2020年9月23日水曜日

2020.9.20 牧師室便り

 ~ 真の預言者が求められる時代 ~

「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)

 9月のリビングライフのテキストはエレミヤ書です。エレミヤは「涙の預言者」「孤独の預言者」と呼ばれている預言者です。彼が活動していた時期は南ユダ王国が滅亡に向かって一直線に進んでいた暗黒とも呼ばれていた時でした。神は、エレミヤという20歳前後の弱々しい若者を召され、神の言葉を伝える預言者とされました。もともとエレミヤは預言者という働きを望んだことも、求めたこともありませんでした。すべては神の選びによるものでした。しかもエレミヤが語るべき預言の内容は、南ユダ王国への神の裁きと滅亡というとても厳しいものでした。ですから、これらの預言のメッセージを告げるという使命は、若者エレミヤにとっては大きな重荷になっていたはずです。

しかし預言者は、「神から預けられた御言葉を人々に伝える人」です。自分勝手に神の言葉を省略したり、追加したりすることはできず、ただ神から預けられたすべてのことを加減なく、あるがままに宣べ伝えなければなりません。実に、当時の多くの偽預言者たちは神からの御言葉でなく、権力者や民が聞きたがる甘い言葉を語り続けていました。その結果、政治や宗教指導者たちをはじめ、民全体がご利益の信仰に陥り、ますます神から遠く離れてしまうことになったのです。真の神の言葉が聞こえなくなった時代、神は一人の若者を預言者として選ばれたのです。

今私たちの置かれている状況を考えるとエレミヤ時代とさほど違わない暗闇の時であると思います。新型コロナウイルスにすべての基盤が崩れ落ち、将来が見えなくなった時代、死への恐怖と不安に包まれている世界です。まさに政治的、経済的、社会的混乱は日に日に増している。このような時代に求められるのが預言者の言葉です。神の国の成就と終末に向けて進んでいく世界に向け、神の言葉を加減なく語る一人の預言者、また、民と共に泣き、共に笑うことができる預言者、神と人との間をつないでくれる一人の預言者を求められるのです。シャローム!

 

2020.9.20 本日の宣教

 『 主の笑いと怒り、そして幸い 』(詩編2:112)

詩編2編の詩人は、世界の愚かな王たちをご覧になりながらあざ笑われる神を描いています。また詩人は目に見える地上の世界がすべてでなく、むしろ神が統治される神の国が存在することを教えてくれます。まさに私たちの生きている世界は弱肉強食の論理が支配する世界、力ある国が世界を支配するような王となる世界、経済力と軍事力の数字が真理の座を占めている世界です。

しかし、聖書が教える世界は、経済力や軍事力のような目に見える基準ではなく、信仰によって見える神の国を基準としているか否かが大切です。この世のどんな勢力も神の統治に挑戦することはできません。なぜならば、天地万物を造られた神が、今も世界を御心に従って治められるからです。しかし、世界の王たちは神の支配を認めず、自分たちのもっている力が世界を支配していると錯覚している現状です。

詩編2編はイスラエルの新しい王が立てられる時に朗読されていた詩でした。経験の浅い新しい王が立てられる度ごとに、周辺の国々は虎視眈々と狙っていました。そのことを詩人は、「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」(212と歌っているのです。そして詩人は、そのような高慢な国々の支配者たちに向かって、「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲る」(4節)と皮肉を歌にしているのです。そして詩人は、真の神自ら、国々の支配者たちに向けて、笑いを憤りと怒りに変え裁かれることを宣言されます。

そうです。世界のどの国も、どの勢力も神の支配と統治に逆らうことはできません。神は御心のままにメシア、真の王を立てられたように、今もなお神の子どもたちと神の教会を立てられ、ご計画を成し遂げられます。たとえ神の計画を妨げようとするどのような勢力に対しても、あざ笑われ、憤りと怒りをもって裁かれることを宣言されるのです。その御言葉を信頼しつつ、私たちはただこの世の王や支配者たちに心を奪われるのでなく、真の支配者であり統治者なる神を見上げ、神の国がいかに素晴らしく建てられていくかを信頼し希望を抱かなければなりません。

神は、神の時に御子イエス・キリストを通して人類を救われ、またサタンと罪を裁かれる計画を立てられました。そして、主なる神は御子との交わりを通して、真の平和と安息から来る幸いを得るようにと勧めておられます。「子に口づけせよ。…いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」(12)・・・そうです。私たちの幸いは、御子イエス・キリストとの交わりにのみあることを覚えましょう。御子に日々口づけするような親密な交わりに生きるキリスト者に主は勝利を与えられ、神の栄光を現されるのです。反対に、地上の国々の支配者たちに目と心を奪われ右往左往してしまっては、平安も幸いも得ることはできません。

日々主を避けどころとし、主に口づけしながら、神の前に謙遜に、また、置かれた場所で誠実を尽くす人を主は喜ばれ、その人を通して神の御国を成し遂げて行かれるのです。シャローム!

2020.9.20 小さな泉の恵み

 

 突然、県知事選挙に関わるようになってしまいました。富山YMCA19994月に赴任して以来、共にベトナムプロジェクトに取り組んできた富山YMCA常議員の川渕映子さんが出馬を決意されました。

 正直に言うと初め川渕さんの出馬を応援して欲しいとある方から相談された時に、川渕さんのご健康や知事になった時の不自由さなどを思い反対しました。一晩、朝まで眠ることのできない夜を過ごし真剣に考えました。明け方までは如何に川渕さんの決意を翻すことができるか。明け方4時頃布団の上で正座して祈りながら考えました。

 YMCAのキャンプで生きる楽しさを知り、保育士として横浜の水上学園という養護学校で3年間働き、ベトナム戦争末期の1994年にYMCA難民支援事業で戦中にベトナムに行った川渕さんの人生を思いました。川渕さんは、決断を変えることはないだろうと応援することを決心しました。この20年間川渕さんは絶えず貧困や災害により困難にある人々に国内だけではなくアジア各地に支援の手を差し伸べてこられました。

 今回も感染症や高齢化、そして、貧困で苦悩している人々の声に応えるために出馬を決心されました。主は「行って、あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ1038)と隣人愛を説きます。誰を選択するかは自由です。1025日まで知恵を出し、多くの人々に声をかけ、特に、若い人々が自ら情報を集め、自分で考え、決断し投票に行くことを訴えていきたいと思います。

