2019年8月22日木曜日

2019.8.18 牧師室便り

~夏風邪に気をつけましょう~
「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。(Ⅲヨハネの手紙2節)

 先週は韓国から帰ってきた疲れのせいか、夏風邪をひいてしまいました。夏に風邪を引くのも久しぶりのことで、戸惑いもありましたね。残念なことに、病床の方々への訪問の約束もキャンセルするしかありませんでしたし、いろいろ計画していたこともできなくなったことに申し訳ない思いでいっぱいです。・・・今回の夏風邪は、高熱や頭がぼっとするような一般的な風邪の症状とは違って、胸と気管支の方の違和感と、それによる軽い咳が続くような風邪のようです。それに加え、木曜日には左側の肩にいきなり激しい痛みが走って、シップを張って安静しています。50肩なのかもしれませんが、とにかく暑さを理由にして運動もまともにできず、室内でエアコンの冷風に当たっているせいか、体のあっちこっちから異常信号が点滅しているような気がするお盆休みのある一週間でした。それでも、異常気候は自分の力でどうすることもできないものなので、すべては神の御手にゆだねつつ、感謝の祈りとともに、健康な生活を心がけながら残りの夏の日々を過ごしたいと思います。
 先日、Y兄も町の行事の中で、熱中症で倒れられたことを聞きました。Y兄の癒しを祈りつつ、教会のお年寄りの方々、また病床の方々の健康が守られることを祈り続けていた一週間でした。願わくは、神の家族お一人お一人の魂が恵まれているように、すべての面で恵まれ、お体の健康が守られますように、また、創造者の定められた秋の季節が訪れ、爽やかな風に包まれ、豊かな実りの恵みにあずかりますように…。シャローム!

2019.8.18 本日の宣教

『今こそ、祈りと讃美を!』  ヤコブの手紙5:1320) 
 近頃の自然災害や異常気候、混沌としている世界情勢を見ると、この世の終末がもうすぐやって来るような気がしてなりません。主イエスも、自然世界の動きに、よくよく目を配るようにと言われたことから、しっかりと信仰の目と耳を覚まして時を過ごさなければならないことでしょう。まさに明日の世界がどう変わっていくだろうか、とりわけ福音伝道がうまく進まず、クリスチャンの信仰生活が、この世の流れに呑み込まれそうな今の時に求められる信仰共同体としての教会と、クリスチャンの生き方はどうあるべきだろうかについて、ヤコブの言葉から教えをいただきたいと願います。


 「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、讃美の歌を歌いなさい」(13節)

いつも申し上げていることですが、クリスチャンであるから人生の苦難、苦しみから解放されるわけではありません。しかし、私たちは暗闇、荒野にいるような苦難の時を度々経験します。そのような時、私たちが祈るのは、ただ苦難の時間がすぐに過ぎ去るように願うからではありません。むしろ苦難の中で、真の信仰について考え、黙想し、神との関係の中で御心を悟るため、また神の助けをいただくため祈るわけです。クリスチャンは苦しみのトンネルを通りながらイエス・キリストの十字架の苦難の意味を見出し、それを通して与えられる恵みを覚えるのです。そうです。人生の試練や苦しみは、祈りの場への招きであり、神の御心を知るチャンスであります。

「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編5015節)・・・また、クリスチャンの生活において讃美がいかに大切であるかということをヘブライ13:15では次のように教えています。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」 宗教改革者のカルバンは、「もし、われわれが神の恵みに対して、讃美することなしに放置するならば、それは悪意の沈黙である。」と語っています。・・・聖書は私たちクリスチャンを、神の神殿であると教えています。そして、神殿で行われることはすべてが礼拝です。その礼拝の中で、最も大切なことが、いけにえを献げることですし、そのいけにえこそ、讃美をささげることだ!と教えているのです。 
 ヤコブは、正しい人の信仰の祈りの力について教えるために、偉大な祈りの人であったエリヤを登場させ、彼の熱心な祈り、失望せず忍耐を持って執り成し続けた姿を模範とするようにと勧めます。とりわけ、今こそエリヤがイスラエルの民と国のために祈ったように、私たちも、神の前に「正しい人」となり、日本の国と民のために熱心に執り成し祈る時であることを心がけましょう。最後まで握り続けるべきことこそ、信仰に基づく祈りと讃美、そして主イエスの十字架の愛による悔い改めと赦しであることを忘れず、主に喜ばれる生きた教会形成に励んで参りましょう。ハレルヤ!

