『 行き先も知らず、旅する 』 (ヘブライ人への手紙11:8~10)
「信仰の章」と言われるヘブライ人への手紙11章です。旧約聖書に登場する信仰の先輩たちの信仰のあり方を確認しつつ、迫害の最中にあるヘブライ系キリスト者たちを励ますために書かれている個所です。それでは、信仰についての定義に注目しましょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ⒒:1-2)・・・信仰の先輩たちの信仰のあり方の中心的なポイントは、まだ実現していない事柄を確信し、見えない事実を見えているように生き続け、やがてそれを確認することであると示されています。もちろん、その信仰の対象こそ、生きておられる創造者なる神です。
その信仰の中心的な人物として、大切に紹介されている信仰の人が、「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムです。
本日の聖書個所には、信仰に関連する3つの重要な概念が紹介されています。まずは、「召し出される」ということです。すなわち、私たちの信仰は、語りかけられる神から召し出されることによって、始まるのだということを忘れてはなりません。二つ目は、「服従」です。アブラハムは、神の召しに対して服従します。神の召しのことは、創世記12章に書かれていますが、その召しの内容は、「アブラハムの生活の基盤であった生まれ故郷から出て行く」ことでした。初めて語りかけられる神という方からの召し、アブラハムは、語りかけられる神にすべてを賭け、服従の選択をしたわけです。当時のアブラハムの年は75歳、もう旅に出ることも、新たなチャレンジをすることもなかなか難しい年でした。しかし、アブラハムには、自分に直接声をかけ、将来を約束してくれる神への信頼があったため、すべてを賭けることができたのです。最後は、「出発した」ということです。しかも「行き先も知らず、出発した」ことは、信仰に生きる人としてのアブラハムを決定づける出来事でした。「行き先も知らず、出発した」とは、「見えない事実を確認すること」に当たるわけです。そうです。信仰に生きた先輩たちは、すべてのことを目で見て確認し、すべてのことを知っていたから服従したのではありません。ただ、神が召し出されたから服従したのであり、その神の約束を信頼したから、出発することができたわけです。
私たちは信仰する者として、常に主イエス様に聞きたがることがあります。“いつ神の国が実現しますか。いつ神が世界を裁かれますか。…”と。しかし、主イエスは聖書に書いてある通りに言われるでしょう。“時と時期はあなた方の知るところではない。それは神の領域だから!”と。ただし、あなた方はいつ主イエスが来られても揺れることのない信仰をもって日々を生きなさい!“と語られることでしょう。常に明日のことを計画し、しっかりとした安定を手にしたい私たちですが、今こそ、自分の計画や考えをすべて捨て、神が導かれるままに自分自身をゆだねるべき時です。
新型コロナウイルスによって、私たちの生活も、またキリスト者としての信仰生活も大きな変化を迎えることでしょう。とりわけ第二波、第三波が来た場合に、“主日礼拝、平日の諸集会、福音伝道、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、クリスマス、イースターなどなど、どのように変わるだろうか?…” まさに全く見えない現実を目の当たりにすることになります。そこで、ふと頭に浮かんだのが、荒野で旅を続けるイスラエルの民を導いた「火の柱、雲の柱」のイメージでした。そう、これから旅を始める時も、旅を終える時も、火の柱と雲の柱に従えばいいわけです。もちろん、今の私たちの旅には目に見える火の柱も雲の柱もありませんが、常に神の臨在を信じ、導かれるまま歩み出すことです。
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