                                                      S.S 兄

2020.9.13 牧師室便り

 ~気を落とさず、絶えず祈ろう~

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ181

世界中がコロナ疲れに沈んでいます。日本の国も例外ではなく、周りに目を向けると意欲を失い、疲れ切っている人々の姿が見えます。多くの人が、“コロナブル-(コロナ鬱)”と呼ばれている精神症状を経験していると言われています。周りとの断絶に伴う孤独、自分も知らないうちに無気力に陥り、明日への希望も失ってしまっている現実。

クリスチャンの中にも、持病のため礼拝に集うことさえできない方もいて、以前のような親しい交わりも、手をつないで祈る執り成しも、食卓を共にする楽しさももてなくなってしまいました。そのような中で、賛美したり祈ったりする気にならず、なかなか聖書の方に手が行かず、辛うじてつながっていた人々との関わりを避けたくなっているような現象を経験している方もいるでしょう。神の家族の皆さんはいかがでしょうか。・・・

未曾有のコロナ時代がいつまで続くか予測できない現実を前にして、私たちキリスト者も気を落としてしまいそうな状況が次々とやってきています。しかし、ぜひ覚えておきましょう。父なる神は私たちが気を落としてしまわないように絶えず祈りの道を備えてくださっていること、そして時に適って助け最善をプレゼントとして約束してくださるということを!…むしろ今こそ、私たちの周りのコロナブルーの厳しい状況に追い込まれている人々に助けの手を差し伸べ、  周りの疲れ果ててしまっている人々のために手を合わせ執り成す時であるということを確かめたいものです。シャローム!

2020.9.13 本日の宣教

 『私たちの信仰告白』~裁きの主が来られる②~(マタイによる福音書253146)

私たちは先週、裁きの主が来られるという使徒信条の告白をもって御心を分かち合いました。そして今日は裁きの主が来られるという告白のもう一つの側面を考えてみたいと思います。先週はとりわけ主の再臨を待ち望む者が歩むべき信仰姿勢こそ、「主に喜ばれる者でありたい」ということであることを分かち合いました。そして、本日の箇所ではイエス・キリストご自身から、再臨の時に、裁きの座に立つべき人々が備えるべきことについて教えてくださいます。

主イエスが再び来られる時、栄光の座に着かれて裁判官として、すべての国の民を羊と山羊に分け、羊は右に、山羊は左に置かれ、裁かれると記されています。それでは、裁判官の裁判の基準を見てみましょう。まず、右側に立っている人たちに、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(253536そして、彼らが愛を施した相手が、主イエスであったことを明かします。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(2540

  ここには、裁きの主が来られ、一人一人を裁かれる基準となるのが、「最も小さい者への施し」であることが示されています。とりわけその裁きの基準となっているのが、私たちの極めて一般的な生活であるということに気づきます。私たちへの神の裁きの基準は、特別な状況や命にかかわるような大きくて深刻なことを指しているわけではなく、日常生活における普段の人間関係であるというのです。その中でも、最も小さい者の一人への関わりがポイントとなっています。「飢えている人、渇いている人、旅の途中に宿を探している人、裸の人、病気の人、牢にいる人」など、日常生活の中で出会う人、とりわけ弱さを覚える小さい一人(最も小さい者)に対して、あなたはどのような関わりをもってきたのか?その小さい一人に主イエスの愛による最善を尽くしたのか?ということによって再臨の裁きが決まるという教えなのです。しかも、この箇所で強調されていることは、「すべての人が最も小さい者に出会うように」主イエスが備えておられているということです。すなわち最も小さい者との出会いによって、私たちの信仰が試されるということにもなるのです。

 私たちは「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」という信仰の上に立って過ごしてきました。しかし、本日の主イエスの言葉は心と口の信仰ではなく、行いに重みを置いているように見えます。すなわち、私たちの心と口で告白された信仰は、主イエスへの愛を最も小さい者一人に実践することで完成するという意味にもなるのです。そのような姿勢で小さな一人一人と関わっていくのであれば、私たちのすべての人への人間関係は空しくなくなり、人を蔑んだりすることもなくなるでしょう。常に“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く”という感動ある関わり方が、主に喜ばれる者としての終末を生きるキリスト者のあるべき姿となるでしょう。そうです。私たちが先に救われたのも、私たちから主イエスを見出せた人々のお陰であることを忘れてはなりません。そして、あなたもぜひ周りの小さな一人から主イエスを見出すことができますように、そして勇気を出して最も小さい者の一人に手を差し伸べられますように…。ハレルヤ!

2020.9.6 牧師室便り

 

~健康診断を定期的に~

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(Ⅲヨハネの手紙2節)

 先週月曜日の朝、韓国の家族から連絡が届きました。“母が腹痛で救急車に運ばれた”とのことでした。実は、ここ一か月間ほど、まともな食事もできない状態が続き、急激に痩せているとの話を面倒を見ている兄から聞いていたところでした。救急処置を受けてから精密検査をして分かったことは、母が大腸癌末期で手術はできないし、このまま余命は一年ほどでしょう、との診断でした。あまりにも突然の知らせだったので、慌てながら祈り続けた一週間でした。

 母の年は82歳、波瀾万丈な人生の中でしたが、若い時にイエス様に出会い、信仰を貫き通してきまいた。ここ30年間は、毎日聖書の黙想と筆写を欠かさず、早天の祈りを楽しむ人生でした。また初めて出会う人にも親しく声をかけ伝道をし、周りの人々に気を配っていた性格の持ち主です。早くコロナが収まり、自由に帰国できることを祈りつつ、母との再会の日を待ちたいと思います。ぜひ、神の家族の祈りに覚えてくだされば幸いです。

 ここで一つ、神の家族にお願いしたいことがあります。ぜひ一年一度でいいので、健康診断を受けてくださいね。実は、母は今までまともな健康診断を受けたことがありませんでした。私が帰国した際、何度も健康診断を勧めましたが、病院嫌いだった母でしたので、なかなか進んで健康診断を受けることはしなかったわけです。今回医者からも、“手遅れです。こんなに悪くなるまで気づかなかったのでしょうか”と言われたそうです。本当に親不孝の息子です!

