2021年3月22日月曜日

2021.3.21 牧師室便り

 ~ 働き人を送ってください ~

 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(マタイ93738)」
 
本日は2021年度の小泉町教会の奉仕の先頭に立つ5人の執事を選ぶ執事選挙が行われます。毎年、執事選挙の日が近づくととても嬉しくなります。どの方が執事に選ばれるだろうかと楽しみだからです。特に、教会の執事選挙は政治家やクラス長を選ぶような人気投票ではなく、祈りの中で聖霊が示してくださる人をみんなの手で選ぶことになるため、素直に嬉しくなるわけです。
 
昨年度に選ばれた執事の皆さんは、新型コロナウイルスで計画していた執事としての奉仕ができなかったことに心残りがあると思いますね。しかし与えられる状況に応じて、できる限りの奉仕をしたことで感謝しましょうね。父なる神が皆さんの尊いお働きを喜ばれ祝福されたことを。…とりわけ新年度の執事選挙において教会の中心的な役割を担ってこられた二人の兄弟が「任期3年限定の規約」に従い選ばれなくなったことで不安を覚える方々がおられるかもしれません。しかし、いつも申し上げてきた通り、「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じる」信仰告白に立ち、今まで時宜にかなって新しい働き人を立てられ育ててくださった神に信頼し期待しましょうね。健康な教会はいつも新しい働き人を育てあげ、また送り出す教会であることを覚えましょう。

恐らく今年も新型コロナウイルスの多大な影響におかれるでしょう。再三、礼拝休止に追い込まれることがあるかもしれませんし、公の伝道活動が塞がれてしまうかもしれません。そういう中、出席人数が減り、財政的にも厳しさが増すことも予想されます。しかし、私たちは目に見えるものでなく見えないものに希望をおきますし、試練の時こそ、聖霊の働きが確かに見えるリバイバルの時であることを知っています。願わくは神の家族お一人お一人が、収穫の時の善き働き手として立ち上がれますように…。私たちを通して御国を広められる主を讃美します。シャローム!

2021.3.21 本日の宣教

『イエスのように 』(ルカ222427、ヨハネ1315)

受難節もいよいよ十字架のクライマックスに向かおうとしています。主イエスは過ぎ越しの祭りの夕食の席で、キリスト教会における大切な二つの象徴的行為である「主の晩餐」と「弟子たちの足を洗う洗足式」を行われます。
 
その時の主イエスの姿を聖書は、ご自身がこの世を離れて、天の父のもと移る時が来たことを悟られたため、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」と表現します。「この上なく」という言葉は、「完全に、最後まで」と訳すこともできます。主イエスはイスカリオテのユダが裏切ることも、弟子たちが主イエスを否認し逃げてしまうこともご存じでありながらも最後までこの上なく完全な愛を注いでおられたのです。そしてその愛は弟子たちの足を洗うことで現れました。

 しかし、この上なく注がれていた主イエスの愛に対し、同じ場所にいた12名の弟子たちは、この主イエスの愛の姿に気付く余裕がありませんでした。ルカによる福音書では、同じ場面での弟子たちを、“誰が偉いか”ということで争っている姿で描いていることが分かります。「この上なく愛される主イエス」と「誰が偉いかと争っている弟子たち」の間にできてしまった隔たりはなかなか乗り越えられないものでした。

 そこで主イエスが取られた行動が、弟子たちの前で僕のようになることでした。主イエスは突然、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれる。…この姿は、最も低い奴隷が客の足を洗う時の姿そのものでした。聖書当時も、今現代も、先生が弟子たちの足を洗うということはあり得ない大変破格なことでした。それでは、なぜイエスは僕の姿を取ってまで、弟子たちの足を洗われたでしょうか。その答えが1415節に示されています。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と。

 執事選挙と共に2021年度を始めようとする神の家族の前に、たらいに水をくんで手ぬぐいを腰にまとわれた姿でひざまずいている主イエスが見えます。僕の姿をもって。…あなたと私の足がどれほど汚れていても、主イエスはきれいに洗ってくださるでしょう。そして“主であり師であるわたしがした通りに、あなたがたも僕になりなさい!”とチャレンジしておられます。