2019.8.18 小さな泉の恵み


~整えて下さるイエス様~
 
 8月の第2土曜日、小さな泉の村(生活困窮者自立支援活動)の料理教室は、いろいろな事情が重なり、発足当時から参加して下さっているダルクの皆さんや、一般ボランティアさん、小泉町教会の姉妹方など多くの方々の不参加が重なりました。ボランティア参加者が今迄で一番少ない人数という状況に、一抹の不安を感じつつ当日を迎えましたが、直前に2名の教会の姉妹から参加すると声をかけて頂き、感謝し、「大丈夫!今までも神様は働き人が少ない時にこそ美しく整えて下さったから」と心に平安を頂き、姉妹方と会場に荷物を運び入れました。
すると、そこに若い男女の方々と小学生そして高齢のお2人と、全員合わせて何と11名が、ボランティア参加のために来て下さっていたのです。その方々は富山司法書士協会の皆さんと関係者の方々でした。突然の11名の登場にびっくりし、思わずありがとうございますとイエス様に感謝しました。その後、韓国から帰られた直後で、疲れのため不参加の予定だった閔先生ご家族が駆けつけて下さって、あっという間に普段よりも多いボランティアの人数になったのです。
小さな泉の村は、その小ささゆえに主に愛されていると毎月の活動を終えるたびに思います。背中を押されるように始まったこの活動ですが、導いて下さったのは間違いなくイエス様だと思います。どんな時も美しく整えて下さるイエス様に感謝し、様々な人々が集い、共に料理し食卓を囲む幸いが、これからも主と共にありますように。

                                       S.Y姉

2019年8月20日火曜日

2019.8.11 牧師室便り

~楽しい夢を見る人~

「わたしは目覚めて、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった。(エレミヤ3126

帰国中、毎日厳しい暑さで眠れない日が続いていました。とりわけ日本と韓国との間に繰り広げられる悲しい争いを目の当たりにしながら、これからの両国の歩みのために執り成していたある時、エレミヤの言葉に目がとまりました。

涙の預言者、祖国のイスラエルの滅びを預言していたエレミヤがある日、希望に溢れる夢を見ました。その夢はとても甘く楽しい夢でした。・・・不思議です。夢を見ている人は現実の苦しみがいかに厳しくても、希望のゆえに楽しむことができるのです。その夢が一瞬で終わっても、神から与えられた希望と約束のゆえに、現実の苦しみを乗り越えることができるのです。・・・預言者に召されてからのエレミヤの生涯は苦難の連続でした。嘆きと涙を除くと彼の歩みを説明することができないほどの日々でした。そんな彼を勇気づけ、生きる力を与えたのが神からの夢を見る時でした。

  あなたはどんな夢を見ていますか。その夢は神が見せてくださったものでしょうか、自分自身の欲望の現れでしょうか。皆さんは、日々の生活が忙しく夢見ることもできないと思われていませんか。ぜひ、神からの夢を求めましょう。エレミヤが愛する祖国イスラエルの滅びを伝えながらも、その滅びの向こう側にある神からの希望なる夢を求めましょう。

将来への不確かさに包まれている日本の国のために神からの夢を見る人が求められる今です。人間の欲望からの偽りの夢ではなく、日本の民が救われるリバイバルの楽しい夢を求めたい・・・。

小泉町教会の群れにおいても、日々神の御言葉を黙想し、神と交わる中で、夢見る人が一人二人と増えていき、楽しく夢を明かしてくれる人が与えられますように・・・。神の家族お一人お一人の家庭においても、職場においても、神からの夢を見る人として生きていただきたいですね。シャローム!

2019.8.11 本日の宣教

『ピース・メーカー、イエス』 コロサイの信徒への手紙1:19~23) 
 イエス・キリストを通して神と和解したキリスト者は、もはや、外国人でも寄留者でもなく、契約の外にいる異邦人でもありません。神の敵だったものが、キリストを通して、聖なる民、神の家族となり、主に栄光を現わす生きた聖なる神殿となります。父なる神は聖霊の働きによって神の住まいとなった神殿であるキリスト者と教会の賛美と礼拝を受けられるのです。そしてイエス・キリストの十字架の福音は、神と人、人と人を一つにし、ユダヤ人と異邦人、文化や民族の違う人々を一つにし、真の平和と和解の奇跡を起こしてくださいます。そう、イエス・キリストの十字架が置かれるところに、分裂が一致に、争いが赦しに変わり、真の平和と和解が成し遂げられるのです。

キリストの教会は主の体であり、主は教会の頭であることを聖書は教えます。そして父なる神はすべての満ちあふれるものを余すところなく御子イエス・キリストの内に宿らせてくださいました。(19節)・・・そうです。キリストだけが私たちの心を満たすことができるのです。人生の空しさや、心の隙間を、この世のものでは満たすことができません。私たちをお造りになられた神ご自身、御子イエス・キリストだけが私たちを満たすことができ、ただ満たすだけでなく、満ちあふれ余るほどの神の愛と平和の祝福を注いでくださると約束してくださるのです。