 神の家族の皆さん、とりわけ40歳以上の神の家族はぜひ健康診断を受けましょうね。後で悔やむことのないように、神から授かった体ですから、健康な体を保ちつつ、主の栄光のために励んでまいりましょう。同時に、聖霊による霊的な健康診断を受けることも忘れないように心がけましょうね。シャローム!

 

2020.9.6 本日の宣教

 『私たちの信仰告白』~裁きの主が来られる~ (Ⅱコリント5:810)

 使徒信条は父なる神、御子主イエス・キリスト、聖霊なる神についての信仰告白です。そして本日は、第二項御子主イエス・キリストについての告白の締めくくりとなります。

今まで私たちは、イエス様の受肉、苦難、十字架の死と復活、昇天、そして神の右に座しておられるということまで学びました。そして本日、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」というイエス・キリストの再臨と裁きの告白について分かち合いたいと願います。

まず、「そこから」とはどこを指すのでしょうか。言うまでもなく、「天の御国、全能なる神の右」から!という意味です。主イエスは天と地を造られた神として、もともと天の御国、父なる神の右におられました。そこから、父なる神の御計画に従い、人として地上に来られたのです。「そこから」初めてこの世に来られたのがクリスマス、「受肉」の出来事でした。そして、主イエスが約束された通り、再び「そこから」この地上に来られるのが「再臨」なのです。

それでは、主イエスはなぜ、再びこの地上に来られるのでしょうか。それこそ「裁くため」なのです。使徒信条は、主イエスに裁かれるべき対象は、「生きている者と死んでいる者」だと宣言します。すなわち、この世界のすべての人々、それは今生きている人に限らず、すでに死んで葬られた人々までも裁きの対象となるということです。

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(Ⅱコリント5:10

主イエスが初めてこの世に来られた時には、裁きのためでなく「救いのために」来られたと聖書は教えます。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)・・・しかし、再び来られる再臨の時には、神の正義によって裁かれることが約束されているのです。

主イエスは私たち人類の罪の代価としてご自分が十字架刑という、最も重い刑罰を受けられ、命を捨ててくださいました。すなわち、主イエスの十字架は究極の愛と究極の正義が成就された印となりました。

それでは、私たちはどうすれば主イエスの再臨に備えられるでしょうか。その答えは本日与えられている御言葉にあります。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(10節)  

いつ、どこで、何をしていてもいつも「主に喜ばれる者でありたい」という願いをもって、御言葉に従順に生きる姿こそ、主の再臨を迎える人の姿なのです。いつも私たちの唇から、初代教会の信徒たちのように、「アーメン、マラナ・タ、主イエスよ、来てください」という告白が離れないようにしましょう。ハレルヤ!

2020年9月22日火曜日

2020.8.30 牧師室便り

 ~「ニューノーマル」(new normal)の時代 ~

「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(Ⅰペトロの手紙412

皆さん、「ニューノーマル」(new normal)という言葉を聞かれたことがありますか。「新しい日常」と訳される言葉ですが、これまで「常識」であったものが常識でなくなること、同時に今まで「非常識」と思われていたことが、「常識」に変わるという時代の変化を表す意味として使われています。そして、今私たちが直面しているのが「ニューノーマルの時代なのです。

もともと、「ニューノーマル」という言葉は、リーマンショックがあった200708年の世界金融危機のときに、ビジネスや経済について使われるようになった言葉でしたが、すでに、リーマンショックとは比べることができないほどの衝撃をもたらしたのがコロナであって、コロナ後の時代こそ、誰もがニューノーマル「新しい日常」を行かざるを得なくなりました。

これからも「3密」を避けるため、常に人と距離を取り、どんな時もマスクを外せず、また在宅勤務、オンライン授業、オンライン飲み会、オンライン診療などなど、…とりわけ親しい家族的雰囲気を喜んでいた私たち教会としては、握手、触れ合い、食事などが禁止され、オンライン会議、オンライン礼拝が日常となっていくでしょう。コロナ初期にはほとんどの人が、いつかはもとの状態に戻れると当然のごとく思い、現在も指折り待っていることでしょう。ところが、多くの科学者からは、これらのニューノーマルが、ずっと続くだろうと言われているのも事実です。コロナだけでなく、地球温暖化による自然災害も、日常として人類を脅かしてくることも予想されます。まさに、聖書の言葉のように、“思いがけないことが生じるかのような”ことで、驚き怪しんではならない時代に入っていると思います。神の家族の皆さん、ぜひ聖書の言葉に従い、時代を分別し、神の御心をわきまえてニューノーマル時代を歩むことです。シャローム!

2020.8.30 本日の宣教

 『 私たちの信仰告白 』~神の右におられる主イエス~                

          (ローマの信徒への手紙83134)

私たちのために十字架の上で苦しみを受け死なれた主イエスは、陰府にまでくだって行かれ、その三日目に墓より復活されました。そして復活された主イエスは40日間弟子たちと共に過ごされながら神の国について教えられた後、弟子たちが見守る中、雲に乗って天に昇って行かれたことを前回まで分かち合いました。…そして本日は、天に昇られたキリストが、父なる神の右に座しておられるという信仰告白について、分かち合いたいと思います。新約聖書の中には、主イエス・キリストが天に昇られてから、天の父の右に座しておられるということについて、たくさんの個所で記していますし、そのことが、初代教会の大切な信仰告白とされていたことが分かります。…

聖書の中で、「右」とは、「栄光、権威、力」を表わす時によく使われています。また、「座す」とは、ヘブライ的意味で、“その場所を支配し所有する”という表現として用いられています。すなわち、「主イエスが神の右に座しておられる」とは、その場所を、主イエスが栄光と権威と力をもって、支配しておられることを意味するのです。キリスト賛歌にもあるように、主イエスは、父なる神に任せられた十字架と復活の働きを成し遂げられた後、最高の座に挙げられ、すべてを支配され、栄光を受け取っておられるのです。

その中でも、本日の御言葉の中で、使徒パウロは、主イエスが、神の右に座しておられ、栄光のうちに世界を支配しておられることに止まらず、私たち神の子どもたちのために執り成され、助けておられることを教えているのです。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(34節)

