2022年5月29日日曜日

2022.5.29 牧師室便り

 ~地域協働の恵み~

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。(二コリント9:8)」

 コロナパンデミックにによって、長い間行えなかった北陸三教会による交換講壇が7ヶ月ぶりに執り行われることになりました。金沢には福井教会の平良憲誠先生が、小泉町教会には金沢の杉山望先生が、福井教会には小泉町教会の私がそれぞれ宣教の奉仕をし、主にある交わりをいただきます。各県に一つしかない日本バプテスト連盟に連なる教会ですので、交換講壇の交わりがいかに大切なのかが感じられます。

 とりわけ金沢教会は、田口昭典先生が引退されてから2020年4月に赴任された杉山先生の牧師就任式が2年以上、コロナによって延期となり、いよいよ来る6月19日に執り行われることが決まったのは何よりの喜びです。もちろん、例年のように全国からの大勢の方の出席は難しいですが、北陸三教会が一つとなり、地域協働という恵みの証しを、バプテスト連盟に連なる諸教会に流すことを心から願っています。

 またここ数年の間、「福井教会復興のための全国支援・地域協働プロジェクト」のために北陸三教会と中部地方連合の諸教会がビジョンと祈りを合わせて進めてきましたが、現在は継続審議の状態となっています。ぜひ、これからの理事会での審議、その後のすべての歩みの上に、主の助けと最善を祈りましょう。

 次週は、聖霊が主イエスを信じる群れの上に臨まれ、教会が誕生したペンテコステ(聖霊降臨日)です。その日から、地の果てまで神の国の福音が宣べ伝えられ、世界の至る所に教会が立てられました。そしてすべての教会は聖霊によって一つにつながり、今日に至っているのです。とりわけ北陸という地域において立てられている三教会に向けられている協働への御心を大切に抱きつつ、主イエスが望まれる善い業の実を結びますように…。シャローム!


2022.5.29 本日の宣教

『散らされて、結び合わされて』(創世記11章1~9節)

世界中が同じ言葉を使って、同じように話していたころ、人々は散らされることを恐れて、みんなが一つになれるように、天まで届く塔のある町を建てようとしました。ところが主はこのあり様を見て、人々の計画を妨げるために言葉を混乱させ、お互いの言葉が聞き分けられないようにしました。言葉が通じ合わなくなった人々は町の建設を止めて、全地に散らされました。……これが「バベルの塔」として知られている物語です。

バベルの塔には、そのモデルとなった実在の巨大な塔がありました。それは他国の人々をも服従させる巨大な力を象徴するものでした。巨大な力のもとで人の違いを抑え込み、「一つの民」になることで、より大きな力を持とうとすることは、歴史の中で繰り返されてきました。けれどもそこには強制的な力が働き、犠牲を生み出します。そのような人間本位の統一を、主は妨げることがあるのです。

私たちはそもそも違いをもって生まれて来ましたし、違った生き方をしてきました。もちろん、一致することや似ていることもありますが、違っていることの方が多いかもしれません。主はこの世を実に多様な世界として作られました。最近では、生物多様性の重要さが知られるようになりました。多種多様な生物が地球上に存在し、互いに関係し合うことで命が溢れる世界が保たれています。多様性が失われると、どの生物も生き続けることが難しくなります。多様性は種の違いだけでなく、同じ種の生物の中にもあり、そうすることで周りの環境が変わっても適応し、生き残ることができるようです。それぞれに与えられた個性や違いは、人が豊かに生きるために必要なものとして、主が備えてくださったものです。違っていること、個性をもっていることは、人類に対する主の祝福の現れだと言えるでしょう。

バベルの塔の物語では、主は人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしました。この物語は人々の思惑が妨げられ、全地に散らされるという裁きで終わっています。けれども、この物語はアブラハムの召命へと続き、イスラエルの歴史を経て、イエス・キリストの救いの出来事へとつながっています。バベルの塔の物語を、天地創造から終末まで続く主の計画と御業の中で起こった出来事として捉えるならば、ここでの主の御心は、人と人とを分断し、関連を持たなくさせることではなかった、ということがわかります。人間の力によって違いを取り込み、強制的に一つにさせようとすることは、主の御心に反することでした。そこで主は混乱を引き起こし、人々を全地に広がらせました。そして全地に散らされた人々を祝福するために、主はアブラハムを選び、イスラエルを通して失われた主との結びつきを回復させようとしました。主との和解をイエス・キリストを通して実現させ、違いをもった私たちを主にあって互いに結び合わせようとしておられます。私たちはそれぞれの言葉で語り合いながら、互いの言葉を聞き合い、結び合わされた者へと変えられていく。そこに希望があります。

                          金沢キリスト教会 杉山望


2022.5.22 牧師室便り

 ~信仰の弱い人のために~ 

「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。(Ⅰコリント8:9)」

 今月のリビングライフのテキストはⅠコリントの信徒への手紙です。黙想するうちに感じることは、“コリント教会は何と多くの問題を抱えていたことか”ということでした。しかし、コリント教会のお陰で、私たちは教会内に起こり得る問題の多さと複雑さ、また、それらの問題に対する教会の対処方法や教会のあるべき姿について学ぶことができます。ぜひ、5月から続くコリントの信徒への手紙を通して健康な教会を作り上げようとしていたコリント教会の皆さんと、彼らに向けて熱情をもって関わっていた使徒パウロのメッセージと姿勢に耳を傾けたいと思います。今現代の教会が抱えている様々な問題のほとんどをコリント教会が先に経験し熾烈な戦いを繰り広げていたことから多くを学び感謝しましょう。

