的・肉体的に回復できないほどの打撃を受けた人間、特に、罪の中で汚れてしまった人間の状態を表しているのです。実に、折れてしまった葦はどこにも使い道がないので、そのまま折って捨ててしまっても不思議ではない。しかし、主の僕は、傷ついた葦のような一人一人の弱くみすぼらしい人との関係の中で、彼らを癒されるという表現を通して、主イエスがいかに優しく、愛に富んでおられる方であるかがよく分かります。

次に、「暗くなってゆく灯心を消すことなく守られる主の僕」の姿があります。当時のイスラエルの民の生活において無くてはならない物の一つが「灯心」でした。この灯心も、当時の聖書や古代の文学によく用いられていたもので、人間の希望、命を表現する時によく用いられていた概念です。特に、「暗くなってゆく灯心」というのは、「風前の灯火」というコトワザと殆ど同じ意味でしょう。夜の闇は深くなりつつあるのに、先ほどまで周りを照らしていた灯心が、油がなくなり、また風が強まることで、だんだんと勢いを失い、今にも消えてしまいそうな「灯心」の姿なのです。その消えそうな灯心の姿から、私たち人間の弱さが見えるのです。すなわち、この世界の中で希望の光をなくして生きている暗闇の人々にイエス・キリストが真の光となってくださり、永遠になくならない油で燃やしてくださることが約束されているのです。

イエス・キリストは、あらゆる苦しみを知っておられ、傷つけられ、十字架にかけられ死んでくださった。そのことによって、今にも折れそうな葦のような私たちを癒すことができ、強めてくださることができるのです。そしての主イエスは、絶望だと、失敗だと、不可能だと思われた十字架の死を打ち破り、復活を通して真の勝利と希望を示されたのです。ですから、私たちの弱さは、十字架の強さを体験できる恵みの通路に変わるのです。主イエスは今日も “どんな傷でもいい、どんな失敗でもいい、どんな痛みでもいいから、わたしの前にきて癒されなさいと優しく声をかけられます。

神の家族の皆さん、私たちを取り囲む現実は、少し傷があったら折って捨ててしまう社会、一度失敗したら待ってもらえず取り残される社会、小さな憐れみも、慰めも、赦しも見出せない状況です。しかし主イエスは、傷ついている葦のような私たちを折ってしまったり、あきらめたりはなさらず、今にも消えてしまう灯心のような私たちを支え、励まし、希望の光を与えてくださるでしょう。互いの弱さを愛し合い、喜び合える神の家族であるように…。ハレルヤ!

2021.5.2 小さな泉の恵み

 

もう五月である。以前にこの欄に書いたことがあるが、わがっやの裏から見下ろすと、富山の平野の水田は水をいっぱい満たしての田植えの準備やら、田植えの終了した所などが見られる。

忙しい農家のようすが目に入ります。我が家は水田があるのにいろいろの事情で現在は休耕。本当に神様に申し訳ありませんと謝りたい気持ちがいっぱいあります。

 もうこの季節になったのかと、自分の無関心に気づき、ふと現実に返ってみては最近の私は、「あゝだめだなあ」…。一日の三度の食事だけに無意味に過ごしている。

 高齢のためか、この頃物忘れがひどく、困っております。先日も曜日を間違えてしまった。自分では気を付けているつもりですが、家族にひどく注意されてしまった。

 高齢者が多くなり、新聞紙上もに時々行方不明の記事を読むと、私も、もっとしっかりしなければと、自分に言い聞かせているのであるが…。

 もっと聖書等を読んで年寄りなりの勉強等を。しかし、なかなか思うようにはいかないのが現実である。

 コロナ禍のため、兄弟姉妹等の方々とも…交わりがあまり出来なく、早くコロナ禍が終息をと神様に祈っております。

                           A.M. 姉

2021.4.25 牧師室便り

 

~ 定期総会を迎える神の家族へ ~

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言169)」

今日は2021年度定期総会です。新型コロナウイルスパンデミックが始まった昨年度の定期総会は、日程を延期して、6月に恐る恐る少人数で行ったことを覚えています。そして、今年度は予定通りですが、依然として厳しいコロナ危機の中で執り行うことになります。教会員全員が集えることを望んでいますが、仕事や諸事情のため、また、コロナへの心配などの理由で、出席できない方々がいるでしょう。たとえ集えなくても、それぞれの場所で祈りによって繋がれることを信じて、時を過ごしていただきたいと思います。

