2020年7月14日火曜日

2020.7.12 本日の宣教



『タリタ、クム。起きなさい 』  マルコによる福音書5:21-24,35-43)
 
 「ロレンツォのオイル」という映画をご覧になったことがありますか。ひとり息子であるロレンツォの難病を治す治療法のない中で医学的知識も全く無い両親は、様々な困難を乗り越え、難病で苦しむひとり息子を救おうとするただ一つの望みに燃え、自らの力で治療法を発見することに成功するという感動的な映画でした。両親が治療法を見つけた時には、息子のロレンツォの病状を回復させるまでには至りませんでしたが、同じ病気をもっていた子どもたちを救うことができました。その映画を見ながら、何度も涙したことを覚えています。
 今日の本文にも重い病気にかかっていた最愛の娘を病気から癒してあげたいという執念をもって主イエスの前に駆けつけてきた一人のお父さんの姿が描かれています。そのお父さんの名前は、ヤイロ。彼はユダヤ教の会堂の「シナゴグ」の会堂長でした。おそらくヤイロは主イエスがどのようなお方であるかをよく知っていたことでしょう。“どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。(23節)”という言葉がその証しです。ヤイロの言葉と行動からは主イエスへの揺るがない信仰がしみじみと伝わってきますし、その信仰は今までの体験と知識によるものであったことが分かります。
 ところが主イエスと共にヤイロの家に向かっていた途中、娘が死んでしまった知らせが届きます。“もう、死んでしまった。いくら主イエスであっても死んだものを復活させることはできないんだ。”という人間的常識がヤイロと周りを取り囲んでいたその時でした。主イエスは人間的常識を覆す言葉を言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」(35節)…信仰において人間的な常識に立って限界を設けることは真の信仰ではありません。いつも確認しているように、“信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること”だからです。
 主イエスは泣きわめいて騒いでいる人々の間を通り、死んだ娘のところへ行かれます。そして娘の手をとって「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」と声をかけられます。「タリタ、クム」とは、「Good morning」のように、お母さんが朝子どもを起こす時に使うやさしい言葉です。すると、死んでいた娘はすぐに起き上がり、主イエスによる新たな命を生きることになります。主イエスこそ、病だけでなく、死をも治めておられる真の神であることが示された出来事でした。
 まさに死による絶望、嘆きと涙が支配していたその場所に主イエスが来られたことで、死の場所が命の場所に、絶望が希望に、嘆きと涙が喜びの賛美に変わるのを見ることができます。
主イエスは今も、死の不安と恐れに捕らわれている私たちを訪ねられ、十字架の愛と復活の命に満ち、「タリタ、クム」と呼びかけられます。今こそ、主イエスの呼びかけに十字架と復活の信仰をもって応答することです。あなたの起き上がる信仰によってイエス・キリストがあがめられますように。

2020.7.12 牧師室便り

 ~北陸の地から希望の光を~

先週月曜日、北陸三教会の牧師夫婦8人(田口師ご夫妻を含む)が金沢で、初めての交わりの時をもちました。普通であれば、もっと早く集い北陸伝道のための計画を立て、実行すべきでしたが、新型コロナのこともあってやっと集うことができました。とりわけ4月から赴任された平良師ご夫妻(福井)と杉山師ご夫妻(金沢)と初めて顔と顔を合わせることができ大変うれしかったです。面白いことには、福井教会の場合、新型コロナウイルスがピークに達していた時も礼拝を休まず続けられたそうです。それはもともと礼拝出席人数が少ないため、自然と社会的距離を確保することができていたからだそうです。また、金沢の杉山夫妻は私が富山に来た時と同じように、金沢の地理を知らなかったため、地図を見て初めて場所を知ったとのことでしたね。福井教会は来る810日(月、休)に牧師就任式を予定しています。新型コロナウイルスのため各教会から2名に限定して行うそうです。ただし、福井教会の礼拝堂があまりにも古くなったため、雨漏りが激しく、壁の方も耐震補強しなければならず、早いうちに礼拝堂を壊して立て直さなければならないことが判明しました。そのため、就任式が終わり次第、早速取り掛かるそうです。そのため、富山と金沢の北陸二教会の協力がさらに求められている状況です。引き続き福井教会の復興のために祈りと献金の支援を広げたいと思います。
金沢教会も若い杉山ご夫妻を迎えて喜びの歩みを始めているとの話でした。お二人がもっている若さと賜物が豊かな実を結ぶように執り成し続けましょう。早速830日に恒例の金沢教会との交換講壇を始める予定です。きっと交換講壇は二つの教会から福井を含んだ三つの教会が執り行うことになると思います。それに、引退されたとはいえ、田口師ご夫妻の存在とお働きは北陸三教会を支える大きな力となるでしょう。願わくは、新たな歩みを始める北陸三教会を通して、全国の日本バプテスト連盟に連なる諸教会の方に希望の光が届けられるように…。    


