2019年9月20日金曜日

2019.8.25 本日の宣教

『 救われた者として 』 (マタイによる福音書5:116)

私たちは神様の一方的な愛と憐れみによって救いへと導かれました。それは神様の大きな犠牲、即ち御子が十字架にかかりその尊い血の対価によってもたらされました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)」神様は全ての人が救いを得ることを願って下さいます。決して誰一人滅びに至るように定めてはおられません。「わたしたちはわたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一4:16)」神様は私たちを完成に導く為に様々な形で訓練を与えてくださいます。「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。(ヘブライ人への手紙12:58)」
 今、私たち小泉町キリスト教会に集う者に一つの課題が与えられています。それは福井教会の復興です。それを成す為には何が必要なのでしょう。私たちに福井県に住む方々への愛はあるでしょうか。祈りは充分でしょうか。福井教会の求めに耳を傾けているでしょうか。土地柄や福井教会の賜物を充分に理解しているでしょうか。本日の宣教の聖書箇所は有名な山上の説教の主イエスからの励ましです。私たちを「地の塩、世の光」であると言われます。世を照らし傷ついた魂への働きかけや奉仕には天に報いがあると約束して下さいます。神様にお出来にならないことはありません。「イエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコによる福音書9:23) 金沢教会の田口昭典牧師と閔丙俊牧師、土肥兄が度々支援の在り方を相談しておられます。私たちも一人一人何が出来るのか模索しながら心を一つにして祈り求めていかなければなりません。福井教会が抱える問題は福井教会だけが持っている問題ではありません。私たちのこれからの歩みが主に喜ばれ、神の栄光が現れるものとなりますように。主の御名が誉め称えられますように。                                                     
                              S.Y執事

0 件のコメント:

コメントを投稿