総会の準備をしながら、何より戸惑いを覚えたのは、今年度のスケジュールが立たなくなっているということでした。毎年大切に行っていた“春のピクニック、夏のチャペルコンサート、ファミリーキャンプ、平和集会、北陸交流会、その他、…”一年間のコロナ危機を経験してきたけれども、再び拡散しているコロナウイルスの脅威の前に、日本や世界が動きを止めてしまっている現状です。さらに心苦しいのは、これからの日々が、予測不能で全く定まっていないため、計画を立てることができないということでしょう。

このような不確かさの中で、神の家族の皆さんに求められることこそ、まず、昨年度の一年間のすべての歩みを、守り祝福してくださった神を讃美することでしょう。昨年度も、全く見えない未知の道でしたが、ふり返ると、すべてが神の恵みの一年の旅であったと告白せざるを得ません。私たちにできることは、与えられた道を一歩一歩歩むことでした。そして、主イエスは、新たに2021年度という道を歩むようにと命じられ。しかし、私たちは恐れません。なぜならば、インマヌエルの主イエスが共に歩まれ、守られることを信じるからです。もちろん、いろんな面で昨年度とは違うでしょうし、私たちの心構えも新しくすべきでしょう。願わくは、神の家族お一人お一人が、日々の歩みの中で一歩一歩を備え導かれる主イエスの手をしっかりとつかみ、信仰の歩みを始められますように、また、小泉町教会の神の家族の日々の歩みが、生きた礼拝者として、主の喜びとなりますように…。シャローム!

 

2021.4.25 本日の宣教

 『 種を蒔く人の涙 』 詩編12616)

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編12656)」

春を迎え、農夫たちは一年間の営みのために畑や田んぼで忙しくしています。私も先週、牧師館の周りの小さい畑に種を蒔くための備えをしました。今年はどんな野菜が食べられるか楽しみです。本日、小泉町教会もキリストの畑としての一年間の豊かな収穫のために、農夫たちがどんな種を蒔くべきか、どのように育てていくべきかなどについて話し合う総会を開きます。とりわけコロナ危機という状況において、主の御心に従いたいと願います。

さて、今日の詩編126編は、バビロン帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、多くのイスラエルの民が、遠くバビロンにまで捕虜として連れ去られた「バビロン捕囚」と呼ばれる歴史を、その背景に持ちます。そして神は、預言者たちの言葉通り、ペルシャ帝国のキュロス王の勅令によって、長きに亘る捕虜生活から解放を与え、イスラエルへの帰還を成就されることになります。しかし、希望と幻をもって帰ってきた人々を待ち受けていたのは、過酷な現実でした。ソロモン王が建てたエルサレム神殿は、見る影もなく廃墟となっていましたし、すでに異民族が、エルサレムの地に住んでいました。それに追い討ちをかけるように、飢饉や病気が帰国の民の中に広がり、人々は疲れ果ててしまっていたのです。そのような状況の中、帰還した民らが第一に優先したことが、エルサレム神殿の再建でした。(その辺の経緯はエズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書を参照してください。)

まさしく絶望の状況、もう、立ち上がることのできない現実を前にして、気を落としていた詩人の目に、畑に種を蒔く一人の農夫の姿が入ってきました。その農夫は、泣きながら畑に種を蒔いていたのです。その農夫に、どういう事情があるのか分かりませんが、涙と共に種を蒔いていた農夫の姿は、詩人に大きな感動と共に、イスラエル共同体に求められる、神の御心を教えてくれたことでしょう。普段、私たちが考える「種を蒔く」ということは、希望の現れとして、豊かな収穫を夢見ながら行う行為です。ですから、「種を蒔く」ことと「涙を流す」ということは、なかなか結びつかないでしょう。大切なことは、農夫が涙と共に種を蒔いているということでした。

涙と共に種を蒔きつづける農夫の姿は、コロナ危機の中で、新たな歩みを始めようとする私とあなたにも、大きなチャレンジとなってくれます。コロナ危機の中で希望を失い、疲れ果ててしまっている私たちの隣人、また日本と世界の死に行く人々のために、あなたは何ができますか、あなた方は信仰と希望の種を蒔けますか、と。

主イエスは、私たちキリストの農夫たちの涙を喜ばれます。その涙を一滴一滴集められ、神の国と神の業の栄養分として用いてくださるでしょう。キリスト者にとって、涙を流して種を蒔く時こそ、祈る時であって、礼拝の時でしょう。私たちが神の助けを求めるために、一人で主の前にひざまずき祈る時、また自分自身をいけにえとして献げる生きた礼拝を献げる時、主イエスは、心から込み上げてくる涙を、恵みとして与えてくださるでしょう。ハレルヤ!