 愛する神の家族の皆さん、今、皆さんの視線はどこにあるのでしょうか。ぜひ、僕になられた主イエスに視線を固定しましょう。そして、主イエスの謙遜と愛に心打たれる毎日でありたいですね。まさしく「教会」は、主イエスの思いと、御心を実現する群れ、また主イエスの姿が常に成就され、現される場所です。だから、まず牧師が、次は執事が、また教会員が、「イエスのように」、進んで僕になることに熱心なキリストの体を作り上げていきましょう。ハレルヤ!

2021.3.21 小さな泉の恵み

 

ハレルヤ 主の御名を賛美します。                                         コロナが流行してからは、職場では緊張感をもって感染対策に取り組んでいます。                         おかげで施設内に流行ることなく今日に至っています。

施設では、発熱した人がでた時は原因がわかるまではキャップ、フェースシールド、予防衣、手袋をつけて対応しています。この状態で看護にあたると、汗がでて予防衣に水滴がつき、手袋の先も汗がついてきます。とても暑く、動きにくいです。時には、どうしてこんな仕事を選んだろうと思う時があります。でも、そんな時こそ、弱い自分には協会が必要だと実感します。

「キリストは・・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」この御言葉を思い出しながら「神様・・・」と小さな声で呼びかけると、自分の気持ちも前向きになり、暖かい光が灯ります。
そして、看護の道を力強く歩んでいこうとする勇気が与えられます。

感謝です。

                                   I.C.姉

2021.3.14 牧師室便り

 ~ 今やるべきことは? ~


 「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。(ルカ13:33)」

 

 主イエスの公生涯において、人を癒したり、奇跡を起こされたりした後、よく語られた言葉があります。「まだ時が来ていない」ということでした。主イエスはいつも神の時間に合わせながら公生涯を歩まれたことを覚えましょう。忙しいから後にやるべきことを先に済まそうともされませんでしたし、今やるべきことを後回しにされたこともありませんでした。常に父なる神と相談されながら、その日その日の歩みを続けられたのです。それからペトロの信仰告白がなされた後、いよいよ十字架の死と復活を弟子たちに語り始められ、十字架の道をまっすぐ進んで行かれたことを聖書は記しています。「今日も明日も、その次の日も…」と、父なる神から委ねられた使命を果たすために、日々、定められた「カイロスの時」を、最善を尽くして歩まれたのです。

 コロナ危機の時代を歩んでいる私たちです。コロナは私たちのすべてのスケジュールを変えてしまいました。コロナが流行り出した最初の頃は、すべての礼拝や諸活動を休止せざるを得なかったわけですが、一年が経った今、私たちは感染防止の生活にも慣れながら、礼拝と祈祷会、ディボーションタイムといった教会活動の中心的礼拝と集会を再開しています。もちろん、再びコロナ危機が深刻化していくことになれば、やむを得ず休止することになると思いますが、まず防疫を徹底しながら、今できることを大胆に始めることも信仰のチャレンジではないかと思います。今現在、コロナによって行えずにいることには、①教会学校 ②昼食 ③親しい交わり ④信徒会 ⑤中国語礼拝、英語礼拝 ⑥路傍伝道 ⑦各会 ⑧夕礼拝などがあります。執事会では、5月を目途にして感染状況を客観的に判断し、柔軟に再開の可能性を探ることを話し合いました。願わくは、父なる神の御心を尋ねながら、今私たちがやるべきことと、やめるべきことを見極めたいですね。シャローム!