そして、「父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をご自分と和解させられました(20節)。」神は、罪の中で滅びていくべき私たちを、ご自身と和解させられ、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物と和解できるものとしての使命を十字架の贖いを通して与えられます。

イエス・キリストの十字架によって生まれ変わった者は、福音に根を下ろし、自分自身のうちに働かれる聖霊の助けをいただき、御心にふさわしい実を実らせます。その最も素晴らしい実こそ、平和の実であって、和解の実であります。

イエス・キリストは平和そのものであって、真のピース・メーカーでした。ご自身がかけられた十字架の偉大なメッセージは神と人との和解であって、人と人同士の和解でした。その和解のために主イエスはご自身をプレゼントとして私たちに与えてくださったのです。
願わくは、平和を覚え、平和の実現を求めるこの季節、イエス・キリストをプレゼントとして受けた者として、同じく自分自身も他者との平和と和解のためのプレゼントとなりますように…。ハレルヤ!

2019.8.11 小さな泉の恵み



  第二次世界大戦中の出来事です。イギリス軍の一小隊が真夏の蒸し暑さの中で、野原の真ん中でドイツ軍に包囲されました。兵士たちは、恐れと喉の渇きによって、心身が疲れ果てていました。彼らに残された水は、小隊長がもっていた水筒一つの水だけです。激しい渇きを感じながら、小隊長は生死と苦楽を共にしてきた兵士たちのことを考えました。そして、悲壮な心情で水筒を開け、自分は飲まずに兵士たちに渡しました。兵士たちは小隊長の行動に感動しながら、水筒を回して一口ずつ水を飲みました。そして、水筒が再び小隊長のところに戻ってきました。水筒が一回りして戻り、水を飲もうとした小隊長は驚きました。水が半分以上も残っていたからです。兵士たちは、他の兵士のことを思って、水を飲みはせず、辛うじて舌を湿らせる程度に水を口に当てただけだったのです。そんなわずかな水と、水筒の中で揺れる水の音だけでしたが、兵士たちは力を得たように感じました。互いを思って苦痛を分かち合い、死をも共にする戦友がいるということを悟ったからです。そうしてこの小隊は、死の恐怖よりも大きな力を経験しました。その後も彼らは互いに励まし合いながら、支援軍が来るまで耐え抜き、全員が生き残りました。
 自分ひとりだけが幸せに生きるよりも、みながともに幸せになることこそが命を豊かにし、力を得させます。他の人を思いやった小さな行動が共同体に喜びをもたらした経験があるなら、それは何ですか。
                                ~『リビングライフ』より~
 
 
   

2019.8.4 本日の宣教(執事)

『平和の道具にしてください。』 マタイによる福音書 5:9) 
 8月は、「平和をつくる」という使命を思い起こす月です。終戦から74年の月日が流れました。


 今日の礼拝では、改めて数字を挙げて、簡単に戦争の歴史を振り返ります。日本の敗戦が決定的になりつつある1945年は、2月から日本全国にB29爆撃機を中心とする本土空襲が行われ、200以上の都市が爆撃され約1千万人が被災されたとあります。資料によると殆どの空襲は、6月~8月にかけて集中的に行われ、日本が統治していた台湾の台北市、台南市でも空襲を受けて多くの住民が巻き込まれています。

1日には、富山大空襲を始め水戸・八王子・長岡に一斉空襲が行われました。富山だけで、B29174機。死者2,737人。負傷者7,900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害と記録されています。86日午前815分には広島に原爆が投下され、56万人が被爆し、166千人が投下から4ヶ月で亡くなられました。89日午前1102分には長崎に原爆が投下され24万人が被爆し約74千人が亡くなられました。原爆の被爆者は、日本人だけではなく、日本に在住や徴用された中国人や朝鮮人も含まれています。空襲は、その後日本が降伏するまで各地で続き、2千人以上が亡くなっています。日本の犠牲者を思い祈りましょう。

一方、中国大陸への侵略から始まって、日本軍によって戦争に巻き込まれ、犠牲となったアジア・太平洋の人々は、2千万人以上とも言われています。今日、加害側である日本の人々が、日本軍による民間人の犠牲者数を自虐史観であるとして、ネットなどの情報を根拠として矮小化したり、南京やシンガポールなどでの虐殺が無かったと決めつけたりするなど、戦争を正当化する人々が増えています。アジア・太平洋の犠牲者を思い祈りましょう。

忘れてはならないことは、妄信的に突き進む軍部の戦争政策を止めることも、また、戦争を早期に終わらせ、犠牲者を少しでも減らすために降伏決定を下すにも、判断する主権が市民になかったことです。戦争の実態を知らず、戦争を語る国会議員が出てくるなど、憲法論議の背景には、歴史に対する無知や傲慢があるように思われます。

イエス様は、このような時代に私たちに何を語られるのでしょうか。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ59節)
アッシジの聖フランシスコの平和の祈りを祈りましょう。「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
                            S.S執事     
 