2021.4.25 小さな泉の恵み

 

「子どもって、桃太郎みたいだね。」今春、大学院に進学した長男を見て妻に言いました。「だって、子どもってすぐに大きくなる。桃太郎の絵本でも桃から産まれた次のページには大人になって鬼退治に行くじゃない。」すると妻が「私は毎日子どもたちの世話や三度の食事の準備をしているの。夏休みとか冬休みの長い休みには給食がある新学期がどれだけ待ち遠しいか!次のページには大人じゃないの。」「ごめんなさい。」妻への感謝が足りない自分です。子どもだけでなく私も一人で生きてきたわけもなく、命を与え、守り導き育んで下さる神様への感謝も足りません。全てが恵みで全てが喜びです。必要を満たして下さる主を誉め称ます。ハレルヤ。

「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。(マタイによる福音書6:26)」

                                  S.Y. 兄

2021.4.18 牧師室便り

 

~ 真実と向き合う勇気を ~

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。(マタイによる福音書2412)」

毎日人々を暗くするようなニュースで溢れる世界です。朝早くテレビをつけるやいなや新型コロナウイルス再流行のニュースをはじめ、暗い事件事故のニュースが後を絶ちません。だからでしょう。あるテレビ局は明るい朝を提供したいということで、他のテレビ局と違ってバラエティー番組を朝から流しています。彼らの選択も一理あると思う人も多いでしょう。しかし、どうでしょうか。暗いニュースに目をつぶり、嫌なニュースを避けるということで現実は変わるでしょうか。もちろん少しの間はいいのかもしれませんが、根本的な解決策にはならないことに遠くないうちに気づくことになるでしょう。

神の家族の皆さんはいかがでしょうか。現実の苦しみから逃れ、明るく楽しいことだけを見たくなりますか。それでは聖書は何と語っているでしょうか。聖書が語っているのは、あなた方は常に苦難があるのが当たり前であって、世界には不法がはびこり、人々の間には愛が冷え、争いと戦いが絶えなくなると教えます。しかし、そこから逃げなさい、目をつぶりなさいとは言いません。むしろ、暗闇の光となり、腐敗している世界の塩となりなさいと教えます。暗闇の中でしっかりと立ちキリスト者として救いと希望の光を照らすこと、腐敗し悪臭漂う人々の間でキリストの良い香りとして、また腐敗を防ぎ、良い味をつける塩としての役割を担うことを語っているのです。

先週は、新型コロナウイルス再拡散、福島原発の放射性物質を含んだ処理水の海洋放出、地球温暖化による世界的な異常気候、ミャンマー軍部による弾圧、アメリカでのアジア人差別などの問題が大きな影響のあるニュースでした。ある面、暗いニュースであると言えましょう。しかしこれらのニュースに目をつぶる時、罪と欲望はますます大きくなり、世界とそこに住む人びとを呑み込もうとするでしょう。

2021年度、依然としてコロナの話題は続くでしょうし、私たちの心を暗くするようなニュースで溢れてくるでしょう。 しかし、私たちはこの世の光となり塩となることと、正義を河のように流すようにと命じられていることを忘れてはなりません。願わくは、主イエスが神の家族の上に、真実と正しく向き合う勇気と力を与えられるように…。シャローム!

2021.4.18 本日の宣教

 『 一杯の水、小さな一人、そして塩 』マルコによる福音書94150)     

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)」

主イエスは福音のために働くイエス様の弟子に“一杯の水を飲ませる人”は必ず報いを受ける!と約束しておられます。皆さん、一杯の水を飲ませるということは、人にできる最低限の憐れみの行為です。コヘレトの言葉では、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう。(11:1)」と教えます。すなわち、一杯の水とパンというのは 特別に大げさなことを表しているわけではなく、私たちが持っている最も小さな価値を表す単位です。その最も小さな価値を分かち合うことで、神は報いてくださると約束しておられるのです。そうです。主イエスは私たちに何か偉大なことや、私たちの力の範囲を超えた無理なことを求めてはおられません。むしろ、誰にでもできる小さなこと、小さな者同士がキリストの愛を受け、できる限りの憐れみの心をもって差し出し合う一杯の水、ひとつのパンを用いられ豊かに祝福してくださることを約束されるのです。コロナ危機の中で、神の家族の皆さんの周りに一杯の水を求めている人はいませんか。一杯の水に神の祝福が込められていることを覚えましょう。