2021.3.14 本日の宣教

 『 一杯の水、小さな一人、そして塩 』(マルコによる福音書94150)     

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)」

主イエスは福音のために働くイエス様の弟子に“一杯の水を飲ませる人”は必ず報いを受ける!と約束しておられます。皆さん、一杯の水を飲ませるということは、人にできる最低限の憐れみの行為です。コヘレトの言葉では、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう。(11:1)」と教えます。すなわち、一杯の水とパンというのは 特別に大げさなことを表しているわけではなく、私たちが持っている最も小さな価値を表す単位です。その最も小さな価値を分かち合うことで、神は報いてくださると約束しておられるのです。そうです。主イエスは私たちに何か偉大なことや、私たちの力の範囲を超えた無理なことを求めてはおられません。むしろ、誰にでもできる小さなこと、小さな者同士がキリストの愛を受け、できる限りの憐れみの心をもって差し出し合う一杯の水、ひとつのパンを用いられ豊かに祝福してくださることを約束されるのです。コロナ危機の中で、神の家族の皆さんの周りに一杯の水を求めている人はいませんか。一杯の水に神の祝福が込められていることを覚えましょう。

続いて主イエスは、「小さな一人をつまずかせる者は恐ろしい刑罰を受ける」ことをも語っておられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコ9:42)」・・・先ほどの「一杯の水を与え報いを受ける」というような優しいこととは裏腹に、ここでは「小さな一人をつまずかせてはならないということを、自分の体を切り捨てるほどの覚悟を持って聞きなさい!」という、大変厳しい言葉が続きます。皆さん、考えて見ましょう。一人の人をつまずかせたら大きな石臼を首にかけて海に身を投げ込め!と。また、片手が罪を犯したらその手を切り捨てなさい!と。さらに、もしあなたの片方の足がつまずかせたらその足も切り捨て、もし目がつまずかせたらそれをえぐり出せ!という・・・。本当に怖い話です。今にもその場が血まみれになってしまいそうな厳しい御言葉の連続です。それでは、これらの言葉をどう受け止めるべきなのか。どのようにしてこれらの言葉に応答できるでしょうか。…しかし、安心してください。主イエスがここで語っておられる大切なメッセージこそ、「主イエスは小さな一人を大切に愛しておられるのだ!」ということですし、「小さな一人を大切にする主イエスの御心をあなたも抱きながら歩みなさい」というメッセージなのです。それに加え、「永遠の神の国に入る」ということは、片方の手足を切り捨て、片方の目をえぐり出すこと以上の尊い価値があることを覚えなさい!という恵みのチャレンジなのです。

実に、主イエスはあなたと私に天国の永遠の命を得させるために、御自ら十字架の上で極限の苦しみを受け、尊い命をも身代わりとして与えてくださったということです。ここに私たちの救いがあるのです。受難節を過ごす神の家族が、「一杯の水を飲ませ、小さな一人を愛し、平和を実現する」ことを心に刻むことができますように…。ハレルヤ!

2021.3.7 牧師室便り

  ~ 価値観を変えよう ~  

「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(一ペトロ2:21 ) 」  

 受難節のリビングライフのテキストはマタイによる福音書です。とりわけ受難節に入ってからは、主イエスが十字架に向かわれつつ、必死で弟子たちに十字架の意味と復活を教えようとしている姿が描かれています。しかし、弟子たちは主イエスが建てられる王国で、自分たちは何になろうかと燃え、誰が偉いのかということで争っていたことが分かります。

神の国の価値観を語られる主イエスの御心とは裏腹に、この世の価値観に心を奪われている弟子たちへの厳しいメッセージをいくつか紹介しますと、①わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい ②子どものように自分を低くしなければ天国には入れない ③七回どころか七の七十倍までも兄弟を赦しなさい ④金持ちが天国に入るのは難しい ⑤先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる、など…、しかしこれらの主イエスの御声は、2000年前のみならず、現代においても厳しく迫ってきていることに気づきます。


