2019年2月25日月曜日

2019.2.24 牧師室便り

~ 空間を超えてつながる恵み ~ 
 二週前から火曜日の「楽しい聖書の学び」と金曜日の「ディボーションタイム」の時に限って、新しいことを試みています。それは、東京にいるS姉とSNSを利用して映像で各集会に集っていただくということです。時代の恩恵であると思いますが、東京に引っ越されたS姉と諸集会に出席している神の家族が顔と顔を映し合い、同じ空間ではないけれどもその場に一緒にいるような嬉しい恵みを味わっています。
 S姉は5年間の小泉町教会での信仰生活を考えると、すべての諸集会に努めて出席し、信仰による喜怒哀楽を分かち合ってこられた姉妹でした。だからでしょうか。彼女が旅立つ前のある日、彼女が新しい教会を捜し定着するまでのしばらくの間、映像による交わりを提供しなければ、という思いが示されました。そしてS姉に確認したところ、“ぜひお願いしたい”との声があり、実現に至ったわけです。何より、「これからはS姉の顔を見ることはできないだろう」と寂しく思っていた皆さんでしたが、映像に映ってくる彼女の顔を見てとても喜んでいましたね。…まさしく空間を超えて一つとなる神の家族の素晴らしい交わりを味わわせていただいています。もし、可能であれば、他の地域に住んでいる方々からの要望にも応えてあげたらなと思っています。
 今の時代はSNS時代、また世界各地がインターネットでつながっている時代です。すでに空間の壁は打ち破られている時代です。そのことを念頭に置きながら、我ら小泉町教会の礼拝や諸集会のことを世界の人々と分かち合うために、いろんな面において備えておくべきでしょう。願わくは、私たちの教会の働きを通して世界中の人々に希望と命のメッセージを伝えることができますように、また、空間を超えてつながる神の家族の執り成しを用いて聖霊が大いなる御業を成し遂げられますように・・・。新しいことを成しておられる神を賛美します。シャローム!

2019.2.10 牧師室便り


~ 一人の魂を求めて ~

 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。・・・そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:1214

先週は牧会執事の姉妹と一緒に長らく教会から離れていた二人の神の家族を訪れました。一人の姉妹とは顔と顔を合わせることができました。しばらく来られてないためか、少しぎこちない雰囲気はありましたが、笑顔であいさつと近頃の短い会話を交わしました。そして車の中で姉妹とご家族のために執り成しの祈りをしてからお宅を離れました。また、もう一人の姉妹は不在でしたので、家の外で二人で祈ってから帰りにつきました。

ずっと牧師がやっていた訪問の働きを、信徒が加わることで、信徒同士の新たな出会いと信頼関係が生まれ、互いに具体的な執り成しができるようになります。これからも、主イエスの導きのもと、教会員同士の訪問やメール、電話などによる交わりと執り成しを通して、キリストの体なる教会は健康にされていき、神の家族の愛の交わりも豊かにされていくことでしょう。

主イエスは、失われた一人の魂をあきらめることはなさいません。たとえ、私たちは忘れてしまっていても、主は決して忘れられない。ぜひ、良い羊飼いなる主イエスの迷い出た一匹の羊への熱情と憐れみを黙想しつつ、主イエスの燃える愛に包まれ、主イエスの足となり、手となり、声となって出かけていきましょう。主が私たちの群れを喜ばれ、主の時にふさわしい実を結ばせてくださるでしょう。神の家族お一人お一人を誇りとし、主の愛で愛し祝福します。シャローム!

