2019年5月28日火曜日

2019.5.26 牧師室便り


~ 命のある限り主を ~

  「命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩編146:2)

  先週、金沢教会で執り行われた故北芳正先生の「お別れの会」に、二人の姉妹方と共に参列して参りました。  
  いつも「ハレルヤ」と明るく声をかけられ、命が尽きる日まで神の愛を伝え続けておられた北先生のお姿を覚えます。金沢教会出身で、11歳の時、お母様とお姉様の死を目の当たりにし、生と死の問題に悩んでいた先生が主イエス・キリストの十字架の贖いと無条件の愛に触れ、クリスチャンになり献身されたとのこと、また牧師として5つの教会で仕え、人生の最後の最後まで福音伝道者として貫かれた話を耳にしながら、大きな感動と恵みをいただきました。北先生は、私たち小泉町教会のためにも無牧の時期と交換講壇の時、快く支えてくださいました。そして最後にはお体を献体され福音伝道者としての人生を終えられました。まさに、“命の有る限り、主を讃美し、長らえる限り、主をほめたたえられた”北先生の人生であったと言えましょう。北先生の天にある祝福を祈ります。
  本日は、宝田豊先生をお迎えして主の御言葉をいただきます。宝田先生は1976年大学卒業後、渡米され、1979年からテキサス州ダラスで「第一バプテスト教会」を開拓され、1984年からはノーステキサス日本語バプテスト教会の主任牧師として日本人伝道に力を注がれました。そして34年間の米国での牧師としての働きを終えられ、2013年からキリストのための懸け橋となる新たな召命をいただき、現在に至るまで対外伝道牧師として日本を中心に世界を駆け巡りながら福音伝道に励んでおられます。宝田先生のメッセージを通して、父なる神の愛に触れ、福音伝道の恵みにあずかりますように祈ります。そして神の家族お一人お一人も「命のある限り」主を賛美し、恵みを宣べ伝えることを心がけるひと時といたしましょう。シャローム!



 

2019.5.26 本日の宣教

『 ひとりの魂 』  (マタイによる福音書9913)


黙示録の7つの教会の一つであるエペソの教会に、「あなたは初めの愛から離れてしまっている」、「悔い改めて初めのわざを行いなさい」と促されています。ところで、現代の教会は、大丈夫でしょうか。信仰の初心から外れてしまっているようなことはないでしょうか。聖書を神の言葉と信じ、その教えに従い、互いの為に祈り、聖霊の導きを求めつつ、神の御心を全うする群れとして歩んでいるでしょうか。そして、イエスの残された大宣教命令に従って伝道しているでしょうか。

クリスチャンがこの世界に今も生かされているのには理由があります。それは、わたしたちによって他の人たちが神の救いに導き入れられるためなのです。そのために、教会は伝道するのですが、今回の箇所でイエスが教える伝道の基本原理は個人伝道にあります。ここにある真理は、ひとりの魂の救いが、結果として多くの人を救うことになるということです。イエスは、収税所で多くの人の中からマタイを選び出し、彼の家に客として入られました。それによって、普段、人々からは疎んじられ、宗教心からは程遠いマタイの仲間たちも同席することができたのです。

ただ、最後に「義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスが言われたように、伝道すればだれでも信じるということにはならないことも知らなければなりません。イエス・キリストが、全世界の人の為に十字架にかかられたとは、聖書の教える真実です。ところが、多くの人は、イエスの十字架による救いを必要と感じていません。それは、自分の内にある罪を認めようとしないからです。自分の内にある醜い心を認めることをしないので、神を必要としないのです。しかし、自分の心の醜さを知り、自分の罪人であることを認めた時、イエス・キリストの十字架の価値を知るようになるでしょう。

当時の取税人は、人々から罪人のように考えられていました。彼らも自分の醜さについては自覚していたでしょう。だからこそ、そこで語られたイエスの言葉は、彼らの心に深く浸透したに違いありません。わたしたちも、多くを得ようとするのではなく、一人の魂の救いを大切に伝道していきましょう。そこから、さらに多くの魂の救いを体験させて頂けるのではないでしょうか。
                                                                  宝田 豊 牧師
 


