「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、・・・」
本日は、使徒信条のイエス・キリストの受肉についての信仰告白です。
父なる神と共に天地を創造し、治めておられる三位一体の神である神の独り子が、自ら創造された罪人たちの救いのご計画に従い、聖書の約束のメシア(救い主)として、聖霊によって処女マリアの胎に宿られ、贖い主としてこの地にお生まれになった出来事についてです。
使徒信条があえて「処女マリアから生まれ」とその誕生について言い表すのは、イエス・キリストの誕生が歴史の事実として起こったことを確証し、キリストがマリアからの誕生によって真の人間としての被造物性をお持ちになっておられることを証しするためでありました。永遠の神である神の独り子が、処女マリアの胎にやどりお生まれになった。それは神がマリアの人性を用いて生まれるという旧約聖書の預言の成就であって、これは、ただ一回限りの出来事でありました。まさしく受肉こそ全き神、全き人間(100%神、100%人間)となられた出来事であったのです。
受肉物語の中に中心にいる処女マリアについてですが、古くから処女マリアを一般的な人間ではなく、「神の母」という特別な神性を持つ存在として描こうとする試みがありました。それに伴い、神を生んだ母マリアの無原罪説の教理も広がっていきました。しかし、聖書が示しているマリアこそ、私たちと同様にアダムの子として原罪をもつ女性であります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)・・・聖書ははっきりと、イエス以外のすべての人は、アダムの堕落による原罪を負って生まれるということを示しています。
ここで、昔から処女降誕の物語をめぐっての異論を紹介したいですが、キリストがヨセフとの間に生まれた子ではなく、誰か他の男との関係による子だとか、ある英雄の人間のイメージに神話的表現を加えるとか、とりわけ最近のフェミニスト神学では、マリアが当時のローマ軍による性的暴行によって生まれたという・・・。それではなぜ、このような諸説が生まれたのかとすれば、神が処女を通して生まれるという非現実的な受肉の出来事を人間の頭ではどうしても納得することも、理解することもできなかったからでした。そこで、使徒信条は「処女マリアから生まれ」の前に、「聖霊によってやどり」という信仰告白をもってきているわけです。これこそ、イエス・キリスト、神の独り子の処女降誕物語が、人間の生物学的な限界に止まることなく、三位一体の聖霊なる神による働きとして、全人類を救おうとされる神ご自身の約束を成し遂げるための第一歩であったことを信じられるわけです。マリア自信も最初は疑っていましたが、神の約束とご計画の前に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)という信仰告白をもって従順をもって答えることができたのです。私たちもマリアのごとく自らを献げようとする時、聖霊は私たちを用いて神の国の御業を成し遂げて行かれることでしょう。ハレルヤ!
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