…私たちが生きている今の世界は、私たちの思いや期待の通りには流れていかない厳しい現実にあります。しかし主イエスは父なる神の右に座して、時間と空間を越え、世界中のキリスト者一人一人のために執り成し助けておられます。主イエスは、あなたと私を愛するゆえ、十字架の上で罪人たちの代わりに苦しみを受け、命までも惜しまず与えてくださった。その命を捨てる愛をもって、今も主イエスは神の右に座し、私たち一人一人のために執り成してくださり、時宜にかなった助けを与えてくださるのです。この御言葉の確かな約束と事実、これほど素晴らしい慰めのメッセージがあるでしょうか。

新型コロナウイルス、地球温暖化による自然災害、経済的困難など、様々な苦しみに立たされている私たちですが、主イエスは天の御国の神の右に座られ、今私たちを取り囲んでいる状況、そこから経験している苦しみと痛み悲しみ、また、心配と不安などをすべて抱きしめられながら、執り成してくださっています。たとえ、私たちが主イエス様を忘れてしまっても、主イエスは決して忘れられず、神の子どもたちを助け、時宜にかなった恵みで満たされることでしょう。ぜひ、声高らかに告白しましょう。「主イエスは、全能の父なる神の右に座しておられ、私たちのために執り成してくださいます」と。ハレルヤ! 

      

                             

 

 

2020.8.30 小さな泉の恵み

前回この欄の執筆は田植えの季節だったと、思い出して…。その間コロナの緊急事態宣言等で外出自粛。私は暫く教会の礼拝を家でユーチューブでの礼拝、世の中は便利なものだと思ったなんとなく物足りない感じ。 

我が町内も逢う人ごとにコロナの話題ばかり。月日の過ぎるのも早いこと、もう稲穂の刈り入れの時季となりました。

その間地元の老人会、農協関係、ボランティア等の行事並に会合は中止。小学校時代のクラス会も延期。いつ開催されるかわらないこと。なんとも言うことのないこの毎日農作業もついにいい加減になり身に入らなくなりました。村の中シルバー車にのって,ぐるぐる廻って、半分遊びの様子。今までに何の感じも無かった村の風景や建物等が、以前とはまた違った感じしました。

そうして、今迄気がつかなかった私の我が村に住んで居ながらの村の良さを見なおしました。

私が嫁いだ頃の我が僅か13戸のちいさな山村でしたが、現在は時代の流れで集合住宅が出来、75戸の町内に発展。本当に時代の流れの移り変わりだと、神様に感謝しております。しかし教会の集会に出席するのには、以前とは変わらずもよりの駅までは遠く、自動車の利用出来ない私には、苦痛ですが、シルバー車を運転しながら、周囲の風景を見ながら山野草を、摘みながら今日も駅へ急ぎます。

こうして野の草花をみていると、季節の移り行くのが、身近に感じます。

                               A.M姉

2020.8.23 牧師室便り

~ ひとりの兄弟の入会を喜ぶ ~

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

・・・喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:1015

新型コロナウイルスによって何もかも変わってしまった世界です。これからまたどのような変化があるか予測することすらできません。そんな中、私に一つの心配事があります。それは、コロナによって韓国に帰れないことです。実は、私の親も、義理の母も90歳前後の年寄りで、最近急激に体力が落ちている様子を聞いています。本来ならば、夏の休暇を利用して帰国する予定でしたが、コロナの関係で、帰国も、また再入国もほぼ不可能な状態となっています。ただ一つの願いとすれば、コロナがある程度収束し、交通便だけでも自由になることを祈るのみ。…ぜひ、牧師夫婦の韓国の親たちの健康が再会できる日まで守られるようにとお祈りくださいね。

本日、G兄の入会式を執り行い、わが群れの新たなメンバーとして迎え入れます。はるばるインドネシアの地から日本の富山の地に導かれ、昨年9月からわが教会の礼拝に出席しています。最初の日から兄弟は、礼拝を休むことなく、かなり遠い距離を自転車で通っています。牧師としては、いつも素敵な笑顔で礼拝に集い奉仕をするG兄の姿に励まされてきた日々です。兄弟との交わりの中で忘れられない出来事とすれば、昨年11月、G兄のインドネシアのお父様が突然召天されるということでした。あまりにも突然の出来事だったため、兄弟は帰国することができず、インターネット映像でインドネシアの母教会の葬儀に加わり、お父様との別れの時を過ごしていたことを覚えています。その時、泣きながらG兄は「大丈夫です。お父さんはイエス様と共に天国にいますから!」と語ってくれたことを忘れられません。

願わくは、G兄にとって小泉町教会が日本における家となり、家族となりますように。コロナ時代、神の家族一人一人が共に喜び、共に泣く神の国の素晴らしい交わりを味わいつつ歩みたいものです。シャローム!

2020.8.23 本日の宣教

『 私たちの信仰告白 』~神の右におられるイエス様~(ローマの信徒への手紙83134)

私たちのために十字架の上で苦しみを受け死なれた主イエスは、陰府にまでくだって行かれ、その三日目に墓より復活されました。そして復活された主イエスは40日間弟子たちと共に過ごされながら神の国について教えられた後、弟子たちが見守る中、雲に乗って天に昇って行かれたことを前回まで分かち合いました。…そして本日は、天に昇られたキリストが父なる神の右に座しておられるという信仰告白について分かち合いたいと思います。新約聖書の中には主イエス・キリストが天に昇られてから、天の父の右に座しておられるということについて、たくさんの個所で記していますし、そのことが初代教会の大切な信仰告白とされていたことが分かります。…

聖書の中で、「右」とは、「栄光、権威、力」を表わす時によく使われています。また、「座す」とはヘブライ的意味で、“その場所を支配し所有する”という表現として用いられています。すなわち、「主イエスが神の右に座しておられる」とは、その場所を、主イエスが栄光と権威と力をもって支配しておられることを意味するのです。キリスト賛歌にもあるように、主イエスは父なる神に任せられた十字架と復活の働きを成し遂げられた後、最高の座に挙げられ、すべてを支配され、栄光を受け取っておられるのです。