とりわけ受難節を過ごしている私たちキリスト者は、十字架の道を一歩一歩と進められる主イエスの足跡に従いつつ、神の国にふさわしい価値観に立って生きていくことを心がける時であると思います。東日本大震災10周忌を迎えるが、未だ苦しみの中にある方々を覚えます。また、新型コロナウイルスという未曾有の災難の前で多くの人が試練に遭い、苦しんでいる中、私たちキリスト者は神の国の価値観を貫くべきではないでしょうか。また、ミャンマーにおける軍によるクーデターで多くの人々が命を奪われる中で、世界に向けて助けを叫んでいる。…このような時代だからこそ、弱い人、小さな人、苦しむ人々への執り成しと支えが求められるのです。


イエス・キリストは、まことに弱い私たちのために十字架を背負い、贖いの道を歩まれました。そのイエス様の苦しみと十字架の贖いの前に悔い改めつつ、その愛の足跡についていくことを誓う神の家族の受難節でありますように…。シャローム!

2021.3.7 本日の宣教

 『 私は罪の赦しを信じます 』ローマの信徒への手紙72483)

私たちは、「罪の赦しを信じます」と告白します。その告白をする前に私たちは、まず、「罪」とは何であるのかについて知らなければなりません。「罪」、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。これは「的外れ」という意味をもっています。…人は本来、創造者なる神と交わり、神の愛を受け、神のご計画に従って幸せに生きる者として創造されました。しかし、人は「罪」を犯すことによって神から離れ、自分勝手な道を歩むことになりました。そこで人間の命の源なる神との関係が絶たれ、死と滅びの道をたどることになったのです。創造者であり、愛なる神との関係の中、神が描いておられた姿から離れ、生活の全てにおいての「的外れ」が生じ、神との関係が絶たれ、人々との関係も切れてしまう、自分自身の内なる人をも傷つけてしまう罪人となったのです。

それでは、罪を犯さずに生きることはできないでしょうか?聖書ははっきりと宣言します。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、…罪が支払う報酬は死です。」(ローマ3:236:23)つまり罪と人間とは切りたくても切れない不可分の関係にあり、その罪の問題を解決しなくては人間の根本的な死の問題を解決することができないのです。使徒パウロは、絶えず襲ってくる罪の誘惑に対し、次のように叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ724

最初に人間アダムの不従順によって、人間社会に入ってきた罪は、全人類を虜にし、死と滅亡を辿る存在と定められました。神への不従順から始まった罪は、高慢、偶像崇拝、姦淫、盗み、暴力、殺人、戦争、個人的罪、または国や民族、共同体的罪へと果てしなく広がっていきました。まさに、罪とその汚れに覆われている私たちは、罪により苦しめられる日々を生きています。そしてその都度、私たちは罪に対する小さな敗北を繰り返しているのです。もちろん、罪と死から解放されるために、人は立派な行いをしたり、宗教を求めたり、哲学や思想を深めたり、科学技術によって命を伸ばそうとするありとあらゆることを試みてきましたが、解決になる方法はありませんでした。

聖書は、罪から解放される道について、まず、人間側から罪と罪による絶望、人生の空しさから救ってくださるようにと、神の助けを求めることを示します。それに続いて、イエス・キリストの十字架を前にして自分の罪を告白し、自己中心から主イエスを中心に生きるための全人格からの悔い改めが求められるのです。その時、父なる神はイエス・キリストの十字架の愛を教え、その十字架の血潮によってすべての罪を赦し、神との和解の道を示し、神との新しい関係へと導かれるという福音が成就され、聖霊は私たちの内なる人を変え、新しい神の子どもとなる新生の恵みを与えてくださいます。その時、私たちはすべての罪が赦され、永遠の神の国への約束を、プレゼントとして受けることになり、「私は罪の赦しを信じます」と告白することができるのです。ハレルヤ!

