2019年9月20日金曜日

2019.9.15 牧師室便り


~右にも左にも逸れることなく~

「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」(Ⅱテモテへの手紙3:15

私たちの身を取り囲む現代社会の様子が、2000年前の使徒パウロが目の当たりにしているかのように描かれています。本当に四方八方のどこを見ても希望が見出せないような世界です。いつになったら平和が訪れるでしょうか。いつになったら互いが互いを認め合えるでしょうか。いつになったら金銭万能主義が終わるでしょうか。いつになったら殺し合いがなくなるでしょうか。いつになったら人々が真の神を知るようになるでしょうか。・・・しかし、いつになってもこれらの希望は叶えられないような現実です。

 とりわけ様々なイデオロギーがキリストの教会と神の家族を惑わしていませんか。「何が正しくて何が間違いなのか、何が真実で何が偽りなのか、また様々な選択の場」に立たされながら、迷ってしまう日々です。このような時にこそ、しっかりと保つべき信仰姿勢があります。それは“右にも左にも逸れることなく、神が語られる御言葉に従順であること”です。聖書の御言葉が教える神の御心はただ一つ、神の民に幸いを与えようとされることです。問題は、私たち人間が、神の御心や神のご計画に従おうとせず、それぞれの思いや計画を優先して走ろうとすることではないでしょうか。

 十字架を前にして「アッバ父よ、わたしの願いでなく、あなたの御心がなりますように…」と祈られた主イエスに倣い、右にも左にも逸れることなく、神の家族と共に主イエスの十字架と御国を見上げつつ、歩むことです。シャローム!

2019.9.15 本日の宣教

キリスト共にいたい熱望 』   フィリピ信徒への手紙12126)

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(121

“生きるとはキリストであり、死ぬことは利益”という表現は、パウロの死生観を表してくれる御言葉です。パウロは今、ローマの牢に捕えられ、裁判を待っている状況でした。パウロがフィリピの信徒への手紙を書いていた当時は、投獄された身として、肉体的にも精神的にも大変厳しい時を過ごしていました。しかし、彼の言葉からは死ぬことや将来への不安が見えません。むしろ、死を楽しみに待っているかのような雰囲気が漂います。それは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」(1:23という言葉によって確かに伝わっています。はやく天に帰り、キリストと共に交わり、天国の栄光に満たされたいという熱望が今を生きている私たちに新鮮な刺激となってくれるわけです。

しかし、天国でのキリストとの交わりを熱望しているパウロでしたが、彼が現実的に選んだのは、フィリピ教会の信徒たちの信仰の成長と伝道のために生きることでありました。パウロの生きている理由と目的こそ、神の恵みの福音を自分だけのものにするのでなく、キリストの教会と信徒たちの成長のため、まだ福音を知らないまま死んでいく人々に伝えるためであったのです。

愛する神の家族のみ皆さん、救われた人の人生は、天国のキリストに見える熱望と、この地における愛する人々の救われることを切に願う中で、行くべき道を見出せるものです。キリスト者の人生においてこれに勝るものはないと言っていいでしょう。救われた人は、神の国のため、また愛する人の救いのために生きる中で生きがいを感じる存在です。その人は、日々経験する苦しみや悲しみ、死までも利益として信じ、歩み続けることでしょう。

クリスチャン作家として知られる遠藤周作の作品を読んだ後、いつものごとく後味がすっきりしなかったことを覚えています。「イエス・キリストの十字架の苦しみは満ち溢れるけど、何かが抜けている。・・・」そう、そこには希望がありませんでした。十字架の苦しみと死は素晴らしく描かれていても、キリストの復活がなく、神の国への希望と確信が見当たらない。ぜひ、覚えていただきたい。復活の勝利、神の国の栄光のない信仰は、中途半端な信仰です。その信仰こそ、人間の体験と頭の納得するところに神と御言葉を引きずりおろすことにしかならないでしょう。
本日は、「敬老祝福礼拝」です。本日まで皆さんを守り、導き、用いてくださった神を賛美します。皆さんが今まで生かされているのは、パウロの言葉のように、「小泉町教会の霊的成長のため、また愛する家族と周りの友人たちを救いへと導くためである」ことを覚えましょう。ぜひ、命をかけられたイエス・キリストの十字架の愛への感動の上に立ち、天国でのキリストとの交わりを熱望しつつ、神が生かしてくださる限り、喜びと感謝、希望をもって歩み続けましょう。ハレルヤ!  