 神は問題のない教会や課題のない信仰を求められるのではありません。むしろ問題を神の前にもって行き、神の知恵と力を祈り求め、聖霊の助けの中で健康な教会、健康な信仰を作り上げることを望んでおられるでしょう。だから、様々な問題や課題のゆえに失望することはありません。その中でも、パウロが声を上げていたメッセージを心を傾けたいですね。それは、教会の働きの中で起きる様々な問題に対して、真っ先に念頭に置いて考えるべきことこそ、「信仰の弱い人々のこと」、また、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」という教えでした。これが教会の立つべきところであって、教会員同士が抱くべき姿勢であるはずです。

コロナ危機の間、私たちが中止していたプログラムや諸行事、変更していた礼拝時間などについて、元に戻すべきなのか、今のまま続けるべきなのか、新しい道を選ぶべきなのかを決めなければなりません。そこで求められるのが、パウロが勧めていた、信仰の弱い人のため、福音の働きを妨げてはならないという基準の上ですべてを判断し、進めていくことでしょう。新年度の小泉町教会の歩みが主の喜びとなりますように…。シャローム!


2022.5.22 本日の宣教

『求める者に良いものを下さるという約束』 (マタイによる福音書7:7~12)

 5月8日に今年度の定期総会が恵みのうちに行われました。ただ総会資料に感謝の証の数が少なかったのが残念でした。2021年度の総会資料には執事以外の証は無かったように思います。時間に間に合わなかったのか?書いてみたけどご自分で納得がいかなかったのか?まさか書くことが無かったなんてことはないでしょう。コロナ禍にあって生活は大きく変わり、神様の憐れみを祈り求めない日は無かったのではないでしょうか?コロナ前の総会資料にはもっと沢山の証があったのでどうしたのかなという印象でした。主イエスはあし萎えや盲人に「何がして欲しいのか?」とお尋ねになります。神のひとり子で創造者、全てを知っておられる主が目の前の弱い者の願いをご存知ないわけが有りません。御言葉で有る方は思いを言葉にすることを望まれます。なんと祈ってよいかわからない時はあります。そんなときは“霊”自らが執り成して下さることを私達は知っています(ローマの信徒への手紙8:26)。しかし、主は出来るだけ言葉に表すことを望まれます。拙い言葉であっても主はその思いをくみ取って下さるでしょう。聖書には沢山の失敗が記されていますが、神はそれを忍耐をもって導かれます。国、民族、個人にそれぞれの課題を与えて成長を促される訓練が施されます。訓練は最初は出来ないことが前提です。出来ないときほど神様の施しを求ます。わたしたちは祈りによらず何も出来ないことを知るようになります。私自身伝道に失敗続きです。わかって欲しい。救われて欲しい。命を得て欲しい。それでも私の口から出る言葉は相手に届きません。「伝道が難しい時代」と言われて久しいですが、伝道が容易な時代というのはあったのでしょうか?今、将来に不安を感じ恐れを覚える方々が大勢おられます。伝道が容易とは申しませんが、私達救われた者の働きが求められているとは言えるでしょう。福音は全ての問題の解答です。世の中の様々な困難に苦しむ人たちに「世に勝った方」をお伝えしましょう。主に愛された富山小泉町教会のあらゆる場面で会話なり文章なり、証なりで「罪の赦し」「永遠の命」「命の甦り」を大いに言い表し、教会の外まで広がるほどに強められますように。

 神様は聖書を記し、ご自分のご性質を明かし沢山の愛を表して下さっています。神様はご自分で約束されたことを決して反故になさいません。マタイによる福音書でわたしたちに「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。」神は愛です。求め願うなら、わたしたちが願った以上に良いものを与えると約束してくださいます。私達の周りのまだ救われていない方々に天国の門を叩く心を与えて下さいますように。救われて平安が得られますように。主の御名が崇められますように。主の栄光がとこしえにありますように。  

                                S.Y.兄


2022.5.22 小さな泉の恵み

 ~イエスさまの愛で~

2008年9月に、アメリカで始まった金融危機リーマンショックによって、世界的な不況の波が押し寄せ、日本でも多くの失業者が街に溢れました。その方々の命、食を支えるための活動が東京で始まり、ここ富山でも翌年から炊き出しの活動が始まりました。それが前身の「あったか相談村」です。

その意思を受け継ぎ、イエス様の導きによって始まった「小さな泉の村」の活動が、今年の4月で7年目に入りました。その7年目の5月14日に、初めて小さな3人の子供たちを連れたお父さんが、食物を求めて長い列に加わりました。

力の強い者が引き起こした経済危機や、世界各地で起きている戦争や紛争被害の最前列に立たされるのは、いつも弱い立場の人々です。

今、日本でも、ますます貧富の差が開き、ひとり親世帯、若年層の貧困、特に、こども、若い女性の貧困が問題になっています。未来に向かって元気に歩き出す世代の人々が、貧困などにより希望が持てない世界に住むのは悲しいです。

富山の片隅で始まった小さな活動ですが、主が働き人として選んでくださった小泉町教会が、これからもイエス様の愛のあかりを灯し続け、今、目の前にいる貧困と困難のただ中にいる方々のために手を差し伸べ、執り成し祈れますように。

                              S.Y.姉          


2022.5.15 牧師室便り

 「聞かれる祈りとは」 

                        John Powell、“Prayer as Surrender”

 私の部屋の鏡には、このようなサインが掲げられている。朝起きると、顔を洗う前に真っ先にそれを見ることにしている。「神さま、きょうは何をなさるおつもりですか。私もその中に加えてください。私を愛してくださり、感謝します」

私の小さな計画を持ち出し、それを支えてくださいと神に祈るよりも、神の計画の中に私の居場所を見いだすことのほうがより重要である。「さあ、神さま。私がこの科目でAが取れるようにしてください。どうか私のためにこれをしてください」と祈るのではなく、むしろ私はこう祈る。

「きょうは何をなさいますか。あなたはこの世を愛しておられます。あなたはこの世を創造されました。私たちはみなあなたのものです。あなたのドラマの中での私の役は何でしょうか。私にどのような役を演じさせようとしているのですか。あなたがお命じになる役なら、あなたのために成功します。私が失敗することを望んでおられるなら、あなたのために失敗します。あなたが願われるとおりにいたします」

これこそが、聞かれる祈りの秘訣である。

主の御心に従う人は、彼の行ったことの結果によって成功者となったり、失敗者となったりすることはありません。主イエスの十字架が失敗でなく復活につながる勝利と変わったように、あなたが真心から神に従い、御心を生きたのであれば、あなたはすべてに成功した者となるのです。ハレルヤ!