続いて主イエスは、「小さな一人をつまずかせる者は恐ろしい刑罰を受ける」ことをも語っておられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコ9:42)」・・・先ほどの「一杯の水を与え報いを受ける」というような優しいこととは裏腹に、ここでは「小さな一人をつまずかせてはならないということを、自分の体を切り捨てるほどの覚悟を持って聞きなさい!」という、大変厳しい言葉が続きます。皆さん、考えて見ましょう。一人の人をつまずかせたら大きな石臼を首にかけて海に身を投げ込め!と。また、片手が罪を犯したらその手を切り捨てなさい!と。さらに、もしあなたの片方の足がつまずかせたらその足も切り捨て、もし目がつまずかせたらそれをえぐり出せ!という・・・。本当に怖い話です。今にもその場が血まみれになってしまいそうな厳しい御言葉の連続です。それでは、これらの言葉をどう受け止めるべきなのか。どのようにしてこれらの言葉に応答できるでしょうか。…しかし、安心してください。主イエスがここで語っておられる大切なメッセージこそ、「主イエスは小さな一人を大切に愛しておられるのだ!」ということですし、「小さな一人を大切にする主イエスの御心をあなたも抱きながら歩みなさい」というメッセージなのです。それに加え、「永遠の神の国に入る」ということは、片方の手足を切り捨て、片方の目をえぐり出すこと以上の尊い価値があることを覚えなさい!という恵みのチャレンジなのです。

実に、主イエスはあなたと私に天国の永遠の命を得させるために、御自ら十字架の上で極限の苦しみを受け、尊い命をも身代わりとして与えてくださったということです。ここに私たちの救いがあるのです。神の家族の日々が、「一杯の水を飲ませ、小さな一人を愛し、平和を実現する」主に喜ばれる弟子としての歩みとなりますように…。ハレルヤ!

2021.4.11 牧師室便り

 

 ~ すべてを新しくする神を期待しつつ ~

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ4319)」

先週のイースター礼拝で娘の璱基のバプテスマ式がありました。娘はわが家が富山に来ることが決まった後に神から授かった命です。ですから、私の富山での14年間に及ぶ牧会の証しそのものであると言えます。そのような娘が自らの口で信仰を告白しイエス・キリストを人生の主として受け入れ従って歩むことを証したことは何よりの恵みでした。そしてちょうど先週の木曜日、48日に中学生になりました。日に日に新しくなっていく娘の姿を見ると、神の大いなる御業であるとしか告白せざるを得ません。ハレルヤ!

この4月に娘をはじめ、新しい歩みを始めた小泉町教会に連なる子どもたちを紹介しましょう。まず、大学院に進んだS兄、大学に入学したK兄、S兄、高校生になったT姉、中学生になったY兄、小学生になったY姉がいます。恐らく、大変緊張しながらも、期待と夢に包まれていることでしょう。神の家族の皆さんも、ぜひ新しい生活を始める小泉町教会に連なる子どもたちのために執り成してくださいね。

世間は春と共にやってきたコロナ感染者急増のニュースに慌ててしまっている状況です。しかし、神の子どもたちは、常に新しいことを行い、神の民にご計画を起こしてくださる父なる神の御手の業に信頼しつつ、2021年度の歩みを始めたいものです。ちょうどリビングライフのテキストが出エジプト記であることも恵みであると思います。日々厳しい試練に覆われていたエジプトでの状況から、カナンへの夢とご計画を与えられ、神の民に全き新しい旅を命じられ導かれる神に触れることで、コロナ時代とその試練の後に備えられている神の恵みを垣間見ることができるでしょう。ただし、神の御計画と御業には必ず、神の協力者となっていた人たちの決断と献身、従順が加わっていたことを忘れてはなりません。新たに始まった2021年度の歩みの上に注がれる神の祝福を期待しつつ。シャローム!