 
 
 

 

2019.5.26 小さな泉の恵み



 愛する小泉町教会のみなさん、こんにちは。きのうはバザーお疲れ様でした。きっとものすごく楽しかっただろうなーと思い描いています。 さて、私この512日(日)、連盟の大井バプテスト教会に転入会を承認していただき、大井の人になりました!教会員手帳を確認すると、小泉町教会への転入が2014511日!本当に5年キッカリ、小泉町教会に教籍を置かせていただきました。
 最初はめたらやたらな人間で、ご迷惑もたくさんおかけしましたが、しみちゃんと呼んで愛していただき、ともに神を礼拝し、みことばを学び、楽しく奉仕させていただいたことは忘れません。思い出はありすぎて、何が一番かなと考えているうちに締め切りに遅れそうになりました。


  みなさんのお祈りのおかげで、引越し先では大井教会というすばらしい教会にまっすぐに導かれました。と思ったらなんと、浅野姉のご友人とこの大井でお会いできて、まさに今日宝田先生と一緒にそのお二人が小泉町教会に来ておられるんですね!詳細は交わりの中でじっくりとお楽しみください。まことに神様は人との出会い、つながりの恵みをくださいます。是非、今日のピクニックをみなさんで喜び楽しんでください。そーいややっぱ一番の思い出は、転入会式の次の主日のピクニックじゃないかなぁー。本当に、ありがとうございました!これからは一味新しい交わりとなることを楽しみに、東京からお祈りしています。
                                           S.M姉
 

2019年5月24日金曜日

2019.5.19 牧師室便り


~天の本国を見つめながら~

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。」(詩編13712)                 
 先週の15日~16日の二日間、私たちの教会を会場として中国人伝道集会が開かれました。2030人ほどの集会でしたが、母国語の中国語でメッセージを聞き、讃美し、祈ることで、集われた皆さんは大きな励ましを受けたことでしょう。外国人の皆さんにとって国を離れて日本、富山の地に定着し、長い年月が流れて言葉の壁と文化の違いに慣れるのはなかなか難しい課題であるのは言うまでもありません。昔、バビロンで捕虜としての生活を余儀なくされたイスラエルの民がエルサレム神殿礼拝を思い起こしながら涙で讃美していた姿が重なって見えましたね。わが教会が皆さんに少しでも慰めと励ましの場を与えることができたことを嬉しく思います。


さて、先日は娘のパスポートの期限が切れて、新潟の領事館に行ってきました。3時間を超える一直線の北陸自動車道を走りながら、ふと、“いつまでこの道を走らなければならないのだろう!”という思いがしました。恐らく日本での生活を終える日まで、何度もパスポートとビザ更新のために領事館と入国管理局に行き来することになるでしょう。これは私たちが世界どこの国に行っても同じく経験すべきことです。・・・私たちは天国を故郷とする天国人です。天国の民となれば、二度と更新の手続きは要りません。しかしながら、本国を忘れているような日々を過ごしていませんか。ぜひ、天国人としての信仰を確かめつつ、天を見つめながら賛美の声をあげたいですね。

来る69日は教会の誕生日であり、聖霊によって言葉が通じ合えるようになったペンテコステです。昨年同様、各国の言葉による礼拝をささげたいと思います。願わくは、小泉町教会のペンテコステ礼拝を通じて神の家族の皆さんが天国を垣間見ることのできる恵みに与りますように・・・。シャローム!