2022.5.15 本日の宣教

 『 互いに重荷を担い合う 』(ガラテヤの信徒への手紙6:1~5,9~10)

先週、私たち小泉町教会の定期総会が開かれました。コロナ以降をどう歩むべきなのかという課題を抱え、2022年度の主題聖句と標語が決まりました。それが、本日の御言葉です。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)

コロナパンデミックが始まって以来、肉体的、精神的、経済的な被害を受けている方々のことを覚えます。長い間続いたコロナ危機によって、医療現場で戦っている方々、商売に打撃を受け失望している方々、また、コロナ感染の不安の中で人間関係が築けなくなり孤独感に包まれている方々、…普通であれば、礼拝堂に集い共に礼拝し、祈り合い、食卓を囲んでゆっくりと交わることができたのに、一人寂しく重荷を背負い苦しみに耐えるしかなかった小泉町教会につらなる神の家族を思うと心が痛みます。

その他、世界に目を向けると、依然としてコロナ危機が続いており、予想もしなかったウクライナ戦争が勃発し混乱が広がっています。さらに気候変動による被害がインドをはじめ、世界各地で起きている状況です。まさしく主イエスが言われた終末に起きるはずの出来事が具体化しているような気がしてなりません。

このような時に聞こえてくる「互いに重荷を担い合いなさい」という主イエスの御声。興味深いことに、2節では「互いの重荷を担いなさい」とあり、5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とあります。つまり、私たちは、自分の重荷を担うと共に、互いの重荷を担い合うということが言われています。私たちそれぞれに、主イエスが言われたとおり、各自が負うべき重荷としての「自分の十字架」があります。それはしっかり担っていかなければなりません。自分の重荷を担うことをしないで、他者の重荷を担うということは、本末転倒であるからです。だからといって、自分の重荷を担うことだけで精一杯だから、他人の重荷は関係ないということであってもならないのです。その時、忘れてはならないのは主イエスが私たちの重荷を担っておられるということです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」という約束の御言葉から慰めをいただくのです。キリストの体なる教会共同体においては、主イエスが担ってくださるという御言葉に励まされながら、互いに担い合うべき重荷があること、また互いに重荷を担うことによって「キリストの愛の律法が全うされる」ということを成し遂げていく使命があることを覚えましょう。まず牧師が、執事が、一人一人の信徒が、互いに弱さを認め合いつつ、互いの重荷を担い始める時、主イエスが祈られた一つになるビジョンが成就されるでしょう。

「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:9,10)」…願わくは、主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも互いに重荷を担い合うことによって「キリストの律法を全う」する2022年度の小泉町教会の神の家族お一人お一人となりますように…。ハレルヤ!


2022.5.15 小さな泉の恵み

 愛する小泉町教会のみなさん、S.Mです。最近変な創作ばかり投稿していてすみません。今日は証しです。東京に来ましたが、小さな泉の村にはまだ参加しています。毎月ついたち、朝9時にサンフォルテに電話して調理室の予約をするのがその参加形態です。ついたちが日曜だと無理ですが、他の曜日だと喜んでやらせてもらっています。昔なら東京から富山に市外電話なんて無茶でしたが、今はケータイですからどこからかけても同じです。

サンフォルテの活動も難航した2020年の3月からの数ヶ月間も、密を避けるためSさん一人、また有志の数人だけで、お弁当を作って配る活動を続けたと聞いています。その間Sさんと「とにかく予約だけしておこう」と打ち合わせて、サンフォルテの担当さんとも励まし合いみたいな感じで月々電話してました。今は調理室でお弁当作り。利用者さんもボランティアさんも、前からの人々、新しい人々、みんなお弁当とともに心の慰め励ましも持ち帰ると聞きます。活動の初めと終わりのお祈りは、主キリストの働き人としての証しですね。小さな泉の村を通じて教会につながっているあの人この人、て私もそうじゃないですか実は。そして、教会からの奉仕者とボランティアさんの交わり、献金、お祈りがこの村を支えているのを感じます。互いに恵みの通路となっている小泉町教会と小さな泉の村、良い関係がこれからも聖霊によって保たれていきますように。

                                                                                      S.M.姉

2022年5月11日水曜日

2022.5.8 牧師室便り

 ~ ヒスイを探す人々の中で ~

「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」

ゴールデンウィークを迎え、娘の誕生日祝いを兼ねて訪ねたところが、朝日町のヒスイ海岸でした。美しいエメラルドグリーンの海岸で、「日本の渚百選」「海水浴場百選」にも選ばれているそうです。

 コロナのため、できるだけ人込みを避けようと思い、探し当てた場所がヒスイ海岸でした。それほど遠くなく、車45分ほど走らせたところにありました。一般的に海岸といえば、白い砂浜というイメージがありますが、ヒスイ海岸には様々な大きさの丸石が広がっていました。…何より、海岸に着いてから早速目に入った光景は、子どもから大人まで波によって打ち上げられた石の中から一生懸命にヒスイを探している姿でしたね。ある男の子に「何探しているの?」と尋ねたところ、「ヒスイ!」という返事が返ってきました。「本当にヒスイが拾えるんだ。」と気づいてからは、他の人々のように目を光らせながらヒスイを探すことに夢中になっていたわが家でした。もちろん、ヒスイは見つかりませんでしたが、綺麗な海で、心安らぐ波音に包まれながら、綺麗な色で輝いている小さな石を拾う楽しい時となりました。感謝!