    「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ1232

2020.7.12 小さな泉の恵み


礼拝再開、週報再開、水曜祈祷会、ディボーション再開に感謝します。新型コロナウイルス感染症の流行の為にストップしていた教会での礼拝や、諸集会が少しずつ再開し始めましたね。子供たちが楽しそうに学校での出来事を話してくれることも、とても嬉しいです。東京、大阪近辺では再度感染症が増加傾向にあるということで、一人ひとり出来る対策をしていくしかないですね。
コロナ渦の中で思ったこと。人は人をジャッジしたり裁いたりしてはいけないという事です。私はもともと人をジャッジするのは嫌いです。なぜなら、人の気持ちは聞いてみないと分からないから。マスクをせず外出している人が「肌が敏感でマスクが出来ません」というキーホルダーでアピールしなければならなかったり、県外ナンバーの車が「県外ナンバーですが県内在住者です」というプレートをつけなければならなかったりすることはとても悲しいです。
このような暗い世の中で、私たちは光の子。2020年度の主題聖句「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。ダニエル12:3」にあるように、今こそ、いつも変わることのない主の愛、イエス様の愛を確信している私たちが光り輝き愛を伝えられる時なのかなと思います。やはり、私たちは幸いですね。愛を持ってこの闇を乗り越えましょう。
                     I.A 姉
                                      

2020.7.5 本日の宣教



『 キリストの手足となって 』Ⅰコリントの信徒への手紙12:2627)

 世界が暗闇に包まれています。新型コロナウイルスが猛威を振るう一方、世界各地における自然災害が後を絶たない状況です。このような時に求められるものこそ、希望の光です。聖書は真の光こそ、救い主なるイエス・キリストであると告げます。誰でもイエス・キリストのうちにあるならば、その人を覆っていた暗闇は逃げ去り、光の子として歩むことができるのです。そして、主イエス様は私たち神の子どもたちに「あなた方は世の光である」と使命を新たにしてくださいます。
 慌ただしく日々を過ごしていくうちに、もう今年の半分が終わり、本日から新たな半分を歩むことになります。ぜひ、これからの半分の歩みが、インマヌエルの主イエスの十字架の恵みにあずかりながら、復活の主と共に歩む希望の旅となりますように…。
 とりわけ本日はしばらく休んでいた主の晩餐式を執り行います。主イエスは主の晩餐に与る神の家族お一人お一人に、“あなた方はわたしの血と肉によって一つとされたわたしの体である。一人一人がわたしの体の各部分として強くされ、健康な体を作り上げなさい。そして、暗闇の中にある人々に大切に福音を宣べ伝えなさい。”と語られることでしょう。
 主イエスは、神の独り子、救い主として3年間の公の生涯を通して、主イエスに出会う人々を癒され、驚くべき御業を次々と成し遂げられました。一時も休むことなく、暗闇の中で死んでいく者たちに光を照らし、命を与えてくださいました。主イエスの足は常に心貧しい者たちのところに向かわれ、主イエスの両手は病んでいる者、疲れている者、貧しい者たちに差し伸べられ、抱きしめてくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(フィリピ2:68)と聖書は主イエスのことを紹介しています。
 その十字架の主イエスは、新型コロナウイルスに覆われ苦しんでいる世界に出て行く者として、小泉町教会の一人一人に語りかけておられます。“あなたがたはわたしの体だ。あなたがたはわたしの手となり、足とならなければならない。あなたがたを通してわたしは生きるのだ”と。“あなたの手足で傍らにいる隣人を慰めることができる。あなたの手足で神のラブレターを届けることができる。お腹を空かせている人に温かい食事を食べさせることができる。また、あなたの手足で遠く離れている人を訪ね励ますことができるし、両手を合わせて祈ることができるのだ。
 そうです。「キリストの手足となる」という、なんという素晴らしい生き方でしょうか。願わくは、小泉町教会の2020年の残りの半分の歩みが、主イエスの体の各部分として忠実に生きるお一人一人によって救いの豊かな実を結び、父なる神の喜びとなりますように…。ハレルヤ!