2019.5.19 本日の宣教

『我、全能の父なる神を信じる』 (イザヤ63:16、エフェソの信徒への手紙3:1721)

 使徒信条はイエス・キリストを通して啓示された神を「全能の父なる神」と紹介します。神について聖書が用いている表現はたくさんありますが、その中から、初代教会は二つを選んで使徒信条に入れました。それが「父」と「全能者」という表現です。
 
 主イエスは御言葉を語る中で、神について「天のわが父」と呼ばれました。そして祈られる時には、「アッバ、父よ」と、ユダヤ人の子どもたちがお父さんを親しく呼ぶ時に使っていた呼び方(現代の日本語にすると「パパ」に当たる)で、神を呼び祈られたのです。すなわち、主イエスと天の神は「父と子」としての親しい交わりをもっておられましたし、そのような神との関係を弟子たちにも勧めておられたのです。これが伝統となって初代教会の信徒たちは、神を「アッバ」と呼ぶようになったのです。

主イエスにとって「父なる神」という関係は、全生涯を通して現れています。まずは、12歳の時にエルサレム神殿での「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前です」(ルカ2:49という言葉、また、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられ、メシアとしての公の生涯を始められる時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11という父なる神の御声が聞こえました。そして十字架の上で最後に叫ばれた言葉も、「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)でした。主イエスにとって父なる神は働きの源であり、力でありました。父なる神と御子との関係は、私たちの思いをはるかに超える親密さと愛そのものでした。

そして使徒信条は、「父なる神」というイメージに、「全能の父なる神」という言葉がつけられています。旧約聖書で「全能の神」は「エル・シャッダイ」という言葉で、「全能」という言葉は、何でもおできになる、また御業をなすための力をもってすべてを支配されるお方を意味します。
それでは、使徒信条を通して告白されている全能なる神とはどのような方でしょうか。天地を創造された創造主なる神が、罪の中で滅びるべき人類の罪を赦し救うために独り子を遣わされ、愛する御子を十字架にかけられた、そして愛する御子を死者の中から復活させられた。そして、その御子を信じて罪赦され神の子とされた人々を永遠の御国へ導き、永遠の命を与えられる。この神こそ、全能なる神であると告白しているのです。ですから、父なる神の全能さは、ただ圧倒的な力を指すのでなく、神の御心と御業、神の愛する子どもたちのために成し遂げられる愛の力であります。そして、父なる神の全能の力は、ただ今、神の子どもである私たちのためにも等しく成し遂げられることを覚えていただきたい。この全能なる神を、「アッバ、父」と呼ぶことができるのはいかに幸いなことでしょうか。ハレルヤ!

2019.5.19 小さな泉の恵み




イースター、墓前礼拝、納骨式を愛する兄弟姉妹と共にささげ、感謝でいっぱいです。

イエスは言われた「わたしは、復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ1125)、「わたしは道であり真理であり命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ146)

夫が天に召されてから、さびしさと 悲しさと 空しさと 心細さ でいっぱいの毎日でした。そんな時、長い間教会を離れて礼拝を忘れていた私に 閔牧師が大変熱心に毎週メールを送ってくださり、教会へと導いてくださいました。また、教会の兄弟姉妹も暖かく迎えてくれました。

神の愛と恵みに感謝です。アーメン
                       N.Z姉

2019.5.12 牧師室便り


~兄弟、仕える者、僕になる~

「わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。」(コロサイ478

 今月のリビングライフのテキストの「コロサイの信徒への手紙」の結論の部分には、使徒パウロを支えていた同労者たちの名前が次々と登場します。“ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、エパフラス、ルカ、デマス・・・”その一人一人の名前を挙げながら、パウロが感じたであろう喜びと感動は言葉では言い表せないものであったでしょう。

一人の忠実な同労者をもっている人は輝く宝物を持っていると言えます。しかし使徒パウロはそのような宝物を両手の指でも数えきれないほど、多く持っていた幸いな人でした。実のところ、パウロがコロサイの信徒への手紙を書いていた時期は、ローマの牢につながれていた時でした。福音のために命をかけて走り続けてきた伝道者でしたが、今彼は肉体的な束縛と健康的な弱さ、霊的な寂しさや失望などで疲れ、落胆してもおかしくないような状況に置かれていました。しかし神は時に適って必要を満たされるお方。愛なる神はパウロを助け励ますために、宝物のような同労者たちを彼のそばに置かれ、力を得させてくださいました。彼らは「時には兄弟として、時には仕える者として、時には僕として」パウロを側で支えていました。彼らの忠実な献身によってパウロは元気づけられ、主イエスの教会と福音伝道にますます力強く励むことができたのです。

私たちの生きている世界は、仕えるよりは仕えられることを、慰めるよりは慰められることを求める人で溢れています。しかし、私たちの神は、仕えること、慰めること、執り成すことを喜ぶ人を望まれます。5月から続く諸行事を前にして、パウロの同労者たちのように、お互いが「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」になることを喜びとしたいものですね。神が私たちの群れを祝福してくださいますように・・・。シャローム!

