『 私は罪の赦しを信じます 』(ローマの信徒への手紙7:24~8:3)
私たちは、「罪の赦しを信じます」と告白します。その告白をする前に私たちは、まず、「罪」とは何であるのかについて知らなければなりません。「罪」、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。これは「的外れ」という意味をもっています。…人は本来、創造者なる神と交わり、神の愛を受け、神のご計画に従って幸せに生きる者として創造されました。しかし、人は「罪」を犯すことによって神から離れ、自分勝手な道を歩むことになりました。そこで人間の命の源なる神との関係が絶たれ、死と滅びの道をたどることになったのです。創造者であり、愛なる神との関係の中、神が描いておられた姿から離れ、生活の全てにおいての「的外れ」が生じ、神との関係が絶たれ、人々との関係も切れてしまう、自分自身の内なる人をも傷つけてしまう罪人となったのです。
それでは、罪を犯さずに生きることはできないでしょうか?聖書ははっきりと宣言します。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、…罪が支払う報酬は死です。」(ローマ3:23、6:23)つまり罪と人間とは切りたくても切れない不可分の関係にあり、その罪の問題を解決しなくては人間の根本的な死の問題を解決することができないのです。使徒パウロは、絶えず襲ってくる罪の誘惑に対し、次のように叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)
最初に人間アダムの不従順によって、人間社会に入ってきた罪は、全人類を虜にし、死と滅亡を辿る存在と定められました。神への不従順から始まった罪は、高慢、偶像崇拝、姦淫、盗み、暴力、殺人、戦争、個人的罪、または国や民族、共同体的罪へと果てしなく広がっていきました。まさに、罪とその汚れに覆われている私たちは、罪により苦しめられる日々を生きています。そしてその都度、私たちは罪に対する小さな敗北を繰り返しているのです。もちろん、罪と死から解放されるために、人は立派な行いをしたり、宗教を求めたり、哲学や思想を深めたり、科学技術によって命を伸ばそうとするありとあらゆることを試みてきましたが、解決になる方法はありませんでした。
聖書は、罪から解放される道について、まず、人間側から罪と罪による絶望、人生の空しさから救ってくださるようにと、神の助けを求めることを示します。それに続いて、イエス・キリストの十字架を前にして自分の罪を告白し、自己中心から主イエスを中心に生きるための全人格からの悔い改めが求められるのです。その時、父なる神はイエス・キリストの十字架の愛を教え、その十字架の血潮によってすべての罪を赦し、神との和解の道を示し、神との新しい関係へと導かれるという福音が成就され、聖霊は私たちの内なる人を変え、新しい神の子どもとなる新生の恵みを与えてくださいます。その時、私たちはすべての罪が赦され、永遠の神の国への約束を、プレゼントとして受けることになり、「私は罪の赦しを信じます」と告白することができるのです。ハレルヤ!
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