2020.7.5 牧師室便り

~神よ、御声を聞かせてください ~

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、          
  秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」(エフェソ1:8~9)

3か月ぶりに牧師室便りを書いています。新型コロナウイルスによってやむを得ず、週報を臨時版にして発行していたため、牧師室便りは省略していました。振り返ると、生活のほとんどが変わってしまいましたね。まさしく、世界の歴史がコロナ以前(B.C.)と、コロナ以降(A.C.)に分けられるような気がする近頃です。
  新型コロナウイルスの時代に突入してから、常に自分自身に言い聞かせていることがあります。“神よ、あなたの御心を教えてください。あなたが語ろうとする御言葉を正しく語らせてください。”ということがそれです。旧約の偽預言者たちがそうであったように、“神が守られるから大丈夫だ、平安だ”というメッセージでなく、また“早くこの試練を終わらせてください”とか、“新型コロナウイルスにかからないようにしてください”という、ご利益の祈りで終わらせてはならない。そうではなく、「神は何を語っておられるのか、新型コロナウイルスを通して神がなさろうとすることはなんであるか、キリスト者としてどう受け止め生きるべきなのか、それらを牧師としてどのように伝えるべきなのか・・・」などなど、敏感に神の啓示に耳を傾けようとしている日々です。“草むしりをするときも、花に水をやるときも、礼拝堂内外の掃除や修理をしながらも、また、買い物のために出かけるときも、…”神が語られる御声を聞き逃してしまうことがないようにしています。神の家族の皆さんも、ぜひ不安に陥り、恐れに捕らわれてしまうのでなく、主の臨在に触れながら主の御心を聞く訓練を心がけてください。シャローム!

2020.6.28 本日の宣教



『 行き先も知らず、旅する 』ヘブライ人への手紙11810)

