『私たちの信仰告白』~裁きの主が来られる②~(マタイによる福音書25:31~46)
私たちは先週、裁きの主が来られるという使徒信条の告白をもって御心を分かち合いました。そして今日は裁きの主が来られるという告白のもう一つの側面を考えてみたいと思います。先週はとりわけ主の再臨を待ち望む者が歩むべき信仰姿勢こそ、「主に喜ばれる者でありたい」ということであることを分かち合いました。そして、本日の箇所ではイエス・キリストご自身から、再臨の時に、裁きの座に立つべき人々が備えるべきことについて教えてくださいます。
主イエスが再び来られる時、栄光の座に着かれて裁判官として、すべての国の民を羊と山羊に分け、羊は右に、山羊は左に置かれ、裁かれると記されています。それでは、裁判官の裁判の基準を見てみましょう。まず、右側に立っている人たちに、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(25:35~36)そして、彼らが愛を施した相手が、主イエスであったことを明かします。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(25:40)
ここには、裁きの主が来られ、一人一人を裁かれる基準となるのが、「最も小さい者への施し」であることが示されています。とりわけその裁きの基準となっているのが、私たちの極めて一般的な生活であるということに気づきます。私たちへの神の裁きの基準は、特別な状況や命にかかわるような大きくて深刻なことを指しているわけではなく、日常生活における普段の人間関係であるというのです。その中でも、最も小さい者の一人への関わりがポイントとなっています。「飢えている人、渇いている人、旅の途中に宿を探している人、裸の人、病気の人、牢にいる人」など、日常生活の中で出会う人、とりわけ弱さを覚える小さい一人(最も小さい者)に対して、あなたはどのような関わりをもってきたのか?その小さい一人に主イエスの愛による最善を尽くしたのか?ということによって再臨の裁きが決まるという教えなのです。しかも、この箇所で強調されていることは、「すべての人が最も小さい者に出会うように」主イエスが備えておられているということです。すなわち最も小さい者との出会いによって、私たちの信仰が試されるということにもなるのです。
私たちは「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」という信仰の上に立って過ごしてきました。しかし、本日の主イエスの言葉は心と口の信仰ではなく、行いに重みを置いているように見えます。すなわち、私たちの心と口で告白された信仰は、主イエスへの愛を最も小さい者一人に実践することで完成するという意味にもなるのです。そのような姿勢で小さな一人一人と関わっていくのであれば、私たちのすべての人への人間関係は空しくなくなり、人を蔑んだりすることもなくなるでしょう。常に“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く”という感動ある関わり方が、主に喜ばれる者としての終末を生きるキリスト者のあるべき姿となるでしょう。そうです。私たちが先に救われたのも、私たちから主イエスを見出せた人々のお陰であることを忘れてはなりません。そして、あなたもぜひ周りの小さな一人から主イエスを見出すことができますように、そして勇気を出して最も小さい者の一人に手を差し伸べられますように…。ハレルヤ!
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