2019.5.12 本日の宣教


『我、創造主なる神を信じる』 (詩編8:110) 

「初めに、神は天地を創造された」(創1:1。聖書の最初の一節は、創造に関する言葉です。神のなさる最初の愛の形こそ創造であります。そのため、信仰者の信仰の最初に「創造信仰」を置くことは当然であると言えましょう。聖書の御言葉は、私たち人をはじめ、自然世界のすべてのものが創造者なる神の被造物であると教えます。そして、神が造られたものの中に、意味なく創造されたものは一つもなく、すべてが確かな目的をもって存在していることが記されています。

使徒信条が最初に成立されようとしていた時、キリスト教会を脅かしていたのが、世界を二元論という基準で区分しようとするグノシス主義(霊知主義)的な異端の思想でした。彼らは目に見えない霊的・精神的なものを善とし、目に見える肉体的・物質的なものを悪と分けていました。ですから、彼らの目から見ると、聖書が語る「目に見える世界を創造された神」は、当然劣等な神であったわけです。そのような異端思想との戦いの中で、真っ先に確かめ、告白せざるを得なかったのが、「創造主なる神を信じる」信仰告白であったわけです。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった時、「見よ、それは極めて良かった。」と言われました。その中でも人は「神の御姿にかたどり、神に似せて造られた」(創世記1:26と語っており、人への神の格別な思いが記されていることが分かります。

本日の詩編8編の詩人は、神の被造物である宇宙万物に表されている神の栄光を賛美します。彼の目に映る世界こそが、創造者の手による極めて素晴らしい作品であることに感嘆します。“天、月、星、羊、牛、野の獣、空の鳥、海の魚、それに幼子、乳飲み子”を登場させ、創造者なる神の御名とその力、栄光が全地に満ちていることを生々しく感じつつ声高らかに歌っているのです。

そうです。信仰とは、“創造主なる神が私を愛してくださる事実を日々の生活の現場の中で体験し、「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(8:5と告白しつつ、その神を賛美し礼拝者として生きること”であると言えるのではないでしょうか。
 全世界70億の人口の中で、あなたも、私も、神の似姿で造られた尊い存在、誰もあなたと私の代わりになるものはいません。しかも、神の独り子の命をかけた愛が注がれているあなたと私なのです。毎日、鏡に映っているあなたの姿から創造主なる神の愛を見出す人は幸いです。そして創造主の御手に自分自身をゆだねましょう。創造の業は今もなお続けられていることを信じ、神の似姿にふさわしく造り変えてくださることを期待しましょう。「我、創造主なる神を信じます」と告白するあなたを通して神は栄光を表されるでしょう。ハレルヤ!  

2019.5.12 小さな泉の恵み


  私は連休中に図らずも広島、長崎を訪れて、両方の原爆資料館に行きました。昭和時代のいや全時代を通して、世界中で一番の地獄があった、広島、長崎で平成から令和に時代が移る時にそこに居て考えることは、世界中から核兵器がなくなり、戦争がなくなる令和になることを祈らなければなりません。また、福島で東日本大地震にあっている私は、原発もいらない世の中にあるように祈ります。自然災害はなくなる事はないとは思いますが、乗り越えていける、助け合っていける、令和時代にしていきたいですね。
 日本キリシタン発祥の地、長崎で、浦上天主堂、大浦天主堂に入り、歴史資料館などを見ていると、日本でのキリスト教の布教が最近の話なんだと、でもここには確かにクリスチャンとしてこの世で生きて、永遠の命を信じて天国に行った人々がたくさん居たのだと感じます。プロテスタントとカトリックの違いはありますが、今年11月にローマ法皇が日本に、大浦天主堂に来られるだろうと聞き、キリスト教の大ブームが起こり、神様、イエス様の存在が日本人、みんなに知れ渡る、そんな11月が来るようにと、今から祈ります。
新しい令和時代で気持ちも改めて生活していかなくては小泉町教会も新しい令和時代で益々力が発揮できますように、皆で祈る幸せが続きますようにと…。
                            T.K姉