 「信仰の章」と言われるヘブライ人への手紙11章です。旧約聖書に登場する信仰の先輩たちの信仰のあり方を確認しつつ、迫害の最中にあるヘブライ系キリスト者たちを励ますために書かれている個所です。それでは、信仰についての定義に注目しましょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ⒒:12・・・信仰の先輩たちの信仰のあり方の中心的なポイントは、まだ実現していない事柄を確信し、見えない事実を見えているように生き続け、やがてそれを確認することであると示されています。もちろん、その信仰の対象こそ、生きておられる創造者なる神です。
 その信仰の中心的な人物として、大切に紹介されている信仰の人が、「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムです。
 本日の聖書個所には、信仰に関連する3つの重要な概念が紹介されています。まずは、「召し出される」ということです。すなわち、私たちの信仰は、語りかけられる神から召し出されることによって、始まるのだということを忘れてはなりません。二つ目は、「服従」です。アブラハムは、神の召しに対して服従します。神の召しのことは、創世記12章に書かれていますが、その召しの内容は、「アブラハムの生活の基盤であった生まれ故郷から出て行く」ことでした。初めて語りかけられる神という方からの召し、アブラハムは、語りかけられる神にすべてを賭け、服従の選択をしたわけです。当時のアブラハムの年は75歳、もう旅に出ることも、新たなチャレンジをすることもなかなか難しい年でした。しかし、アブラハムには、自分に直接声をかけ、将来を約束してくれる神への信頼があったため、すべてを賭けることができたのです。最後は、「出発した」ということです。しかも「行き先も知らず、出発した」ことは、信仰に生きる人としてのアブラハムを決定づける出来事でした。「行き先も知らず、出発した」とは、「見えない事実を確認すること」に当たるわけです。そうです。信仰に生きた先輩たちは、すべてのことを目で見て確認し、すべてのことを知っていたから服従したのではありません。ただ、神が召し出されたから服従したのであり、その神の約束を信頼したから、出発することができたわけです。
 私たちは信仰する者として、常に主イエス様に聞きたがることがあります。“いつ神の国が実現しますか。いつ神が世界を裁かれますか。…”と。しかし、主イエスは聖書に書いてある通りに言われるでしょう。“時と時期はあなた方の知るところではない。それは神の領域だから!”と。ただし、あなた方はいつ主イエスが来られても揺れることのない信仰をもって日々を生きなさい!“と語られることでしょう。常に明日のことを計画し、しっかりとした安定を手にしたい私たちですが、今こそ、自分の計画や考えをすべて捨て、神が導かれるままに自分自身をゆだねるべき時です。
 新型コロナウイルスによって、私たちの生活も、またキリスト者としての信仰生活も大きな変化を迎えることでしょう。とりわけ第二波、第三波が来た場合に、“主日礼拝、平日の諸集会、福音伝道、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、クリスマス、イースターなどなど、どのように変わるだろうか?…” まさに全く見えない現実を目の当たりにすることになります。そこで、ふと頭に浮かんだのが、荒野で旅を続けるイスラエルの民を導いた「火の柱、雲の柱」のイメージでした。そう、これから旅を始める時も、旅を終える時も、火の柱と雲の柱に従えばいいわけです。もちろん、今の私たちの旅には目に見える火の柱も雲の柱もありませんが、常に神の臨在を信じ、導かれるまま歩み出すことです。

2020.6.28 小さな泉の恵み


コロナのせいと言ったらいいか、コロナのお陰と言ったらいいか、家にいる時間が増えて、マーティの散歩も朝、晩することになり、今まで気づいていない神様の創造された素晴らしい自然を見ることができました。本当に言葉には表せない位に、神様の創造の御業に感動して胸がいっぱいでした。

小さな草も、豆よりも小さな花も、なんと綺麗でしょう。本当に感動の毎日です。神様の素晴らしさを賛美します。ハレルヤ!
                                  A.S 姉

2020.6.21 本日の宣教



『 証しとなる歌を歌おう  (申命記311923)

