イエス・キリストを通して神と和解したキリスト者は、もはや、外国人でも寄留者でもなく、契約の外にいる異邦人でもありません。神の敵だったものが、キリストを通して、聖なる民、神の家族となり、主に栄光を現わす生きた聖なる神殿となります。父なる神は聖霊の働きによって神の住まいとなった神殿であるキリスト者と教会の賛美と礼拝を受けられるのです。そしてイエス・キリストの十字架の福音は、神と人、人と人を一つにし、ユダヤ人と異邦人、文化や民族の違う人々を一つにし、真の平和と和解の奇跡を起こしてくださいます。そう、イエス・キリストの十字架が置かれるところに、分裂が一致に、争いが赦しに変わり、真の平和と和解が成し遂げられるのです。
キリストの教会は主の体であり、主は教会の頭であることを聖書は教えます。そして父なる神はすべての満ちあふれるものを余すところなく御子イエス・キリストの内に宿らせてくださいました。(19節)・・・そうです。キリストだけが私たちの心を満たすことができるのです。人生の空しさや、心の隙間を、この世のものでは満たすことができません。私たちをお造りになられた神ご自身、御子イエス・キリストだけが私たちを満たすことができ、ただ満たすだけでなく、満ちあふれ余るほどの神の愛と平和の祝福を注いでくださると約束してくださるのです。
そして、「父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をご自分と和解させられました(20節)。」神は、罪の中で滅びていくべき私たちを、ご自身と和解させられ、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物と和解できるものとしての使命を十字架の贖いを通して与えられます。
イエス・キリストの十字架によって生まれ変わった者は、福音に根を下ろし、自分自身のうちに働かれる聖霊の助けをいただき、御心にふさわしい実を実らせます。その最も素晴らしい実こそ、平和の実であって、和解の実であります。
イエス・キリストは平和そのものであって、真のピース・メーカーでした。ご自身がかけられた十字架の偉大なメッセージは神と人との和解であって、人と人同士の和解でした。その和解のために主イエスはご自身をプレゼントとして私たちに与えてくださったのです。
願わくは、平和を覚え、平和の実現を求めるこの季節、イエス・キリストをプレゼントとして受けた者として、同じく自分自身も他者との平和と和解のためのプレゼントとなりますように…。ハレルヤ!
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