先月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリス市で白人の警察4人が、ジョージ・フロイド(George Floyd)という黒人を拘束する際、警察官の一人がフロイドさんの首を、膝を使って8分46秒間も押さえ続け死亡させるという悲劇が起こりました。フロイドさんは苦しみのあまり、何度も「息ができない」と訴え続け、助けを求めましたが、警察官は力を緩めず、その場で命を失ってしまったのです。・・・この一部始終をとらえた動画は、瞬く間に世界中に広がり、動画を観た人々は、赦されない人種差別に対する憤りと怒りに燃え、アメリカ全土のみならず、全世界に抗議のデモが広がっていきました。今回の悲しい出来事を受けて、「息ができない…、息ができない」という叫び声は私の心に重く迫ってきました。そして、彼の叫び声と重なって創造者なる神の御声が聞こえてきました。
“息ができない!”…ペンテコステの季節を過ごしている私たちの心に響き渡っています。まさしく一本の鋭い矢が刺さったような痛みを覚えます。聖霊が降られた恵みの季節に起きた今回の出来事はあまりにも象徴的です。なぜならば、聖霊こそ「息」という意味をもっているお方だからです。聖霊を意味する旧約聖書のヘブライ語の「ルーアッハ」と、新約聖書のギリシャ語の「プニューマ」は、神の命をもたらす聖霊ご自身であり、命を表すシンボルであるのです。
創世記の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあるように、「命の息」を吹き込まれることによって人は命ある者となり、被造物のうち唯一創造者なる神との人格的な交わりを持つことのできる特別な存在とされました。アダム以降、世界に生まれたすべての人は同じく息をし、神の息を同じく分け合い、命の息を受けた者として互いに愛し合うようにと命じられていました。しかし、神の息を同じくいただき、愛し合って生きるように造られた人間同士でしたが、欲望から来る罪の奴隷となり、力ある者が弱い者の首を絞め、息ができなくなるようにしてしまったのです。これはただの一人の人を殺したのではなく、神の息を絶ち、神の首を絞めることになったことを忘れてはなりません。そうです。今も私たちが息をするのは、神が私たちの内に息を吹き入れられたからであって、私たちが息をしていることこそ、神の命に与かっている証拠なのです。
さて、本日の聖書箇所にも「息」について触れています。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22~23)
復活された主イエスは天地創造の時、神がアダムの鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者にされたように、恐れと不安で引きこもり死人のような弟子たちに現れ、彼らに息を吹きかけて聖霊を与えられるという再創造の業をなされます。その理由こそ、弟子たちをイエス・キリストの十字架と復活の証人としての新たな使命を与えられるためでした。
神の家族の皆さん、あなたは息をしていますか。新型コロナウイルスに覆われている世界、その中で絶えず差別と分裂を引き起こそうとし、人々の息ができないように首を絞め、押さえ続けている世界に向けて、命の息吹なる聖霊に満たされ、神の平和(シャローム)の福音を携え出かけて行きましょう。ぜひ、忙しい日々を過ごす中、大きく息をし、聖霊との深い交わりを味わってみてください。そうすれば、人知を超えた命と力に包まれるでしょう。ハレルヤ!
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