その中でも、本日の御言葉の中で、使徒パウロは、主イエスが、神の右に座しておられ、栄光のうちに世界を支配しておられることに止まらず、私たち神の子どもたちのために執り成され、助けておられることを教えているのです。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(34節)

…私たちが生きている今の世界は、私たちの思いや期待の通りには流れていかない厳しい現実にあります。しかし主イエスは父なる神の右に座して、時間と空間を越え、世界中のキリスト者一人一人のために執り成し助けておられます。主イエスは、あなたと私を愛するゆえ、十字架の上で罪人たちの代わりに苦しみを受け、命までも惜しまず与えてくださった。その命を捨てる愛をもって、今も主イエスは神の右に座し、私たち一人一人のために執り成してくださり、時宜にかなった助けを与えてくださるのです。この御言葉の確かな約束と事実、これほど素晴らしい慰めのメッセージがあるでしょうか。

新型コロナウイルス、地球温暖化による自然災害、経済的困難など、様々な苦しみに立たされている私たちですが、主イエスは、天の御国の神の右に座られ、今私たちを取り囲んでいる状況、そこから経験している苦しみと痛み、悲しみ、また、心配と不安などをすべて抱きしめられながら執り成してくださっています。たとえ、私たちが主イエス様を忘れてしまっても、主イエスは決して忘れられず、神の子どもたちを助け、時宜にかなった恵みで満たされることでしょう。ぜひ、声高らかに告白しましょう。「主イエスは、全能の父なる神の右に座しておられ、私たちのために執り成してくださいます」と。ハレルヤ!

                             

2020.8.23 小さな泉の恵み

小泉町教会の皆様お元気ですか?いつも私たち家族のために、お祈りしていただいてありがとうございます。今年は皆さんの中にもコロナウイルスの影響により、帰省ができないなど、夏休みの予定を変更せざるを得なかった人もおられるのではないでしょうか。

私たちも今年の夏は富山に帰省し、小泉町教会の愛するみなさんにお会いしたいと思い楽しみにしていました。ですが、コロナウイルスの影響により帰省を諦めることにしました。本当に残念です。富山へ帰省も出来ないとなり、夏休みをどのように過ごすか悩みました。何よりこのような時だからこそ子供たちに夏休みの思い出を作ってあげたいと思い、色々な場所へ連れて行こうと考えましたが、感染リスクや連日の猛暑もあり、これらも諦めました。そして私たちはゆっくりと夏休みを過ごすことにしたのです。家の中で、映画を観たり、トランプやUNOをしたり、また家の周りではプールや花火、バーベキューをして楽しみました。以外にもUNOが結構楽しかったです。私たちにとってゆっくりとした夏休みとなり、文字通り本当の休息の時を過ごせたように思います。子供たちにとっては物足りなさもあったと思いますが、家族で毎日一緒に過ごせるということは特別なものだったようです。

神さまは、私たちにいつもその時に必要なことを与えてくださるお方です。今回はこの休暇を通して心も体も休ませる安息の恵みをくださいました。神さまの愛に感謝します。きっと来年の夏こそは帰省出来るよう、神さまが備えてくださるように祈り、愛するみなさんにお会いする日を楽しみにしています!ハレルヤ!

                                M.Y姉

2020.8.16 牧師室便り

~ 被造物の叫び声を聞いていますか  ~

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」 (ローマの信徒への手紙822

コロナの終息の日は来るでしょうか。世界的流行は衰えを知らず、今もなお続いていてさらに勢いを増しているような気がしてなりません。そんな中、世界中の人々の望みであるワクチン開発の知らせが、イギリスから、またロシアから、アメリカ、中国から届いていますが、忙しさのあまりきちんと段階を踏んでいないため、ワクチンがもたらす効果やそれによる副作用も証明できず、不安が広がるのも事実です。たとえ正常なワクチンが開発されたとしても、力ある国々による独占と商売のための道具として使われることも危惧されています。

ところが、今の世界はコロナのみならず、地球温暖化による気候変動が頻繁に起きています。世界各地で大雨による被害が起きたり、また、歴史的猛暑に見舞われたりしている現状です。今まで世界の気候を保ってくれた北極と南極の氷河が、地球温暖化の影響で消えつつあり、それに伴う海水面が上昇してしまい、多くの命を奪ってしまうという悪循環が繰り広げられています。もう少しで、地球上の氷河は跡形もなくなってしまうでしょう。

それだけではない。人類が捨ててしまったゴミは、自然界を破壊し、生き物を死に至らせています。人間を除くすべての被造物は、自然の法則と秩序に従って生きているのに、唯一人間だけが世界の秩序に逆らい、欲望のため自然界を無慈悲に破壊してしまっていて、世界の終末を早めているという警告の声を聞きながらも、目の前にあるものを手に入れようと、欲張り続ける愚かな存在なのです。

今こそ自然界のうめきと苦しい叫び声に耳を傾ける時、自然界を守るために、もう一度手と手をつなぐべき時です。神に委ねられた管理者としての使命に立ち帰り、大自然の中で賛美の声を上げる礼拝者の姿を回復すべき時です。しかし、もう遅すぎたかもしれません。“神の斧が、既に木の根元に置かれているから。”…主よ、憐れみたまえ。

2020.8.16 本日の宣教

 『 私たちの賛美、神の歌 』  ゼファニヤ3:16~17)

“後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。                           

「主を賛美するために民は創造された。」”(詩編102:19


 私たち人間を創造された神様は聖書の御言葉を通して私たちを造られた目的をはっきりと示しておられます。「主を賛美するために創造された」と。この言葉はすべて造られた人に求められる姿です。ですから、わたしたちの賛美、わたしたちの歌は上手下手関係なく、地位の上下、強い弱い、貧富の差、人種、国、性別なども関係ありません。また、私たちの賛美は嬉しい時だけでなく、ひとり寂しい時、悲しい涙を流す時、心身が病んでいる時にもできるものであって、これからも賛美は、私たちの人生に美しい花を咲かせてくれるはずです。

そこで、本日のゼファニアは私たちに驚くべきメッセージを語ってくれます。それは、私たち人間側だけが歌をもって神に賛美をささげるのではなく、私たちの創造者なる神ご自身もあなたと私のゆえに歌をもって楽しまれることを教えているのです。