2019.9.15 小さな泉の恵み

 お祈りに上手い下手というのが有るのかはわかりませんが、おそらく最もお祈りの下手な私が思うことをお話します。私は下手なお祈りを反省しません。それだから上手に成らないのだとお叱りをうけそうですが、 「同様に、゛霊〟も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、゛霊〟自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマの信徒への手紙 8:26)」「何事でも神の御心にかなうことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(ヨハネの手紙一5:14)
 わたしの言葉が拙くても聖霊様の執り成しと神の真実によって聞き入れられると信じます。今、心を合わせて祈りたいことがあります。それは日本と韓国の軋轢の緩和、関係改善です。私は子供たちに「朝鮮半島は今、北と南に分断されているが敗戦国である日本がそうなっていてもおかしくなかった。朝鮮の方々が負う民族分断の苦しみ悲しみに対して日本人の我々に責任が無いなどと決して思ってはいけない。」と言っています。ただでさえ民族的に借りがある上に私たち小泉町キリスト教会に集う者には閔牧師とそのご家族を通して多大な恵みと主の愛を頂いていることは申すまでもありません。魂の救済の為にご尽力くださる閔師をはじめ多くの韓国出身の方々への霊的な攻撃や妨害に立ち向かわなければなりません。主の護りと祝福が閔師とご家族の上に、そして朝鮮の全ての方々に心の傷の癒しと慰め平安をお祈りいたします。アーメン
                                                                                       S.Y 兄
                                      

2019.9.8 牧師室便り

~日々の歩みにアンダーラインを引く~

「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(Ⅰペトロの手紙2:12

今年の夏も大変な暑さでしたね。神の家族のお一人お一人が御手の中で守られたことを心から感謝します。   いろいろと忙しい時を過ごされたでしょう。夏の疲れのゆえに体の体調を整えることの難しさを覚える方々もいるかもしれません。ぜひ、霊肉ともに恵まれつつ、新しい季節を感謝を持って過ごしていきましょう。

秋を迎え、創造者なる神を父としている私たちが、御言葉を深く黙想する中で御心を知り、豊かな信仰と愛の実をもって生きた礼拝の座に進んで参りたいですね。しかし、99%以上の神を知らない日本社会で生きた礼拝者として歩むということは大変難しいことです。その中でも、周りの人々に伝道しようとすることはなおさらのことです。いつ主イエスが来られてもおかしくないと思われる世界情勢の中、終末を生きるキリスト者としてのビジョンどころか、かえって現実の忙しさに覆われ小さくなっている現状ではないでしょうか。

聖書は私たちに、「あなたがたは立派に生活しなさい」と勧めます。「立派に生活する」、「立派」という言葉を見るだけで心が縮みませんか。神の前で誰が立派だと言える人がいるでしょうか。ただし、「立派」という言葉に捕われず、皆さんが日々黙想している聖書の御言葉を小さなことから生きて見ようとする思いから出発するのです。すなわち、私たちが聖書の御言葉を黙想する時、気に入る聖書の御言葉にアンダーラインを引くように、私たちの日々の歩みにアンダーラインを引くことを心がけたいですね。とりわけ読書の秋と言われるこの季節に、御言葉にアンダーラインを引きながら、日々の歩みにもアンダーラインを引く神に喜ばれる神の家族でありますように…。シャローム!

2019.9.8 本日の宣教

『聖霊によってやどり、処女マリアから生まれ』 (イザヤ714、ルカによる福音書13438)

「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、・・・」

 本日は、使徒信条のイエス・キリストの受肉についての信仰告白です。

父なる神と共に天地を創造し、治めておられる三位一体の神である神の独り子が、自ら創造された罪人たちの救いのご計画に従い、聖書の約束のメシア(救い主)として、聖霊によって処女マリアの胎に宿られ、贖い主としてこの地にお生まれになった出来事についてです。

使徒信条があえて「処女マリアから生まれ」とその誕生について言い表すのは、イエス・キリストの誕生が歴史の事実として起こったことを確証し、キリストがマリアからの誕生によって真の人間としての被造物性をお持ちになっておられることを証しするためでありました。永遠の神である神の独り子が、処女マリアの胎にやどりお生まれになった。それは神がマリアの人性を用いて生まれるという旧約聖書の預言の成就であって、これは、ただ一回限りの出来事でありました。まさしく受肉こそ全き神、全き人間(100%神、100%人間)となられた出来事であったのです。