 さて、5月は子どもの日、母の日と続く、家族愛を深める時です。ヒスイ海岸で石を探しながら目に入った様々な丸石、それぞれの石が長い間、波によって削られ、大きさも、形も違うけれど、どれ一つとっても綺麗ではない石は一つもなく、すべてが綺麗な作品になっていることに気づきながら、神の御心を抱くことができました。この世のすべての人も、様々な試練に削られながら、それぞれの人が、各自の人生を生きている。だから、すべての人の存在は美しいし尊いのだ。大きさが違っても、色が違っても…。人々はそれぞれ拾い上げた石に価値をつけようとするかもしれないが、私の目に映るヒスイ海岸のすべての石が素敵だったし、美しかった。神の目に映る私たちも同じはずだ、と。そう、あなたは値高く、貴い。あなたは神に愛されている。シャローム!


2022.5.8 本日の宣教

 『 主が望まれる教会④ 』-ティアティラ教会- (ヨハネの黙示録2:18~19)                       ~あなたの近ごろの行いを知っている~    

 今朝私たちは、黙示録に登場する7つの教会のうち、4つ目のティアティラ教会について学びたいと思います。ティアティラはとても小さい町で、ティアティラ教会も黙示録の7つの教会の中でどこよりも目立たない所にあった教会でした。しかし、興味深いことは、それほど目立たない町であったのに、ティアティラ教会に宛てた手紙が他のどの手紙よりも長いということにあるでしょう。

 さて、ティアティラ教会に紹介されているイエス様の姿に耳を傾けましょう。「ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。(2:18)…」  … 「燃え盛る炎のような目」は、すべてを見通し見抜く主の鋭い眼差しと裁きのことを表します。すなわち、ティアティラ教会のすべてを見ておられ、その隅々まで知っておられる主イエスの目が燃え盛る炎のようであり、すべてを裁き清めようとされるご意志を示しているのです。同じように「しんちゅうのように輝いている足」も、すべての悪と敵なるものを踏み砕く主の力ある権威の象徴です。その通り、「神の子」なる主イエスはキリストの教会の現状をすべて見抜いておられ裁かれるお方であるとご自身を紹介されているのです。キリスト者の生き方の基準としては、「主がいつも見ておられる」ということでしょう。常に主の目が見ておられることを意識して歩むのであれば、キリスト者の生活の態度や行いには大きな変化が生じるはずです。

 そこで、主イエスの目に映るティアティラ教会の賞賛すべき姿を見てみましょう。「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。(2:19)…ティアティラ教会は、キリスト教信仰における最も大切な価値を表す「行い、愛、信仰、奉仕、忍耐」の5つの実を結んでいる素晴らしい教会でありました。ティアティラ教会の信徒たちは、神の業のための行いに専念していました。最も大切な愛で溢れていた教会でした。さらに、愛だけでなく、揺るがない信仰を持って人に仕える奉仕をし、様々な試練と苦難に対する忍耐まで備えていたことを主は知っておられると言われます。とりわけ私たちの目を引く誉め言葉が登場します。「あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」ということです。この表現は、最初のエフェソ教会とは正反対であったということです。多くの場合、初めの頃の行いは素晴らしかったが、時間が経つにつれて悪くなるのが一般的です。しかし、ティアティラ教会は最初のころの行いより、近ごろの行いがまさっている教会、すなわち成長していく教会であったのです。主に喜ばれる信仰は、時間が経つにつれて良き信仰の実を結ぶことです。

 本日は2022年度定期総会が行われます。ここで、今一度主の目の前に立ち返り、私たちの信仰を確かめたいと思います。“私たちは主イエスに喜ばれるものをもっているだろうか。私たちの近ごろの信仰の行いは最初のころの行いにまさっているだろうか”と。牧師をはじめ、執事、信徒のお一人お一人が主に称賛を受ける一年でありますように…。ハレルヤ!


2022.5.8 小さな泉の恵み

 主の御名を讃美します。

2021年度は特別な奉仕はしておりませんが、zoom参加も含めて主日礼拝、火曜日の楽しい聖書の学びは一年間を通してほら出席することができましたことを感謝します。

私はいくつかの持病をかかえ治療を受けていますが、今年80歳の大台になり仕方のないことかも知れませんが、気力、体力が弱くなってきています。今年も聖霊様の助けを受けながら歩んで行きたいと思います。

今年2月に長らく住んでいたO住宅が耐震強度不足の為、取り壊されることになりS病院の横にあるI住宅に引っ越しました。教会には近くなり環境も比較的に良いので助かっています。これも聖霊様の導きと感謝しています。

最後になりますが、今年こそコロナが終息し世界各地での戦争や争いが終息し平和になりますように祈ります。

                                                                                      I.H.兄


2022年5月1日日曜日

2022.5.1 牧師室便り

 ~ 総会資料を準備しながら ~

“主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。(詩編8:10)”