2019.8.4 小さな泉の恵み


 ~梅雨~

やっと梅雨が明けた。
さすが夏本番、暑いこと。私はよく友人に晴耕雨読を唱える私であるが、友人は私のこと「悠々自適」であるという。友人からよくうらやましがられる。とんでもない。人生は色々のことあり。心配ごと、色々考えること等沢山あり。まず亡夫の残していった農地のこと等。1カ月以上続く梅雨の空、鉛色の・・空・・・。
 私は4月に過って転倒。右胸打撲。胸がイタイ。農作業がうまく出来ない。治療してもなかなか回復しない。毎日毎日が暗い日々が続く。聖書も読んで祈ってみたがなかなか気持ちが晴れない。右腕が働かない。背中の方に腕が廻らない。服を着ることはなかなか出来ないのである。
 よくよく考えてみると梅雨があるからそれを利用して加工食品ができるのである。神様は世の中のためにと思い梅雨も必要だと思って作って下さったのだと…。われわれの食生活に大切なこと。どう私って自分勝手と思ってみては。我が家は農家。水稲は水は必要なのだ。いつぞやの年、雨が降らない空に向かって祈った年もあったのに。
 私は現在、悠々自適の生涯ではなく、いつも心の中では自分の健康や家族のこと等、神   
 様に祈っていること忘れない。
                                A.M姉

2019.7.28 牧師室便り


~聖書の神があなたの神ですか?!~

主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。・・・なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げてくださる。」(詩編113:4,6,7

先週のリビングライフのテキストは詩編でした。その中で強調された内容がイスラエルの歴史の中で働かれた神への讃美でした。多くの人から“聖書の歴史はイスラエルの歴史であって、日本の国と日本人である自分とはあまり関係がないのではないか”という声を聞きます。よくイスラエルの民を「選ばれた民」と呼びます。しかしそれは、イスラエル民族が特別に優れているとか、特別な力をもっていたために、神に選ばれたんだという意味ではありません。むしろ、聖書が描いているイスラエルは世界の民族の中で、元々、奴隷身分で、弱く、力のない、惨めなヘブライだったわけです。誇れることも、戦って勝利を得ることもできませんでした。ただ神の恵みによらなければ、世界の歴史の中で消えてしまってもおかしくないような民族であったわけです。そんな哀れなヘブライ族を神は憐れみ、神の民として選んでくださったのです。そして、その弱い民族を通して救いの計画を成し遂げられたことを聖書は教えています。

神の家族の皆さん、聖書の中で生きて働かれた神は、今もあなたを愛し、生きて働かれているでしょうか。イスラエルにされたように、「海とヨルダン川を真っ二つに分けられ、雲の柱と火の柱で導かれ、マナを降らせ、岩から命の水を湧き上がらせてくださった神、また、すべての敵から神の民を守られ、時に適って恵みを賜ってくださった神」が、あなたの生活の中で働いておられると信じますか。・・・。聖書の神が今現在のあなたの神となって、時に適った恵みと御業を成し遂げられるお方でしょうか。聖書の神を、聖書の時代のイスラエルの民だけに限らず、今現在の弱く、乏しい私たちに出会って下さり、高く上げてくださる神であることを信じる人はいかに幸いでしょうか。

大自然の圧倒的な力が発揮されるこの夏、大自然を通して、また私たちの日々の歩みを通して、聖書の神をもっと身近に体験できる神の家族お一人お一人でありますように…。シャローム!

2019.7.28 本日の宣教(執事)

『 神の栄光のために 』 マタイによる福音書第25章1430節)


教会は何の為に存在するのでしょう。いくつか挙げられるでしょうが先ず神様に礼拝を捧げる所です。神様は遍在の方ですから、いつでもどこにいても祈りを聞いて下さるのですが、王の王、主の主偉大なる創造主なる神が招いて下さっているのですから心からの備えが必要です。時間に余裕を持ち身なりを整え礼拝を守らなければなりません。また神の家族の交わりの場です。弱っている兄弟姉妹を励ますことも求められています。さらに重要なことは伝道の拠点として置かれているということです。聖書は言います。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(第一ぺトロ2:9)。私たちは御子の尊い血の対価によって購われ神様の所有となり、神様の御業をのべ伝える為に呼び集められています。

 過去の私は暗闇の中にいました。30年前統一協会から救われた後、H師の紹介によって小泉町教会に通い始めました。当時私が求めたのは「人は何の為に生きるのか?」でした。神はその求めに応じて与えて下さいます(マタイ7:7)「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形造り、完成した者(イザヤ43:7)人は神様を賛美し神の栄光を現す為に造られたことを学びました。洗礼直後教会を離れてしまった私は目的から逸れて生きることの虚しさを知りました。閔先生を通して再び光の中へ呼び戻されました。あなたの周りに悲しんだり傷付いたりした人はおられませんか?その様な方にイエス様は優しく癒しと平安を下さるでしょう。私たちに委ねられているのは、主イエスの下に傷ついた方々をお招きすることです。伝道を忘れた教会は棄てられます。

