2021年5月3日月曜日

2021.4.4 本日の宣教

  『 私はからだの復活を信じます 』使徒言行録2:2932)

主イエスの復活、おめでとうございます!!!

先週一週間、私たちはイエス・キリストの十字架の苦難の道を辿りながら過ごしました。私たち罪人たちを死と滅びから救うために神の独り子が十字架を背負い苦難の道を歩まれ、十字架の上で命を捨ててくださったことを真心と涙をもって告白しつつ、その愛に包まれた一週間でした。そして今日、その罪と死をうちやぶって甦られたイエス・キリストを記念するイースター礼拝を迎えることができました。

本日の聖書の御言葉は、主イエスの復活を目撃した証人である弟子ペトロが、復活から50日後のペンテコステに大群衆の前で復活についての証言をしている場面です。実のところ、主イエスの復活の物語は主イエスの復活ということと共に、弟子たちの復活の物語であるとも言えるのではないでしょうか。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(32節)」…使徒ペトロは、自分自身、主イエスの復活を目撃した証人だと告白します。この証人としての告白は、ペトロだけではなく、その場に共に立っていた使徒たちが皆、復活のキリストと出会ったことを記しているのです。確かに、四福音書に記されている復活の場面を見ると、主イエスの復活の日から40日の間、10回前後、違った場所で、違ったグループの人々に、ご自身が復活されたことを示され表されました。まさに主イエスの復活の出来事は弟子たちを完全に違う人に変えられました。臆病から勇気に、絶望から希望に、恐れから平安に、敗北的な気持ちから強い使命をもつ証人へ。・・・復活の主に出会ってから弟子たちは、復活の証人として、復活の福音を宣べ伝えるために命を賭けるようになり、全世界へと出かけて行けたのです。もし彼らに復活への確信がなかったならば殉教者になることはなかったはずです。

  私たちは人生の中で様々な「死」を経験します。しかし、キリスト教信仰の最も大きな特徴は、それはただの「死」では終わらないということです。むしろ死んで初めて、命が分かる。死んで初めて、よみがえりが分かる。死んで初めて、福音が分かる。そして、イエス・キリストその方が分かるのです。…そうです。私たちも必ず「死」を通過する時がやってくるでしょう。しかし、その時こそ、主イエスの復活の命が働く時、復活の約束が成し遂げられる喜びの時に変わるはずです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネ11:2526)」という主イエスの約束の言葉を今生きるのが、「復活の証人」である私とあなたなのです。ハレルヤ!

0 件のコメント:

コメントを投稿