 子どもの頃から何度もチャレンジしてはあきらめてしまっていたことがあります。それは日記を書くことでした。自分の日々の歩みを細かに記録し、各場面において感じたこと、学んだこと、とりわけ人との出会いについてはなおさら、時に適った神の導きと恵みを確かめたかったのです。しかし、忙しくしているうちに毎日書いていたのが、3,4日に一回、一週間に一回、月一回、そして思いついた時に、というふうになっていきました。本当に長い歳月、毎日、自分の生活を振り返りながら各場面を日記に残すということは至難の業であると思います。もちろん、日記の代わりに大学生の時から続けてきているのがディボーションであります。ディボーションと日記の大きな違いとすれば、ディボーションは朝方に行うことに対し、日記は一日を終えた夜に書くということにあるでしょう。毎日ディボーションは行ってはいるものの、心の内には日記を書きたいという思いが依然として残っているのは日記がもつ魅力のためでしょう。

 総会を準備しながら、資料作成のために神の家族の証しを書いてくださいとお願いしましたが、昨年度はコロナによる非対面礼拝が中心であったため、予定していた奉仕や働きができませんでしたね。だから、いつものように教会員全員による報告を書いてもらうのも難しかったとは思いますでも少し残念な気がするのは隠せません。…

 ぜひ、日記を書くように、毎日の生活における出会い、感想などを振り返ることができる神の家族でありますように…。とりわけ皆さんの生活の各場面において働かれる神の恵みと導きを記録に残すことはいかに幸いなことでしょうか。特別な働きや奉仕ができなくても、自分の毎日が惨めに思えても、四季の変化に包まれる大自然、その中でも周りに伸びて来る雑草や咲いている花を見ながら、神の似姿で尊く造られた存在として、創造者なる神の愛と命に触れる感動の日記を皆さんの日記帳に、また心と頭の日記帳に刻むような生活になれば、皆さんの人生は人知を超えた幸いに満ち溢れるでしょう。シャローム!


2022.5.1 本日の宣教

 『 善い業のために造られた作品 』(エフェソの信徒への手紙2:8~10) 

キリスト教の中心は「恵み」にあります。「神が罪人である人類を愛して独り子を贈られ、その独り子が十字架の上で罪人たちの身代わりとなって死んでくださった。だから、御子イエス・キリストをわが王、わが主として心から信じ受入れる人は、神の子とされ救われる」という福音こそ、価なく与えられた神からの贈り物、「恵み」なのです。そして、ここには一つの法則が生じます。まず、神からの恵みが与えられ、その恵みを罪人が「信仰によって」受入れ、その「信仰によって」救いが成就するという法則です。

使徒パウロが書いたすべての手紙において、繰り返し強調していた福音の核心がここにあるのです。それほど「恵みと信仰による福音理解」は、決して曲げたり、忘れられたりしてしまってはならない大切な真理なのです。だから、何か救われた者に特別な能力があったとか、特別な地位を持っているとか、資格があるとかは関係ないのです。たとえ、その人に能力がなく、健康もなく、お金もなく、地位もなく、この世において誇るものを何ももたなくても、です。・・・わたしたちの救いはただひたすら神の恵み、値なく与えられた、無条件のプレゼント、永遠に変わることのない神からの賜物を私たちはいただいていますし、その恵みに生かされているのです。

だからでしょう。著者のパウロは9~10節で断言しているのです。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と。・・・私たちは「行い」によって救われたのではありません。どんな行いも私たちを救うことはできません。しかし、救われた者は「善い業を行って歩む」のです。行いからは「救い」は出てきませんが、「救い」からは「善い業のための行い」が生まれてくるのです。ここにキリスト者の存在の目的が明らかにされています。私たちは、「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた作品」として目的を持つ存在です。そうです。私たちは、神が恵みによって造ってくださった「神の作品」、しかも、主イエスの十字架の愛と復活の命によって新しく創造された作品です。

混乱を極めている世界情勢、自然災害、経済危機、倫理の崩壊など、どこを見ても希望が見出せないような現実を前にして、恵みを授かった者として私たちはどう生きていくべきでしょうか。イエス・キリストの十字架によって救われ新しく創造された神の作品として、神の愛と恵みに心打たれつつ、神が前もって準備してくださった善い業を積極的に行なって歩むべきでしょう。キリストによって生まれ変わった人は、聖霊様との交わりの中で、“何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれるか”を吟味しながら、善い業を行って歩むことを第一の優先順位とするでしょう。願わくは、神の作品としてのアイデンティティーを抱きつつ、輝き続ける神の家族でありますように。ハレルヤ!


2022.5.1 小さな泉の恵み

 今回も水曜祈祷会から、ルカの福音書21章25~38節で考えさせられたことをコメントします。ここでは、人の子の再臨に際して、神がまず太陽と月と星にしるしを現わして、地上で海と波が荒れどよめき、天地が消え去る、すなわち終わりの日について記されています。神は人知を超えた力を持っていると同時に恐ろしいことを実行されることがわかりました。一方で、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まし祈りなさいとも記されています。そしてその日は、放蕩や深酒や生活の思い煩いで心が押しつぶされていない状態にいるよう警告しています。この祈祷会で、終わりの日は、できれば自分が死んだ後に来てほしいという感想が出ました。現在新型コロナによるパンデミックやウクライナへのロシア侵攻で、今後ロシアが生物・化学兵器や核を使用するのではないかと一部報道で言われています。先が見通せない状況にありますが、終わりの日は神が決めることと思っています。中世ヨーロッパの宗教改革指導者であるマルチン・ルターは「たとえ明日、世界が滅亡しても、今日私はリンゴの木を植える。」と述べています。

終わりが来るかどうかにかかわらず、自分は最後までお祈りし、農作業ができたらと思っています。

                          K.K. 兄

2022.4.24 牧師室便り

 ~復活信仰を生きるあなたへ~

“わたしの愛する兄弟たち、…動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(Ⅰコリント15:58)”