「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(第一ぺトロ2:12)」・・・私たちは光の子です。光の子は 戦いの中にあります。人と戦うのではありません。自分の中のプライドや傲り、妬み、怠惰その他様々な罪との戦いです。主は御言葉で私たちを励まし強め祈りを聞き入れ勝利を与えてくださいます。神の家族お一人お一人が聖霊に満たされ共に祈り合い、励まし合い、助け合い、益々主の栄光が輝く小泉町教会になるように願っています。
                                                           S.Y執事
                                                                    

2019.7.28 小さな泉の恵み

 「求道者の声」





教会に通うようになって早くも、一年半が過ぎました。

自分の中では、この一年間色んな方との出会いがあり、本当に感謝しています。

 ここ最近、精神的にまいってしまう事が多くなりました。色んな私的感情が頭の中を支配している自分がいます。変わらないといけないと思う反面、変化を恐れて何もやらない自分があります。

 自分でも矛盾しとること言うとるのはわかっています。

今、精神状態が、不安定な状況ではありますが、どうにか今の精神状態から抜け出したい。

そんな思いで日々を過ごしています!
お示された御言葉を素直に受け入れる自分でありたいと心から思っております。
                    Y.H兄
 
    

2019.7.21 牧師室便り


~ファイヤとキャンドルを思う~

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」    (マタイによる福音書5:1416
 
 先週、ファミリーキャンプを恵みのうちに終えることができました。振り返ると、立山青少年自然の家を用いて行われた11年間の夏のファミリーキャンプはすべてが恵みでありました。その11年間、不思議と思っていたことが、キャンプファイヤを一度も休むことなく執り行われたことでした。7月中旬という、ちょうど梅雨時で、立山の海抜800mのところに位置している場所なので、いつ天候が変わるか分からない状況の中、11年間、一度も休むことなく行なえたのは奇跡としか言いようがありません。直前まで大雨だった天候が嘘のように晴れ、満天の空が広がっていた感動の時が何度もありました。ですから、今年のキャンプファイヤも当然のごとく行えると思われていたことでしょう。

しかしそのような当たり前と思っていた出来事が、今年初めてできなくなってしまいました。朝から降り続いていた大雨は、キャンプファイヤの予定した時までやむ気配がありませんでした。そこで急遽「キャンドルサービス」を室内で行う準備にかかりました。毎年キャンプファイヤの圧倒的なパワーを楽しみにしていた皆さんにとっては少し寂しい知らせだったことでしょう。しかし、初めて経験するキャンドルサービスの恵みは新たな感動を与えてくれましたね。ロウソクの灯りから伝わってくる静けさと優しさ、その中で語られる一人一人の感謝の証しは素晴らしい雰囲気を作っていました。

神の家族みんなは、ロウソクの小さな灯りの中で、““あなたを愛しているよ、いつもあなたと共にいて光となってあげよう”また、“あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい”と語られる主イエスのすべてを捨てる愛と私たちへの福音伝道委託の御旨に包まれるような恵みをいただいたことでしょう。万事を益に変えられる主を賛美します。シャローム!

2019.7.21 本日の宣教

 『曙を呼び覚まそう 』 (詩編57:812 
  詩編57編は、1節の表題にも記されているように、ダビデがサウル王を逃れて洞窟にいた時を歌っている詩編です。すなわち、ダビデの生涯で最も暗かった時に書いた詩編でした。


ダビデは聖書における勇者、最も偉大な王、詩人、音楽家でした。羊飼いの少年期を通して神様との親密な交わりを知ったダビデでしたが、その後も神様との関係を失うことはありませんでした。たとえ死の陰の谷を歩む時であっても・・・。そして今、ダビデは洞窟に身を隠れている。ダビデにとって洞窟というのは、人生における最も暗く悲惨な場所であって、最後の避難所でした。しかし、その洞窟は神を新たに体験し、神からビジョンをいただく場所、新しい讃美が生まれる場所に変わっていきます。

