2019年5月24日金曜日

2019.5.5 本日の宣教

『 「我」から「我ら」へ 』 (ルカによる福音書171119)

前回私たちは使徒信条の最初の言葉、「私は信じます」(credo)という言葉を中心に分かち合いました。ここで興味深いことは、なぜ使徒信条は「クレド」(credo)、すなわち「我は信じます」という一人称の「単数」で始まっているかということです。確かに、教会は共同体であるため、教会の信仰告白も「我は信じます」という単数でなく、「我らは信じます」という、一人称の「複数形」で語られるべきではないか、という声が多くあったことも事実です。

それでは、使徒信条ではなぜ、信仰の主体が「私たち」という共同体でなく、「私」という個人を強調しているのでしょうか。・・・聖書は一個人が主イエスに出会い変わっていく過程を教えてくれます。多くの場合、主イエスはある個人を群れの中から呼び出し、その人と個人的に出会われ、交わってくださり、救いの恵みを与えてくださるという流れを取っています。そうです。信仰はイエス・キリストとの個別な出会いを通して成し遂げられ、深められるものです。・・皆さん、主イエスが人々と関わっておられる場面を思い起こしてみてください。そのほとんどが「シモンよ、ザアカイよ、ラザロよ、トマスよ、マリアよ、・・・」と一人の名前を呼ばれることから始めて御業を成されるのを見ることができます。

本日の聖書箇所の中でも、主イエスと一人との関係が大切に語られています。主イエスが 10人の重い皮膚病の人たちに出会い、彼らを憐れまれ、10人を癒してくださるという記事が登場します。しかし、癒された10人の重い皮膚病の人のうち、サマリア人1人だけがイエスの前に戻り感謝をささげたことに対し、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉と共に、一対一の個別の交わりの恵みが与えられました。また、復活された後、主イエスは弟子たちの中から、シモン・ペトロだけを個別に呼ばれ、「シモン、あなたはわたしを愛しているのか」と尋ねられます。そのイエスの問いかけに対し、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という応答を通して、ペトロ個人の使命と主イエスとの愛が回復されるのを確認できます。
そうです。信仰とは、私たち各自が神と「一対一、神の前に単独者」としての関係を結ぶことです。その時、神は一人一人の名前を呼ばれ、御言葉と愛による人格的な交わりを与えてくださいます。これで神の方からだけではなく、「私」の方からも神を「あなた」と呼んで近付き、自分自身を神にゆだねるようになるのです。その時、神は私とあなたをこの世の中で、最も素晴らしい存在として受け入れてくださり、神ご自身を示してくださるのです。そのような神との一対一の人格的な交わりは私たちをもっともっと深い神との関係へと導いてくれるのです。


 しかし、信じることとは、一人だけの個別の行為で終わらないことを覚えましょう。主イエスは一人を呼ばれ、救いを与えてくださってから、教会共同体の方へと導かれるのです。ここで「我」から「我ら」へと広げられる信仰の共同体性の神秘を知ることになります。イエス・キリストの十字架の恵みと復活の命、聖霊の臨在の恵みを知る人は必然的に「我」の恵みにとどまることなく、「我ら」の恵みへと広げられていくはずです。ハレルヤ! 

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