 復活祭から、一週間が経ちました。私たちは、イエス・キリストの復活を通して、キリスト者に永遠の命があることを知らされました。復活信仰は、私たちの信仰をさらに強め、福音伝道に励む力となります。とりわけ復活信仰に生きる人は、自分の身に起こる戦争や飢饉、病、自然災害、突然の事故などに対しても大きく動揺することはありません。なぜなら、復活の主がいつも共におられること、また、主イエスが復活されたように、自分自身も輝かしい姿に変えられ、永遠の命が約束されていることを信じるからです。すなわち、復活信仰をもっているか否かによって、その人の地上における生き方は全く違ってくるわけです。

主イエスが言われたように、私たちが生きているこの世には、苦しみが多く存在します。とりわけ死の恐怖と隣り合わせで歩み続けている私たちです。しかし、私たちがもつ復活の希望は、このすべてのものに打ち勝たせてくれます。死んでも、再び永遠に生きる希望のゆえに、死をも恐れることはないのです。

長い間、コロナ危機のゆえに、顔と顔を合わせる礼拝ができませんでしたが、いよいよ5月からは、顔と顔を合わせる対面中心の礼拝に戻ることになります。もちろん、未だ完全な終息には至っていないので、くれぐれも気をつけながら大切に礼拝に集いましょう。また、ぜひ神の家族お一人お一人が、互いに励まし合いつつ、福音を知らない家族、友人、隣人に復活の主、永遠の神の国を大胆に伝えて参りましょう。「恐れるな!」と、私たちの傍らで語りかけておられる復活の主イエスに信頼し、生きる人は幸いです。シャローム!


2022.4.24 本日の宣教

 『 ウクライナ避難民支援 』(ルカによる福音書10章25-37節)

ウクライナでの戦争が激しさを増す中で、すでに460万人がウクライナ国外に避難しています。その9割が女性と子どもです。ウクライナ国内では、まだ多くの人々が避難できずにおり、1千万人以上の人々が避難民となることが予想されています。毎日のように多くの市民が殺害されている報道を見るにつけ、想像されていた戦争のエスカレート化によって、無差別の殺戮と多くの街の完全な破壊が現実になってしまっています。アメリカを始め西欧諸国が軍事費支援をすることによって、むしろ更なる拡大も想定されます。

非常な虚しさや悲しさを感じる日々の中で、私たちキリスト者は、日本にいて何ができるのでしょうか?

日本には4月19日までに661人の避難民が来日しています。日本YMCA同盟は、ヨーロッパYMCAと連携しつつ、現在までに60人の日本への避難を支援してきました。日本への避難民は、主に家族や親戚が日本にいる方が中心となっています。市民団体NPO・NGOとの連携で支援しているYMCAの活動報道を知り、ウクライナ大使館からは、更なる避難民支援の依頼が日本YMCA同盟に来ています。そのため日本YMCA同盟からは、社会福祉法人賛育会にも職員の派遣の要請があり、2名の職員の長期派遣を決定しました。

ルカによる福音書10章の「善きサマリア人のたとえ」は、YMCAの災害や難民支援などの際によくメッセージとして用いられます。37節「そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい。』」

この聖書の個所は、時に私の心に重くのしかかり、苦しくなります。私は、アフガニスタンで活躍し、いのちを奪われた中村哲さんのようにできない自分がいます。中村哲さんは、九州大学YMCAの出身でYMCAの先輩でした。かつて私は、日本YMCA同盟の代表でした。いつも「その場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」のが自分の本当の姿です。追いはぎに襲われて傷ついた旅人を介抱しているサマリア人を見て、近づくふりをして結局通り過ぎたのが自分です。どうしたら良いか分からないと言い訳し、もし近づいたら丘で見ている追いはぎに自分も襲われるかもしれないと、ただ怖いからです。でも、通り過ぎた後で、何もできなかったことが苦しくて、せめて助けたサマリア人がケガをした人を連れて行った宿屋の玄関に後でコッソリと寄って、その人のためにと自分の財布から少しだけのお金を包んでおいていく、そんな自分です。

私たちは何もできないかもしれません。でも、『行って、あなたも同じようにしなさい。』のイエスの声を聴き、活動を始めたYMCAの仲間の働きに、募金でご協力いただけると幸いです。

                                                                     島田 茂


2022.4.24 小さな泉の恵み

 文章を書いている今、「武器を捨て、あと2時間で投降しなければ総攻撃し、全員殺害する」という二度目のロシア国防省の最終通告が抵抗を続けるウクライナ軍に警告されました。マリウポリのウクライナ軍は1,026人、そして、地下には乳幼児を含めて1千人以上の市民が避難していると報道されています。ウクライナ軍は、「最後まで戦う」と発表し、ゼレンスキー大統領もロシアの侵略前に発言していたように、「領土は手放さない」と決意を変えていません。

軍事力を使い、侵略と無差別な虐殺をするプーチン政権の戦争犯罪は明白だと思いますが、一方で地下に避難している人々の全滅が免れない状況にあって、人々を守ることより、領土を守ることを優先するゼレンスキー大統領のこれまでの発言や行動も注意深く調べる必要があると思います。

ロシア侵攻後すぐに「国民総動員令」を発令し、18~60歳の男性の出国を禁止し、停戦のための対話よりもNATO各国の軍事的支援を得ながら、戦争をエスカレートしていく指導者の姿に、第2次世界大戦で市民を巻き込み玉砕を選択した軍国主義の日本のリーダーが重なって見えます。役者であり、いかにもヒーローを演じている大統領は、まさに自らのシナリオ通りに世界を巻き込んでいるように見えると思うのは私だけでしょうか?

