『 一杯の水、小さな一人、そして塩 』(マルコによる福音書9:41~50)
「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)」
主イエスは福音のために働くイエス様の弟子に“一杯の水を飲ませる人”は必ず報いを受ける!と約束しておられます。皆さん、一杯の水を飲ませるということは、人にできる最低限の憐れみの行為です。コヘレトの言葉では、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう。(11:1)」と教えます。すなわち、一杯の水とパンというのは 特別に大げさなことを表しているわけではなく、私たちが持っている最も小さな価値を表す単位です。その最も小さな価値を分かち合うことで、神は報いてくださると約束しておられるのです。そうです。主イエスは私たちに何か偉大なことや、私たちの力の範囲を超えた無理なことを求めてはおられません。むしろ、誰にでもできる小さなこと、小さな者同士がキリストの愛を受け、できる限りの憐れみの心をもって差し出し合う一杯の水、ひとつのパンを用いられ豊かに祝福してくださることを約束されるのです。コロナ危機の中で、神の家族の皆さんの周りに一杯の水を求めている人はいませんか。一杯の水に神の祝福が込められていることを覚えましょう。
続いて主イエスは、「小さな一人をつまずかせる者は恐ろしい刑罰を受ける」ことをも語っておられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコ9:42)」・・・先ほどの「一杯の水を与え報いを受ける」というような優しいこととは裏腹に、ここでは「小さな一人をつまずかせてはならないということを、自分の体を切り捨てるほどの覚悟を持って聞きなさい!」という、大変厳しい言葉が続きます。皆さん、考えて見ましょう。一人の人をつまずかせたら大きな石臼を首にかけて海に身を投げ込め!と。また、片手が罪を犯したらその手を切り捨てなさい!と。さらに、もしあなたの片方の足がつまずかせたらその足も切り捨て、もし目がつまずかせたらそれをえぐり出せ!という・・・。本当に怖い話です。今にもその場が血まみれになってしまいそうな厳しい御言葉の連続です。それでは、これらの言葉をどう受け止めるべきなのか。どのようにしてこれらの言葉に応答できるでしょうか。…しかし、安心してください。主イエスがここで語っておられる大切なメッセージこそ、「主イエスは小さな一人を大切に愛しておられるのだ!」ということですし、「小さな一人を大切にする主イエスの御心をあなたも抱きながら歩みなさい」というメッセージなのです。それに加え、「永遠の神の国に入る」ということは、片方の手足を切り捨て、片方の目をえぐり出すこと以上の尊い価値があることを覚えなさい!という恵みのチャレンジなのです。
実に、主イエスはあなたと私に天国の永遠の命を得させるために、御自ら十字架の上で極限の苦しみを受け、尊い命をも身代わりとして与えてくださったということです。ここに私たちの救いがあるのです。受難節を過ごす神の家族が、「一杯の水を飲ませ、小さな一人を愛し、平和を実現する」ことを心に刻むことができますように…。ハレルヤ!
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