その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニヤ書3:1617

ここで「シオン」とは神が選ばれた民の名前です。私たちキリスト者の名前でもあるでしょう。この世における様々な誘惑や試練に遭い恐れ、つまずき、疲れ果ててしまい、手を垂れてしまっているような姿の神の民の姿があります。しかし、そのような誘惑や試練に遭いながらも神の聖なる民としてのアイデンティティーをもって、神のみに希望を置き、神に従おうと決心する神の民に向けられている神からのメッセージを聞いてください。

「シオンよ、恐れるな!力なく手を垂れるな。」・・・なぜ恐れなくていいのでしょうか。まず、主なる神がシオンのただ中におられるからです。わたしたちがよく耳にしている「インマヌエル」の約束、「主がわれらと共におられる」という約束がここでもなされているのです。続けて、神が勇士となってシオンの代わりに戦われ勝利を与えてくださるから恐れることはないと言われます。私たちが神の民であるのであれば、私たちの日々の戦い、日々の歩みは私一人ぼっちの歩み、一人だけの戦いではないというのです。私たちの戦いは真の勇士となってくださる神が勝利を与えてくださるのだ!という約束なのです。

そして何より素晴らしい言葉が続きます。神御自ら、シオン、すなわちあなたと私のゆえに喜びの歌をもって楽しまれるという、驚くべき言葉が約束されているのです。神が喜び楽しんでおられる理由こそ、「お前(あなた)のゆえに」です。他の理由はありません。私たちの生きた賛美と、私たちのゆえに喜び楽しまれる神様の歌が一つとされるという驚くべき約束を心に刻みつつ歩みつづける小泉町教会の神の家族でありますように…。ハレルヤ!

 

2020.8.16 小さな泉の恵み

~賛美する日々~

生後6週目に入った赤ちゃんが、医療ミスによって視力を失ってしまいました。12歳の時には愛する父親が世を去りました。貧しい生活でしたが、8歳の頃から詩を書くようになった彼女は、永遠の同伴者となる主イエスに出会います。その後、盲学校を卒業した彼女は、教師になりました。彼女にとって、詩を書くことは楽しく幸せなことでした。そして、95歳で生涯を終えるまでの日々、9千篇をも超える賛美の詩歌を書きました。その中には、今でもよく歌われている賛美が多くあります。「ああ嬉しわが身も 主のものとなりけり うき世だにさながら あまつ世の心地す 歌わでやあるべき 救われし身の幸 たたえでやあるべき み救いのかしこさ」(新生544)彼女の名はファニー・ジェイン・クロスビーです。

 もう一人の女性がいます。彼女は、生まれたとき、医者のミスで脳を損傷して重症の脳性麻痺となり、深い絶望と孤独、そして心の傷を書明けながら幼少年期と青年期を送りました。ひとりでいるときに彼女にできることは、神に叫ぶことしかありませんでした。ある日、祈りの中で神の御声を聞き、それを書き留めました。「私に金はないが 私には知識もないが 私には健康もないが世にはないものがある。…私は他の人に見えないものを見、他の人に聞こえない御声を聞き、他の人が受けていない愛を受け、私は他の人が知らないこと悟った。…公平なる神様、私は他の人にあるものがないけれど、公平なる神様私に他の人にないものを下さった。」…その後、彼女も数多くの詩を書き、神をほめたたえました。彼女の名は脳性麻痺詩人ソン・ミョンヒです。

 あなたは賛美していますか。いついかなる時でも神を賛美できる神の家族でありますように…。

                                編集係

2020年9月21日月曜日

2020.8.9 小さな泉の恵み

毎朝、わかば農園で作った野菜を近くのスーパーマーケットと道の駅に配達しています。店の一画に地物野菜のコーナーがあり、農家が自分で値付け、陳列し売上高に応じて手数料を支払います。陳列棚は限られているので、良い場所は競争です。早いもの勝ちが原則なのですが、後から来た農家さんに隅の方に移動されることも有ります。争う気は有りませんが、売れないのも困ります。そこで昼休みの時間にもう一度店に行って商品が売れて空いた棚にうちの野菜を列べ直しに行くようにしています。その際には他の農家の物もキレイに列べ直したりもします。神様の力添えによって、店にも評価を得てよく売れるようになってきています。常に期待される以上の成果をと思って仕事をしていますが、その目的が福音伝道につながるもので無いならば虚しいとも考えています。私の生活は実に様々な皆様に支えられています。一人でも多くの方が救いを得る為に、御言葉をお伝えできますように。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:14)

                         S.Y兄

2020.8.2 牧師室便り

~弱さが誇れますか~

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9

いつも神の家族の皆さんの祈りと支えをありがとうございます。              

先週はお騒がせしました。皆さんに執り成しを求めた通り、首に出来た甲状腺炎症のため、中央病院で診察を受け、血液検査とエコー検査をしてもらいました。医者からは、“ガンではないと思うが、甲状腺の中に出血があり、それが溜まって腫れたのでしょう”とのことで、手術の有無やその他の詳しいことは次回の穿刺吸引細胞診(針で溜まっている部分の細胞を検査)で決まるとのことでした。その結果が820日に出るそうです。今しばらく落ち着かない日が続きますが、私もいつものように過ごしていきますので、神の家族の皆さんも、引き続きお祈りくださいね。

実は、牧師として自分の弱さを明かすことについていつも迷ってしまう私ですが、とりわけ病については神の家族に正直に分かち合い、祈っていただくことを心がけて過ごしてきました。それは、牧師だからと言って、偉そうに常に強がるということはかえって不信仰だと思ったからです。

使徒パウロは書簡の中で弱さを隠そうとしたことはありませんでした。むしろ“弱さを誇りましょう”と勧めていたことを知っています。このパウロの姿勢は、もともと主イエスから教えられたことだったはずです。主イエスは十字架を前にしたゲッセマネの園で、ご自身の弱さと悲しみを隠さず、弟子たちに分かち合われました。そして、今私たちにも同じく勧めておられるでしょう。「互いに自分の弱さを誇り合い、執り成し合いなさい」と。

願わくは、神の家族お一人お一人が、正直に互いの弱さを分かち合う中で、主の御手の慰めと力強い恵みに与りますように、とりわけ病の中にある方々のための執り成しを休むことなく続けましょう。シャローム!