今この時にも地下にいる子どもたちや女性・お年寄りは、いのちを失っているかもしれません。沖縄のがまで集団自決や殺戮にあった子どもや女性の様に。軍隊は誰を、そして、何を守るというのでしょうか? 一人でも多くのいのちが救われることを祈ります。  

                           島田茂 


2022.4.17 牧師室便り

  ~ 復活の知らせを携えて ~

 教会の花壇にはちょうど一週間前からチューリップの花が満開となり、教会の周辺を美しく飾っています。通りすがる方々から“綺麗ですね!”と声をかけられ、イースターと命の季節である春を証していることに喜びを感じています。

しかし、復活と命の季節を迎えていながら、未だ冬の厳しい寒さが続いているウクライナの地においては、戦争が長引き、人々の被害と悲しい叫び声が日に日に増している状況です。その中でもロシア軍による民間人への虐殺行為は、決して赦すことのできない犯罪です。主イエスの十字架から流れる慰めと癒しの血潮が愛する人を亡くした人々の痛みと傷跡を覆ってくださいますように…。もちろん、これからも悪しきサタンは、ますます人の復讐心、憤り、憎しみなどの感情を刺激し、分裂と争い、戦争へと引っ張って行こうと試みるでしょう。今こそ、イエス・キリストの十字架と復活を覚える時、世界中でみんなが立ち止まって祈りの手を合わせる時です。

先週は受難週でした。イスラエルの宗教指導者たちの偽りの告訴とイスラエルの民らの背信、ローマ兵たちによる鞭打ちと侮辱、愛する弟子たちの裏切りの中でも、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)」と祈られた十字架の主イエスを黙想する一週間を過ごしました。そして、今日私たちは十字架の死と呪い、憎しみ、恨み、嘆きをすべて打ち破り、復活なさった主イエスをほめたたえるために集いました。 

主イエスの十字架には、すべての敵対するものへの和解と赦しが現れています。そして主イエスの復活には、万物を新しく造りかえ、永遠の希望と命へと導く力があります。復活の主に出会った人のうち、変えられなかった人はいません。とりわけ愛する人と死による別れを経験してきた人々に約束されている復活の希望は、私たちを失望させません。

本日私たちは、先に天の御国に凱旋された神の家族を覚えるひと時を過ごしています。やがて「栄光から栄光へと主と同じ姿で」御国において再会できる日を楽しみにしつつ、復活の知らせを携えて出かけましょう。シャローム!


2022.4.17 本日の宣教

『 復活、この小さな者にも 』(Ⅰコリントの信徒への手紙15:1~11)

主イエス・キリストの復活、おめでとうございます!!!死を打ち破り、聖書の約束通りよみがえられ、永遠に生きる道を開いてくださった主イエスの大いなる祝福が神の家族お一人お一人の上に豊かに注がれることを祈ります。

この世の人の中に「死」を恐れない人がいるでしょうか。そのため、人は昔から死なないことを探し求め、絶えず永遠に生きることを願ってきましたし、今もなお、人は死の問題を解決しようとあらゆる努力を尽くしています。それでも、死の問題を解決することはできませんでした。死の問題を解決する道は、復活の福音の他にはありません。

さて、Ⅰコリント15章は「復活の章」と呼ばれる有名なところです。パウロがコリント教会への手紙を書いていた当時のギリシャ世界のエピクロス派では、「私たちは生きているときは死んでいないのであるから死について考える必要はなく、死んでしまってからはすでに私たちは存在していないのであるから死について考えることはできない。」と伝えていました。ある面、一理あるような言葉だと思うかもしれませんが、しかしこのような教えこそ、死を考えることの恐れから、逃げるため、死を忘れるために作り出した「言葉遊び」のようなものに過ぎませんでした。

そこでパウロは、復活の確かさについていくつかの証拠をもって語ります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、…」(15:3-4)。とりわけパウロは、その復活のことを、「最も大切なこと」だとしながら、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」、すなわち、旧約聖書の預言が成就された歴史的事実であると宣言します。

パウロは、さらに主イエスが復活されたことには、数多くの証人たちが存在していることから、確かな歴史的事実であることを証言しているのです。ケファ(ペトロ)と12弟子、500人以上もの兄弟たち、そして、パウロ自身を復活の証人として挙げています。しかも、これらの証人として挙げていた人々の内、まだ大部分は今なお生き残っているという言葉を通して、パウロの証言が確実であるということの証拠として用いられています。その中でも、パウロ自身が復活の主に出会ったことを証しながら、自らを神の恵みの前に低くしていることが分かります。「月足らずで生まれたようなわたし」、「使徒たちの中でもいちばん小さな者」、「使徒と呼ばれる値打ちのない者」という表現をもって、自分が救われ永遠の命を得たことこそ、全き恵みであるということを証しします。そうです。復活のイエスに出会った人のもつ姿勢としては、一方的な神の愛と恵みの前にへりくだるしかありません。なぜならば、そうすることで、神の恵みがひときわ輝くことになるからです。復活の主イエスは、ご自身に敵対し、主の教会を迫害していたパウロに現れ、彼を復活の証人に変えてくださった。パウロにとってこれ以上の恵み、奇跡はありませんでした。復活の主イエスは、今もこの恵みに生きる者として、世の最も小さな者、値打ちのない者と告白する人を訪ねておられるでしょう。    ハレルヤ!