2021.4.11 本日の宣教

『 私は永遠の命を信じます 』ヨハネによる福音書31617)

使徒信条で告白されている「復活」は、誰かが作り出した物語ではありません。しかもイエス・キリストの復活は、死から復活された主イエスが弟子たちにご自身を現されたこと、その復活の主イエスを弟子たちが直接目で見、彼らの耳で聞き、また彼らの体をもって体験した結果として出来上がった信仰告白であります。

 もちろん、弟子たちも主イエスが十字架の上ですべての血を流し、死なれたことを知った時は、“もう終わりだ!イエスは死んだんだ!”とあきらめていましたし、誰一人復活の預言の御言葉を素直に受け入れる人はいませんでした。しかし、主イエスが死んだ後三日目に死の力を打ち破り復活され弟子たちの前にご自身を現された時に、弟子たちは時と空間を超えた永遠の中におられる主イエスの復活の体、復活の姿を見届けることができたのです。

そして、興味深いことに、復活された主イエスの体が、以前の自分たちと触れ合っていた体とは全く違う体であることに気づきます。もちろん、主イエスの体には「やりに刺された脇腹の傷、また手と足の釘跡」が残ってはいましたが、主イエスの体は以前彼らが触れていた体ではなかったのです。すなわち、聖書が証している復活のイエスの体は、罪とは関係のない体、聖なる神との完全な和解が成立し、すべてが赦され新たにされた栄光の体に変えられたわけです。同じく、主イエスによって救われ神の子とされた者は、「栄光から栄光へ」と主と同じ姿に変えられ、この世で味わっていた涙や痛み、哀しみはもうなくなり、全く違った体、栄光に満ちた姿に復活し、ただ喜びと希望と恵みによる讃美で溢れる永遠なる体で神の御前に立つことができるのです。使徒信条を締めくくる「復活と永遠の命」への告白は、希望と栄光に満ちた神の国における確かな約束への信仰告白であります。

最後に、救われた神の子どもにとっての「永遠の命」の祝福は、ただ将来に与えられる希望で終わるものでなく、今すでに私たちのうちに始まっていて味わうことができることを覚えましょう。私たちは地上と天国、この世の時間と永遠とを対立的に捉えがちですが、聖書の教える永遠とは、現在の私たちと切り離すべきものではなく、イエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされた時から、すでに私たちは神の国の永遠の命を生き始めるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ316)」…この御言葉こそ、神の独り子によって示された神の愛と永遠の命を受ける将来の天国の約束であると同時に、現在の救われた神の子たちが味わって生ける言葉でもあることを忘れてはなりません。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ1112)」…過去2000年の間、主イエスの十字架と復活の証人たちは、使徒信条を告白しながら、その信仰にすがることで、度重なる現実の困難や試練を乗り越えることができ、その信仰のゆえに勝利を手にすることができたのです。共に「アーメン」という応答をもって永遠の歩みを続けましょう。

2021.4.4 牧師室便り

 

~ 星と輝く一年であるように ~

「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル12:3)」

再びコロナ感染者数が急激に増えてきています。どれほど多くの人が死んだらコロナの災難から逃れるでしょうか。コロナ時代に入ってから、家族でありながらも顔と顔を合わせて別れを告げることができず、そのまま火葬されてしまうことも多々ありましたね。…春になって暖かくなると同時に桜の花が咲き、自然を楽しみたい人々が街や自然に出かけていますが、少し気も緩んでいるせいか、コロナ感染者が全国規模で増加していて、緊急事態宣言に替わる「まん延防止等重点措置」を適用する地域も出ている状況です。早く自由になりたい、自由に親しい人と食事をし、楽しく遊びたいという願望は当然のことです。しかし、一瞬の油断がもたらす結果は人の生と死にかかわることになるため、もう一度気を引き締めなければなりません。それこそ「隣人愛であって、自己愛」であるからです。

本日はイースター(復活)礼拝です。復活こそ、福音の中の福音です。人類の歴史が始まって以来、絶えず人を拘束し、恐怖に怯えさせていた死の問題を神の独り子が復活することで打ち破り、永遠に生きる道を開いてくださったわけですから、これ以上素晴らしい福音はないはずです。その素晴らしい福音を先に知った者として、私たちに求められていることこそ、「復活の福音を確信し、今味わい生きること、復活の福音を隣人に伝える」ことです。自らが確信できず、今復活信仰を生きなければ、隣人に伝えることはもちろんのこと、それを試みることもできないでしょう。とりわけ今新型コロナウイルスによる死の恐怖に怯えている人々に伝えるべき最も良い知らせこそ、復活信仰であって、それを隣人に見せるべきなのです。

「星と輝く」、昨年度コロナパンデミックの中で示された小泉町教会の主題標語でしたが、今年度は「星と輝く」人としてさらなる信仰の確信と復活の証人としての使命感をもって救われる人を起こしていきましょう。シャローム!