2020.8.2 本日の宣教

『私たちの信仰告白②』  (ローマの信徒への手紙83134)

先週に続き、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という第二項、「子なる神」において、十字架の苦しみと贖いの死に続く、「陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。」という内容を分かち合いましょう。

使徒信条はキリストの十字架の苦難について、「十字架につけられ、死なれた」ということだけでなく、「葬られた」とまで告白しています。主イエスが罪人たちの贖いのために死なれ、墓の中に葬られたという事実、その中からキリスト教会は主イエス・キリストのへりくだりの極みを見出していたことでしょう。初代教会の信徒たちは、「キリストは、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:7-8)」と「キリスト賛歌」を歌いつつ、最も悲惨な死である十字架の死にまで御自身を従わせ、ついには墓の中に葬られるまで下られたという、子なる神のへりくだりの事実を告白せざるを得なかったことでしょう。このキリストの謙遜を教会とキリスト者は時代を超えて告白する中で、キリストの足跡に従うべきです。

続けて、使徒信条は「主は陰府にくだった」という事実を加えています。このことは、“主イエスは、私たち人間と全く同じ死を経験された。そして、人間が行かなければならなかった死後の世界まで主イエス自ら下られた。だから主イエスの愛と救いの恵みが届かない所はどこにもないのだ”という信仰の宣言でもあるでしょう。…天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にまでも、主イエスは下って行かれ、救いの手を差し伸べられるというキリストの愛への確信に満ちた告白なのです。…「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩編1398主イエスは、私たちの生きている地上だけでなく、罪人が死んで行くべき陰府にまで下ってくださった。また、神から最も離れたところである陰府にまで下られ伝道されるという、測り知れない愛の熱情を現しています。だから、「陰府にくだり」という告白によって、私たちは死をも恐れずにいられるのです。

そして、福音の中の福音である「キリストは、三日目に死者のうちから復活された」という告白です。キリストの死と復活は個別の出来事でなく一つのことです。まるでコインの両面のようなものです。すなわち、キリストの死と復活によって義と認められ、救われることにつながるのです。とりわけキリストの復活は人間の理解の領域でなく、信仰の領域となります。多くの人が十字架の死までは受け入れても、復活の出来事の前につまずいてしまうのも信仰と決断の領域だからです。まさしく初代教会の弟子たち(パウロを含む)をはじめ、多くの信徒たちの復活のキリストへの信仰のゆえに、キリスト教は世界宗教として広がるようになったのです。最初は弱虫でありましたが、復活のキリストに出会ったことによって、死をも恐れず、十字架と復活の福音を大胆に伝える証人に変えられていったのです。そうです。神が主イエスを死から復活させられたことを信じるなら、死んだも同然の自分にも神に新しい命を与えられ、全く新しい人生を歩めるようになるのです。あなたは復活の主に出会いましたか。…ハレルヤ!

2020.8.2 小さな泉の恵み

~突然~

私には3人の姉と1人の弟がいて、私以外は皆、神奈川などの首都圏に住んでいます。離れていても姉妹は仲が良く、「みんなで頑張って母さんの享年80歳まではとにかく元気でようね。」とよく話しています。 その5人の中で、上から2番目の一番働き者で頑張り屋の姉が、先日突然、くも膜下出血になり意識不明の危篤状態になったのです。ショックでした。

姉が倒れた知らせを受けた時、一番に頭に浮かんだのは、姉がこのまま目を覚まさず命を亡くしたら、あんなに頑張って他者のためにたゆまず働いていた姉は、どこに行ってしまうのだろうという事でした。 そして、次に浮かんだのは14年ほど前に同じ病気で倒れた登喜雄さんのこと。

そして、私の両親のことでした。父は58歳で母は80歳で、二人とも突然死でこの世を去っています。何も語ることなく、突然別れを告げられることは、本人はもとより周り者もにも、より深い悲しみを与えます。 幸いにも、姉は皆さんのお祈りのおかげで8日後に目を覚まし、命の主に助けて頂きました。感謝でいっぱいです。

 聖書には、見よ。わたしは盗人のように来る。…」 ヨハネの黙示録16:15(抜粋)

と記されています。終末の様相を呈しているような今、愛する大切な人々に、イエス様の十字架の贖いと復活の愛と希望、イエス様を信じることの喜びと恵みを伝えなければと強く思い、その力と勇気を与えてくださいと祈っています。ひろちゃん待っててね。  
                           S.Y姉

2020.7.26 牧師室便り

~声を上げて叫ぶ恵み~

「声をあげ、主に向かって叫び、声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。

御前にわたしの悩みを注ぎ出し、御前に苦しみを訴えよう。」(詩編14223

  神の家族の皆さんは神の前で声をあげて叫んだことがありますか。もちろん、元気のいい賛美を歌う時は声を上げて歌うことは当然でしょう。しかし、自分が置かれている状況がまるで洞窟に閉じ込められているような、命からがら洞窟に身を隠し、洞窟の暗闇に包まれて時を過ごす時にも皆さんは声を上げて神に叫ばれるでしょうか。

 詩編142編は、ダビデがサウル王に追われ洞窟に身を隠した時に書かれたとされています。実に厳しく希望の見えない洞窟の中で、ダビデにできることは神に“声を上げて叫ぶ”ことでした。ダビデの信仰の特徴は、神の前に常に素直であったということでしょう。彼は嬉しい時は喜びの賛美を、楽しい時は踊りを、感動に満ちた時は賛美の声を上げました。また、苦しい時は苦しい!と、寂しい時は寂しい!と、悔しい時は悔しい!と、叫びました。決して神の前で恰好をつけたり、力んだり、飾ったりすることはありませんでした。常にあるがままの親しい交わりを貫いた人でした。

 今こそ、私たちに求められることが神の前に「声を上げて叫ぶ」ことではないでしょうか。洞窟はこの世の人々の目から見たら、寂しいところ、嫌なところ、絶望のところと思われるかもしれませんが、神の人にとっては祈りの場所、賛美の場所、黙想の場所となるからです。新型コロナウイルスによってどこにも出かけられず、なかなか人に深く交わることも、旅をすることもできない。経済的にも、精神的にも疲弊してしまいそうな時が続いています。まさに洞窟に閉じ込められているような状況です。しかし、ダビデは私たちに勧めます。“声を上げて主に叫ぼう。御前に進み出て悩みを注ぎ出し、苦しみを訴えなさい。そうすれば、愛なる神の臨在に触れ、人知を超えた慰めと恵みに包まれるでしょう。”と。シャローム!

