2022年5月1日日曜日

2022.5.1 本日の宣教

 『 善い業のために造られた作品 』(エフェソの信徒への手紙2:8~10) 

キリスト教の中心は「恵み」にあります。「神が罪人である人類を愛して独り子を贈られ、その独り子が十字架の上で罪人たちの身代わりとなって死んでくださった。だから、御子イエス・キリストをわが王、わが主として心から信じ受入れる人は、神の子とされ救われる」という福音こそ、価なく与えられた神からの贈り物、「恵み」なのです。そして、ここには一つの法則が生じます。まず、神からの恵みが与えられ、その恵みを罪人が「信仰によって」受入れ、その「信仰によって」救いが成就するという法則です。

使徒パウロが書いたすべての手紙において、繰り返し強調していた福音の核心がここにあるのです。それほど「恵みと信仰による福音理解」は、決して曲げたり、忘れられたりしてしまってはならない大切な真理なのです。だから、何か救われた者に特別な能力があったとか、特別な地位を持っているとか、資格があるとかは関係ないのです。たとえ、その人に能力がなく、健康もなく、お金もなく、地位もなく、この世において誇るものを何ももたなくても、です。・・・わたしたちの救いはただひたすら神の恵み、値なく与えられた、無条件のプレゼント、永遠に変わることのない神からの賜物を私たちはいただいていますし、その恵みに生かされているのです。

だからでしょう。著者のパウロは9~10節で断言しているのです。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と。・・・私たちは「行い」によって救われたのではありません。どんな行いも私たちを救うことはできません。しかし、救われた者は「善い業を行って歩む」のです。行いからは「救い」は出てきませんが、「救い」からは「善い業のための行い」が生まれてくるのです。ここにキリスト者の存在の目的が明らかにされています。私たちは、「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた作品」として目的を持つ存在です。そうです。私たちは、神が恵みによって造ってくださった「神の作品」、しかも、主イエスの十字架の愛と復活の命によって新しく創造された作品です。

混乱を極めている世界情勢、自然災害、経済危機、倫理の崩壊など、どこを見ても希望が見出せないような現実を前にして、恵みを授かった者として私たちはどう生きていくべきでしょうか。イエス・キリストの十字架によって救われ新しく創造された神の作品として、神の愛と恵みに心打たれつつ、神が前もって準備してくださった善い業を積極的に行なって歩むべきでしょう。キリストによって生まれ変わった人は、聖霊様との交わりの中で、“何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれるか”を吟味しながら、善い業を行って歩むことを第一の優先順位とするでしょう。願わくは、神の作品としてのアイデンティティーを抱きつつ、輝き続ける神の家族でありますように。ハレルヤ!


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