2019.2.24 本日の宣教

『 御言葉の恵み 』~待っておられるイエス様~
              (ヨハネによる福音書15:16~17) 
 私は2000年の8月にバプテスマを受けました。それ以前に求道者として教会に通っていた年数を合わせると26年程になります。そのような長い年月、教会に通っていたことになりますが、私は聖書を自分の目と心でしっかりと読むことがなかなかできませんでした。特に旧約はできませんでした。そんな私を神様は見捨てることなく、4年ほど前から小泉町教会の諸集会に導かれ、兄弟姉妹、閔先生を通して、私に聖書をきちんと読むように黙想、ディボーションという形で、時期に適って「聖書を読む時」を与えて下さいました。それでは、聖書をきちんとしっかりと読むとはどういうことでしょうか。「きちんと」とは、正確に、間違いなく、適正に、という意味だと書かれていますが、私が思う「きちんと」読むとは、主の方にしっかりと向きを変え、心を整え、祈り、「神様は自分に今何を語ろうとしておられるのか」と黙想しながら自分の心を全開にして読むということではないかと思っています。
 そして、そのように聖書を読み、ディボーションを続けていく中で、神様が繰り返し私たちに語っておられることが見えてきました。それは、①「礼拝を大切にしなさい。」②「わたし(神様)を知りなさい」③「福音を述べ伝えなさい。」です。①は非常に大切なことですが、今日は②と③に重点をおいて話させて頂きます。
 「神様を知る」ためには毎日聖書を読み、ディボーションすることで、日々新たに神様に出会い、知ることになる。つまり、聖書を読み、祈りつつディボーションしなければ、主の望んでおられる「神様を知る」ことはできないのではないかと思います。そして③の「福音伝道をしなさい」ですが、ヨハネの福音書に「あなたがたが私を選んだのではない、私があなたがたを選んだ。」と、主が私たちを選んで下さったことが示されています。続いて聖書は、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、」となっています。この箇所に書かれている実を結び、・・・・とは、主から頂いた福音に感謝し、福音にふさわしく生きようと願う私達が、神を知り、御言葉をきちんと理解し、その実である「愛」を携えて「福音」をのべ伝えること、そこに救いがあらわれることではないかと思います。
 しかし、福音伝道は簡単ではありません。忍耐と努力が必要です。路傍伝道に行ってその成果のなさゆえに、うなだれることもあります。でも、私たち人間にはできない事でも、創造主なる神にできない事はありません。イエス様は、私たち一人一人に聖霊様を下さって、私達の中に住まわれています。今レントに向かっていますが、イエス様が私達の救いのゆえに流された血潮と十字架の贖いと復活。その事を思う時、心から感謝を持って礼拝せずにはおられません。今もイエス様は、私達がイエス様を知るために訪ねて行くのをじっと忍耐して待って下さっています。イエス様を尋ね、御言葉を頂き、全てを主に委ねて、今もこれからも感謝の捧げものとして福音を伝えに出かけて行く私達でありますように。     
                                          S.Y.執事                  

2019.2.24 小さな泉の恵み




~私の素晴らしい高校生活~
 私は小学校の頃から高校生まで、ずっと不登校で、登校日数ギリギリで卒業してました。人と同じであることを嫌い、共同作業も大嫌いでした。そんな私でも人並みに短大まで出てちゃんと就職もでき、こうやっていれるのも、目には見えない大きな存在が助けてくださっていると思えていました。私が悩む時、悲しむ時、大変な時にいつも救いの手で私を支えてもらえていると感じていました。 たまたま縁があり高校は金沢のミッションスクールへ行き、まるで呼ばれたかのような高校生活は聖書の時間、礼拝、讃美歌を歌い~、私は自分の心が穏やかになっていくのを感じていました。
 その中で、人間は人で神ではない。神になることなど決してできない。故に人はもっと神を畏れるべきなのではないかと・・・。とても私にとって高校生活は意義のある、その後の私の人生にとって素晴らしい影響をもたらせてくれた三年間でした。ドアの外からずっと私の心の中をノックして、「開けなさい」と言って下さっている神様を感じている私がいつもいます。
                                 I.H.姉
 
                                

2019年2月20日水曜日

2019.2.17 本日の宣教


  『愛する者が病んでいます』 ヨハネによる福音書11:16)