2021.4.4 本日の宣教

  『 私はからだの復活を信じます 』使徒言行録2:2932)

主イエスの復活、おめでとうございます!!!

先週一週間、私たちはイエス・キリストの十字架の苦難の道を辿りながら過ごしました。私たち罪人たちを死と滅びから救うために神の独り子が十字架を背負い苦難の道を歩まれ、十字架の上で命を捨ててくださったことを真心と涙をもって告白しつつ、その愛に包まれた一週間でした。そして今日、その罪と死をうちやぶって甦られたイエス・キリストを記念するイースター礼拝を迎えることができました。

本日の聖書の御言葉は、主イエスの復活を目撃した証人である弟子ペトロが、復活から50日後のペンテコステに大群衆の前で復活についての証言をしている場面です。実のところ、主イエスの復活の物語は主イエスの復活ということと共に、弟子たちの復活の物語であるとも言えるのではないでしょうか。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(32節)」…使徒ペトロは、自分自身、主イエスの復活を目撃した証人だと告白します。この証人としての告白は、ペトロだけではなく、その場に共に立っていた使徒たちが皆、復活のキリストと出会ったことを記しているのです。確かに、四福音書に記されている復活の場面を見ると、主イエスの復活の日から40日の間、10回前後、違った場所で、違ったグループの人々に、ご自身が復活されたことを示され表されました。まさに主イエスの復活の出来事は弟子たちを完全に違う人に変えられました。臆病から勇気に、絶望から希望に、恐れから平安に、敗北的な気持ちから強い使命をもつ証人へ。・・・復活の主に出会ってから弟子たちは、復活の証人として、復活の福音を宣べ伝えるために命を賭けるようになり、全世界へと出かけて行けたのです。もし彼らに復活への確信がなかったならば殉教者になることはなかったはずです。

  私たちは人生の中で様々な「死」を経験します。しかし、キリスト教信仰の最も大きな特徴は、それはただの「死」では終わらないということです。むしろ死んで初めて、命が分かる。死んで初めて、よみがえりが分かる。死んで初めて、福音が分かる。そして、イエス・キリストその方が分かるのです。…そうです。私たちも必ず「死」を通過する時がやってくるでしょう。しかし、その時こそ、主イエスの復活の命が働く時、復活の約束が成し遂げられる喜びの時に変わるはずです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネ11:2526)」という主イエスの約束の言葉を今生きるのが、「復活の証人」である私とあなたなのです。ハレルヤ!

2021.4.4 小さな泉の恵み

 

~小さな泉の村6年目の春~

イースターおめでとうございます‼

今年は桜が一段と綺麗ですね。厳しい雪を越えたからでしょうか? わが家の花の木達も例年になく沢山の蕾をつけています。

「小さな泉の村」は2021年の4月に6年目に入ります。思えば主に導かれたこの活動が、今も続いているのは、間違いなくいつも皆の真ん中にイエス様がいてくださるからで、感謝でいっぱいです。

昨年の4月から、コロナ緊急事態宣言で調理を伴う活動ができなくなり、4月~8月までは、駅地下を寝床にしておられる数名の方々のみに、お弁当やお握り、飲み物、マスクなどを月2回、一人で細々と配っていました。

そして、9月に入ってコロナが落ち着いたため、活動の再開を呼びかけ、ボランティアのみで、お弁当を調理し利用者さん方に配るという形で「小さな泉の村」を始めることができました。久々の再開に喜んでくださるボランティアさんや利用者さん方に接し、待っていてくださる方々と気持ちを新たにし、一人ではなく共に活動ができることが嬉しく、主に感謝しました。

そして、今回、12月~2月までの休みを経て、先週27日に再開。今度も楽しみに待っている方々に声をかけて頂いての復活となりました。このように、これからもさまざまなことを乗り越えて復活でできることを喜び、イエス様と共に「小さな泉の村」が続いていきますよう祈ります。