受肉物語の中に中心にいる処女マリアについてですが、古くから処女マリアを一般的な人間ではなく、「神の母」という特別な神性を持つ存在として描こうとする試みがありました。それに伴い、神を生んだ母マリアの無原罪説の教理も広がっていきました。しかし、聖書が示しているマリアこそ、私たちと同様にアダムの子として原罪をもつ女性であります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)・・・聖書ははっきりと、イエス以外のすべての人は、アダムの堕落による原罪を負って生まれるということを示しています。
 ここで、昔から処女降誕の物語をめぐっての異論を紹介したいですが、キリストがヨセフとの間に生まれた子ではなく、誰か他の男との関係による子だとか、ある英雄の人間のイメージに神話的表現を加えるとか、とりわけ最近のフェミニスト神学では、マリアが当時のローマ軍による性的暴行によって生まれたという・・・。それではなぜ、このような諸説が生まれたのかとすれば、神が処女を通して生まれるという非現実的な受肉の出来事を人間の頭ではどうしても納得することも、理解することもできなかったからでした。そこで、使徒信条は「処女マリアから生まれ」の前に、「聖霊によってやどり」という信仰告白をもってきているわけです。これこそ、イエス・キリスト、神の独り子の処女降誕物語が、人間の生物学的な限界に止まることなく、三位一体の聖霊なる神による働きとして、全人類を救おうとされる神ご自身の約束を成し遂げるための第一歩であったことを信じられるわけです。マリア自信も最初は疑っていましたが、神の約束とご計画の前に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38という信仰告白をもって従順をもって答えることができたのです。私たちもマリアのごとく自らを献げようとする時、聖霊は私たちを用いて神の国の御業を成し遂げて行かれることでしょう。ハレルヤ!

2019.9.8 小さな泉の恵み









私は心配性です。先取りの心配をしてしまいます。運転していても『対向車線の人が心筋梗塞にでもなって、こちらに向かってきたらどうしよう。』又、『家族が通り魔にあったらどうしよう』など。確率的には低くても、100%無いとは言い切れないような事をグダグダ心配してしまいます。

私が心配性になった理由は2つあげられます。一つは小学5年生の時、ものすごく私を可愛がって下さっていたヴァイオリン恩師の突然の死がありました。もう一つは高校2年生の時、大好きな母が胃癌を患ったことです。この時は『恩師のように死んでしまったらどうしよう。小学生の妹と夜中に帰宅する父と、どうやってくらしていけばいいのか。』と、大きな不安に押しつぶされそうになりました。
 私がもしクリスチャンで無ければ心配に押しつぶされて、私らしくいられなかったと思います。今でも心配性ではありますが【あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。詩編37編5節】の御言葉に励まされ、寝ても覚めても主が共にいて下さる事に感謝して委ねていきたいです。
                        K.K 姉


2019.9.1 牧師室便り


~ スマートフォンからの解放 ~
「・・・しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:1112

混沌としている世界情勢です。あまりにも目まぐるしく変化する中で、朝、目を覚める時から緊張感に包まれている近頃です。とりわけ現代社会はスマートフォン社会と言えるほど、毎朝、目を覚ましてすぐスマートフォンを手にしLineを確認する、Youtubeを見る、インターネットから新しいニュースや情報を確認するなど、スマートフォンの虜になったような人が多いのではないでしょうか。先日、日本人の年代別スマートフォンの一使用時間をまとめた図を調べたところ、日本人のスマートフォン利用者数が7,000万人、10代から50代までのほとんどの人が、一日当たり、一人が3時間以上スマートフォンを使っているという結果が出ていましたね。そして使用時間はだんだんと長くなりつつある状況です。何よりも恐ろしいことは、幼い子どもたちが手からスマートフォンを話さないことではないでしょうか。

神の家族の皆さんはいかがでしょうか。スマートフォンのお陰で、簡単に情報を得ることができ、すぐ連絡が取れる、また体を動かさなくても必要としていたものが手に入る・・・。少しでも余裕があれば、すぐスマートフォンを手にし、何かを始める。そのように現代人の暇つぶしにスマートフォン以上のものはないでしょう。しかし、いつの間にか、私たちの感情と時間、生活そのものをスマートフォンに捕われているような気がしてなりません。昔から、科学の発達により生活の余裕と豊かさが与えられるだろうと言われていましたが、実際、科学の発達がもたらしたのは、人々の生活をますます忙しくさせ、人間関係を妨げ、静まって神と交わる時を失わせたのではないでしょうか。
 ぜひ、一週間のうち、一日はスマートフォンから離れ大自然に出かけましょう。また、愛する人とスマートフォンなしで目と目を合わせてじっくりと話し合いましょう。そして、神の前に近づき静かな交わりの時をもとうではありませんか。 

