しばらくの間、休んでいた「使徒信条」の学びを今週から再開します。「使徒信条」の学びを通して、私たちの信仰の土台となるものをしっかりと確かめる時を過ごしたいと願います。さて、私たちは前回「イエスはキリストである」という内容を学びましたね。イエス・キリストは「油注がれた者」として、「真の王、真の預言者、真の祭司」となられ、私たちのすべての生活に関わってくださり、キリストとしての主イエスを信じることを望まれることを分かち合いました。
本日は、「わたしは、その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。」という内容について学びたいと願います。聖書ははっきりとイエスは「神の独り子」であると宣言します。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)・・・主イエスは、神の独り子と呼ばれますが、聖書が教えるイエス様は「神」であります。主イエスは、創造の時に神と共にあり、万物は主イエスによって成ったと宣言します。本質は創造者としての神であるけれど、その神が人の体をもって罪人たちと同じように生まれ、罪人たちのために命を捨てられたのだ!と教えているのです。そこで、驚くべきことが記されているのですが、神の独り子は、ご自身を信じる者たちを「聖なる者」だと、また彼らを「兄弟」と呼ぶことを恥としないお方だと教えます。「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない・・・」(ヘブライ2:11)神の独り子と兄弟とされた恵みを信じ生きることはいかに素晴らしいことでしょうか。
続いて、イエス・キリストこそ「わたしたちの主」であるという信仰告白です。イエス・キリストを「主」と告白する信仰は、初代教会に広く定着し用いられていました。「イエスは主である」(ローマ10:9)、これこそ教会共同体の共通した告白であって、初代教会を迫害から支える力であったのです。「主」(ギ:キュリオス)と言う意味は、”主人、所有者“です。しかし、主なるイエスは、この世における所有者としての主と違って、私たち罪人たちのために十字架の上でご自身の命を身代わりとして献げられた主、また神の全能の力によって死人のうちから復活させられることによって栄光の主となられたのです。また、やがて再び来られ救われた神の民を迎え入れる主として聖書は宣言しているのです。そして、キリストは、教会の主であるだけでなく、全世界の主であるから、イエス・キリストを「主」と告白し信じる私たちは、生活のすべての領域において、主イエスの教え、主イエスの御心に従って生き、主イエス・キリストを証しすることを心がけなければならないのです。
「神の独り子、われらの主」なるイエス・キリストへの信仰を確かなものとし、生きた礼拝者として歩みましょう。
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