 

2019.5.5 牧師室便り


~新しい時代を歩むあなたへ~

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
(ローマ122

「令和」時代が始まりました。10連休と共に日本の国が新しい天皇誕生に燃えた一週間でしたね。神の家族お一人お一人も新しい時代に成される神のご計画と御業を待ち望みつつ、祈り続けることを心がけましょう。
さて、先週はわが教会において定期総会が開かれ、中部連合においては協力伝道会議が開かれました。定期総会では2019年度も昨年度に続き「祝福の源となる」という主題標語を掲げ、歩むことを承認しました。また、今年度から5人になる執事を中心に神の家族お一人お一人が神よりいただいた賜物と信仰を合わせ、伝道に励むことを確認し合える恵みの時でした。一方、名古屋教会を会場にして行なわれた「協力伝道会議」では、“パラダイム・シフト”という課題を中心に、日本バプテスト連盟の宣教部長の松藤師の発題、そして金沢教会の田口先生によって北陸三教会が取り組んでいる福井教会の復興のためのプロジェクトの提案がなされ、福井教会のD兄の教会復興への熱い証しがなされました。協力伝道会議に参加していた60人余りの人々はD兄の証しに心動かされていました。今まで福井教会への伝道支援に半信半疑の態度を取っていた人々が、前向きに変えられる姿を見ながら、本当に一人の幻の人がもたらす力こそ人知を超えて働くということを確かめるひと時でした。その後、岐阜教会と瑞穂教会の現実と課題が発題されました。すぐ答えの出ない難しい課題もあり、これからのわが教会に適用できそうなヒントも得ることができた有意義な時でした。・・・大切なことは、神の家族お一人お一人が、いついかなる時でも、何が神の御心で、神に喜ばれることなのかをわきまえながら生きることでしょう。シャローム!



 

2019.5.5 本日の宣教

『 「我」から「我ら」へ 』 (ルカによる福音書171119)

前回私たちは使徒信条の最初の言葉、「私は信じます」(credo)という言葉を中心に分かち合いました。ここで興味深いことは、なぜ使徒信条は「クレド」(credo)、すなわち「我は信じます」という一人称の「単数」で始まっているかということです。確かに、教会は共同体であるため、教会の信仰告白も「我は信じます」という単数でなく、「我らは信じます」という、一人称の「複数形」で語られるべきではないか、という声が多くあったことも事実です。

それでは、使徒信条ではなぜ、信仰の主体が「私たち」という共同体でなく、「私」という個人を強調しているのでしょうか。・・・聖書は一個人が主イエスに出会い変わっていく過程を教えてくれます。多くの場合、主イエスはある個人を群れの中から呼び出し、その人と個人的に出会われ、交わってくださり、救いの恵みを与えてくださるという流れを取っています。そうです。信仰はイエス・キリストとの個別な出会いを通して成し遂げられ、深められるものです。・・皆さん、主イエスが人々と関わっておられる場面を思い起こしてみてください。そのほとんどが「シモンよ、ザアカイよ、ラザロよ、トマスよ、マリアよ、・・・」と一人の名前を呼ばれることから始めて御業を成されるのを見ることができます。

