2021年3月22日月曜日

2021.3.21 本日の宣教

『イエスのように 』(ルカ222427、ヨハネ1315)

受難節もいよいよ十字架のクライマックスに向かおうとしています。主イエスは過ぎ越しの祭りの夕食の席で、キリスト教会における大切な二つの象徴的行為である「主の晩餐」と「弟子たちの足を洗う洗足式」を行われます。
 
その時の主イエスの姿を聖書は、ご自身がこの世を離れて、天の父のもと移る時が来たことを悟られたため、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」と表現します。「この上なく」という言葉は、「完全に、最後まで」と訳すこともできます。主イエスはイスカリオテのユダが裏切ることも、弟子たちが主イエスを否認し逃げてしまうこともご存じでありながらも最後までこの上なく完全な愛を注いでおられたのです。そしてその愛は弟子たちの足を洗うことで現れました。

 しかし、この上なく注がれていた主イエスの愛に対し、同じ場所にいた12名の弟子たちは、この主イエスの愛の姿に気付く余裕がありませんでした。ルカによる福音書では、同じ場面での弟子たちを、“誰が偉いか”ということで争っている姿で描いていることが分かります。「この上なく愛される主イエス」と「誰が偉いかと争っている弟子たち」の間にできてしまった隔たりはなかなか乗り越えられないものでした。

 そこで主イエスが取られた行動が、弟子たちの前で僕のようになることでした。主イエスは突然、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれる。…この姿は、最も低い奴隷が客の足を洗う時の姿そのものでした。聖書当時も、今現代も、先生が弟子たちの足を洗うということはあり得ない大変破格なことでした。それでは、なぜイエスは僕の姿を取ってまで、弟子たちの足を洗われたでしょうか。その答えが1415節に示されています。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と。

 執事選挙と共に2021年度を始めようとする神の家族の前に、たらいに水をくんで手ぬぐいを腰にまとわれた姿でひざまずいている主イエスが見えます。僕の姿をもって。…あなたと私の足がどれほど汚れていても、主イエスはきれいに洗ってくださるでしょう。そして“主であり師であるわたしがした通りに、あなたがたも僕になりなさい!”とチャレンジしておられます。

 愛する神の家族の皆さん、今、皆さんの視線はどこにあるのでしょうか。ぜひ、僕になられた主イエスに視線を固定しましょう。そして、主イエスの謙遜と愛に心打たれる毎日でありたいですね。まさしく「教会」は、主イエスの思いと、御心を実現する群れ、また主イエスの姿が常に成就され、現される場所です。だから、まず牧師が、次は執事が、また教会員が、「イエスのように」、進んで僕になることに熱心なキリストの体を作り上げていきましょう。ハレルヤ!

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