主イエスが格別に愛し、親密な関係をもっていた家族がいました。その家族はベタニアに住んでいたラザロとマルタ、マリアの二人の姉妹でした。彼らがどのように主イエスと親しくなったかは分かりませんが、聖書を見ると、主イエスはその家族を愛され、ベタニアの近くに来られた時は、必ずと言っていいほど彼らを訪ねられ、その家族は真心から主イエスをもてなしていたことが分かります。
 
 しかし、ある日その家族を支えていたお兄さんのラザロが突然死の病気にかかり、二人の姉妹は慌てて主イエスに助けを求めることになります。二人の姉妹は人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」(11:3という伝言を届けました。恐らく彼女たちは伝言を聞いた主イエスがすぐ駆けつけてくれると期待していたことでしょう。ところが、その知らせを聞いた主イエスは急ぎません。むしろ、「この病気は死で終わるのではない」と言われ、なお二日間同じ場所に滞在されたと記しています。そして、その間にラザロは死んでしまいます。その時感じたであろう二人の姉妹の失望と落胆は、言葉では言い表せないものだったでしょう。

 彼女たちのように、私たちも主イエスを信じ、信仰の歩みを続ける中で、突然の苦しみに遭う時があります。その時の戸惑いや焦りを、神の家族も同じく経験してきたことでしょう。「なぜイエス様は私の祈りにすぐ応えてくださらないのか、今こそ主の助けが必要な時なのに…」と疑問に覆われてしまったことでしょう。

 しかし、信仰者は次の主イエスの言葉に信仰の焦点を合わせるべきです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)・・・ここで「神の栄光」とは、神の力と愛と知恵の現れです。そうです。私たちの存在の目的は、神の栄光を現すためであることを忘れてはなりません。これは、神が世界を創造された時から変わらない真理です。ですから、キリスト者は苦しみの中にあっても、その中で神の御心を見つけようとし、神の栄光がどのように現わされるかを、信仰の目をもって期待するのです。主の助けが見えなく、答えが遅れているように思えても、決して失望しないことです。なぜならば、主の時間と私たちの時間は違いますし、主は主の最善の時に最高のものをもって答えてくださるお方であるからです。



ある神学者は、“キリスト者の生活にとって最も安全な時とは、実は試練を受けている時だ”と言いました。これはつまり、キリスト者は、苦しみに遭う時にさらに祈り求め、熱心に御言葉を黙想するようになるからです。その中で私たちは主の御心を知るようになり、御手の中に守られる平安を得ることになるでしょう。そう、私たちに迫ってくる苦難は決して苦難だけに終わることはありません。神は必ず恵みに変え、栄光を現わしてくださるはずです。
今私たちにできることは、「主よ、愛する者が病んでいます」と主の助けを求め、主の時を待つことです。ハレルヤ!

2019年2月9日土曜日

2019.2.10 本日の宣教

『 あなたは泣けますか 』 ルカ福音書23:2728、ヘブライ4:1516)
     
 主イエスは、十字架を背負ってゴルコタの丘に向かって歩く途中でした。主イエスは、泣きながら付いてきていた女性たちに向かって、 “エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け!”と語られます。主イエスの歩まれた道は、あまりにも辛く厳しいものでした。だから、主イエスを慕っていた女性たちは、主イエスの肉体的な苦しみと、死そのものに耐えられない悲しみを覚えていたことでしょう。もし私たちが、2000年前のエルサレムにいたとして、も同じ悲しみに包まれていたに違いありません。しかし、主イエスは、「わたしのために泣くな」と言われる。なぜならば、主イエスの十字架の道は、究極的には復活の勝利の道であって、全人類に救いと勝利をもたらす道であったからです。むしろ私たちは、主の十字架の道に感謝し、主の命をかけた愛に感謝の讃美をささげつつ、主に従うことを心がけるべきです。
 しかし、「泣くな」と言われた主イエスが、続きの言葉では「泣け」と命じられる。「自分と自分の子供たちのために泣け」と。これはやがて訪れるべきローマによる滅亡の預言の言葉であり、その日には、泣かずにはいられなくなることを、主イエスは見ておられたのです。その日を恐れつつ、エルサレムと子どもたちを胸に抱き、涙をもって神の憐れみを乞い求めなさいと言われるのです。

