(ヨハネによる福音書15:16~17)
私は2000年の8月にバプテスマを受けました。それ以前に求道者として教会に通っていた年数を合わせると26年程になります。そのような長い年月、教会に通っていたことになりますが、私は聖書を自分の目と心でしっかりと読むことがなかなかできませんでした。特に旧約はできませんでした。そんな私を神様は見捨てることなく、4年ほど前から小泉町教会の諸集会に導かれ、兄弟姉妹、閔先生を通して、私に聖書をきちんと読むように黙想、ディボーションという形で、時期に適って「聖書を読む時」を与えて下さいました。それでは、聖書をきちんとしっかりと読むとはどういうことでしょうか。「きちんと」とは、正確に、間違いなく、適正に、という意味だと書かれていますが、私が思う「きちんと」読むとは、主の方にしっかりと向きを変え、心を整え、祈り、「神様は自分に今何を語ろうとしておられるのか」と黙想しながら自分の心を全開にして読むということではないかと思っています。
そして、そのように聖書を読み、ディボーションを続けていく中で、神様が繰り返し私たちに語っておられることが見えてきました。それは、①「礼拝を大切にしなさい。」②「わたし(神様)を知りなさい」③「福音を述べ伝えなさい。」です。①は非常に大切なことですが、今日は②と③に重点をおいて話させて頂きます。
「神様を知る」ためには毎日聖書を読み、ディボーションすることで、日々新たに神様に出会い、知ることになる。つまり、聖書を読み、祈りつつディボーションしなければ、主の望んでおられる「神様を知る」ことはできないのではないかと思います。そして③の「福音伝道をしなさい」ですが、ヨハネの福音書に「あなたがたが私を選んだのではない、私があなたがたを選んだ。」と、主が私たちを選んで下さったことが示されています。続いて聖書は、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、」となっています。この箇所に書かれている実を結び、・・・・とは、主から頂いた福音に感謝し、福音にふさわしく生きようと願う私達が、神を知り、御言葉をきちんと理解し、その実である「愛」を携えて「福音」をのべ伝えること、そこに救いがあらわれることではないかと思います。
しかし、福音伝道は簡単ではありません。忍耐と努力が必要です。路傍伝道に行ってその成果のなさゆえに、うなだれることもあります。でも、私たち人間にはできない事でも、創造主なる神にできない事はありません。イエス様は、私たち一人一人に聖霊様を下さって、私達の中に住まわれています。今レントに向かっていますが、イエス様が私達の救いのゆえに流された血潮と十字架の贖いと復活。その事を思う時、心から感謝を持って礼拝せずにはおられません。今もイエス様は、私達がイエス様を知るために訪ねて行くのをじっと忍耐して待って下さっています。イエス様を尋ね、御言葉を頂き、全てを主に委ねて、今もこれからも感謝の捧げものとして福音を伝えに出かけて行く私達でありますように。
S.Y.執事
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