「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)
閔先生から「坂上さんは今幸せでしょう」と言われることがあります。その時「幸せです。」とお答えします。勿論自分にとって心地よいことばかりではありませんし、不愉快なことや辛いことも沢山あります。それでもそれらを通して聖書を身近に感じているのです。ルカによる福音書24章やヨハネによる福音書の21章には復活のイエスに出会った弟子たちがイエスであることに気付かないシーンが描かれています。初めてその箇所を読んだ時にはなぜ気付かないのか不思議に感じました。この一年私に対して別人のようだと評されます。街で知り合いに声をかけても最初は私だと気づいて貰えないのです。誤解しないで頂きたいのですが、私自身を主イエスと同じように捉えているのではありません。私のように僅かな変化であっても私を私として認識して貰えないなら、惨たらしい死を遂げた後、栄光の身体を持って甦られた主イエスが判らなかったとしても無理はありません。かえって聖書の記述がリアルに感じられたのです。私は今、近所の農家で働いています。聖書には度々農夫が登場します。良い農夫もいれば悪い農夫もいます。農業をやってみて信仰や伝道に通じる部分が多いと感じています。予定の作業が雨の為延期を余儀なくされたり、毎年同じようにしようとしても天候やその他に影響を受け豊作の場合もあれば全滅ということもあります。工業製品とは違い作業と結果が直接繋がらないのです。種を蒔かなければ収穫がないのは当然です。人の手を介するものの、結果は神の御手の中です。冬の農業の閑散期はスキー場や幾つかの仕事で多数の皆様に出合いお世話になりました。それらの勤め先で最初にお願いするのは、日曜日は礼拝の為休ませて欲しい。もしダメなら他の仕事を探しますと申し上げています。礼拝は生きる上で優先されるべきものです。
私の幸せを形作る教会、仕事、家族をとても有りがたく思うと同時に仮にそれらが全て失われたとしても、私は幸せと言えます。 全てを造り、全てを与えて下さる主が共にいると確かな約束を下さっているからです。以前、ヨブ記を読んだ時、子どもを皆亡くして後、同じ人数の子を授かったとしても悲しみは変わらないと思いました。勿論今でも子どもたちを思う心は変わりませんが、それらとは比較にならない大切なお方が私を包んで下さっています。幸せは父、御子、聖霊の神より与えられたものです。富山小泉町キリスト教会の墓標にあるようにわたしたちの国籍は天にあります。今ある幸せ、平安、恵みを私だけのものとせず周りの全ての皆様と分かち合えたらと思います。福音伝道こそ主イエスの教えであることを心に留めます。
S.Y兄
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