2019年9月20日金曜日

2019.9.15 本日の宣教

キリスト共にいたい熱望 』   フィリピ信徒への手紙12126)

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(121

“生きるとはキリストであり、死ぬことは利益”という表現は、パウロの死生観を表してくれる御言葉です。パウロは今、ローマの牢に捕えられ、裁判を待っている状況でした。パウロがフィリピの信徒への手紙を書いていた当時は、投獄された身として、肉体的にも精神的にも大変厳しい時を過ごしていました。しかし、彼の言葉からは死ぬことや将来への不安が見えません。むしろ、死を楽しみに待っているかのような雰囲気が漂います。それは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」(1:23という言葉によって確かに伝わっています。はやく天に帰り、キリストと共に交わり、天国の栄光に満たされたいという熱望が今を生きている私たちに新鮮な刺激となってくれるわけです。

しかし、天国でのキリストとの交わりを熱望しているパウロでしたが、彼が現実的に選んだのは、フィリピ教会の信徒たちの信仰の成長と伝道のために生きることでありました。パウロの生きている理由と目的こそ、神の恵みの福音を自分だけのものにするのでなく、キリストの教会と信徒たちの成長のため、まだ福音を知らないまま死んでいく人々に伝えるためであったのです。

愛する神の家族のみ皆さん、救われた人の人生は、天国のキリストに見える熱望と、この地における愛する人々の救われることを切に願う中で、行くべき道を見出せるものです。キリスト者の人生においてこれに勝るものはないと言っていいでしょう。救われた人は、神の国のため、また愛する人の救いのために生きる中で生きがいを感じる存在です。その人は、日々経験する苦しみや悲しみ、死までも利益として信じ、歩み続けることでしょう。

クリスチャン作家として知られる遠藤周作の作品を読んだ後、いつものごとく後味がすっきりしなかったことを覚えています。「イエス・キリストの十字架の苦しみは満ち溢れるけど、何かが抜けている。・・・」そう、そこには希望がありませんでした。十字架の苦しみと死は素晴らしく描かれていても、キリストの復活がなく、神の国への希望と確信が見当たらない。ぜひ、覚えていただきたい。復活の勝利、神の国の栄光のない信仰は、中途半端な信仰です。その信仰こそ、人間の体験と頭の納得するところに神と御言葉を引きずりおろすことにしかならないでしょう。
本日は、「敬老祝福礼拝」です。本日まで皆さんを守り、導き、用いてくださった神を賛美します。皆さんが今まで生かされているのは、パウロの言葉のように、「小泉町教会の霊的成長のため、また愛する家族と周りの友人たちを救いへと導くためである」ことを覚えましょう。ぜひ、命をかけられたイエス・キリストの十字架の愛への感動の上に立ち、天国でのキリストとの交わりを熱望しつつ、神が生かしてくださる限り、喜びと感謝、希望をもって歩み続けましょう。ハレルヤ!  

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