本日の聖書箇所の中でも、主イエスと一人との関係が大切に語られています。主イエスが 10人の重い皮膚病の人たちに出会い、彼らを憐れまれ、10人を癒してくださるという記事が登場します。しかし、癒された10人の重い皮膚病の人のうち、サマリア人1人だけがイエスの前に戻り感謝をささげたことに対し、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉と共に、一対一の個別の交わりの恵みが与えられました。また、復活された後、主イエスは弟子たちの中から、シモン・ペトロだけを個別に呼ばれ、「シモン、あなたはわたしを愛しているのか」と尋ねられます。そのイエスの問いかけに対し、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という応答を通して、ペトロ個人の使命と主イエスとの愛が回復されるのを確認できます。
そうです。信仰とは、私たち各自が神と「一対一、神の前に単独者」としての関係を結ぶことです。その時、神は一人一人の名前を呼ばれ、御言葉と愛による人格的な交わりを与えてくださいます。これで神の方からだけではなく、「私」の方からも神を「あなた」と呼んで近付き、自分自身を神にゆだねるようになるのです。その時、神は私とあなたをこの世の中で、最も素晴らしい存在として受け入れてくださり、神ご自身を示してくださるのです。そのような神との一対一の人格的な交わりは私たちをもっともっと深い神との関係へと導いてくれるのです。


 しかし、信じることとは、一人だけの個別の行為で終わらないことを覚えましょう。主イエスは一人を呼ばれ、救いを与えてくださってから、教会共同体の方へと導かれるのです。ここで「我」から「我ら」へと広げられる信仰の共同体性の神秘を知ることになります。イエス・キリストの十字架の恵みと復活の命、聖霊の臨在の恵みを知る人は必然的に「我」の恵みにとどまることなく、「我ら」の恵みへと広げられていくはずです。ハレルヤ! 

2019.5.5 小さな泉の恵み




今のわたしには役割がたくさんあります。准看護師として働き、看護学生として学校で学び、家では3人の子どもの母です。

背負うものが多く、こんな毎日が永遠に続くと思っていましたが、この春、二十歳の長女が看護師免許を取得し、就職しました。一人暮らしをしながら黒部市の病院で働き、立派に自立しています。

そこでわたしは、“ひとつの役割が終わった”ことを実感しました。

彼女の巣立ちは親として、喜ばしく、感謝のなかに大きな肩の荷を降ろす出来事でした。そして同時に、わたしは、失う、という感覚も少なからず味わいました。

未熟な自分には子育てはストレスに感じるときもありました。しかし、母としての役割があることは、恵みだったんだ。と気付くことができました。

振り返ってみると、長女の10代後半の成長はすばらしいものがありました。それはわたしによるものではなく、彼女の賜物と努力による成長でした。

  結果、案ずることなど何もなかった。過程を楽しみ、神様にただ、ゆだねていけば良かったのだな、と感じることができました。              
  “神のなさることはすべて時にかなって美しい。”          
                                A.M2姉

2019.4.28 牧師室便り


~ さあ、始めよう ~
 “涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編12656

イースター諸行事と総会準備で忙しくしていた日々から、やっと少しの余裕が出て来て、後回しにしていた教会の周りの草むしりと、畑仕事を始めました。先日から教会の花壇に、皆さんの協力によって、綺麗な花が通りかかる方々の笑顔を得ていることに感謝します。そこで、春の季節にふさわしいとはいえ伸び放題に成長する草に占領されていた教会周辺をいよいよ整え、畑を耕し石灰と肥料を混ぜる作業をしました。久しぶりに使う筋肉は悲鳴を上げ、体の至るところに痛みが走っていますが、心は充実感と期待感で満ちています。感謝!本日は2019年度の定期総会が開かれます。昨年一年間、「祝福の源となる」という標語のもと、祝福された一年を過ごすことができました。
そして、「祝福の源」としての2年目に入ります。今年は祝福の源から流していた恵みの実を結ぶ時にしたいですね。そのためにも、私たちの教会と神の家族の周りに生えている草を取り除き、恵みの実を結ばせるために神の畑を耕し、栄養たっぷりの御言葉の肥料を与えることから始めたいですね。そして、神の家族お一人お一人が神よりいただいた賜物に応じて、それぞれの働きの場所で汗と涙を流すことでしょう。パウロが語ったように、“わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神です。(Ⅰコリント36)”という姿勢をもち、キリストの畑である小泉町教会を実り豊かな場所にしていきたいものです。          
さあ、神の畑の農夫たちよ、成長させてくださる神を信じ、信仰の種蒔きから始めましょう。シャローム!