 先週のリビングライフで、神の人モーセがカナンの地を前にして、イスラエル共同体に向けての告別説教を終え、神から命じられた歌を教える場面を黙想しました。とても興味深いことに、神御自らモーセに、イスラエル共同体に信仰告白としての歌を覚えさせ、その歌を永遠に忘れることのない証しとするようにと命じられる場面です。
 モーセは、イスラエル共同体の指導者としての召命を受けてから、全生涯をかけて、ひたすら戦い続けた神の人でした。神からカナンの地へのビジョンをいただいてから、イスラエル共同体をエジプトから導き出し、荒野での40年間のありとあらゆることを経験しながらも、一時も逸れることなく、神とイスラエル共同体の間に立ち、信仰の旅を続けてきました。そして、いよいよカナンの地が見えるところまで来て、神からのメッセージを一つ残すことなく語り続けるモーセでした。しかし、モーセにはカナンに入ることが許されなかったことを聖書は教えます。全生涯をかけてカナンの地だけを夢見て、様々な試練を乗り越えてきたのに、神はモーセの夢を叶えてくださらなかったのです。その時受けたモーセの失望は言葉では言い表せないものだったでしょう。そこで神は、モーセにもう一度大切な働きを命じられます。その命令こそ、イスラエル共同体に対する神の証しとなる歌を書き記せ!ということでした。…「今、次の歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエルの子らに対するわたしの証しとするためである。」(申命記31:19、新改訳)…モーセは神の命令に従い、最後まで御心を成し遂げていきます。
 申命記32章にはモーセが書き記した歌をイスラエルの民らに語り聞かせる場面が描かれています。そこには、天と地、大自然を証人と立てて、大いなる神について、神がイスラエル共同体をどのように見いだし愛して来られたのか、また、イスラエル共同体の罪と背信、堕落について、それに対する神の怒りと裁きについて、最後には神の贖いによる勝利が記されています。神と神の民との歴史を振り返りながら、イスラエルの子らに教え、彼らへの証しとして作られた歌でした。この歌は一度だけ歌うものではなく、イスラエルの子らに受け継がれ、決して忘れないようにするために作られた歌でした。この時から、イスラエルは賛美する民とされたのです。イスラエルの民にとって賛美は、彼らのアイデンティティーであり、歴史であり、礼拝であり、呼吸でありました。このことは、私たちにも当てはまるでしょう。賛美は信仰する者と共同体を生かす力となり、神を愛し見上げる賛美は証しとなって神の栄光を世界に現すことになるのです。
 今年は私たち小泉町キリスト教会の宣教開始60周年を迎える年です。それを記念していくつかのことを進めています。その中に小泉町教会のオリジナルの賛美歌を作ろうというビジョンが与えられ、一人の姉妹に作曲していただき、その曲に合わせた歌詞を募集したところ、多くの神の家族から素晴らしい歌詞が寄せられました。そして先週、ミルトス三姉妹により、曲に歌詞を合わせて一つの曲にまとめられました。「小さな泉を与えられた主」という歌です。
 きっと、この讃美を歌いながら、富山小泉町キリスト教会の宣教60周年を思い起こすことになるでしょう。最初に富山の地に宣教の旗が掲げられた日から、60年の歴史に刻まれた数々の恵みの御業、また、8名の牧師たちの献身、それから、神の家族一人一人の信仰の足跡、そして新たな明日への希望が歌となって歌われることでしょう。願わくは、私たちの賛美が証しとなって今暗闇の中で苦しむ人々の心に届けられますように・・・。ハレルヤ!

2020.6.21 小さな泉の恵み

 私は今から60年位前にキリスト教に出会いました。
 その当時親を亡くし妹と二人親戚の家で肩身のせまい思いで過ごしていました。妹が心の病をやんでから私は自分の境遇に悩み苦しんでいました。その時にイエス様が共にいるよと教会へ導かれたのだと思います。神はか弱い肩に重い荷物を背負わせる事はなさいません。むしろ私達の信仰が深まる度合いに応じてふさわしい試練を与え訓練されるとありました。
 妹が112日天に召されました。もっと私が姉としてやさしく接していたらと悔やまれます。でも閔牧師にたびたび妹を見舞い祈ってもらいました。妹もやすらかに天に召されたと思います。私も心癒されました。感謝です。
 今世界中に新型コロナウイルスが広がっています。こんな時こそ悔い改め、まことに主は私達と共におられると信じ歩んでいきたいものです。アーメン
                                N.Z 姉

2020.6.14 本日の宣教



『 生きるにも死ぬにもキリスト 』(フィリピの信徒への手紙1:12142021)
 