ダビデは2節で、「災いの過ぎ去るまで、神の翼の陰を避けどころとしてほしい」と嘆願します。考えてみると、ダビデがサウル王に追われた日々は10年以上に及びました。そして今は洞窟の中、一般的に洞窟というと、暗く、絶望に満ちた危険な場所と言われていますが、ダビデは「神の翼の陰」として受け止めています。ダビデはその洞窟で彼を守ってくださる神を体験し、真の平安に包まれるようになったのです。洞窟で神の臨在と守りを体験していたダビデは、神からの将来へのビジョンと感謝に満ち溢れ、「竪琴と琴」を弾きながら神を賛美し始めます。「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにしてあなたに賛美の歌をうたいます。」(8節)・・・たとえその場所が洞窟のように暗く危険であっても、「神の御翼の陰」に守られていることへの確信があれば、神を賛美せずにはいられません。そうです。いつでも問題は私たちが置かれている状況ではなく、その状況を神の目で解釈できるかどうかにかかっていることを覚えましょう。私たちを取り囲むどんな状況も神の支配のもとにあることを認める時、私たちの唇からは嘆きとつぶやきの言葉から讃美の歌に変えられるはずです。

「主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し、国々の中でほめ歌をうたいます。」(10節)・・・先ほどまで洞窟に身を隠して自分自身の救いを嘆願していたダビデの目が、次第に諸国の民、国々の方へと広がり、さらに天に満ち溢れる神の栄光に目が向けられるように変えられることが分かります。神の家族の皆さん、真っ暗な洞窟の中にとどまっていたあなたの目が、世界の歴史を支配され、天と地、宇宙万物のすべてを治めておられる神の栄光を見ることができれば、それはいかに素晴らしいことでしょうか。
小泉町教会の59年間の荒野や洞窟のような苦しい時を共に歩まれた神に感謝の讃美を歌いましょう。それから、暗闇に包まれている日本社会において、「目覚めよ、曙を呼び覚まそう」と互いに励まし合いつつ、決して揺れることのない確かな心と信仰による讃美の声を高く上げられる神の家族の群れでありますように・・・。ハレルヤ!

2019.7.21 小さな泉の恵み






~福岡から~  
早いもので、福岡に来てから6年目にはいり、また野方教会に遣わされて3度目の夏を迎えようとしています。小学2年生になった娘も、年中になった息子も元気に成長しています。私たち家族は福岡でも守られ感謝な毎日を過ごしています。ただ、私自身は今月に入ってすぐに体調を崩してしまい、病院で検査をすると重度の貧血だという診断が出ました。半年前から体調が良くない時もありましたが、大丈夫だろうと過信して特別病院にも行きませんでした。
 
今回このようなことになり、もっと自分の体を大切にしなければいけなかったと教えられました。貧血と診断されてしばらくは、歩くことも出来ず、頭痛などで食事すらもまともにとれずにいました。子どもたちのことが何も出来ないことが不安でしたが、夫が全て担ってくれたことがとても感謝でした。日常生活に戻るまで10日間はかかりましたが、野方教会の兄弟姉妹の皆様も心配して、体に良いものをたくさん差し入れして下さったり、お祈りによって支えられました。教会員の皆様と家族が全て助けてくれました。本当に感謝でした。この事を通して、今まで1度も病気にもなったことがありませんでしたが、健康というものほどありがたいものはないと感じました。まだ治療には時間がかかりますが、癒しのためにお祈りくだされば幸いです。今年の夏休みは日程の関係で富山に帰ることができませんが、また、皆さんにお会いできるのを心から楽しみにしております。
               M.Y姉




 



2019.7.14 牧師室便り


~創造者の懐での安息を~

「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。             
輝くあなたの威光をたたえます。」(詩編8:2)

 最近、周りを見渡すと、慢性疲労症候群を患っている方が多く見られます。まともに休むことができず、無理して走り続けた結果なのかもしれません。安息日を命じられた創造主の御心が心にしみるような近頃です。のんびりと余裕をもって過ごすことが、まるで罪を犯しているようになっている現代社会が、疲れている人々を崖に追いやっている状況です。アナログ時代とは違って、デジタル時代は時間を分・秒単位で割っていきることを要求します。また必要な情報がスマートフォンですぐ調べられ、すぐ手に入る時代を生きています。しかし、これでいいのか。科学文明が進めば、生活にも余裕が生じると夢見てきた人々の期待は裏切られてしまいました。実際、ほしい物はお金さえあればすぐ手に入る便利な時代を生きているけれど、本当の人生の豊かさを享受しているとは言えないでしょう。

子どもから大人に至るまで、テレビ、インターネット、スマートフォン、ゲーム機など表情や温かさを感じられないものに五感を任せ、“空、雲、星、山、花、風、鳥、昆虫、小川、土などに触れなくなってしまい、創造者が与えてくださったプレゼントを失っている現実です。それだけではない。人と人との間の対話の断絶、体と体で触れ合う情と喜怒哀楽といった感覚が失われつつあります。わが教会の子どもたちへのCSリーダーの皆さんの悩みもここにあるのです。

さて、本日私たちは立山の自然に囲まれた場所へと出かけます。ぜひ自然の中で創造者なる神の息吹に触れ、創造者の懐で安息を味わうことができますように・・・。子どもたちもゲーム機やスマートフォンから解放され、神が備えてくださった自然の遊び場に飛び込み、体も心も魂も新たにされるように、また大人の皆さんも自然の中で創造者に触れ、神の家族と交わる中で疲れた体と心、魂が癒されよみがえる恵みに与れるように祈りましょう。シャローム!