2019.4.28 本日の宣教

『 幸せな伝道者 』(マタイによる福音書2820)  

「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)

  閔先生から「坂上さんは今幸せでしょう」と言われることがあります。その時「幸せです。」とお答えします。勿論自分にとって心地よいことばかりではありませんし、不愉快なことや辛いことも沢山あります。それでもそれらを通して聖書を身近に感じているのです。ルカによる福音書24章やヨハネによる福音書の21章には復活のイエスに出会った弟子たちがイエスであることに気付かないシーンが描かれています。初めてその箇所を読んだ時にはなぜ気付かないのか不思議に感じました。この一年私に対して別人のようだと評されます。街で知り合いに声をかけても最初は私だと気づいて貰えないのです。誤解しないで頂きたいのですが、私自身を主イエスと同じように捉えているのではありません。私のように僅かな変化であっても私を私として認識して貰えないなら、惨たらしい死を遂げた後、栄光の身体を持って甦られた主イエスが判らなかったとしても無理はありません。かえって聖書の記述がリアルに感じられたのです。私は今、近所の農家で働いています。聖書には度々農夫が登場します。良い農夫もいれば悪い農夫もいます。農業をやってみて信仰や伝道に通じる部分が多いと感じています。予定の作業が雨の為延期を余儀なくされたり、毎年同じようにしようとしても天候やその他に影響を受け豊作の場合もあれば全滅ということもあります。工業製品とは違い作業と結果が直接繋がらないのです。種を蒔かなければ収穫がないのは当然です。人の手を介するものの、結果は神の御手の中です。冬の農業の閑散期はスキー場や幾つかの仕事で多数の皆様に出合いお世話になりました。それらの勤め先で最初にお願いするのは、日曜日は礼拝の為休ませて欲しい。もしダメなら他の仕事を探しますと申し上げています。礼拝は生きる上で優先されるべきものです。
  私の幸せを形作る教会、仕事、家族をとても有りがたく思うと同時に仮にそれらが全て失われたとしても、私は幸せと言えます。 全てを造り、全てを与えて下さる主が共にいると確かな約束を下さっているからです。以前、ヨブ記を読んだ時、子どもを皆亡くして後、同じ人数の子を授かったとしても悲しみは変わらないと思いました。勿論今でも子どもたちを思う心は変わりませんが、それらとは比較にならない大切なお方が私を包んで下さっています。幸せは父、御子、聖霊の神より与えられたものです。富山小泉町キリスト教会の墓標にあるようにわたしたちの国籍は天にあります。今ある幸せ、平安、恵みを私だけのものとせず周りの全ての皆様と分かち合えたらと思います。福音伝道こそ主イエスの教えであることを心に留めます。 
                                         S.Y兄            

2019.4.28 小さな泉の恵み

 
~クラス会~
 80歳を超えて小学校の級友に会いたいと思い参加。家の中で転倒、右胸打撲と診断されたが、医師は参加しても良いとのこと。行先は富山市呉羽山公園にある宿泊所、桜の名所である。呉羽山公園は小学校の頃、よく遠足に行った公園である。思い出の多い所であり。参加者は毎年だんだんと少なくなっているが、懐かしい旧友達、お互いにおしゃべりは絶えない集まりである。個々好き勝手なことばかり言っていること。まあ楽しい一夜でした。

 そんな話を聞いていると、私の考え方が進歩的だと感じました。一人一人の意見を聞いて、さまざまだが、私は教会で兄弟姉妹と交わり、聖書を読む機会が与えられ、牧師を通して神の宣教等いつの間にか私の心の中に芽生えているのだと感謝しました。何故か級友からみれば優越感を感じました。

 高齢になって逢う旧友、もう故人となった友。色々な事情で参加出来なかった友。旧友は自分の人生の終末はいつだろうか!!と語り合い、次回の再会を誓って別れ。

 私はいつ頃、人生の終末はいつだろうか?義母70歳、母は88歳で逝去。しかし、私はわからない。これも神様が定めること・・・。
                                    A.M.1姉