 主イエスは、山上の説教の中でも、“悲しむ人々は幸いである。その人々は慰められる。”と教えられます。父なる神は、涙をもって悲しむ人を尊ばれるお方です。 “自分の罪と弱さのゆえに悲しむだけでなく、自分の家族と隣人、自分の民族と国の高ぶりと罪、堕落について悲しむ心と、涙をもって執り成す人”を求められるのです。

 しかしここで大切なことは、私たちが涙をもって悲しむのは、誰の前ですべきなのかということです。人の前で、人の慰めを求めるのではなく、私たちのすべてを知っておられる父なる神の前で泣き、悲しみ、嘆くことです。“誰も聞いてくれないことで泣くのではなく、私たちの涙と悲しみを聞いてくださる方、すべてを知っておられ、救いの道を開いてくださる主イエスの前で泣き、悲しむことです。その時私たちを慰める主の御手が働くことを体験することができるでしょう。

愛する皆さん、「あなたは泣けますか!」…わたしたちの涙と悲しむ心をいつも見つめておられる方がいます。その方はわたしたち以上に悲しまれ、呻きをもって執り成してくださると聖書を通して約束されています。“この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:1516)”        
「信教の自由を守る日」を迎える神の家族の皆さん、今日も主イエスは十字架を背負われる姿で私たちに問いかけておられます。「あなたは泣けますか」と。あなたが主の前で、日本の国と子どもたちの救いのために悲しみ、涙する信仰の持ち主となりますように…。ハレルヤ!

2019年2月5日火曜日

2019.2.3 本日の宣教

『 一杯の水を飲ませる味方 』(マルコによる福音書9:33~41)

  弟子たちは主イエスの後を歩きながら一つの話題で議論をしていました。“誰が一番偉いか”ということです。主イエスはいよいよ十字架という、当時の最も惨めな形で命を捨てようとしているのに、3年間もずっと傍で共に生活していた弟子たちは、主イエスが政治的にイスラエルの王になったら誰が一番偉いポストに着くのかということに心を奪われていたのです。その時、語られる御声に耳を傾けましょう。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 …主イエスがよく用いられる「言葉の逆説」です。神の国の法則はこの世の法則とは逆の方向に向かっていることを教えておられる。現代社会の正義となっている“強い者が勝ち、力ある者が尊ばれる社会”を真っ向から否定し、神の国は、“いちばん先になりたい者が、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる社会。子どものような小さな者が優先される社会”なのだと教えてくださいます。

そこでイエス様が用いたのが、子どもでした。子どもはしばしばイエス様のメッセージの中に登場します。特に子どもが登場する場面の多くは天国について語られる時です。無視されがちな存在、助けがなければ生きていけない存在が子どもです。ですから、小さな者の代表が子どもです。だからこそ、わたしたちは子どもを通して父なる神の愛を教えられますし、子どもたちを通して父なる神の前でどうあるべきかを学ぶことができます。だから、子どもは宝物なのです。イエス様は“この子どもを通して天国を教えてもらいなさい。祈りを学びなさい。信仰のあり方を学びなさい”と語っておられるのです。

愛する神の家族の皆さん、キリスト者の前にはイエス様の他に、この世の誰も前に立つ者がいてはなりません。イエス様の前に偉い人は一人もいないからです。ただ、赦された罪人たちがいるだけです。…わたしたちはみんながイエス様の十字架の贖いによって赦された罪人だからです。牧師も、執事も、長老も、大人も、子どもも、男性も、女性も、外国人もみんなが同じです。キリストの教会の他との違いがここにありますし、ここに教会の命が現されるのです。常に周りの小さな一人の存在に気づき、大切に抱きしめ合い、受け容れ合うことです。そうする時、私たちの教会は天国に変わるのです。
続けて主イエスは、あなた方と同じ群れに属していなくても、その人や群れが、イエス・キリストの御名を信じ、福音を正しく伝え、神の国のために働くのであれば、その人や群れは「わたしたちの味方なのだ」と言われ、彼らを批判したり裁いたりしてはならないことを教えます。そして、福音のために働く主イエスの弟子に、“一杯の水を飲ませる人は必ず報いを受ける”と、約束してくださいます。「一杯の水を飲ませる」ということは、人にできる最低限の憐れみの行為です。主イエスは私たちの力の範囲を超えた無理なことを求めておられない。誰もができる小さなこと、小さな者同士がキリストの憐れみと温かい心をもって差し出す一杯の水が世界を変える祝福に与るのです。ハレルヤ!

