『 生きるにも死ぬにもキリスト 』(フィリピの信徒への手紙1:12~14、20~21)
新型コロナウイルスの流行以来、人と人との対面は、なかなか難しくなっており、親しく交わることができなくなった世界です。このことはキリスト教会に福音伝道への新たなチャレンジを求めていることでしょう。特に、世界宣教の面においても、ほとんどの国が国境を封鎖し、大衆集会も禁止するような対策をとっているため、宣教師として遣わされた方々はさらなる壁にぶつかっている現状です。まさしく一歩も外に歩み出すことができない初代教会の弟子たちのように、新型コロナウィルスに閉じ込められているようなキリスト教会です。それでは、このような新たな時代をどう乗り越えていくべきでしょうか。そこで聞こえてくる使徒パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピ1:12~14)
人間的な目で見ると、今パウロがローマの牢に監禁されていることは失望であって、失敗を認めざるを得ないことでしょう。まさに福音を人々に語り、親しく交わることを中心に置く伝道者にとって、牢に監禁されるという状況は何もできないことを意味しているとも言えるでしょう。しかしパウロは、“牢に監禁されていることがかえって福音の前進に役立っています!”と告白しています。これはただ強気で言っているわけではありません。なぜならば、パウロにとって投獄という経験は、以前から何度もあったことですし、監禁されている中で働かれた神への信頼があったからです。
パウロが聖霊の導きによってヨーロッパ伝道を始めた時、最初に監禁された場所がフィリピでした。神は、フィリピの牢屋で、牢屋を守っていた看守とその家族を救うという、驚くべき奇跡を見せてくださいましたし、リディアという同労者が与えられ、さらにフィリピ教会が立てられるという恵みの業を、次々と成してくださったのです。パウロにとって、たとえ、自由のない牢屋であっても、誰も住んでいない無人島であっても、この世のすべての場所は宣教の地であり、神が働かれる場所であるという確信がありました。人間パウロは牢屋に捕らえられていても、福音は決して捕らわれることなく、かえって力強く前進していることを、パウロは証しせざるを得ませんでした。そうです。神の御言葉は、状況や環境や人の妨げで中断することはありません。引き続き語られるパウロの告白に、耳を傾けましょう。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20)
神は時々、神の民が一歩も動けないような状況に追い込まれたり、生と死の瀬戸際に立たされたりするような方法を用いられます。今回の新型コロナウィルスも、その一つでしょう。ただ恐れに呑み込まれて慌てたり、部屋に閉じこもって恐れに怯えたりするのでなく、私たちを取り囲む厳しい状況や苦しみを前にして、その背後に働かれる神を見上げ、生きるにも死ぬにもキリストに信頼を置き、救いの御業を成し遂げてくださることを期待しましょう。主イエス・キリストは、聖霊を通して共に歩まれ、私たちの信仰を、ますます強めてくださるはずです。ハレルヤ!
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