2021.3.7 小さな泉の恵み


春は出いと別れの季節と言いますが、愛する神の家族野知子姉が富山の地を離れられるというのは、あまりにも寂しく悲しい思いがあります。これまで姉妹の思いやりと見識にちた言葉にいつもまされてきました。メッセジを失敗してズタズタに傷んだ心にも高級なガゼのような素敵な言葉で手てをして下さいました。これから始まる新しい生活に主が伴われ全てを豊かな祝福でたしてくださいますように。ご主人、御家族の上にもみと平安がありますように。

又、別れの一方、昨年から田中まい姉、安田菜々子姉、山本めい姉、石原愛弓姉の出産により大いなる祝福とましがもたらされました。主の御手の中、豊かなみと祝福にたされますようにお祈りいたします。私のような者が言うことではありませんが、お兄ちゃんやお姉ちゃんがおられるなら、彼らはお母さんとの時間が減って大なり小なり寂しさを感じています。出るだけ一日に一回は8秒以上抱き締めてあげてください。心が安定すると聞いています。老婆心ながら。

わたしたちの主イエキリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる的な祝福でたしてくださいました。(エフェソの信徒への手紙1:3)

主の光がとこしえにありますように。

                                 S.Y.兄


2021.2.28 牧師室便り

 

~ 毎日信仰のワクチンを! ~


神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに  刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。「ヘブライ412)                                       

 新型コロナウイルスというトンネルを終わらせてくれると期待されているワクチンがいよいよ日本にも届けられ接種が始まりましたが、様々な課題が出てきたため、なかなか進んでいないようです。いつ私たちの順番まで届くだろうかと予測することすらできない状況ですね。大切なことは、今しばらくはマスクと消毒、ソーシャルディスタンスを守りながら、その日を待つべきでしょう。しかし、マスク生活を続けてきたお陰で、新型コロナウイルス以外のインフルエンザや風邪など、冬によく流行っていた病気がほとんど流行しなかったことは不幸中の幸いでしたね。“最高のワクチンはマスク着用だ”と言われていたのは本当のことでしたね。ただし、いつまでもマスクをしての生活をすることは大変なことなので、一日も早くマスクから解放される日を待ち望む私たちです。

 それでは、信仰におけるワクチンは何でしょうか。それは言うまでもなく、毎日神の御言葉をいただくことです。新約と旧約という「ワクチン」をいただくこと、御言葉で心身を満たすことです。そうすることで、御言葉は生きて働き、私たちの体と心、魂を強め、どんなウイルスの攻撃にも対処できるようになるでしょう。しかし、ただ御言葉を読むことに意味があるのでなく、日々の霊の糧である御言葉への飢え渇きと聖霊の知恵と助けを慕い求める心を、まず備えることです。

私たちはいつも何かを選択しなければならない場に立たされて生きています。そしてその選択の基準を御言葉に置く人が成熟したクリスチャンなのです。そのために、御言葉がその人の全人格をとらえなければならないでしょう。コロナのためのワクチンは一回か、二回で済むかもしれませんが、私たちの信仰のワクチンである御言葉は毎日必要なのです。それほどサタンの致命的なウイルス攻撃は一生の間続くからです。受難節を過ごす神の家族お一人お一人の魂と体、すべてが健康でありますように。シャローム!

2021.2.28 小さな泉の恵み

 

あゝいけない、だらだらしている。自室の大鏡に自分の姿をチェーク。だんだん背中が丸く曲がっている。私の母も高令になっていくにしたがって背中が曲がっていた。

母の血を引く私もかな。人間って良いところを似ればよいのに悪いところの血を引いていく。どうしようもないのである。そうならない事を思い、鏡に映る自分をみては、普段から気をつけて伸ばすことにしているが、母からいただいた遺伝子だと思い、これも神様からの決められた約束だと思います。私達にはほしくない遺伝子もあるがはどうしようもないことである。

 私は働くことに日々張り合いをもっています。日常生活のひとつひとつを大切にと他人との話をする時も、尊敬の念をできるだけもつようにしています。

 この年令になって新しい経験をさせてもらってもいます。今迄にやったことのないことを体験してみようかと思ってみたことあります。こうして教会に来て、教会の方々、そして若い皆さん達に接して、いろいろとエネルギーをいただき、これも神様のおかげだと感謝しています。

 もう2021年になりました。だんだん亡き母に似てくるので、良いところばかり似てほしいと神様にお願いしています。

                        A.M.姉