 新型コロナウイルス流行以来、人と人との対面は、なかなか難しくなっており、親しく交わることができなくなった世界です。このことはキリスト教会に福音伝道への新たなチャレンジを求めていることでしょう。特に、世界宣教の面においても、ほとんどの国が国境を封鎖し、大衆集会も禁止するような対策をとっているため、宣教師として遣わされた方々はさらなる壁にぶつかっている現状です。まさしく一歩も外に歩み出すことができない初代教会の弟子たちのように、新型コロナウィルスに閉じ込められているようなキリスト教会です。それでは、このような新たな時代をどう乗り越えていくべきでしょうか。そこで聞こえてくる使徒パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピ1:1214
 人間的な目で見ると、今パウロがローマの牢に監禁されていることは失望であって、失敗を認めざるを得ないことでしょう。まさに福音を人々に語り、親しく交わることを中心に置く伝道者にとって、牢に監禁されるという状況は何もできないことを意味しているとも言えるでしょう。しかしパウロは、“牢に監禁されていることがかえって福音の前進に役立っています!”と告白しています。これはただ強気で言っているわけではありません。なぜならば、パウロにとって投獄という経験は、以前から何度もあったことですし、監禁されている中で働かれた神への信頼があったからです。
 パウロが聖霊の導きによってヨーロッパ伝道を始めた時、最初に監禁された場所がフィリピでした。神は、フィリピの牢屋で、牢屋を守っていた看守とその家族を救うという、驚くべき奇跡を見せてくださいましたし、リディアという同労者が与えられ、さらにフィリピ教会が立てられるという恵みの業を、次々と成してくださったのです。パウロにとって、たとえ、自由のない牢屋であっても、誰も住んでいない無人島であっても、この世のすべての場所は宣教の地であり、神が働かれる場所であるという確信がありました。人間パウロは牢屋に捕らえられていても、福音は決して捕らわれることなく、かえって力強く前進していることを、パウロは証しせざるを得ませんでした。そうです。神の御言葉は、状況や環境や人の妨げで中断することはありません。引き続き語られるパウロの告白に、耳を傾けましょう。
そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20
 神は時々、神の民が一歩も動けないような状況に追い込まれたり、生と死の瀬戸際に立たされたりするような方法を用いられます。今回の新型コロナウィルスも、その一つでしょう。ただ恐れに呑み込まれて慌てたり、部屋に閉じこもって恐れに怯えたりするのでなく、私たちを取り囲む厳しい状況や苦しみを前にして、その背後に働かれる神を見上げ、生きるにも死ぬにもキリストに信頼を置き、救いの御業を成し遂げてくださることを期待しましょう。主イエス・キリストは、聖霊を通して共に歩まれ、私たちの信仰を、ますます強めてくださるはずです。ハレルヤ!

2020.6.14 小さな泉の恵み


本年2月、コロナで休みになる直前の教会学校で、「聖書のイスラエル人の時間感覚」というのを学びました。聖書のイスラエル人にとって、時の流れは「将来のものが近づいてくる」のではなく「過去のものが遠ざかって行く」感覚だと言われているそうです。今日のことが昨日になり、昨日のことが一昨日になり...というのが、「時間が経って行く」こと。
 ちょうど、ボートを漕ぐ感覚だそうです。進行方向に背を向け、今近くにある景色が遠ざかっていくのを眺めながら、進んでいくのです。ということは、詩編や預言者の祈りの中で繰り返し語られる葦の海の奇跡、人のそむき、神のさばきと赦しは、彼らがときどき振り返って取り戻すのではなく、常に見つめ続けているものなのです。背中は神の御手にあずけて、人生の中で神がくださる恵みがひとつまたひとつ視界に増えて行くのを、常に見つめながら生きるのです。
 これを想像するたび、永遠というものが感じられるような気がして「ハァ〜」と思います。この学びの場にいた6名ほどの全員が「ハァ〜」と言い、わたしがこれを話した相手も次々と「ハァ〜」になりました。みなさんはどうでしょう。
                                     S.M 姉
                 

2020.6.7 本日の宣教



『 息をしていますか 』 ヨハネによる福音書201923)