                      S.Y.姉


2021.3.28 牧師室便り

 

~ 一歩一歩を主の御手に ~

 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩編372324)」

コロナで始められ、コロナで締めくくられた2020年度でした。昨年の今頃、突然の新型コロナウイルスの世界的パンデミックと緊急事態宣言が続く中、新年度をどう始めればいいのかと戸惑いながら、急遽礼拝休止を決めていたことを思い出します。その後2020年度の52回の主日礼拝はその時、その時の状況に応じ形式を変えながら休むことなく献げることができたことはわが教会にとって大きなチャレンジであって、もう一歩成長することができたのではないかと思います。「神は万事を益に変えてくださるお方」としての確信をもちつつ、神の家族お一人お一人が揺るがない信仰姿勢を貫かれたことを感謝します。

次週イースター礼拝と共に2021年の航海が始まります。もちろん新年度の歩みも全く予想できない状況にあります。コロナ危機がいつまで続くだろうか、ワクチンはいつになったら私たちのところに届くだろうか、オリンピックは予定通り開催できるだろうか、とりわけ2021年度の諸計画がまったく立てられない状況の中で不安定な一歩を踏み出すことになります。恐らく新しく選ばれた5人の執事の皆さんも何を計画し、進めればいいのかと戸惑っていることでしょう。

神の家族の皆さん、ぜひ、ノアの箱舟に乗っていると思ってくださいね。ノアの箱舟には人がすることは全くありませんでした。方向を変えることも、速度を上げたり下げたりすることもできなかったのです。ただ、箱舟を動かしてくださる神の御手にすべてをゆだねて航海を続けることでした。もちろん、ノアと家族は箱舟の中では神を礼拝すること、ゆだねられた動物や生き物たちを大切に世話すること、神に期待しつつ祈りを合わせることは休みませんでした。

受難週を迎え、イエス・キリストの十字架の恵みに浸されつつ、十字架の証人として、主の定められた一歩一歩を丁寧に歩み続ける小泉町教会の神の家族でありますように…。シャローム!

2021.3.28 本日の宣教

 『 神の臨在の中を歩む(詩編1:1~6)

                                                                        田口昭典牧師(金沢キリスト教会)

詩篇第一編はそのヘブライ語聖書原典において、「このような人は幸いである」という宣言から始まります。この宣言は神の約束でもあります。私たちは日々苦闘しており、様々な問題に取り囲まれています。「私は幸いである」とはなかなか言えない現実があります。しかし、今日!神は聖書の御言葉を通して私に、そしてあなたに、皆さんに語りかけておられるのです。あなたは幸いだ!あなたは幸いな日々を送ることができる。あなたは幸いな人になるのだ、と。

このみ言葉は、神からの問いかけでもあります。あなたはどこにいるのか?と。神と共にいるか、神と関係なく生きているか?と。神の言葉に思いを馳せ、思い巡らすことが神と共に歩むことなのである。神の懐に生き、神の御手の中に守られている人は幸いだ。その人は、神の言葉に取り囲まれている。それは、同時に、神の臨在の中に生きているということである。主の母、マリアは「思い巡らす信仰」のお手本です。天使の語りかけにマリアは思いめぐらし、12歳のイエスが神殿で学者たちと話し込んでいるのを見て、思い巡らすのです。

スイスの神学者で、西南神学部の青野太潮教授の先生であったエドワード・シュバイツァー先生の日本で最初に翻訳された説教集のタイトルは、「神は言葉の中へ」でした。誠に神は、御言葉の中にご自身を現し、御言葉が聞かれるその場所に臨在されることを示していました。ですから、詩篇22:4で、「あなたは聖なる方。イスラエルの賛美を住まいとする方」と訳されるように、御言葉と賛美の只中に神は御臨在されるのです。「イスラエルの賛美の上に座しておられるあなたは聖なるお方です」という翻訳もあります。神はみ言葉、聖書が読まれ、神が褒め称えられるところにご臨在されるのです。私たちは神の民。聖書の民。賛美を愛する民。私たちは、神の臨在の中に生きるものであり、幸いの中を歩むものなのです。幸いな人、と言われている人は「夜も昼も聖書を手放さず、御言葉を読み、味わっている人」と言われています。