 

2020.7.26 本日の宣教

 『私たちの信仰告白』  (ローマの信徒への手紙10810)

新型コロナウイルスが世界的に流行し、一時休止していた礼拝再開後も、昨年から続けてきた使徒信条の学びはしばらくの間、休んでいました。しかし、いよいよ本日から使徒信条の残りの部分を分かち合う中で恵みを確かめたいと思います。

使徒信条は、初代教会が始まってから2000年の間、キリスト教会とキリスト者の中で告白され続けてきた信仰告白です。まさに、使徒信条はキリスト教の中心的メッセージを、短い文章で仕上げたものです。したがって、その言葉が何を意味しているか、神学的に何を指しているかなど、細かいことまでは記されていません。しかし、使徒信条では、短くても、決して揺るがすことのできない信仰の核心が一つ一つの言葉にまとめられていることを覚えましょう。それから、現代を生きる私たちは、「使徒信条」という信仰告白を、自分自身の信仰告白として、また教会共同体の信仰告白として噛み砕いて味わう必要があるのです。そうする中で、私たちはキリスト教が何を教え、また何を信じているのかを確かめることができるわけです。

そこで、本日は今まで分かち合ってきた使徒信条の内容を振り返り、これからの学びに備えたいと思います。

 まず、「わたしは信じます」(ラテン語でCredo)という言葉で使徒信条は始まっています。Credoという言葉は、 Cor(心臓、心)と do(する、献げる、固定する)という二つの言葉が合さった言葉です。すなわち、「Credo」という言葉は、“わたしの心臓を献げ、心を固定して生きる。”という意味になるのです。

 それでは、私たちが心臓を献げ、心を固定して生きるべき、信仰告白の内容はなんでしょうか。

使徒信条には三位一体と言う言葉はありませんが、しっかりと「父なる神、子なる神、聖霊なる神」の三位一体の神への告白という構造になっていることが分かります。

まず、「天地の造り主、全能の父なる神を信じます」という告白です。信仰の出発点こそ「創造主なる神」を信じることです。天と地、宇宙万物を造られた創造主なる神が、御姿にかたどって私をも造られ、全能の力をもってお父さんのように私を愛し見守ってくださるということを信じる信仰です。また、創造主なる神の創造の業は今もなお続けられていることを信じ、自分自身を献げていくことを心がけるべきです。

次に、「神のひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白です。天地を創造された創造主なる神が、罪の中で滅びるべき人類の罪を赦し救うために独り子を遣わされた、また御子を十字架にかけ死なせられた、そして墓に葬られた御子を死者の中から復活させられ、天に昇らせ、全能の父なる神の右に置かれたということを信じる信仰です。神は、その御子を信じて罪赦され神の子とされた人々を永遠の御国へ導き、永遠の命を与えると約束してくださっています。この信仰の上に立ち、今も希望と命に満ち生きているのです。ハレルヤ!

2020.7.26 小さな泉の恵み

 わたしは小学生の頃から、途中ブランクありながらも、30年くらい合唱を続けてきました。特にここ15年くらいはかなりハードに活動していましたが、今年の2月の初めにいろいろあり、しばらくお休みすることにしました。個人的な合唱休止でした。

 それが、なんと、2月末から新型コロナ感染症が流行し、全世界で合唱のみならずいろいろな音楽活動が休止するという想像もしなかった状況となりました。どんな有名な演奏家だろうと演奏会はすべてキャンセル。個人にどんなに素晴らしい演奏能力・技術があっても、人と人とが共に集まることが出来なければ、演奏会場に音楽は鳴り響かないということを思い知りました。

 7月から、感染防止に配慮しながらメンバー集まっての合唱練習が再開し、わたしもまた、合唱に復帰することにしました。マスクつけて、間隔をあけての練習ですが、メンバーと共に歌えることはやはり嬉しいことです。「息のあるものはこぞって 主をほめたたえよ。ハレルヤ」(詩編150:6) 小泉町教会の礼拝賛美も会堂に満ちはじめました。兄弟姉妹方の健康が守られつつ心から主を共に賛美できますように。 

                             S.M姉

2020.7.19 牧師室便り

~ Go To キャンペーンを考える ~

先日、海の向こうアメリカから届いたニュースによると、若者たちの間でコロナパーティーが開かれ、誰よりも早くコロナに感染した人に賞金を渡すという、どんでもない賭けをしていたところ、実際30歳の若者がコロナに感染し、結局死んでしまったという考えられないことが起こりました。その若者は死ぬ前に「私は本当に愚かなことをした」と後悔の言葉を残したそうです。…そして、7月に入って急激に増えている日本におけるコロナウイルス感染者のうち、78割を占めるのが、東京を中心とした首都圏の230代の若者であるそうです。彼らも先ほどのアメリカの若者たちのように、“自分たちはコロナにかかっても軽く済むし、たいしたことがないんだ!”と、まさに聖書が言っている通り、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15:32という誤った道を走っているのです。その結果、自分だけでなく、周りのお年寄りや両親、体の弱い人を危険にさらすようなことになってしまっているわけです。

主イエスが言われたことを覚えていますか。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタイ24:12という御言葉の成就を目の当たりにしています。愛が冷えていき、人の欲望と不法がはびこっている世界です。

今日本中が、政府が打ち出している「Go To キャンペーン」に混乱を極めています。首都圏を中心に日に日にコロナウイルス感染者が増え続けて、全国各地から反対の声をあげているのに、それらに目と耳を閉ざし、経済復興という目標だけを掲げている現実です。そこに欠けているのは「愛」であって、「人の命」です。日本の政治家たちと日本の民らが、究極の愛と命を優先するようになり、その中で新型コロナウイルスとの共存の知恵を得、また、大雨による災害に遭われ生きる希望を失っている地域の方々を励まし勇気づけるように執り成したいものです。シャローム!