2019.7.14 本日の宣教

『オネシモをよろしく! 』   (フィレモンへの手紙816節) 

パウロはフィレモンへの短い手紙の最初に、かなり長い部分を挨拶と感謝の言葉に割いています。なぜならば、それだけこの後語り始めようとする内容が慎重の上にも慎重を期して伝えるべきものだったからです。その話の内容こそ、「オネシモ」という一人の逃亡奴隷のことでした。

「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。」(10節)…オネシモは主人のフィレモンから逃亡した奴隷でした。恐らく多くの金を盗んでローマに逃げたものと思われます。ところが、そのオネシモがどういう訳かローマの獄中のパウロに出会い、福音を信じ新しい人に変えられたのです。その後、オネシモはしばらくの間、パウロに仕えながら忠実な働き人に変わっていきます。パウロはオネシモがずっと共にいて働きに加わってほしかったのですが、法律上、許されないことでした。そこでパウロはフィレモンに手紙を書いているわけです。

「オネシモ」とは、もともと「有益な、役に立つ」という意味の名前です。しかし、以前はその名前とは裏腹に「無益な者」として生きていました。無益どころか、周りの人に多大な損害を負わせるような存在でした。しかしパウロはオネシモが名前通り「有益で役立つ者」に変わったことを宣言します。そしてぜひ、主の愛の中で彼を受け入れてほしいとフィレモンに訴えているのです。しかし、フィレモンにとってそれほど簡単に赦すことではなかったことでしょう。

「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。」(12節)…ここで「心」と訳している言葉はもともと「心臓」を指す言葉で、直訳すると、“私は彼をあなたのもとに送り帰しますが、彼は私の心臓です。”という意味になります。パウロは自分の心臓のようなオネシモを送り帰すので、私の心臓のように大切に迎え入れてほしいと願っているのです。また、「愛する兄弟として」(16)とは、キリストの内にある者は誰でも神の家族であることを指します。福音には、身分も、人種も、性別も、年齢も、この世におけるありとあらゆる差別という壁をすべて無くす力があります。オネシモは福音によって神の家族において「有益な人」に変えられました。

フィレモンへの手紙は私たちがオネシモであると教えます。また、フィレモンであると、それから、パウロであるべきであると教えますあなたは神の恵みによって罪赦され神の子とされ、聖霊によって変えられ、神の国の働き人に変えられたのだと。無益な人が有益な者、役に立つ者になれたのだと。また、私に損害をもたらした人、心に傷を負わせた人を赦し愛する神の家族として受け入れなさいと勧めます。最後に、神の懐に逃げてきた人を主イエスの愛で抱きしめ、愛されている者としてのアイデンティティーを教えてあげる働き人への招きを受けているのです。

  願わくは、小泉町教会共同体を通して、常に新しい神の家族が誕生し、一人一人が無益な者から有益な者、神の国に役立つ者として新しく変えられますように・・・。ハレルヤ!

2019.7.14 小さな泉の恵み


~ 祖父を偲びつつ ~
 
  先日の5日に私の祖父が亡くなり8日の月曜日に葬儀に行ってきました。まだ祖母が亡くなってから一年もたたないうちのことでした。果たしの祖父は祖母をとても大切にしており、病気で長らく入院していた祖母のもとに毎日のように足しげく会いに行っていました。毎日のように病院へ通っていたためか祖父は年をとっても健脚でしたが、祖母が亡くなってからは一気に衰えてしまい、祖母の後を追うような形でなくなってしました。祖母がいなくなってしまい、どこかさみしかったのかもしれません。今は祖父と祖母が天国で再会していることを祈るばかりです。
                       S.H兄

2019.7.7 牧師室便り

~ 十字架に感動する日々 ~
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(エレミヤ22:3

   先日、「楽しい聖書の学び」で2004年作、映画「パッション」を鑑賞しました。ヘブライ人への手紙を学んでいることもあって、偉大なる大祭司であり、神の小羊であるイエス・キリストの姿を、映画パッションを通してもう一度分かち合いたいという思いがあったからです。

「パッション」が上映されて、もう15年前も経っているし、数回見ていた私でしたが、イエス・キリストが受けられたむち打ちの刑のシーンや十字架を背負って歩くシーン、また十字架に釘付けにされるシーンのあまりの酷さに、再び心臓が縮むような思いに包まれました。一緒にご覧になっていた10人ほどの楽しい聖書の学びのメンバの皆さんは、これでもか、これでもかと描き出される十字架刑の厳しいシーンに衝撃を受け、涙を流していました。そして、主イエスの目がとどまるところに映し出される回想のシーンに大きな感動を覚えました。

映画を観終わって一週間が経った先週の学び会の時、お一人お一人の感想を分かち合う時をもちました。映画を始めて観た方も、2度観た方も同様に語られる言葉こそ、主イエスの十字架の恵みと愛の偉大さ、また自分自身の罪深さへの自覚でした。・・・“やっぱり十字架だ!十字架こそ私の信仰の原点であり、感動である!”