 先月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリス市で白人の警察4人が、ジョージ・フロイド(George Floyd)という黒人を拘束する際、警察官の一人がフロイドさんの首を、膝を使って846秒間も押さえ続け死亡させるという悲劇が起こりました。フロイドさんは苦しみのあまり、何度も「息ができない」と訴え続け、助けを求めましたが、警察官は力を緩めず、その場で命を失ってしまったのです。・・・この一部始終をとらえた動画は、瞬く間に世界中に広がり、動画を観た人々は、赦されない人種差別に対する憤りと怒りに燃え、アメリカ全土のみならず、全世界に抗議のデモが広がっていきました。今回の悲しい出来事を受けて、「息ができない…、息ができない」という叫び声は私の心に重く迫ってきました。そして、彼の叫び声と重なって創造者なる神の御声が聞こえてきました。
 “息ができない!”…ペンテコステの季節を過ごしている私たちの心に響き渡っています。まさしく一本の鋭い矢が刺さったような痛みを覚えます。聖霊が降られた恵みの季節に起きた今回の出来事はあまりにも象徴的です。なぜならば、聖霊こそ「息」という意味をもっているお方だからです。聖霊を意味する旧約聖書のヘブライ語の「ルーアッハ」と、新約聖書のギリシャ語の「プニューマ」は、神の命をもたらす聖霊ご自身であり、命を表すシンボルであるのです。
 創世記の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7とあるように、「命の息」を吹き込まれることによって人は命ある者となり、被造物のうち唯一創造者なる神との人格的な交わりを持つことのできる特別な存在とされました。アダム以降、世界に生まれたすべての人は同じく息をし、神の息を同じく分け合い、命の息を受けた者として互いに愛し合うようにと命じられていました。しかし、神の息を同じくいただき、愛し合って生きるように造られた人間同士でしたが、欲望から来る罪の奴隷となり、力ある者が弱い者の首を絞め、息ができなくなるようにしてしまったのです。これはただの一人の人を殺したのではなく、神の息を絶ち、神の首を絞めることになったことを忘れてはなりません。そうです。今も私たちが息をするのは、神が私たちの内に息を吹き入れられたからであって、私たちが息をしていることこそ、神の命に与かっている証拠なのです。
 さて、本日の聖書箇所にも「息」について触れています。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:2223
 復活された主イエスは天地創造の時、神がアダムの鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者にされたように、恐れと不安で引きこもり死人のような弟子たちに現れ、彼らに息を吹きかけて聖霊を与えられるという再創造の業をなされます。その理由こそ、弟子たちをイエス・キリストの十字架と復活の証人としての新たな使命を与えられるためでした。 
 神の家族の皆さん、あなたは息をしていますか。新型コロナウイルスに覆われている世界、その中で絶えず差別と分裂を引き起こそうとし、人々の息ができないように首を絞め、押さえ続けている世界に向けて、命の息吹なる聖霊に満たされ、神の平和(シャローム)の福音を携え出かけて行きましょう。ぜひ、忙しい日々を過ごす中、大きく息をし、聖霊との深い交わりを味わってみてください。そうすれば、人知を超えた命と力に包まれるでしょう。ハレルヤ!

 

2020.6.7 小さな泉の恵み

 新型コロナウイルスの影響によって、私たちの生活は一変しました。会社や学校にも集うことができない。さらには、教会でさえも礼拝ができなくとるとは、考えもしていませんでした。今まで当たり前と思えることができなくなる苦しさ、当たり前の生活の中で、どれだけの恵みと感謝が詰まっていたのかを強く感じさせられています。
 野方教会では4/5から礼拝を休止し、6/7からやっと礼拝を再開します。この期間は小泉町教会のようにインターネットでの礼拝に切り替えたり、メッセージを録音したCDを届けたりと、何とか工夫して共に家庭礼拝をできるようにしてきました。このように、世界中の教会が一斉に公同礼拝を中止したことは、おそらく教会史上初めてのことでしょう。もちろん、過去においても、戦時中や災害によって、局地的に中止せざるを得なくなったことはあるかとは思いますが、このようにして全世界的規模における礼拝の中止とは、教会史の中でも史上初のことであろうと思います。しかしこの危機は逆にチャンスでもあるのではないでしょうか。今youtubeで「教会」「礼拝」というキーワードで検索すると、世界中のたくさんの教会の礼拝、あるいは、メッセージが公開されています。教会に閉じ込められていたキリストの福音が、解放されて外に飛び出しているのを見ると、神さまは、この緊急事態をも用いて、ご自身の宣教の御業を進めて行こうと計画していらっしゃるのではないでしょうか。聖書の時代から神の民が守り続けてきた、礼拝の灯火をこれからも守り続けていきましょう。                  
                                     野方教会 宮田祐亮

2020.5.31 本日の宣教



『 聖霊によらなければ 』 使徒言行録2:3642) 