2022.4.17 小さな泉の恵み

 皆さん、こんにちは!此処が、如何お過ごしでしょうか?今週の、水曜日から週一日の4時間程度の、副業?が決まり、4月13日が初日でした。清掃の仕事ではありますが、以前東京でやっていて、多少の経験はありますが、緊張していました。副業として、清掃業の仕事をやっていますが、職場内の雰囲気がよく、助け合いながら仕事をやるといった感じの職場で、週に一度の仕事となりますが、続けられそうです。

話が変わって、週報の小さな泉の恵みをはいけんして、自分が書くとなると、皆さんが書かれる記事は、聖書に沿った自分のことだったり、考え方を書かれているのを見て、果たして自分はどう何だろうと?と考えさせられます。自分は未だに洗礼は受けていませんが、その時が来るまで御言葉、をしっかり受け入れ、神を中心とした生活が出来る自分でありますように

                            Y.H.兄


2022.4.10 牧師室便り

 ~ 主イエスの足元に近づく ~

 十字架処刑を前にしておられた主イエスにとって、唯一とも言えるような安らぎと喜びの出来事とすれば、ペタニアのマリアが主イエスの頭から両足に香油を注いだことでしょう。「ベタニアのマリア」…。聖書の中で数回紹介されている彼女の姿には一つの特徴があることに気づきます。それは、彼女がいつも主イエスの近く、特に足元に座っているということです。

あの有名なマルタとマリアの話の時を見ると、マリアは忙しく動き回っているマルタとは違って、主イエスの足元に座って御言葉を聞いていたことが分かります。また、愛するラザロお兄さんが死んだ時、主イエスの足元にひれ伏して泣きながら癒しを乞い求めていた姿も覚えています。そして、最後に、主イエスの頭から両足に香油を注いでから、その足に口付けし、自分の長い髪の毛で主イエスの足をぬぐっている姿がとても印象深く描かれています。すなわち、ベタニアのマリアは、主イエスとの関係において足元が固定席であったのです。お姉さんのマルタから妬まれることがあっても、また、弟子たちから叱られるような声を聞いても、周りの誰から何を言われようと、主イエスの足元に近づき、御言葉に耳を傾けることを諦めることはありませんでした。そして聖書は、マリアが主イエスの足元に近づき、御言葉をいただき、高価な香油を注ぐことができた理由を「愛のゆえ」であったと教えます。

マリアの主イエスに対する愛が、十字架による救いの御業に協力することにまで至たらせたわけです。

「彼女はわたしに良いことをしてくれたのだ」 とされ、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と、さらに、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」という、主イエスからの称賛の御言葉の主人公にもなれたのです(マルコ14:3~9)。

コロナ・パンデミックによって主日礼拝にも、平日の諸集会にも、普段の生活における祈りの場にも積極的に近づくことが難しく思われている近頃、神の家族の皆さんの主イエスに対する愛を、何をもって現すことができるでしょうか。マリアのように主イエスの足元に近づき、愛を表す神の家族でありますように…。シャローム!


2022.4.10 本日の宣教

 『 神の神殿は大丈夫ですか 』 (ルカによる福音書 19:45~46)

本日は受難週礼拝です。2000年前、主イエスは父なる神の御計画に従い、十字架にかかるためにエルサレムに入城されました。小さな子ロバに乗って入城される主イエスに対して、大勢の群衆は“ホサナ”と声を上げ迎え入れました。その聖書箇所を黙想しながら、ふと、その時の主イエスはどのような表情をされただろうか?という疑問が沸きました。私たちはよく天皇やオリンピックの金メダリストを喜ぶためにパレードが行われるのを度々目にします。その時、大勢の人が道を埋め尽くして歓声をあげると、それに笑顔で手を振りながら挨拶をする風景を浮かべるわけですが、主イエスのエルサレム入城の時もそうだったでしょうか。

 聖書は、主イエスがエルサレムに入城された後、最初に行った出来事を記しています。まず、主イエスはエルサレムを見つめながら泣き叫ばれていたことが分かります。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。(ルカ19:41)」… 主イエスが泣いておられる。それも、静かに泣いたのではなく、大声で叫びながら泣いたと聖書は記していたのです。その後の主イエスが取られた行動は、あの有名な神殿浄化でした。それが本日の御言葉です。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:45)」…エルサレムに入られてから主イエスの目が向けられ、集中して語られたいたところこそ、エルサレム神殿でした。愛の主イエスの姿からはなかなか見られない行動や言葉でした。

それでは、何が主イエスをこれほどまで憤らせたのでしょうか。それこそ、当時のエルサレム神殿が神殿としての役割を果たせなかったことと、神の神殿本来の姿を失っていたことに原因がありました。それでは神殿の本来の姿は何でしょうか。主イエスは、「私の家は祈りの家でなければならないのだ!」と言われたことから、神殿の存在の目的が示されていますよね。

そこで主イエスは、新たな神殿を建て直そうとされました。その神殿こそ、イエス・キリストの十字架の血潮によって新しく生まれ変わった神の民の内側に建てられた神殿であります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿です。(一コリント6:19)」…神殿の存在の目的は、ただ建物として存在することではありません。神殿の目的はただ一つ、神を礼拝し交わることです。神を礼拝するとは、自分自身を生きたいけにえとして献げ、神の栄光を現すことを表します。それでは、今の小泉町教会の神の家族は神の神殿としての目的にふさわしく建てられていますか。エルサレム神殿をひっくり返された主イエスが、神の神殿である私たちの姿をどう見ておられるでしょうか。願わくは、主イエスに喜ばれる礼拝が献げられる神殿としての神の家族お一人お一人でありますように…。あなたの内に建てられている神の神殿は大丈夫ですか。ハレルヤ!


2022.4.10 小さな泉の恵み

 桜の花がとても綺麗な季節となりました。

我が家では、1年間余分に受験勉強していた息子が、無事希望校に合格し、先月末から県外で1人暮らしを始めました。

我が家は子供が1人だったので、夫婦2人の生活に19年ぶりに戻りました。

食卓にのぼるものも、カロリー控えめ、野菜中心。疲れているときは、冷凍食品を使うこともあり、調理の手間を省いています。

自分の時間が広がって、出掛けることも増えましたが、まだ投薬治療中の身。

家で日記や小さな物語を書いたりして、楽しんでいます。

神様の癒しを頼りに、家族3人それぞれの新しい一年を始めたばかりです。

リビングライフの存在に助けられています。

                          S.N.姉