神の家族の皆さん、最近の生活の中で、疲れを覚えていませんか。無味乾燥な日々を過ごしていませんか。主イエスの十字架に目を向け、十字架の前に近づきましょう。十字架で流された主イエスの血潮と涙が、傷ついた御手が、あなたを癒し、慰め、人知を超えた感動と力をくださるはずです。主イエスの十字架を賛美します。

2019.7.7 本日の宣教

『愛する協力者フィレモンへ 』 (フィレモンへの手紙17節)

フィレモンへの手紙は、使徒パウロがコロサイ教会のリーダーの一人であったフィレモン個人に宛てた私的な手紙で、聖書の中で最も短い手紙の一つです。ですから、あまり扱われないのも現実です。しかし、フィレモンへの手紙には信仰共同体における大切な真理が記されています。とりわけ「フィレモンとオネシモ」といった二人の登場人物に示される教えから、現代のキリスト教会と教会員のあるべき姿を学ぶことができるのです。

使徒パウロはフィレモンに対して「わたしの愛する協力者」1節)であると呼んでいます。フィレモンは、コロサイ教会の中で、霊的リーダーシップだけでなく、経済的にも力をもっていた有力者でありました。それは「あなたの家にある教会へ」(2節)という言葉から分かります。彼は教会のために自分の家を提供していました。初代教会は多くの場合、経済力のある信徒の家で行われていて、フィレモンは、コロサイ教会の成長と神の国の宣教のために喜んで自分の家を提供し、惜しまず持ち物を献げる敬虔な信仰者だったのです。「教会」(ギ:エクレシア)は、「神によって呼び集められた者たちの集まり」という意味を持っていて、フィレモンは招かれた者として救われた恵みに生きる人でした。そのフィレモンに対してパウロは「愛する協力者」と呼んでいたのです。

続けてパウロは、フィレモンのゆえに「いつも」神に感謝していることを明かします。その感謝の内容こそ、「主イエスに対するフィレモンの信仰」と、「聖なる者たち一同(教会共同体)に対するフィレモンの愛」5節)のゆえでした。キリストに出会い救われた者は誰でも、神の国のための使命を受けています。神と隣人を愛し、十字架と復活の福音を宣べ伝え、貧しく弱い者たちを顧みることになるのです。そして神の家族の群れには恵みの僕として愛に励むことになるでしょう。

「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。」(7節)…ローマの牢に囚われていたパウロの耳に届いたフィレモンの愛と善き働きに関する知らせは、パウロにとって大きな喜びと慰めとなりました。その理由こそ、教会共同体の一人一人に目を配り、彼らの抱えていた問題のために執り成し、その一人一人を元気づけていく働き人でした。そう、牧会者にとって一人の信徒の信仰が日々成熟していき、その信徒がキリストの体なる教会を元気にしていくことを見ることほど喜ばしきことはありません。
神の家族の皆さん、わが群れの中にもぜひ、フィレモンのような神の家族から褒め言葉を受ける働き人が増えていきますように…。互いに称賛し合うことは主にある共同体をさらに強くしていく潤滑油のようなものです。“兄弟姉妹よ、あなたは私の喜びであり慰めです”と声をかけましょう。ハレルヤ!

2019.7.7 小さな泉の恵み


主の御名を賛美します。しばらく教会に来ることができませんでしたが、礼拝をしないと、だんだん、自分のことしか考えず、仕事をしても老人の方へしてあげているというような気持になり、家庭でも家族を思いやるという気持ちがうすれていく自分を実感するようになりました。
  これではダメだと思い、先生に夕礼拝をお願いすると快く迎えてくれました。牧師の仕事は定期的な休暇がなく疲れるかなと思い申し訳ない気持ちでしたが、先生のみ言葉と信徒に対する思いは、神様の愛で満ちているので、礼拝に始まり礼拝に終わる生活を続けることが大切なことだと思うようになりました。
また、残された人生の時間は、看護の仕事を通して神様からさせて頂いているという思いを大切にし、発展途上国へユニセフ国際飢餓対策機構などへ献金し、ワクチンや学校結節、自立支援のための教育に使っていただけるようにすることにしました。(私たちが100円ほしいものを我慢するとポリオワクチンが6本買えます。)
そうして生きることで家族への思いやりもでき、家族も神様の導きがありますようにと願っています。
                               I.C姉