2019.9.1 本日の宣教

『神の独り子、われらの主』  (ヨハネによる福音書1:18 ,ヘブライ人への手紙1:1~3)

しばらくの間、休んでいた「使徒信条」の学びを今週から再開します。「使徒信条」の学びを通して、私たちの信仰の土台となるものをしっかりと確かめる時を過ごしたいと願います。さて、私たちは前回「イエスはキリストである」という内容を学びましたね。イエス・キリストは「油注がれた者」として、「真の王、真の預言者、真の祭司」となられ、私たちのすべての生活に関わってくださり、キリストとしての主イエスを信じることを望まれることを分かち合いました。

本日は、「わたしは、その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。」という内容について学びたいと願います。聖書ははっきりとイエスは「神の独り子」であると宣言します。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)・・・主イエスは、神の独り子と呼ばれますが、聖書が教えるイエス様は「神」であります。主イエスは、創造の時に神と共にあり、万物は主イエスによって成ったと宣言します。本質は創造者としての神であるけれど、その神が人の体をもって罪人たちと同じように生まれ、罪人たちのために命を捨てられたのだ!と教えているのです。そこで、驚くべきことが記されているのですが、神の独り子は、ご自身を信じる者たちを「聖なる者」だと、また彼らを「兄弟」と呼ぶことを恥としないお方だと教えます。「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない・・・」(ヘブライ211神の独り子と兄弟とされた恵みを信じ生きることはいかに素晴らしいことでしょうか。

続いて、イエス・キリストこそ「わたしたちの主」であるという信仰告白です。イエス・キリストを「主」と告白する信仰は、初代教会に広く定着し用いられていました。「イエスは主である」(ローマ109、これこそ教会共同体の共通した告白であって、初代教会を迫害から支える力であったのです。「主」(ギ:キュリオス)と言う意味は、主人、所有者“です。しかし、主なるイエスは、この世における所有者としての主と違って、私たち罪人たちのために十字架の上でご自身の命を身代わりとして献げられた主、また神の全能の力によって死人のうちから復活させられることによって栄光の主となられたのです。また、やがて再び来られ救われた神の民を迎え入れる主として聖書は宣言しているのです。そして、キリストは、教会の主であるだけでなく、全世界の主であるから、イエス・キリストを「主」と告白し信じる私たちは、生活のすべての領域において、主イエスの教え、主イエスの御心に従って生き、主イエス・キリストを証しすることを心がけなければならないのです。
 「神の独り子、われらの主」なるイエス・キリストへの信仰を確かなものとし、生きた礼拝者として歩みましょう。

2019.9.1 小さな泉の恵み


  あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。」(マタイ7911
  先週末の夜中、大阪に住む息子から、自宅で気分が悪くなり救急車を呼んだとの連絡が入りました。それから、急患センターで診察を受け、無事だと分かるまでの数時間、生きた心地がしませんでした。幸い息子は、皆さまのお祈りの力も加わり感謝なことに数日で元気になったのですが、この出来事を通して気づかされたことがあります。
  それは、私のような小さな者でもこのようにわが子を心配するのだから、ましてや欠け 
 るところの無い神さまは、一体どれだけ私達のために心を痛めておられるのだろうかとい
 うことです。律法を与え、預言者を送っても、自分勝手な生き方を改めない私達。ついに
 は、ひとり子さえ惜しまず与えてくださった神さま。その愛の深さに感謝しつつ、信頼し
 て生きることの大切さを強く覚えた出来事でした。 
                                                                      A.T姉

2019.8.25 牧師室便り

~一人の力~
「広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。(エレミヤ5:1)