 ペンテコステ、おめでとうございます!!!
 ペンテコステ(聖霊降臨日)は、主イエスが復活されたイースターから 50日目に、弟子たちの上に約束された聖霊が降られ、最初の教会が誕生した喜ばしき日です。もともと、ユダヤ教では過ぎ越しの祭りから50日目に小麦を収穫できたことを祝う祭があり、この50を指すギリシャ語のペンテコステという名前で呼ばれるようになりました。
 ペンテコステの聖霊降臨から2000年の歴史を通して聖霊なる神は、神の教会と民の上に限りなく臨まれ、時に適った変革をもたらされました。そして、聖霊は今も変わらない命と力、恵みによって教会と神の民を新たにされ、導かれています。そうです。教会とクリスチャンにとって、ペンテコステは命であり、力、希望の日です。生きておられる神が聖霊を通して神の民に今も変わらず働きかけてくださり、私たちをイエス・キリストの証人として新しく造り変え、神の国のために用いてくださるという確かな約束から来る希望です。
 聖霊が登場される聖書箇所を見ると、多くの場面で聖霊は汚れているものを聖められ、死んだものを甦らせ、個人や共同体を新しくされることが描かれています。しかし、これらの聖書箇所には一つの前提があります。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、…聖霊によらなければ、…」という前提です。主イエスもそのことを繰り返し言われたのです。そうです。ただ人が望んだからといって聖霊が働かれるわけではありません。すべては聖霊のご意志と聖霊の主導権によってなされるのです。
 使徒言行録が描いている弟子たちは、主イエスの十字架を前にして逃げてしまい、主イエスが死より復活され、彼らの目の前に現れても、恐れと弱さのゆえに引きこもっていました。しかし、彼らの上に聖霊が降られたことで、全く新しい人に変えられていきます。昨日までの弟子たちを覆っていた恐れと弱さは消え去り、死をも恐れることのないキリストの証人として新しく生まれ変わることになったのです。…“聖霊によらなければ”キリスト者は何もできません。いかに素晴らしい賜物を持っている人であっても、聖霊によらなければ、すべては無駄なことになります。それでは、どんな人のところに聖霊が降られるのでしょうか。本日の御言葉で使徒ペトロがはっきりとその道を教えてくれます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)…聖霊は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによってバプテスマを受ける人のうちに降って来られます。そして、聖霊はその人の全人格における新しい創造を始められるのです。聖霊によってその人は今まで味わったことのない恵みと交わりに入ることが許されるのです。そして、その人が今まで大切にしてきたこの世における価値観、生き方といった壁を打ち破って新たな道へと導かれることになります。とりわけ新型コロナウイルスの時代を生きる者に求められる姿ではないでしょうか。
 今年は小泉町教会宣教開始60周年を記念すべき年です。教会の誕生日であるペンテコステを迎え、これからの新しい小泉町教会の歴史が「聖霊による、聖霊に満たされた」歩みとなるように、神の家族お一人お一人が救われた感動を新たにしつつ、福音伝道に励んでいきたいものです。ハレルヤ!

2020.5.31 小さな泉の恵み

 先日、ニューヨークに住む友人から、オンライン同窓会の招待が届きました。すごい時代になったものです。コロナウイルスで不便もありますが、この事態がなければこうして旧交を温められることもなかったでしょう。
 毎週、小泉町教会のオンライン礼拝に参加させていただけるようになり、とても励まされています。岡山県に帰ってきてから丸2年が過ぎ、こちらで3つの教会をまわりました。どこかに理想の教会があるわけではないのだからと、教会巡りを批判されたこともあります。でも、どうしても満たされないものを抱えていました。そして、今、毎週閔先生のメッセージを聞かせていただいて、気づきました。閔先生は聖書全体から神様のメッセージを取り次いで下さっていますが、こちらでは、神様とのつながりが希薄になってしまって、霊的飢餓状態に陥っていたようです。
 オンラインの限界はあるでしょうが、神様との霊的なつながり、心の通い合いに重点を置くなら、今私が置かれている状況で許される最善の礼拝が、オンラインによる小泉町教会の礼拝です。主人も毎週楽しみにしていて、夫婦でともに心を合わせて礼拝に参加できる恵みに感謝しています。
 イエス様はトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ルカ20ー29)と言われています。互いの顔を見ること、触れることはできなくても、神様はオンライン礼拝を祝福して下さっていると思います。もちろん、ウイルスが終息して、また皆様にお会いできる時を楽しみにしています。いつもお祈りに覚えてくださり、ありがとうございます。 
                                        K.K姉