2019年2月2日土曜日

2019.2.3 牧師室便り


~ 協力伝道を喜ぶ ~

先週は雪と寒さのゆえに、初めて電車で福井教会を訪ねました。もともとある兄弟と一緒に車で行く予定でしたが、チェーン規制のため、高速道路を走ることができませんでした。

福井教会に着いたら、いつものようにD兄が迎えてくださり、久しぶりに二人だけの礼拝となりました。礼拝出席者が一人しかいませんでしたので、「一緒に下の近い所で宣教しますか」と勧めたら、D兄から「いいえ、先に召された方々も天国で一緒に礼拝していると思いますのでいつもの礼拝でお願いします」と言われ、大変励まされました。二人だけの礼拝でしたが、寂しさは感じず、礼拝する喜びと感動に包まれたひと時でした。

先週から今週にかけて日本バプテスト連盟における「協力伝道週間」です。バプテスト教会において大切な姿勢として「各個教会主義」があります。これは、キリストの教会が力関係によらず、互いを認め合い、互いに協力し合う、これがバプテスト派の土台であるのです。ですから、右寄りの教会、左寄りの教会が存在してもおかしくないのです。ただ、イエス・キリストの福音と神の国のために働く諸教会とその働きを応援するわけです。

「私の後に教会に仕える若い人たちが集う福井教会になることを夢見ている」と笑顔で語られるD兄のビジョンに主イエスが答えてくださいますように、また、北陸3教会が互いに協力し合い、支え合う中で、それぞれの教会が成長の実を結びますように…。積極的に福井教会を支えている信徒が、D兄一人しかいないような現実ではありますが、主イエスの御手が働かれれば、人知を超えた最善の道が新しく開かれることを信じ、引き続き宣教奉仕と執り成しの祈りを続けて参りたいと思います。小泉町教会の神の家族もぜひ、信仰と愛の心を合わせ、福井教会のための神の御業が、具体的に現れることを祈ってくださいね。シャローム!                           
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32

2019.2.3小さな泉の恵み




 私は自転車で通勤しています。職場まで片道4kmで約20分くらいです。   
 ある日の朝の通勤途中で、自転車がかぶさって倒れている女性がいました。私は急いでいましたが、見てみぬふりはできず、声をかけました。

 どうやら長いスカートが自転車の車輪に巻き込まれて倒れてしまったようでした。巻き込まれたスカートがからまって取れないため起き上がることもできません。ひざはすりむいて血が出ています。これはどうすれば良いのかと私は困りましたが、彼女の自転車を少し持ち上げて車輪を回したところ、からまったスカートがさっと取れました。

 彼女は私に何度もお礼をいいました。私は早く手当てしてくださいと言ってその場を去りました。私は朝から良いことができた、気分がいいぞ、いや、これは助けたのではなく助けさせていただいたのだと思いました。

 これは人間同士の出来事です。人間を創られた神様は人間をどうご覧になっているのか。人間は傷つき、苦しみ、罪の報いである死に向かっています。イエス様はそんな人間を助けるために十字架にかかってくださいました。十字架の打ち傷は私の傷みを負ってくださったもの、そこまでしてイエス様は私を助けたい、助けたくてたまらないと思っていてくださるのだと改めて教えられ感謝しました。
                              E.N.兄