 今から30年ほど前、大学生だった私が感動を受けた映画があります。「パワーオブワン」という映画です。植民地時代の南アフリカの人種差別という堅い壁を崩すために、「レインメーカー」とされる一人の力の素晴らしさを描く映画でした。「一人の人が自分自身の内側にある恐れと弱さを乗り越え、社会の不条理に目覚めていく、そして周りの人々を目覚めさせ一致を作り上げ、社会を変えていく。」・・・映画が伝えようとするメッセージに心打たれ、感動を受け、自分の将来への思いを新たにさせられたことを覚えています。映画の中で、一滴の水が集まって川となり、いくつもの川が巨大な滝に集められ、凄まじいパワーで落ちてくるように、一人の小さな力が最初は弱く目立たないけど、一人が二人、三人に、そして大きな群れを成していくことで、いつの間にか世界を変える爆発的な力をもつようになるのです。 

 先週21日の水曜祈祷会ではわが教会が30年以上もクリスマス献金で支援している「日本国際飢餓対策機構」(現:ハンガーゼロ)の黒坂栄司師による報告会が行われました。映像と共に世界の貧しい人々のために広がる働きとそこで結ばれる実を見ることができました。その中でも心に響いたのが、「パメラ」という一人の兄弟の物語でした。アフリカで影響力をもつ国のコンゴですが、全人口の95%の人が一日2ドル以下で生活する世界最貧国の一つと言われている国、しかも内戦で殺し合いが絶えない現実。パメラさんも部族同士の殺し合いから逃れて、国内避難民になるという厳しい状況に追い込まれていましたが、日本飢餓対策機構から遣わされた宣教師に出会い、クリスチャンとなります。その後、パメラさんの一人の働きによって同じ村の人々が将来への希望をもつようになり、周りの村にも影響力を広げていく、まさしく一人の力がもたらすパワーを確かめることができました。小泉町教会のお一人お一人が聖霊によって変えられ、家庭、教会、町、国、世界を変えていく勇気と希望に包まれるように・・・。シャローム!

2019.8.25 本日の宣教

『 救われた者として 』 (マタイによる福音書5:116)

私たちは神様の一方的な愛と憐れみによって救いへと導かれました。それは神様の大きな犠牲、即ち御子が十字架にかかりその尊い血の対価によってもたらされました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)」神様は全ての人が救いを得ることを願って下さいます。決して誰一人滅びに至るように定めてはおられません。「わたしたちはわたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一4:16)」神様は私たちを完成に導く為に様々な形で訓練を与えてくださいます。「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。(ヘブライ人への手紙12:58)」
 今、私たち小泉町キリスト教会に集う者に一つの課題が与えられています。それは福井教会の復興です。それを成す為には何が必要なのでしょう。私たちに福井県に住む方々への愛はあるでしょうか。祈りは充分でしょうか。福井教会の求めに耳を傾けているでしょうか。土地柄や福井教会の賜物を充分に理解しているでしょうか。本日の宣教の聖書箇所は有名な山上の説教の主イエスからの励ましです。私たちを「地の塩、世の光」であると言われます。世を照らし傷ついた魂への働きかけや奉仕には天に報いがあると約束して下さいます。神様にお出来にならないことはありません。「イエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコによる福音書9:23) 金沢教会の田口昭典牧師と閔丙俊牧師、土肥兄が度々支援の在り方を相談しておられます。私たちも一人一人何が出来るのか模索しながら心を一つにして祈り求めていかなければなりません。福井教会が抱える問題は福井教会だけが持っている問題ではありません。私たちのこれからの歩みが主に喜ばれ、神の栄光が現れるものとなりますように。主の御名が誉め称えられますように。                                                     
                              S.Y執事

2019.8.25 小さな泉の恵み


 何をを書こうかなあといろいろ悩み結果、神様から頂いた感動を正直に皆さんと分かち合いたいです。
 20代からイエス・キリストを信じて今までの長い日々、自分の中に起きた恵みの変化がありました。家族、職場、教会など、いろんな人との出会いの中で、嫌なこと、自分が好きじゃない人、また、自分の力と能力では何もできなくなったとき、今は昔と違って神様の御言葉を思い出して御言葉通りに生きようとします。常に神様の立場に立って考えようとする自分がすごく嬉しく思います。まだまだ神様に対してわからない部分が沢山沢山ありますけど、少しでも神様が喜ぶことを選択して生きていこうとする自分がなんか嬉しいです。
 まだまだ、未熟者で智慧がなく、いろんな事や、人に傷つけたりしている自分ですが、これからも、ずっと神様の御言葉通りに生きていきたいのです。
 すべてのことに感謝します。
                             A.S姉