 明治のクリスチャンに田中正造という人がいました。この人は教科書にも載っている足尾銅山の鉱毒による渡良瀬川流域の公害問題に取り組んだ人です。田中正三の先生に当たるのが新井奥遂(あらい・おうすい)です。後に文部大臣になる森有礼(もり・ありのり)が見込み、森に伴われて明治政府から派遣されてアメリカで30年間学び(1870年―1899年)、54歳で帰国。キリスト教神秘主義の影響を受けた敬虔なキリスト者で、教育者です。森は文部省唱歌を通して日本に福音を広めることを密かに目指していました。アメリカでは森の傾倒していたハリスのもとで、集団生活をし、労働と黙想の生活をしました。そこで、徹底して聖書に聞く、という信仰を持ちました。新井奥遂はいつも「聖書は仕事師の手帳」と言っており、毎日が聖書との対話のようであったようです。田中正造は決定的な影響を新井から受け、聖書の教え一つを便りに、鉱毒問題に取り組み、谷中村の住民と共に日本最初の公害問題を戦いました。最後に残ったものはボロボロに読み込まれた新約聖書でした。

詩篇121:45に、この神はまどろむことなく、眠ることも無い、示されています。そうです、インマヌエルの神は、ひと時も私たちから離れず、私たちと共にあゆまれる神なのです。神は私たちのところに来ておられるのです。この神と共にあることを信じ、確信し、日々を過ごすことが最高の幸いなのです。

私たちは確かに、神を知っています。キリストの誕生も、キリストの十字架も、死も葬りも、そして復活、聖霊降臨まで知っています。しかし、あのクリスマスに際して、当方の占星学者たちがエルサレムを訪ねた時のことを思い出してください。祭司長や律法学者たちはキリストの誕生地ベツレヘムを見事に当てることができました。彼らはよく知っていたのです。しかし、彼らは知識として知っていましたが、そのことが事実であり、今実現したとの知らせを受けたにもかかわらず、無感動で、何一つ行動を起こそうとはしなかったのです。彼らは教えながら神と共にあることはなかったのです。聖書に精通していても、また、人にその教えを解く人でも、そのメッセージが自分の生活、人生にほとんど影響を与えることがない人もいるのです。私たちはそのようなクリスチャンではないことを願います。もしそうなら、今日から、幸いな人に帰られたいと思います。

そのために必要なことは、2節の御言葉に記されています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。と言われています。原文の私訳は、「彼の喜びは(楽しみは)主のトーラー(律法、戒め)の中にある」。「そして、主のトーラーにおいて(トーラーの中で)、彼は思いを巡らす」となります。思いを巡らすということは、一つのことを理解するために思いを集中することを意味します。「集中する」とは一つのことを様々な方面から検討することです。沢山のことに思いを配るのではありません。その逆で思いを集めるのです。一方は「心配」になります。そこでは、心は裂かれ、心は奪われるのです。大切なのは「集中」です。聖書を教えを愛し、集中し、思いめぐらし、今、ここに神はおられるという喜びと確信を持って歩みましょう。


2021.3.28 小さな泉の恵み

 

春は毎年必ずやってくる。これは自然の摂理である。私の住む所は立山のふもと標高は330メートル。下界とは違って春の来るのは遅いのである。でも風光明媚で、自然優かな村です。春の訪れが富山の市内よりおそく、積雪も多く、雪解けがおそく、後の始末も大変です。雪の下積になっていた枯れ葉や木の枝の折れたのを、きれいにかたづけの仕事等。

土の中でじっと冬眠していたアリ、地虫等が、土の中より這うように出て来ます。この季節には毎年同じような光景をみながら、自然って不思議なものだといつも思います。

小さな虫達は、春になると眠りからさめて春だと自然にわかるのかと私は裏庭の掃除をしながら、じっと虫たちを見つめました。

自然の淘汰の素晴らしい事。これも神様の教えだと信じております。私達は日常の生活の中であたり前だと思っている事。それが神ながめることのできるのは様の行なう力だと信じております。

我が家の庭には虫達がこころよい動きをしております。こんな光景を目にすると自然って偉大なものだと思い、小さな虫たちの働きをじっと見つめていました。

この光景をながめることができるのは私は野良仕事をいつも行っているからだと、感謝しております。

何か虫たちに話しかけたいような心。長い冬の間この虫たちも私のように春を待っていたのだと思います。

                       A.M. 姉